@は読取不能箇所、★は要・読取検討箇所

機関紙『革命』12号(1968年4月1日・15日合併号)

中原 一
(三)教育斗争をめぐっての問題
(イ)教育の帝国主義的改編の現状
(ロ)革マル派の教育斗争論
(ハ)革マル派への反批判

から(ロ)(ハ)の箇所を引用する。

(ロ)革マル派の教育闘争論

 さて、「理論的」であるはずの我が革マル派は、これに対して、一体いかなる解明をなしえたのであろうか。彼等の「理論」なるものは、先程のべたような意味でほとんど自分自らの現実との闘いの成果として生まれて来ているものでなく、他党派(主に我々)の理論への対応として、マルクスの理論を応急手当としてもって来ているにすぎない。そういう意味での「理論闘争」は、それとして最後に扱うとして、はじめに「彼等の力」による現実の分析をみてみよう。
 「……こうした教育及び科学技術の研究及び教育者、研究者、高級技術者の育成は、当然にも現在の政府、支配者階級の意図の貫徹の手段として、積極的に利用され、機能させられて行く訳である。と同時に、近代化、合理化を至上命令としている重化学工業系の独占資本の要求としての高級技術者養成の基礎として特に私立大学がクローズアップされてきたわけである。
……ところで、こうした大学改編は、教育内容の変更と、それを保障して行く教育拡充、これ等に見合った諸制度の改革という、いわば「近代化」的傾向と、同時に、そこに貫徹されて行く階級的性格による教職員、特に学生への規制また不用な学部等の切り捨て等のいわば合理化的傾向との統一として打ち出され貫徹させられて行く大学管理制度の@@以降、これ等の攻撃は、文部省の行政権、監督権を、法的根拠として、また私学においては@@界私大連の統制や援助を受けながら実施されていった。こうして現在では、国家の文教政策は、教員免許法改正と大学設置基準省令化という二つの政策に集約されて来ている。
……今回の早大の学費、学館問題は、従って、一貫して産学協同路線に基づく設備拡充、学部の統廃合をおし進めつつも、直接的には財政の企業化と、大学自治のワク内に学生全体をおし込める「学生」補導のチミツ化」としておし進められる」(『学生戦線』三号)
 これは、彼等の論文の中の唯一の教育情勢の分析らしい箇所【にする/である】が、要するに「何故に革マル派が早大の学費学館問題に立上がったのか?」という問題が全然でてこない「左翼でありますから、敵のやる事は一応何でも反対であります」というのでは困る。ただいいうることは、革マル派にとって「学生の社会矛盾」という問題は「厚生補導のチミツ化」としてしか理解していないらしいという事は、ここで確かである。
 これは、後に、産学協同政策なる新理論によって強化され「社会的権力論批判」として「結実」するのである。
 これ以上、彼等自身の教育の分析に入っても無駄なので――何もないのであるから――やめるが、もう一度ことでハッキリさせておかねばならぬのは、社会矛盾とは、決して、政治権力による支配とか、あるいは、経済的に物がないとかいう他者、あるいは他の物との関連だけではなく、自分の活動そのものにも存在するという事である我々が問題にしているのは、教育をうけるという時のその内容と「うけるという事」そのものの隷属★の問題なのである。(消費過程における自由な意思という外見をとった隷属★)――少しは、わかっただろうか、革マル派の諸君。この辺のところがまずわからないと次の「理論的問題」も全く非生産的なものとなるのである。要するに現実の学生の矛盾を解明しようという問題意識――自分を含めて――があれば『解放』一一一号の中で自らのべている「フラクションとしての学生運動」「理論の解釈主義」という我々がずっと「指摘して来てあげた」問題を、いまだ三年前と同じ次元で@く必要はないのである。
(これについては運動論批判で扱う)
 さて、このような意味で彼等の理論は、自らみとめるエセ理論であるが、しかし、それはそれとして粉砕しておくのも礼儀だろう。

(ハ)革マル派への反批判

 いろいろグルグルまわりして、ようやく、彼等なりに我々への批判を要約したのは次の点である。
 (一) 労働力のものの生産と労働の質に関する労働の価値の生産とは異る。前者は直接資本によっては生産されない。それは、生殖によってしか生産されない。後者つまり種々の具体的有用性ならびに技術性としての労働の質の@@に関する労働の価値の生産は教育の問題である。
 (二) 総資本、総労働という普遍本質論の次元においては塾練労働もすべて単純労働に還元されるのであり、資本にとって有用な種々の@@の獲得によって労働の質を高める事、則ち教育を媒介にしてなされる労働力の価値の生産の問題は、総資本、総労働の次元の問題である。
 (三) 学生と労働者を解放派は同じにして「美化」している。 解放派は、学生が「教育工場」で資本によって、一方的に「労働力商品」として生産されているという。
 (四) 個別的に行われている労働力の価値の生産(=教育をうける事)と国家の文教政策その他を媒介にしての日本資本の自らにふさわしい労働市場の再編とを混同している結果「資本による労働力商品の生産」などという。
 (五) 総資本、総労働の次元では「資本家の指導」としてのみ語られる問題も、個別現実論的には「資本家の指導」の機能分化の一形態としての国家権力をも含んだ全個別資本の問題として論じなければならない。にもかかわらず、解放派は、この二つの問題を立体的にとらえられず、『資本論』でいわれる「資本家の指導」の問題が、そのまま個別資本=個別企業にアテハメられてしまう。
 そこから、第一に、労働の資本への「究極的包摂」関係における「資本の機能」を直接、現実にあてはめる結果として、外的な力として「資本家の指導」を把えてしまう。
 第二に、政治権力と社会的権力のが二つのものとされる、また、関連がつかなくなる。
 第三に、「外的な力」として把える事から一応労働過程における労働者に限られている「資本家の指導」の問題が、力一般として、学生にまで及んでくると理解される(両者の同一視)
 ほぼ以上の点に要約される。
(尚「物化された形で資本の動向を分析するのは資本制的社会を法則的に理解するための手続きであり、この分析に基底される事により革命運動の領域に属する社会をその直接性において把えた階級関係および階級闘争の革命論的分析が真理認識として位置づけられうる」――「早大・学費学館闘争の核心問題は何か?」等の問題は情情勢分析の方法にかかわる問題として、次の章で全面的に扱う)
 この信じがたい@の「理論家@氏の批判を要点的に行なっておく。
 (一)の問題 労働力(人間)が「生殖」によってしか「生まれ」ないという、太古の昔からの「生物学的真理」について我々は「反対」した事は一度もない。
 しかし、革マル派の諸君、この「自然的問題」が「社会関係の総体」の中でどのような位置をしめてくるかが問題なのである。「労働力そのものの生産」と「労働の質の差異に関する労働の価値の生産」とは決して「分離」されないのである。
 「労働過程と価値増殖過程の統一としては、それは、資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である」(『資本論』、第一巻第三編)この商品は「物」であろうと、「労働力」という「人間」であろうと変らないのである。一体、革マル派の諸君は、どこからこの区別をひき出そうというのか?
 生まれる事自体、又、生まれた瞬間から、そして生育して行く事自体、この両者の統一として存在しているのである。
 そして、学校教育は、この労働力の生産の過程の決定的な一部として存在するのである。
 もう一度ハッキリさせておくが「労働力が直接資本によって生成されない」というのは何をいっているつもりなのか?
 労働力という商品の生産は「消費過程」で「生産」されるということをいっているつもりなのか? それは、そういう形を通しての労働力という商品の資本による生産なのである。(自由なる意志という外見のもとでの資本の見えざる手による)要するにこの「批判」はまたしても革マル的妄想の類いである。
 (二) この問題は、аの問題の結果としてすでに「批判」にならないが一応のべておく、熟練労働がすべて単純労働に還元されるというのはあたりまえなのであるが、問題は「総資本総労働」の次元と「諸資本諸労働」の次元の問題という区別の中で「教育」という問題は「本質論」の中には入ってこないという理解である。これについてもаの中ですでに問題にならない事が明らかになった。つまりаの問題が根拠となってбが出ているいうまでもなく「教育―労働力の生産、再生産としての」の問題は本質論の中に入る(『資本論』第一巻の中に出てくるではないか!)
 この中で、指摘しておく必要がある彼等の「普遍本質論」と「特殊段階論」「個別現実論」という段階論の中で、本質論の中で出てくるものが「現実」の中で消えてしまう、又はその逆という「現象」がおこるぶについても注意を喚起しておく。
 (三) 学生を労働者と同一視して「美化」しているというが、それはただのケチつけにすぎないのは(イ)の中で明らかになっていると考える。労働者は直接的生産過程であり、学生は消費過程に存在する事は前提である。  問題なのは「自由な意志」という形をとっている消費過程も、資本の社会的力の見えざる手の支配下にあるという事なのである。そして、それがいわゆる、学生の疎外感の本質なのである。
 (四)―(五) これは一緒に反論を加える。まずハッキリさせておかねばならぬのは、「現実的本質」という内容である、『資本論』の中で展開されている「労働の資本への実質的包摂」における資本の力は「直接」現実に存在するのである。現象とは別にどこかに本質があるなどというのはヘーゲルを通りこして、カントまでの後退である。「資本関係も「労働の資本への包摂」関係として本質的に把えられるのではなく、直接資本に実体化し、「社会的力をもった物神的秩序」などと理解することから資本が天下るというヘーゲル主義的理解になる」(『早大学費学館闘争の核心的問題は何か?』)というような問題としていっているのだと思う。
 この「直接資本に実体化」するとか「資本の天下り」とかいう点については後にのべるとして「労働の資本への包摂」関係という本質的問題は、それでは革マル的には「現実的」にどうなるというのだ。
 「総資本、総労働次元」の資本の力は(それは資本家の指導に限られたものではない)個別企業の次元では、一体どうなるというのだ『資本論』の内容が何らかの媒介(資本主義の発展の次元、あるいはその国の特殊性)を通して現象するとしても、個別企業をも含めて貫いている論理として『資本論』の内容が存在するのはあたりまえである。彼等の特質は「本質論」の内容が「現実」の次元で、消えてなくなる事だ。それをアテハメと理解する論理構造は我々の責任外である(我々が現状から出発して、それを本質的にとらえかえして、現実としてみる事を彼等はアテハメという)。
 国家が経済過程に何らかの政策をもって指導するのは、下部構造の活動の意識的「合理的」指導にすぎない。それがあったからといって資本の社会的権力、と政治権力とを同一視する理由はない。
 資本の社会的権力について、革マル派が理解できないのは、彼等の『資本論』理解、ひいては史的唯物論全体の理解の問題として、つまり「社会的生産」そのものが、共産主義社以外は、疎外としてしか成立しない(必然的に――機械的とか偶然的ではない。階級の発生を「機械的」に理解し、また生産の偶然的条件をとったものを共産主義だなどという彼等の理解――『社会観の探求』をみよ!――については別に@で行う)ことへの無理解から本質的には来ている。資本の社会的権力について、特に労働者階級にとってのそれについて理解したかったら、『資本論』の第一巻が一体何のために書かれたのかよく考えるのが一番いい。
 要するに、資本制社会における直接的生産過程における労働そのものが、労働者にとっては正に「外的な力」の強化として、また労働そのものも、自己の苦通としてしかない事。そして直接的生産過程とは異り、従って「活動における疎外ではなく「状況としての疎外」としてあらわれるが、消費過程においても、消費そのものが隷属★の深化としてあるという事であるそして、その基礎の上に「宗教的疎外」つまり「疎外された、幻想的共同体」による、個人への支配として政府権力があるのである。国家による支配は、プロレタリアートにとっては、個別資本による労働監獄としての状況の「共団体的規模」における「普遍化」である。
【 ……以下略】