私の社会党時代


江畑騏十郎
1937年9月13日千葉県生まれ。
1956年千葉県立匝瑳高校卒業、1957年東京大学文科一類入学。
大学入学後の経歴は、以下の文章にある通り。
「滝口弘人を送る会」弔辞
2011年1月逝去。

菓大在学時代から社会主義活動に没頭

 昭和三十二年四月、東京大学に入学したのは、太平洋ビキニ環礁のイギリス水爆実験で、第五福竜丸が被爆した頃で、原水爆禁止運動が盛り上がっていた最中であった。社会派に転身していた私は、入学早々学生運動の洗礼を受け、私的な安定を求める人生とは無縁な歩みを始める事になった。
 最高学府と謳われた難関を突破した人が集まる大学生活はさぞ高尚なものと思っていたが、俗人まるだしの多いのには、高校に入った時と同じく幻滅を味わった。学業成績を点数で評価される事に腐心する世界から離れて、学問を究めるには此処も独学が基本であると定めて、学生運動中心の学生生活の中にも、マルクスの『資本論』に象徴される経済学の勉強に励んだ。
 良き先輩がいて、学問の世界へ誘ってくれた。後に東大教養学部教授となった塚本健さんが、中野区鷺宮の向坂逸朗九大教授宅で行われていた勉強会に誘ってくれた。ここで一緒に学んだ人の多くは後に、東北大、新潟大、埼玉大、東洋大、東京大の教授になって行った。そこでは普通の学生としては学べなかった基本文献を読む機会を与えて貰った。マルクスの『資本論』は勿論、ヒルファーディングの『金融資本論』、カウツキーの『農業問題』、レーニンの『帝国主義論』など重要な本が網羅されていた.
 向坂研究会のメンバーで、埼玉大学の教授となった鎌倉さんには、大学院に進む手ほどきをしてもらったし、東洋大教授となった新田さんには、ポーランド自主管理労組から大統領になったワレサさんが来日した時、同席させて呉れたり何くれと目を掛けてくれる先輩に恵まれた。東大教授になった塚本さんからは、自分の後継者として東大の教室に残るように勧められたが、学生運動の延長として、労働運動、政治活動の道を選んだ。
 私などより遇激で、煽動家で留年までして学生運動にかけていた連中が、後に転向してこじんまりと学者生活に入って行ったケースも意外と多かった・
 岸内閣が倒れ、所得倍増の池田内閣が登場する事になった「六十年安保闘争」(昭和三十五年)は大学四年の時であった。六月十五日の死者までだした国会突入事件では、南通用門の現場で先頭に立っていた。
 私は東大に入ると間もなく、日本社会党に入党した。一般の学生運動家とは自分なりに一線を画して、事態を冷静に見ると言う一面があった。入党の動機はそれなりに実利的であった。当時私が下宿した東京の川崎に近い南部では、中小企業の労働争議が絶えず、あちこちに赤旗が立ち、ストライキが行われていた。ストライキの現場には、私と同じ年頃の労働者が真剣に闘っていた。学生と言うある種の特権のもとに気安くデモに参加しているのとは訳が違う。
 社会人として全生活をかけて闘っている青年労働者がいる。自分は彼等と共通の立場に立てるのか、自分を試したくなった。それには、地元大田区の社会党員となり、党の立場から労働争議の支援と言う形で彼等と接点が持てることに気付き、そのように行動した。ストライキをしている青年達は、闘う自分の立脚点として理論的な支えを求めていた。雇われて働く者が雇う側と対立するのは何故か。それは金持ちが、投じた以上のお金を回収する目的で投資するからには、利益を挙げられるように機材を配置し、機材を動かす人を労働者として雇う。利益を働く者に全て配分してしまったら目的を達せられない。出来れば利益を独り占めしたいと言う対立構造が初めから潜んでいるのだと言う理論が、マルクスの『賃労働と資本』という本に解り易く説かれている。この本をテキストにストライキの現場で組織した積極分子と勉強会を持った。学生である私と彼等との問に対等の関係で話し合いが成り立つかどうか幾分の不安はあったが、心配無用であった。私は学生の身分でありながら、一社会人となっている彼等と付き合えるか試そうとしていたのだから、私は自信を持つ事が出来たと言う事である.本当の社会勉強ができたという事である。
 東大生の社会党員は当時は稀有であった。そんな縁で若いうちから三宅坂の社会党本部に出入りしていた。私の年齢で当時、浅沼稲次郎さんや、江田三郎さんの慧眼に接した人は少なかったと思う。
 一級戦犯から首相になった岸内閣が先導した安保条約が批准され、ソフトムードの池田内閣の登場で、学生運動は潮が引くように沈静化した。私は両親に無用な心配をかけまいと、一時大学院に身を置く事にした。その大学院入学がそう簡単では無い事は判っていた。学生運動に明け暮れしていたのを知っていた鎌倉先輩が、試験選抜は無理だから論文選抜の道をとれと教えてくれた。『資本論』の誰も手がけていない『退蔵貨幣』をテーマに選ぶように勧められ、七月から十一月の締め切りまで短期間猛勉強し、友人に提出原稿の清書の手伝いをしてもらい、締め切り前日に滑り込み申請をした。結果は合格し大学院生となった。この論文を纏める過程で、貨幣の本質をとことん究められたのは、今日サブプライムローン問題で国際金融界が右往左往しているのを読み解く上で大いに役立っている。
 六十年安保で「ゼンガクレン」は国際語にもなった。大学院では全学連委員長だった香山健一さんとは横山ゼミで一緒であった。私より四つ程年上で先輩格としてよく武蔵野市の自宅に招いてくれた。彼は後に学習院大学の教授になり、左翼を批判する立場となり、中曽根内閣のときに、教育臨調のメンバーに加わっている。
 私にとって大学院はもともと腰掛け的存在で、籍を置いただけなので、二年目頃から出席しなくなった。実践的な社会党のオルガナイザーとして、活動の舞台を大田区として住み、一年先輩の伊藤誠さんとは親しくして戴いた。伊藤誠さんは、東大教授として私がかかわった労働者の集会に積極的に参加してくれたのが印象的で、今でも感謝している。伊藤さんはマルクス思想の核心ともいうべき価値論で優れた業績を残した学者である。大学院時代で付け加えるとすれば、人間的に尊敬できた人として、教養学部長の相原茂さんのゼミで勉強出来た事である。大学院から身を引いて放置していたら、住所不明で授業料滞納の督促が実家に行ったらしい。その事を私が知った顛末は覚えていないが、授業料を納めて退学手続きをとれば何時でも復学出来るが、滞納して除籍になれば復学は出来ないと説明があった。私には復学する積りは全く無かったが、両親の手前、滞納分を納めて退学手続きをとった。
 それからは、日本社会党を真に民衆の党として、働かないで所得を得る不労所得層の支配する経済体制と対決できる社会党に変革すべく活動する事になる。

荒畑寒村と交わる

 荒畑寒村は明治三十四年横浜市に生まれ、内村鑑三、幸徳秋水、堺枯川らの影響を受け、明治末期から大正.昭和、戦後を通して活躍した社会主義運動の指導者である。大正十年日本社会主義同盟を創立。昭和初期には赤旗事件、第一次日本共産党事件、人民戦線事件と数回投獄された。太平洋戦争終結直後、労働組合総同盟、日本社会党の結成に従事し、中央労働委員、日本社会党所属衆議院議員(一九四六〜四八)に選ばれた。その後同党を離脱し社会主義労働党の組織作りに努力したが成功しなかった。晩年の寒村は独居老人となった。寒村を励まし慰めようと有志が『寒村会』を結成し、年間四回くらい開催し、亡くなるまで数年継続した。私は大浜さんの縁で最初から毎回参加し、年少と言うこともあって事務局的な立場であった。メンバーは当初中野好夫をはじめ錚々たる面々二十人程であった。多くは寒村好みの川魚屋で開いたが新内の大御所を招いたり珍しい体験をした。途中から瀬戸内寂聴さんも加わり、お得意の外交手腕で、寒村会とは別に京都の祇園辺りに連れ出すなど革命家寒村の晩節を穢す発言もあって顰蹙を買うこともあった。八十歳を過ぎて書き上げた『寒村自伝』で朝日賞を受け、九十歳過ぎにスイスのマッターホルンを観るのだと出掛け当時新聞に大きく報道され話題を呼んだ。

社会党本部オルガナイザーとして活躍

 当時は、マルクス・レーニン・スターリンは一体的に見られていたが、最近ではマルクスとレーニン・スターリンとの間には、重要な点で断絶がある事が知られてきた。マルクスの『資本論』を読み込んでいた私は、早くからマルクスとレーニンを同じに扱うことには疑問があった。
 ともあれ、レーニンの前衛組織論に則った日本共産党が極端な中央集権であるのに対して、社会党はどちらかと言えば、構成員の自主性を重んずる緩やかな連合体である。その社会党の青年組織、社会主義青年同盟(社青同)が六十年安保闘争の過程で誕生した.沖縄をはじめ全国各地で米軍人の犯罪のたびに問題になる日米地位協定、それを規定するアメリカ優位の『日米安全保障条約』の改定に対する反対運動が、全国各層から燎原の火の如く拡がった。学生も大学毎に全国から東京に集まって来る。それらは主導権争いから幾つかの党派に分かれていたが、社会党系の社青同は自主性を重んじる風潮もあって、自然発生とでも言うべき姿で、全国の大学に一斉にグループが出来ていった。それぞれが、誰かに公認されるでも無く、勝手に「社会主義青年同盟○○大学班」という旗を立てて集会に集まってきた。
 この光景を目にした私達東大グループは、都内の早稲田、法政、明治大学等のグループと相談して、急遽「社青同全国学生班協議会」を組織し、全国の自称「社青同学生班」を一つに纏め上げた。初代書記長は外国語大学の堀、二代目が東大の増野で何れも数ヶ月で交代を余儀なくされた。三代目が私で組織も落ち着き二年程書記長を勤めた。自分たちが所属する中央の書記長ということで、社青同の学生の間では私の名前は広く知られていた。私より三年程後輩で、東大班で活動していた中に、現参議院議長江田五月君や現衆議院副議長横路孝弘君がいた。先日も久し振りに二人と合って激励して来た。
 その社会党とも決別する時が来た。小田実さん達が呼びかけて『ベトナムに平和を!市民連合』(べ平連)が組織されベトナム反戦運動が盛んになった。
 一九六八年(昭和四十三年)は世界的に反戦・反体制運動が燃え上がった。フランス・パリのカルチェラタン学生暴動は有名である。日本でも総評(日本労働組合総評議会)の青年を中心に、反戦青年委員会が組織され、安保闘争の余韻の冷めない学生の参加もあって、尖鋭化し左傾化が強くなって行った。
 最初は、この青年達のエネルギーを利用していた社会党は、御用組合化しつつあった総評幹部の圧力で、「反戦青年委員会」の指導部から党員を引き揚げようとしてトラブルが生じた。このトラブルの渦中にあった私は、社会党東京都本部から除名処分となった。もはや魅力を失った社会党を除名になるのは名誉な事としていたが、私の影響で社会党に入党した人達も大勢いる。その手前もあって、社会党中央本部統制委員会で争って除名を撤回させた。しかしその時点で私は未練のない社会党から自然離脱し、党員活動に終止符を打った。

社会党離脱、出版人となる

 反戦、反体制を掲げて社会正義の為と信じて活動してきたが、社会党を離脱し何時しか世間並みの就職は出来ない身となっていた。東京都の学校警備員に採用してもらい糊口をつないだ。この間、結婚し長女信子が誕生した。学校警備員も東京都労働組合連合会(都労連)に所属していたので、一時役員として組合活動に専念した。
 そんな時、社会党時代に親しくしていた都議会議員の大浜亮一さんから、請われて年商四億円の技報堂出版(株)の経理担当として就職した。大浜さんは技報堂の社長として培った様々な関係をもとに、念願の『新地書房』という出版社を造るので手伝ってくれと依頼された。七十歳近くなって会社を起こそうと言う執念に感動し協力する事になった。二人ばかりの事務員を雇い、大浜さんが亡くなるまで十年ほど続いた。長年温めていた企画を一気に出版したので、地味だが優れた本を多数出版した。クリスチャンの大浜さんが宗教書を、社会科学書は私が担当した。
……(後略)


※『新地書房』で、手がけた本には、以下のようなもの等、多数ある。
宮崎義一 篠原一 平田清明『転換期の思想』、1978
Z・ムリナーシ『夜寒 プラハの春の悲劇』、1980
伊藤誠『現代の資本主義―その経済危機の理論と現状』、1981
梅本浩志・足達和子編訳『「連帯」か党か ポーランド自主管理共和国へのプログラム』、1983


兄弟姉妹が書いた自分史を纏めた『江畑法家の人々』(2008年発行)より、江畑騏十郎執筆の項を一部抜粋した。
文章の性格上、穏やかな表現ではあるが、当時の雰囲気を伝えているのではないだろうか。

小見出しは、原文。 タイトルは編者が付けた。