プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動に於ける革命の現在性について=問題の提起=

中原一
一九六七年一一月

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「この文章は昨年(六七年)の二度の羽田闘争の後、書かれたものであるが、大衆的に発表していくものとしては整理されたものではなく、あくまでも討論の素材程度のものとして位置づけられている。それをK大Sの責任の下で筆者とは全く交渉をもたず、文中一定の「修正」(文章の使い方のみで内容の修正はない)を加えて増刷したものである。」という注記を付けたガリ版刷りが組織内で配布された。
後に(69年10・11月闘争後)神大全学自治会発行の『異端の埋葬』に「学生とはそもそも何か」と題されて転載され、広く知られるようになった。

今回の掲載にあたって、冒頭の目次(叙述の構造)に基づいて、小見出しとの不統一を正した。
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【はじめに】

 六七年に於ける階級闘争の深化は極めて急速であった。一一・一二を頂点とする反戦闘争は、その背後にベトナム人民の闘争と、先進国の反戦闘争の新しい高揚をもっていた。破防法の適用の準備は我々の闘いに対する支配者共の心底からの恐怖の証拠であった。我々はこの闘いの火を決して一歩でもゆるめてはならない。三里塚空港、砂川基地、更にエンタープライズの寄港は、三次防を軸とする西太平洋、東南アジア一帯に対する反革命的な軍事力の強化をはかる日本帝国主義が、沖縄、小笠原問題をテコとしながら首都圏に於ける反革命的軍事体制の飛躍的強化をねらうものである。
 我々の当面の闘争は、ベトナム人民抑圧戦争反対、沖縄人民の解放と共に日本全土と首都圏一帯に対する支配階級の強力な反革命的軍事体制の強化への闘いとして更に強化して行かねばならぬ。そし
て同時に〈教育の帝国主義的改編の為の授業料問題〉も最終的な決戦の様相を示し、既にその口火は切られている。
 この闘いの中で我々は闘う戦列の側に目を移さねばならぬ。現在の学生運動はひとつの大きな試練に立たされている。その状況は次のような構造をもっているであろう。
 一方に於ける闘争の過激化(それはむしろ数千の部隊規模でありながら、依然として前衛的闘いに止まっている。)そして一般学生大衆の一定の支持を含みつつもとまどい、強固な「中立」の維持。 他方に於ける右翼の抬頭。それは活動家の次元では一定の段階へと到達しつつも、それが闘いの激化と、その現実的な孤立の中で再び戦線からはなれて行きさえするものの部分的発生――それは党派として危機的に表現されているのが中核・ブントであり、この六七年闘争に対して、当然開かれねばならぬ全学連大会、更に半年前から決定していた都学連大会さえもセクトの防衛の為に回避してい
る――
 我々は決戦期へ向ってのこの戦列様相の中に、ドイツに於ける左翼の敗北の片鱗さえ見ることができる。情勢の激化と、かなりの部分の尖鋭化にもかかわらず、全体の社民的なものへの維持と依存、ファシズム的大衆運動の抬頭と行政権力の強化――決定的瞬間に於ける左派の孤立――これが社民に敗北したコミンテルンの図であった。
 我々は何度もこの総括へさかのぼって来たし、今も尚先進国に於ける革命運動を、社民の止揚の問題として立てている。そして我々の迎えている状況は決して「悪い」ものではない。むしろ大衆の状況は我々の闘いに対する巨大な支持を与えつつある。一一・一二以降の状況はそれを示している。にもかかわらずそれは未だに社民的状況を越え出ていない(運動の総体が)。それが先程述べた「状況」の根幹である。つまり〈大衆の社民的状況〉と〈その裏返しの範囲での活動家の過激化〉――従ってその感性の摩滅と消耗――我々はそれを日韓の最終段階で見ている。この状況に対して、我々のみが唯一その突破口をきり開き、その一つの強力な結集体として一二月全国反帝学評結成大会を迎えようとしている。しかし、我々は更にこの解明と止揚へ進まねばならぬ。
 学生運動に於けるかかる状況の根本的原因は何か?
 それは次の一点に要約できる。情勢の決戦期へ向っての到来にもかかわらず、真の階級運動が形成されていない結果、――階級運動とは、決して一般的な過激さのみをイミするのではなく、それ以上にあらゆる大衆の矛盾の日夜の止揚の闘いによる全面的大衆的運動である。――情勢に対応する「過激化」が小ブル急進主義としてしか存在せず、そこには個人的属性の頂点に於ける爆発と共に摩滅の開始がはじまる。
 そのような運動は日々の社民的大衆運動の上に成立っており、唯その「特殊な部分」の「過激化」でしかないから、全体の大衆は依然として社民的状況のままにのこる事になる。全大衆の革命化には答えられない。この情勢認識が決定的であり、かつ根本的である。言いかえれば、我々は決して中核派がそれを試みたようなフロント的運動への回帰によって大衆性を獲得しようとしてはならない。なぜならば、「過激化」は情勢によって要請されているものであり、これに正面から答え、かつ大衆化の問題を立てなければならぬからである。言いかえればフロント的運動は小ブル急進派の裏面なのであって、それへの回帰は退化であり、悪循環以外の何ものでもない。逆に言えば、そのような運動を背景として情勢に答えようとするならば、丁度、今の中核派が陥っているような一種の「茫然自失」に陥り、破産は決定的となる。
 この問題を学生運動の思想史からとってみるならば次の如くである。
 戦後学生運動は、日共の民族民主統一戦線という全体のワクと共に常に学生運動は「独自」の戦線、全国統一行動を組んで来た。これは〈武井昭夫により「層としての学生運動」〉として定式化される。これは学生がはじめから「共同体」――旧い民族的共同体――を前提としてその中に近代的自我を否定し、依存させてしまう形での運動から、その近代的自我をそのまま直接的に提出する社民主義の急進派の運動へと常に指向していたということである。――この日共型の運動は、ズブズブの運動から、山村工作隊のような、人民への無媒介的献身の極左的表現まで存在する――。これに対して戦線の全学連は武井式の全国統一行動を行いつつ〈五八年以降の状況の中で一つの党的結集――近代的市民主義左派――をかちとる(ブント)。そしてその破産が安保であった。安保闘争は現在のフロントのような部分を含めて(心情的には)その極左として闘われた。いわば現在の状況の原型は全学連主流派と反主流派という分裂の型をとった。この止揚としての全大衆の革命化は、決してこの分裂に回帰する事ではない。
 この状況の極限的展開の中で、自らの止揚の道を見い出す他はなかった。それが〈党派闘争〉であった。それは〈市民主義の止揚の道〉である。〈民族主義の止揚の道は、大規模に見れば中共の文化革命とその行きづまりの中から生れるであろう。但し、それは市民主義者・民族主義者の側から見た、つまり、社民主義者・民民主義者は自らの解放の為の自らの闘いの頂点とその破産の中で、プロレタリア的止揚への道に入るのである。
 プロレタリアの側から見ればその止揚は日々の前進の中にある。我々はこの問題を安保の直後から問題にして、自らも小ブル急進派の母斑を色濃くもちつつ日韓―早大―六七年秋闘争の中で、我々の決定的止揚による真の大衆化への道の第一歩に立っている。それは先程のべた歴史的課題に対して学生戦線から答えていく道なのだ。

叙述の構造は次の如きをもって展開する。
 一、学生の社会的疎外の構造
 二、学生の政治的疎外
 三、認識の構造
 四、学生官僚(トロツキスト、スターリニスト)の思想構造と活動家の疎外構造
 五、クラス・サークル運動と行動委員会運動

(一)ブルジョア社会に於ける学生の社会的疎外とは何か?

##(A)存在と意識と言う観点から見たブルジョア社会の本質論
1〈存在の本質論〉
 「人間は類的存在であり、また、人間の一切の活動は類的生産の一環、又は、その特殊な様式にすぎない」
2〈類的存在
 「人間の一切の活動は類的活動の一環であり、また、自らも、自らの類そのものを対象化することができる存在であると言う意味で、人間は類的である」
 以上のマルクスの規定の上に立ち、我々は次のような「生産の本「質論」を導き出すことができる。
3〈生産の本質論〉
「人間の一切の活動は類的生産の一環、又はその特殊な様式にすぎない。そして、類的生産とは〈人間と自然の類的な矛盾〉を基礎として、自らの側により普遍的に対象を認識し、労働手段をテコとして対象をより普遍的に変革し(=自らの労働を対象化し)、そのことによって自らもより普遍的に形成していく活動である」
4 疎外された類的生産の共同体〉
「私的所有の社会、分業社会では、この活動で〈個々人の自然へ自然的関係〉〈分業として存在し、この活動は分業を通じての個々人の競争を通じて、自らがより普遍的になって行こうとする活動の総和として存在する」
(このことは歴史上、人間は無媒介的な、つまり、個人以前の原始共産社会以外の人間と自然は、個別的感性以外の関連をもって68いないことを意味する>
5 資本主義社会〉
「資本主義社会に於いては、この分業は社会内分業に加えて、更工場内分業の成立とその深化として存在する」

##(B)「意識と存在とは何か?
1総括
「<意識>とは、個々の存在が、個々の存在をこえて自らを共同体(類)的地点より確認する時の〈精神労働〉のことである」
2社会科学に於ける「疎外」とは何か?
一般に「疎外」と「対象化」は区別が不明確であるが、それは〈私的所有の社会に於いては、対象化が疎外としてしか成立しない〉こと(体制の範囲内に於いては)の結果である。従って、対象化という問題に範囲を広げて「疎外」という概念を使うことは、ここではしない。逆に言えば、「疎外」をそのようには理解しないという立場をとるということである。
 それでは一体、どのようなイミに於いて理解するのか、と言えば、生産力の発展に伴っての「個」の発生と確立の中で、その「個」と「類」及び「共同性」との関係の問題として、「疎外」の問題を理解する。
 類的存在、という時、それは一個別存在が同時に普遍であるという形で自然の「普遍性」「類」はない。それは、個別的なもの、或いは特殊的なものの総体として、普遍が存在するのである。
 原始共産社会では、この区別性は無媒介的にしか成立していないが、生産力の発展は、個人の力による生産への寄与の力の増大となり、個人(=私有財産=分業)の発生となって成立していく。その一定の部分による生産手段の集積は、他の部分に対する生産手段の喪失となって現われる。すなわち、類的活動である生産の活動の中で、その生産手段(類的な対象、並に対象化された物)を奪われる人間が発生する。
 この構造は、「奴隷」と呼ばれる被支配者の社会的隷属を、超歴史的〉に見たものである。
 「活動に於ける疎外――生産物からの疎外――類からの疎外――人間からの疎外」というマルクスの構造である。
 従って、「疎外」ということの内容は、分業、私的所有にその基礎をもった類的な生産活動、生産対象、生産物そのものと自分との敵対を先ず第一にイミする。〉そして、この上に立って更に「意識に於ける疎外」が成立する〉。
 既に見てきたように、「類的意識」とは、個別あるいは特殊の存在が、自らを「普遍性」「共同性」の地点より対象化するときの精神労働である。
 そして、私的所有、分業の社会では、既に見てきたように、感性それ自身が個別的なものでしかないが故に、普遍性は、自らの外に、全体を見わたし、共同性を貫徹するところの精神労働者の定立(生産)によってこの類的意識は成立してくる。
 この個別的感性に対する外在化した精神労働者(=外在化した「本質」「類」)による支配、及び個別存在者のこの「類的意識」と個別的感性との間に生ずる「対立」を、宗教的(政治的)疎外という。
 我々はここで、精神労働者に於ける問題を、今少し見ておく必|要がある。
 つまり、精神労働と言っても、〈共同体の任務を担う精神労働〉と〈個別企業内部でのそれとは異るもの〉として存在するからである。結論を先取りするなら次のように言うことができると思う。
 精神労働者は、基本的に一個の私有財産の人格的表現として形成されていく、ということはつまり、個別的私有財産の人格として、一単位としての精神労働者が成立する。そしてこの精神労働者はあくまでも個別的存在者(私有財産としては一個の単位)である。そして、この個々の私有財産の上に立つ精神労働者の共同体の上に、普遍的、共同体的な任務を担当するところの新らたな精神労働者が成立する。
 ところで、資本主義社会に於いては、社会内分業の上に更に工場内分業が成立する。この一単位の私有財産の内部で更に分業が進行する。そして、この内部に於いて労働は肉体労働と精神労働に分化する。
 しかし、一企業内に於けるこの分化は、今述べた一個の私有財産の人格的表現としての精神労働者(所有者)の人格の中での機能の分化としてあり、従って、この一企業内の精神労働者は、所有者に支配された一部分の機能として存在するにすぎない。
3「精神労働者」の社会的疎外とは何か?
 一定の「生の諸力」=「労働力」をもって生れる人間は、対象(=物質的・精神的対象)の獲得(=消費)の中で、自らの「生の諸力」=「労働力」を発展(=生産)させる。しかもこの過程は、分業=私的所有の社会では競争を通じて貫徹されていく。そして、人間はこの過程を通じて自らの「疎外された類的生産の共同体」での特殊的位置が決定される。
 「状況としての疎外」とは何か?
 マルクスが、経・哲手稿の中で述べている次の言葉、
「肉体労働者にとって活動に於ける疎外として表現されるものが、精神労働者にあっては疎外の状況としてあらわれる」という意味は何か?
 ここに於いても決定的なことは、人間の一切の活動は、「自然と人間の矛盾」を基礎としての「類的生産」の一環、又はその特殊な様式であるということの確認である。
 分業=私的所有(その完成としてのブルジョア社会)の社会に於ける人間(特殊的普遍としてのプロレタリアート)に、教育過程に於ける競争を通じて、「肉体労働」、「中級技術労働」、及び「精神労働」者として「疎外」されていき、工場内に於ける「特殊」としての精神労働にたずさわる部分、或いは「官僚」として「共同体」の精神労働へたずさわっていく。
 更に重要なことは、このような分業社会に於ける類的生産の共同体、という時、各分業者の「感性」は次の様な構造になっている、ということである。
 肉体労働者にとっての一切の器官(頭脳・内臓等)、単なる手足の手段へと「退化」している。
 逆に言えば、「肉体労働者」などといえるようなものではなく、「手・足」そのものにすぎないのである。
 同様に、精神労働者の五官は、疎外された頭脳の手段であり、また、「評論家」にあっては、その一切が「口先」の為の「器官」にまで退化する。
 (注)人間を中心に見たときの個別∞特殊∞普遍≠ヘ、「個別存在」「特殊な生産の共同性としての個別資本の中の共同性」、そして「普遍としての国家的規模に於ける共同体」、また、
 資本を中心に見た時には、「個別資本」、「特殊としての国家的規模の共同性」、「普遍としての世界資本主義」
 類的生産の一環としての分業社会に於ける個々の生産を特殊な共同体(個別資本)の中で見るとき、「人間」=「類」は、その共同体という形以外では存在せず、精神労働者は、その全体の類的活動の中の精神的機能を司るものとして成立している。つまり、その存在の一切の五官は、精神労働の手段として抽象化されているのであり、そしてその精神労働は全体の共同的生産の肉体労働を含んでの現実性を「動かしている」のである。
 そこに於いては、対象的世界は精神労働者の心的現象の総体として観念化されている。逆にいえば、観念が現実を動かしているという「観念の実体化」
 確かに、観念は今まで述べて来たように、現実を「動かしている」のであるが、それは、全体の分業の一環としてでしかない、ということであり、精神労働者にとってその精神労働者の実感からは喪失してしまっているのである。なぜならば共同性は自分の観念の中にあるからである。しかも決定的に重要なことは、この精神労働者への疎外それ自身が、個々人の存在の競争を通じての普遍への発展という意味で、根源的に類的生産の一環という本質をもっており、個々の存在にとっては競争を通じての「感性的確信」=「普遍性への発展の確信」という形で現出することである。
 この「闘いとられた観念的普遍性」としての精神労働者にとっての「他者」は、真のリアリティをもっては存在せず、自らが獲得して来た精神労働の世界としてしか他人は存在しない。
 しかも、この精神労働は、肉体労働・技術労働に対する認識を統轄し、これらの「現実性」として在るのである。この「現実「性」ということは、「個々の肉体労働の統轄と認識の現実性が外在化した精神労働の中に「在る』」ということである。
 くり返すが、「分業社会」では肉体労働も全体の分業の総体としてしか意味をもっていないのであり、肉体労働のみがリアリティをもつことができ、精神労働が一般的「影」であり「幻影」であるということではない。精神労働を含めての「類的生産」としてしか意味を、現実性を、もってはいないのである。
 このような精神労働が、分業として、それ自身現実性をもっているということの上に、精神労働者の「疎外」の本質がある。つまり、存在としては個別でありながら、普遍性を自らの心的現象の中に体現してしまう。すなわち、肉体労働の現実性を収奪している、というところに成立する。(但し、共産主義者のそれとは根本的に異る――これについては後述)
 つまり、一切の五官を抑圧し、自らを精神労働者として形成していった抽象化された五官の上に、個別存在が普遍性を「体現」していることの結果、「類」が自分の心的現象(状況)としてしか、成立しないことになる。(=ブルジョア心理学、社会学の心理現象それ自体の実体化への基礎)
 この類的な個別∞特殊∞普遍≠フ疎外の構退が類的意識であり、それは、個々の存在にとっては、個々人の存在の中に於けるこの構造の再生産として意識している。(その限りではブルジョア社会に於けるプロレタリアートも同じ)

##(C)学生の疎外感の構造

 さて、これまで見て来たことの中で明らかになるのは次の点である。
 個々人が自らを普遍へと発展しようとすることの総体としてブルジョア社会の「発展」があり、それは競争を通じて貫徹されている。
 学生は、従ってこの競争を通じて自らを精神労働者として形成していきつつある存在であり、従ってそこには次の様な「疎外感」をもつ。
 第一――五官の抑圧とその「唯物主義」的発現
 学生に於ける競争の中での勝利への道は、精神労働の専門知識の獲得である。
 この過程は、他の一切の人間の生の諸力(労働力)の発現を許さない。つまり、一切の人間の五官の発現と発展、その一環としての精神労働という形では存在しえない。従ってそこには
 第一に、教育内容それ自体が一面的であり、
 第二に、この競争それ自身に勝つ為には必然的に五官の発現を抑圧せざるをえない。
 この事は、逆に言うならば社会的にこの五官の自由な発展が保証されていない為に、この抑圧は、余裕のある時点に於ける疎外された唯物主義的感覚の爆発となる。――スポーツ主義、物質感覚としての性愛、種々諸々の遊技(戯)等々。

 第二――孤独感とその突破の為の更なる観念界への発展による更なる孤独の産出――その裏返しとしての、無媒介的ななれ合い的共同性への埋没(何々大学主義・等々)――それは更に深い孤独への出発でもある。
 既に述べたように、ブルジョア社会の人間の感性は、相互に否定し合う個別的感覚以外には成立しない。(そこにもしも「共同性」が成立するとすれば、何らの外在物を媒介にしなければならない)
 そこに存在するのは孤独感と、自分の競争の中のアセリと、精神労働者としての観念的世界解釈でしかない。そして、疎外された精神労働者の目には対象それ自身が様々な心的現象の単なる物質的担い手か、又は単なる一個の肉体として以上には映らない。
 この第一と第二の問題は、自らが育って来た「家族共同体」からの発展としての「自立」、自らの五官の「発展」の時代と重なっているところに学生の不安、孤独感の根源がある。

 第三――生産物からの疎外生活費の問題
これには様々な階層があるが、今の大学生の主な部分は中産階級の下層と、プロレタリアートの一部を含んでいる。
 その様な形での入学がもたらす私学の膨大な経費が、私学には比較的余裕のある部分が多いにも拘らず、学生の生活に圧迫を加え、又、国立は貧しい者が多い中で諸々の物価値上げ、授業料値上げの問題は大きく問題とする。
 この問題は、更に第一の問題、第二の問題の矛盾を強めて一層意識化させる。

(二)学生の政治的疎外の構造

 この政治的疎外(支配)の構造は、一般的にあてはまるものであるが、この問題の基礎もやはり分業論としてもっている。つまり、ブルジョア社会に於いて、その共同体の利害の調整とその特殊の貫徹の為の精神労働者が、所謂政治、及び政治家なのである。
 そして、この共同体の社会的基礎には、個々の資本によるプロレタリアートへの支配が存在し、その個々の資本のプロレタリアートへの社会的支配(=社会的権力そのものは総体としての資本のものであるが、それを担うのは個々の資本家たちである)の本質――感性的支配――を普遍的に担うものとして、共同体としての暴力装置を伴う。
 ここで重要な事は、この政治権力は、ブルジョア社会に於けるブルジョア的個別存在自らが「産出」したものであるということである。
 既に社会的矛盾の中で解明したように、ブルジョア的存在相互は、個別的感性しかもっていなく、普遍性は相互の「限界」、相互の「否定」という関係の中にしか存在しない。
 従って、「個別的自由――自らの私有財産の範囲内での自由」の限界は「公共の福祉」をもって成立する。
 「基本的人権」は本質的に「公共の福祉」と対立する。この中で自らの社会的個別存在を、類的にとらえかえす形で「共同体意識」が成立する。従って共同体意識は個別的感性の否定の上に成り立つ。
 しかも決定的に重要なことは、既に述べた類的存在の本質、並に類的生産の本質から、そのような「共同体の意識」の形成は、つまり、自らの個別的存在の対象化は、単に意識の上でのみならず、全体の疎外された結合の発展として現実に自らの他にそのような存在を定立する事によって成立する。
 むしてそのような存在の定立があってはじめて自ら対象化の意識が成立する。
 自らを類的・共同体的視点より見なおす、ということは、現実的そのような形での存在の定立によってしか成立せず、又、それを定立した側でもその定立によってはじめて自らを類的に意識化する。
 如何なる人間にあっても、生れ、且つ成長する中で、かかる形での類的な意識化の作業、或いは疎外された共同性の意識に於ける産出――精神労働――を、自らが類的意識を獲得するためにも行うのである。
 さて、それでは政治運動に於ける小ブル政治運動とは何なのか? それは既に明らかになっているように、個人的感性の自由を、自らの存在の上に立って最大限に発揮しようとするときに突き当る「共同体の利害」への闘いである。
 従って、もしもこれをそのままの姿で極限的に貫徹しようとするならば、個人的自立をそのまま普遍化する無政府主義とならざるをえない。そして、その感性的表現はテロリズムである。その対外感情は「侵略的独立」の民族自立(決)路線である。
 この急進派の構造は次のようになっていく。
 つまり、普遍性、共同性に対して、自らの側には普遍性は立てられていなく、むしろ、個人的感性の量的寄せ集めであるからして、それを支えているものは、その集団となったものとしての個人的感性以上には一歩も出ていない。
 従って、「急進化」は疎外された暴力としての、共同性に対する個人の感性であり、その頂点の中で同時にその摩滅がはじまる。それはテロリズムとしてしか貫徹できないし、従ってそれは必然的に敗北する。
 この急進化も、既に述べたように、この構造そのものがブルジョア社会全体の普遍的構造なのであり(=帝国主義段階では、主に新中間層によって最後まで担われる)、その特殊な部分の急進化としてより以上には突破しえない。言い換えれば、小ブル急進主義としての本質的に社民的普遍性の部分でしかないのである。
 この急進化はまた、共同性からの分離(止揚ではない)として成立するから「無限の前進」という形をとりえず、急進化と没落という形をとって現われる。
 従って純粋に技術的な問題として立ててみても、これはプロレタリア的戦闘化へ直結するものではない。又、社民的大衆に対するところの説得力、及びその組織化についても、結局は「有効性」「手段論」にとどまってしまうものであり、また実力闘争も単なる技術的なものにとどまって、真に議会主義に対する勝利にはならない。

 以上の諸点より、次のような特徴をもつものとして整理しうるだろう。
 第一――社民的共同性、或いはブルジョア民主主義の上に立って極左化にすぎぬもの故、その急進化は、全体の社民的体質の上に立っての、運命的に特殊、又は部分への固定。
     そこには共同性≠ヘなく、又、暴力そのものが「特殊としての暴力」となってしまう。
 第二――運動の波が頂点に達すると共に没落を開始し、無限の前進にはならない。
 第三――全大衆にとっての無限の発展としての過激化”ではなく、一般的な、単なる「有効性」以上には説得力をもたない。

 我々に必要とされていることは、現象的に「多数の結集」として問題を立てることではない。それは、一時的に多数を集めているかに見えながらも、全体から見れば一部にしかすぎず、本当の多数者の運動が必要なのであり、真のリアリズムが必要なのである。

## ※ プロレタリア階級闘争としての学生運動の構造

 さて、次の問題は、学生運動に於けるプロレタリア統一戦線の一環としての展開の構造である。
 これについては既にこれまでの諸論文の中で明らかにされてきているので、ここではそれの基本的な構造を述べるだけに止める。この小論の過程でも明らかにしてきたように、学生運動が、学生の社会的・政治的解放を貫徹しきる、ということは、ブルジョア社会の生産機構そのものを止揚するということに他ならない。
 現在の学生が、専門知識の獲得競争と、大衆収奪によるところのその苦痛を廃絶する闘いを闘いつつ、そこに於ける自らの社会的苦痛の原因が、直接的生産過程に於ける産業秩序とその深化にあるということを感得することを通し、自らの解放のためにプロレタリア運動と必然的に結合せざるをえない社会運動をもって、そこに形成される新らしい普遍性の獲得を基礎としての、その無限の発展として政治権力を奪取する闘いへと発展していくことの中にしか自らの究極的解放はありえないし、そして、そこにこそはじめて新らたな感性の形成、共同体の類的感性の獲得と、その発展をもちうるのである。従って、共同体・団結は、反戦・反ファシズム・反合理化≠フ闘い以外には成立しない(反スターリニズム的共同体・団結=革共同的=は従って宗派的共同体・団結でしかない――E註)

 その構造を簡単に述べれば次のようになる。
(一)において見てきた学生の社会的疎外を組織化し、その深化としての「学費値上げ」、「専門の深化」への闘いを進める。つまり、自分の教育過程に於ける日々の活動それ自身が、自らの隷属であることを把えるなかからそれに対する闘いを開始する、ということである。
 そして、かかる闘いがなに故にプロレタリア運動と結合せざるをえないかと言えば、その闘いの成熟と共に、どうしてもそこにおける隷属の原因として直接的生産過程での隷属を問題にする他はなく(対象化せざるをえなく)、プロレタリアートの運動それ自身が自分の運動として問題にせざるをえなくなるのである。
 そしてまた同じ構造をもって世界資本主義の国際分業を通じての世界プロレタリア人民との連帯を成立せしめ、強化していくものとして進行する。そしてまた、このような社会運動は、必然的に自らの政治的解放への闘い、普遍性の獲得として突き進まざるをえず、単にブルジョア社会における分業の一環としての一票投票なるものとしてではなく、自分自らの全存在の発現としての、活動としての政治権力の奪収へと突進するのである。自らの共同体の一切の活動を自らの手そのものの内に握るために――
 このような社会運動を基礎とする新たなる共同体の形成としての政治闘争が、真に「疎外された共同体の極限」としてのファシズムに対決し、そして反革命戦争を粉砕することをもって全世界の獲得へと進ませるのである。

(三)認識の構造

##【@類的活動の一環】
@認識とは、既に明らかになったように「類的生産活動の一環としの特殊な生産様式である」。
 従って、認識が独立して存在するなどということは本質的にありえないのであって、それは何らかの類的活動の一環なのである。本人は、認識が独立していると思っているにしても、それは専門ドレイがドレイたることを意識していないことの結果にすぎない。
 人間は、類的存在であり、人間の一切の活動は類的生産の一環、又はその特殊な様式であり、それ故に知的生産とは、「人間と自然の矛盾を基礎として、自らの側に普遍的な結合を生み出すことによって対象をより普遍的に認識し、労働手段をテコとして対象をより普遍的に変革しつつ自らもより普遍的に止揚されていく」活動の全体を意味するのである。
 そして資本論によってその解明が完成された如く、この活動は社会内分業と工場内分業を基礎とする物神によるところの流通を媒介としつつ貫徹されていくのである。(生産の「本質論」という形で社会総体の科学的解明は、経・哲手稿の段階で既に解明されている。しかしこの段階での、この生産の共同体の疎外構造は、むし直感的にしか述べられていない。ただしこのことをもって、この段階での生産の本質論の解明の意味は少しも減少するものではない。なぜなら、この解明自身がブルジョア社会の疎外構造を通じて社会総体の対象化なしには成立しないからである)
 要するに、認識の底には、自らの矛盾感覚を自らが普遍へ向って発展せんとする欲求、欲望として存在するのであり、その一環として認識があるのである。
 その意味で、革命運動における認識の意図は、自らの隷属を意識化し、一つの結合された闘いへと個別的直感を発展させるという意味において決定的である。
 その事自体学生運動においても労働運動と異るわけではなく、具体的な社会性の変化――教育の再編とか授業料の値上げ等という現実的変化がない限り、日常の運動は、宣伝煽動の認識の運動という性格をもたざるをえないが故、そうした構造の解明は極めて重要である。
 しかし、この認識は既に明らかなように、決して平面的なものではない。人間の目は、生理学的には同じであっても、社会的には全く異るからである。

##【A合理論と経験論】
A我々が認識の問題を問題にする時、さし当りまず有産階級の側における「認識」についてその構造を明らかにすることからはじめねばならない。言い換えれば、有産階級の「活動」の構造の解明についてである。
 我々の問題に限って見れば、近代ブルジョアジーの勃興以降の問題である。我々がそれを思想的に問題にするとすればいわゆる大陸の「合理論」とイギリスの「経験論」という形で問題にするのであり、そしてこれは、決して次の二人によって全てが代表されるものではないが問題を単純にするため、ここにデカルトとベーコンを例にひいてみることにする。
 「我思う、故に我在り」、「知は力なり」という二つの言葉を、いまここで敢えて例にとり、そこに秘められている本質を抽出しておけば次のようになるだろう。
 前者は、普遍性を「人間」の中に求める活動のイデオロギー的表現であり、また、後者は、対象=物質=自然の獲得に求める活動のイデオロギー的表現である。
 これは、結論から言えば、普遍性は「自然」及びその中から類的対象化の中で生まれた「人間」という形でしか現実には存在しないからである。
 問題をより単純化してしまえば、分業の下に包括されているブルジョア的個人が、自らの矛盾感覚を基礎としてそれを「普遍的」に超えようとする活動が(その競争を通じての貫徹の総体が類的生産活動となっている)、その対象的物質の獲得=資本の獲得、及び人間としての共同性の獲得、イデオロギーの獲得としての共同体の、精神労働者への道という形で表現される。そしてこの構造は、基本的に一切の有産階級に貫徹されるのである。
 しかも、帝国主義段階においてはその没落を早め、深まる「旧」中間層、つまり、旧い共同体の中に自らを埋没させる部分は、この普遍的団結が疎外形態を形成し、且つ、その上に立って対象=資本を獲得する運動としてファシズム運動を形成していく。
 近代的自我の形成の軸となる「新」中間層は、そのアトム化の深化とともに、それが一定の否定≠フ上に深化するが故に(新中間層は独占と共に「発展」する)、そのイデオロギー的普遍の獲得は、個人的作業としてしか進まず、また、対象の獲得についても同構造をもつのである。勿論、終局的にはブルジョアジー、新中間層と共にファシズム運動として形成され、包摂されていくのは必然だろうが――
 かかる観点に立って次に小ブルジョア的認識の構造を見よう。(ブルジョア的認識に本質的に同じである)

##【B精神労働者の認識】
B精神労働者の認識の構造
 すでに見てきたように、有産階級とは基本的に精神労働者である。そして、その一個の私有財産の人格的表現としての私有財産所有者の中の部分として、企業内における精神労働者が成立するのであり、そして、それと共に更に、その一個の私有財産の人格的表現としての私有財産所有者の上に、共同体の利害を貫徹するための精神労働者が成立していく。
 すでに何度も指摘したように、認識とは、類的活動の一部であり、それは「対象化」の一環である。
 精神労働者の「対象化」とは、肉体労働者、並に技術労働者からの疎外としての「対象化」である。それは二つのことを意味する。第一には、普遍性、全体性を「精神労働者」として、つまり、肉体労働者、技術労働者等よりの競争を通じて「観念」として獲得してきている、ということ。そこには、感性としては全く個人的な感覚でしかないにもかかわらず(他者は否定性としてのみ存在する)、観念としてのみ全体性をもとうとしている。しかも、社会的疎外の問題、並に政治権力の問題の中で見て来たように、全体性、普遍性は、個別的感覚に対する個別的人間相互の「否定的関心」としてしか成立しない「共同性」の精神労働として、「否定」としての対象化として成立する。
 共産主義運動の抬頭による現実的共同性の産出は、現実的な社会に対する「対象化」以外、分業社会での対象化は個別的感性への「否定」としての、「精神労働における対象化」(=これは同時に自分の外に精神労働者を産出する)以外、成立しない。
 かかる形での認識の構造は次のような構造をもつ。
第一――人間の存在とは全く関係のない「唯物(タダモノ)」的唯物論の成立。
    故にその理論を追求していけば一体人間と対象とは、いつどこで、どんな関係をもっているのかわけのわからぬ唯物論の産出
    この理論「大系」の中では、対象物質が、全く勝手きままな動きをする「物質」としてのみ成立する。
第二――「観念として成立している普遍性」、「心的現象としての普遍性」分析、つまり、精神労働者の頭にやどる「普遍性」の分析としての認識
    これが、認識における「客観主義」と「主観主義」の根本原因である。

(四)スターリニズムとトロツキズムにおける認識の構造

##【スターリニズム】
 スターリニズム運動の社会的基礎は、自らが私的所有者でありながら、そのこと自身が自分の悲惨の決定的原因となっている部分であり、貧農・都市下層の「旧中間層」が基本的に、この部分に属する。
 この部分は、プロレタリア運動の抬頭と、またそれによって止揚・包摂されていかないとき、自らの社会的悲惨の解決を、疎外された連帯によって止揚していこうとするのであり――その基本構造はファシズムに同じ――、その時点で形成されていくものである。
 それは運命的に「神」(=絶対者・媒介者)を生み出す運動であ
る。
 ここにおける認識の構造は、自らの所有者としての「感性」への観念的否定(精神労働者の定立)として成立するが故、そこに成立する「唯物論」は「客観主義」であり、一方、主体は極限までの精神労働者の神格化として、主観性の最大限の発揮として進む。機械的な「物質」・「対象」の分析と、神格化した精神労働の内容の分析と拝跪――

##【トロツキズム】
 トロツキズム運動は、「新中間層」を軸とする「旧い共同体」からの、近代的個我の確立の上に成立する。
 近代的個我の形成の上に立っての社会的不安は、ブルジョア社会に対する個人的感覚の反撥の観念的普遍化の上に、「観念的共産主義」を成立させていくのである。
 なに故かかる勝手なことを生み出してしまうのと言えば、次のように見ることができよう。
 近代的個我のブルジョア社会への反撥は、その限りで言うなら「反社会的不道徳的」行為である。つまり、個人的感性の相互反撥としての、「欲求の共同体」(ヘーゲル)としてのブルジョア社会に在っては、その個人的感性の相互の反撥が「幻想された共同体」=国家の「調整」と「支配」によって調和を保つことになるが、これに対する、あくまでも個人的感性の感覚に忠実に「反権力」を貫こうとすればそれは「犯罪者」になる外はないのである。そして、ここにおける「プロレタリアートの存在」とその革命的運動は、この近代的個我の苦闘に対して決定的方向性を与えるのである。
 つまり、この社会の中で最もラディカルに対決し、最も非合法的存在であり、なお且つそれこそが真の人間性の定立である存在とその理論であるからこそ、ここにおいてはじめて小ブル的個我は、自分のブルジョア社会への反撥に対する正当化の「社会的背景」を持つことになる。
 つまり、確かにブルジョア社会の中での個人的感覚を非妥協的に守り抜くことは「美しいこと」であり、民主主義社会に生きるには必ずや妥協と偽善を必要とする。なぜなら、ブルジョア社会の中に在って、自らの感覚に忠実であろうと努めれば必ず人を「傷つけ」ねばならぬからである。それだからこそ自分の感覚に忠実であって、なお且つ「人間の救い」になることを「プロレタリア革命」の中に見ようとするのである。ここに小ブル社会主義が成立すること一になる。
 すなわち、自分の小ブルジョア的個我の感覚の、ブルジョア社会に対する個人的感性の、反撥の活動であるところの「精神労働」としての普遍化を、共産主義、としてしまうのである。
 体制内的近代小市民とトロツキストとの差異は、前者が、自己の感覚を他者の面前においては休止(抑止)してしまうのに対して、つまり、「幻想的共同体」によって「反撥」を「調停」してしまうのに対して、後者トロツキストは、ブルジョア社会内的な他者の眼界をつき破って自己の感覚を無限に発展させようとするところにある。しかし、精神労働者としての自らの隷属を闘い抜かぬ限り認識の構造も一向に変らないのであり、客観主義的な「対象の分析」か、或いは「観念界における共産主義者の像」の分析に終わる。
 つまり、ブルジョア社会における「他者」の限界をつき破っての個人的感覚の発展の、「非合法的」部分を、その闘争が本質的に非合法的存在であるところのプロレタリアートの革命性の影の中に映し出すことによって「合理化」するのである。
 つまり、小ブル的個我の非合法的発展をプロレタリアートの新たなる社会性の観念的把握によって支えるのである。
 問題をもっとはっきりさせるならば、それは現実のプロレタリアートの闘いの上に、疎外された精神労働者の集団が依拠し、自分自らを支えるのであり、また、闘いを収奪するのである。それはまた、自らの個人的感覚の観念的普遍化を、共産主義理論の勝手な解釈で支えるのであり、マルクス主義そのものを「客観主義」、または「主観主義」の体系に陥し込めてしまうのである。
 トロツキスト(スターリニストも同じ)は、本質的に官僚である。官僚にとっての経済学は、人間の矛盾とは無関係な客観主義的資本の動向の分析と、大衆運動の状況の客観主義的な観察(小ブル政治家)にあり、そしてその上に立っての、自らの感覚の普遍化による、つまり、小ブルヒューマニズムのオシツケである。
 官僚の精神構造は、「自らを神にしたい」というブルジョア社会における典型としての立身出世欲と、その裏返しの自分勝手な自己犠牲の精神である。

##※D小ブル急進主義の止揚のために――マルクス主義の形骸化について――
 これまでの叙述でも既に明らかになったように、マルクスの理論はいくらでも「歪曲」されていく。それは次の二つの理由に因る。 第一は、プロレタリアートとブルジョアジーの力の均衡の時代に入って以来、先程述べた如き構造をもって、例えそれが小ブル的に歪曲された形であれ、プロレタリアートの階級的影響力は決定的なものをもっているということ。
 第二に、プロレタリア運動の前進によってその階級的抬頭が意識化され、理論化され、小ブルの隷属をも共産主義的に分析していく以前においては、先程述べた構造をもって、非合法の論理体系としてのマルクス主義が、客観主義と主観主義の双方から小ブル的利用がなされていく。
 マルクス主義の歪曲の根拠は、小ブルが自らの感覚を忠実に発展させていくときのその感性の「発展」が、この社会では「非合法」(反社会的)という形をとらざるをえないこと。
 そして共産主義は本質的に、この社会を止揚するという意味において「非合法」の構造をもつということ。――マルクス主義の形骸化なるものは、このような上に成立する。
 つまり、小ブル的感性が自分の観念的普遍化(自己の感覚を精神労働者の目をもって対象化し、普遍化する)の為にマルクス主義を利用するのである。
 ここでは、それぞれの小ブル的個我の特殊な現実感覚の観念的普遍化として理論が成立するが故に、ある範囲を超えればどうでもいいくだらないことの理論となってしまう。
 この破産は次のような形で現われる。
 つまり、マルクス主義は、このような小ブル急進主義にとっては感覚の勝手な「発展」の「合理化」の手段にすぎないが故に、本当に自分のものに、自分自身の問題として立てられてはいない。従って、初期の段階においては個人的感性の表現として急進化することができても、既に分析して来たような構造の中で、その「暴力化」は、感性そのものの摩滅となって進行する。従ってまたすぐに「消耗」するのである。
 かかる疑問に対しては、既に見て来たように、マルクス主義が自分にとって、自分の個人的感性の現実的普遍性として止揚する方向性をもって成立してはいないが故に、つまり、単に自分の個人的感覚の拡張の「合理化」でしかないが故、全く「形骸化」したものとしてしか映らないのである。(中核・ブントを見よ! 革マルはそれ「知っている」のでやらないだけだ)
 消耗すると「主体性論者」が多く発生するのは、今見て来たように、彼らにとってのマルクス主義が、自らの個人的感覚の拡張としてあるが故に、疲れて消耗すると一体自分が何をやっていたのか訳がわからなくなり、はじめの「初歩的日常的実感」へ戻り、そこからは社会の問題への「介入」を、再度「個人の感覚」の範囲で考え直そうとするからである。主体性論の粉砕は、その個人的疎外感を社会的に解明し、提示することにある。

##※E認識の【深化】構造
 さて、それでは「真理」へ到る認識の過程それ自身を問題にせねばならぬ。なぜならば、いかなる者といえどももののはじめから「真理」それ自身(又はその方法)をつかみうるものではなく、現実に存在する「疎外された認識」の中においてこそ「真理」は貫徹されていかねばならぬからである。
 ここにおいて整理する認識の段階は、小ブル的認識から、革命的認識へ至るその発展の順序である。

A現象論的認識(現象)
 この段階は、前述した如く客観主義的な、或いは主観主義的な、要するに精神労働者の認識の構造である。このような認識には、小ブル穏和派と小ブル急進派の運動が対応する。

B実体論的認識(実感)
 自らの矛盾感を、社会的隷属(類的疎外)、政治的隷属の実感の中に感得する。現実社会を自分の鉄鎖として実感する。これは小ブル運動の破産の中で、にもかかわらず自分の解放を目指そうとするときに成立する。

C本質論的認識(対象化)
 この社会の総体を対象化する現実的二重権力的団結の形成により成立する結合された目による科学的認識

 言うまでもなく、A、Bの段階において、個々人の意識にはのぼらなくても本質的なものとしてはその存在において貫かれている。
 更に、認識の発展をこのように分けてしまうと、運動においてもかかる三段階をくぐらぬばならない、という意味で誤解されるかも知れぬが決してそのように問題は立たない。そうであるかないかについては、かかる認識の成立の根拠をさぐってみれば直ちに分ることである。
 つまり、現象論的認識の根拠は、分業社会における認識の本質、つきり現実的個人的感性への「精神労働者としての目」の確立である。これは、プロレタリアートであっても自分の外に精神労働者を立てることによって、このような「認識」=「目」をもつことを余儀なくされる。

 さて我々はここで、「認識」の根本の問題をもう一度整理しておかねばならない。
 まず、決定的に重要なことは、認識とは「類的生産活動」の一環としてしか存在しない≠ニいうことである。(「生産の本質論」参照)
つまり、対象に対して、自らの側により「普遍的な結合を生み出す」中で、従って対象"に対してそれを対象化するところの」結合"を生み出す中でしか「認識」は成立しない。
 分業社会においては、類は個人的感性の単なる寄せ集めでしかなく、従ってその対象化≠ヘ、つまり個々の感性を超えた普遍性の産出≠ヘ「精神労働者」の外在化によってしか成立しない。そして個々人はといえば、その「精神労働者」の産出するところのものによって自らの個人的感性を対象化≠キる。換言すれば、産出された「精神労働者」の「目」による「認識」を映しとり、獲得することによって自らも「精神労働者」の「目」を「獲得」し、それをもって個別存在への対象化を行なうのである(意識の産出――類的意識の産出――疎外としての意識の産出)。つまり、「疎外としての認識」の形成である。
 これに対して、プロレタリア統一戦線としての科学的な認識はどのようにして成立するのか?
 それは、この社会に対する根底的に批判的な存在が、この社会総体を対象化する現実的団結を形成(=新たなる類の形成――新たなる共同体の形成)する中で結合された目≠サのものを生み出し、持つということに成立する。このことについては既に述べてきているのでくりかえしては述べないが、分業(=私的所有)を前提して生きる存在と、それの根本的批判を形成する存在との差異である。つまり、現象論的認識と本質的認識とは、対極をなすということである。

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【図】
精神労働

つまり、Bなる現実に対してAの方へ「発展」するか
A’の方へ「発展」するかは全く対極なのであり、Aへの「発展」はいくら先へ進んでも決してA’へ到達しないことも自明であろう。

社会的隸風
プロレタリア的団結
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 個別的存在の外に「精神労働者」を立てることによって、そのように定立した個人の方も、かかる「精神労働者の目」をもって、自らの個人的感性を対象化するのである。従って、実体(実感)に対しての「現象的認識」と本質的認識はちょうど対極をなすことになる。なぜならば、それは相互に「対象化」であるのだからだ。従って思想闘争は実体(実感)を通して行なわれることとなり、それ故ブルジョアジーにとって有利なのはいうまでもない。なぜならば、一定の共同体意識をもっている、ということは精神労働者の目をもって自らの個別的存在を対象化している、ということだからである。これはプロレタリアートにとっても同様である。
 しかし、我々の武器は、その疎外としての認識が実体(実感)の上に成立していることであり、従って常にその認識を「実感」へ戻しつつ、闘いを通じて新たなる団結の下に獲得される本質的認識へと進まねばならぬ。
 かくして、二段階革命とか中核派的運動(つまり、一たんフロント的認識を通して革命的なものへ進むという運動)は成立しえないということ、つまり反革命としてしか成立しないということが明らかになるだろう。また同様に革マル派的認識は疎外の強化でしかないことも明らかになるはずである。つまり、実感に対して既に疎外へと一歩を進めている以上、その「革命化」は疎外の極としてしか、つまり特殊な部分の「左翼化」とその没落としてしか成立しようがないのである。

 今あえて三つのものに分けたのは、ブルジョア社会に生きている以上、現実的に個人は、この三つの段階をくぐるものとして存在しているからである。

(五)学生運動の革命的転換への試論

##(A)活動家の組織化と大衆の組織化

 この問題についてはこれまでの内容から既に結論づけられているし、また、我々が闘い抜いてきた<三反〉(反戦・反ファッショ・反合理化=反産協)の運動と異った結論が出る訳でもなく、むしろその内容の整理にすぎない。
 それは決してプロレタリアートへの物神崇拝ではない。我々の〈三反〉のスローガン自身がプロレタリアートの現実の苦闘をスローガン化したものであるが、これに対して学生運動からそれを把えかえすとき、むしろ非常に「形骸化」した形で把えかえしていたところに問題をもっている。我々は決して〈三反〉をお題目のように立てるのではない。たとえ、どのような夢想にふけろうとも、決してゴマカシきれない自分の矛盾感覚の生きた把握の、その概念化としての理論を把えかえしているのか否か、ということが問題なのであり、もしそうでないとすれば、いかなる「革命的」体系であろうとそれはあっさりと投げすてられてよいし、むしろ、そうしない方が犯罪的でさえある。

 いかなることがあろうとも決して消し去ることのできぬ学生の社会的疎外感(=感情の抑圧とその抽象化、類からの疎外、孤独感=競争を通じての貫徹)は、社会科学として把えかえしてみた時、それは「産学協同路線反対」という言葉(内容)の他に果して表現しょうがあるのだろうか?
 そして、そのような疎外が直接的生産過程における合理化に原因をもち、それは国際競争を通じて更に強化されるばかりではなく、それへの闘いが敵を追いつめる時、敵はファシズムへの形成をテコとして、反革命戦争へと転化せしめる。社会を科学として把えかえして見たとき、「人民抑圧戦争反対・ファシズム粉砕」というスローガンの他に雄叫ぶ言葉があるのだろうか?

 この構造については、我々のこれまでの蓄積と、この小論の前半の中で既に述べてきているのでこれ以上ふれないが、要するに問題は、我々がもう一度、我々の現実の生々しい矛盾の中から戦略を引き出すことなのである。
 〈三反〉は、現実の生きたプロレタリアートが、正に生きた学生に提起されたものであり、我々は「疎外された目」という母斑を色濃く残しつつも、それを正しく把えてきたこのスローガンへの収約を貫徹し抜くのである。つまり、もう一度我々は活動家の組織化と大衆の組織化の中で、その現実を通してこれを貫徹していくことを徹底して整理し尽せばよいのである。

##(B)活動家の組織化の方針

 一体、学生は何ゆえ活動家になるのか。
 それは次の点につきる。
@ 無味乾燥な受験勉強の競争の過程で、これまで見てきたような類からの疎外感(孤独感)を強くもつこと。
A 自分の五官の抑圧と抽象化の中で耐え難い感性をもつこと。
B このような社会的土台の上に立っての政治不安の増大が「政治的「自由」を奪っていくこと。
C 戦争、人間の殺害。
 かかる状況の中で「卒業」していくということは、「生ける屍」としての一生しか待ってはいないということと、更に政治的抑圧と戦争への不安。

  我々の組織化は次の二つの方向から進められねばならぬ。
  イ その時の状況が全体として政治運動として高揚している場合。現実のバクロを通じて我々の戦争論とファシズム論の展開を行ない、それと共にその原因となっている社会的隷属へと目を向かわせること
  ロ 教育問題が軸となっている場合、
    既に述べてきたような構造で、今おきている教育問題と学生の疎外感を明確に結合して、その止揚としての「共同体」を提示し、かつ政治問題との結合した提示。
  ハ 実存主義者の場合
    疎外の解明と、生産論を通じて、真の「自由」、解放としての革命を提示し、闘うこと。
 この中で注意しなければならないことは次の点である。それは、決して、常に順序としてそうなくてはならぬという意味ではなくて本質論的な順序として「社会的疎外―→政治問題」として立てられねばならぬ、ということである。
 従って、一人の人間が、自分の全存在を賭して革命運動にふみきるのは、根本的に「社会的疎外感」がその底にあるからであり、「みじめな学生」―→「生ける屍としての一生」という実感である。たとえそのことを意識しえず、「自分は将来ブルジョア社会の中で偉くなれる」と願望している人間であっても、結局は「現実の自分はみじめである」が故に偉くなろうとするにすぎない。
 従って、オルグの根本はその「絶望」を「私的所有」「分業」の中に位置づけて、世界を鉄鎖としてみちびき入れ、「その新たなる共同体」による止揚としての、発展としての「政治」として、方向性を与えていくことである。
 もしも、このことがどこかで意識化されていなければ先程述べたような現実における「敗北」と「消耗」が、次の、より強力な革命運動へと進む以外にはない、という形にはならない。
 政治運動の場合でも、例えそのような社会運動がそれまでの過程で運動としては存在しなかったとしても、かかる社会運動の発展としてのエネルギーを引き出さなければ結局先程見た如き、「疎外としての政治・同情・消耗」という道を辿る。それは、現実的には「現実のバクロ」を通じての我々の戦争論、ファシズム論、そしてその中でその背景としての「社会的隷属」を引き出す、という形になる。

##(C)クラス活動、行動委員会

 我々の現在の大学運動の問題をあえて極端化して引き出せば次のようになるだろう。
 クラス活動と活動家の分離の傾向。クラス活動家は闘争に出ないし、活動家はクラス活動をやらなくなる、という傾向である。この問題は実際根本的に解消していかなければならない。
 要するにこの問題は次の問題として理解できる。活動家が、これまで分析してきた如く「疎外」としての政治化≠ネるが故に、活動家に転じるやとたんにクラス活動へのエネルギーが薄くなるのである。かかる意味で次に、問題をクラス活動にしぼって見る。ことにしよう。
 まず我々は、活動家(我々をも含めて)を、先程述べてきた構造に収約することが大切であるが、大衆運動は、現実の変化(授業料の値上げとか、カリキュラム再編、安保改悪等々)によって、大衆の日常的政治・社会への矛盾感覚を、一定の方向へ収約しておくことであり、もしも現実の変化が現われた場合、その収約されつつあある一定の方向の強化としてそれを感じとれるように準備しておくことである。その意味で認識の運動である。

(1)クラス新聞・クラス雑誌運動

 この大学自身の矛盾感覚の表現を、まず一斉に行なわせること。その認識は当然にもブルジョア的認識≠ニして表現される。つまり前各章で見てきた「現象論的認識」である。反帝学評のメンバーはこの中に内在し、この「現象論的認識」の底にある「実体」のバクロを開始する。
 簡単に言えば、新聞や雑誌の中にあらわされてくる「孤独」「不安」「絶望」「虚無」等々、その他の疎外された表現としての、政治感覚の実体的(=社会的)原因を突き出していくことである。つまり、その問題の原因を、現実の教育過程それ自身に結びつけつつ、政治問題を通してよりダイナミックに鮮明にしていくということ。そして、そのような大衆的宣伝を背景にして、社会・政治の問題を闘争として準備していくのである。そして、行動委員会はそのような中での「意識的部分」として形成していくこと。
 勿論運動としては、大衆の状況、行動委員会的部分、党的部分はクラスの中に並存し、仮に大衆が起ち上がらなくても断乎たる闘いを進めねばならない。
 しかも、もし、このような過程を明確にしており、大衆もそのようルートとして見ているならば、決して活動家アレルギーは起さないし、また、その断乎たる部分も、大衆の代表としての真の自信をもっていくはずである。

(2)大衆的組織化

 このような背景の上に立って、具体的活動及び活動家のグループをつくり、クラスの一部の活動を進めること、つまり、あらゆる活動のクラスの人間による組織化である。

 (3)全学行動委員会

 このようなクラス対策委員会の中の、より意識的部分による全学行動委員会を形成する。
 要するに、既にこれまでの論述の中で結論は出されているのであるが、〈三反〉の内容を学生の具体的な問題の中から把え返して提起し、運動化することを更に進めるということである。
 ただし、ここにおいて述べて来たことは、既に我々がダイナミックな革命戦略の上に立ってはじめて意味をもってくるものなのであり、そのようなものを前提として述べている点を意識化しながら、我々の状勢分析、戦略の貫徹として、今まで以上に断固たる闘いを進める。
 ここにおいて述べたことは、我々の情勢分析や戦略戦術が、学生大衆の中ではどのように問題となるのかという視点で把えたものでである。
 そして、そのような目をもって我々の〈三反〉を把えかえし、大衆運動を進めなければ必然的に〈三反〉の形骸化が起こり、真の大衆化はありえないということであり、従って革命化は期待できないということであろう。