教育闘争に於ける革命的方針とは何か

     (T)

@ 現在の学生生活の中で闘いということがすでに公言されはじめているが、本当に闘いということが公言されはじめていることの意味を展開していきたい。
 直接には「産学協同路線とは何なのか」という問題に焦点を絞って述べていきたいと思う。
 結論からいえば、現在の学生生活の中では、諸階級の間の対立は、その断層が実際には千里の隔りであるにもかかわらず、大ブルジョアの子弟も炭鉱で働いている人達の子弟も、学生生活の期間中は千里の隔りが僅か一歩の隔りとして埋められて行くかのような状況がある。こういった中で、このブルジョア的な共同体を引き裂くように、闘い! ということを公言しきっていくことができるということを自体が、「すでに現在の学生生活がどういうものになりつつあるか」ということを暗示しているだろう。その闘いは、一口に言って、人間が人間になるための闘いという意味を持って、現在学生生活の中で闘いとして提起されている。
 この内容を突き出してくる現実の問題は、直接的には産学協同路線としてあるのだが、このような把握に対する反論として「それは産学協同路線ではなくて、産学協同政策であり、そのものとして運動を組むのが正しい」という展開がある。それは国大協路線、自主規制路線等の把握の如何、あるいは現在職場やクラス末端からの行動委員会運動として登場してきている新しい運動の内部に孕んでいるものを、どう把むかの問題にも関ってくる。この故に、産協路線か産協政策かと先ず問題を立ててみたい。
 産学協同とは一体全体、何と何との協同を言っているのかが直ぐ問題になるが、結論から言えば、教育ないし学問と産業(とくに産業合理化として要約される現在の産業の運動)、この両者の協同と言い換えることができる。
 これを理解するにはまず第一に、教育は政治ないし国家の権力によって制約される前に現在の社会によって制約されていることを押さえるのが出発点である。それは教育機関が私立であれ公立であれ国立であれ、更に国家権力が公然とあるいは隠然と介入しようとしまいとにかかわらずである。私大においても、たとえ国家権力との関係がどのようなものであろうとも、個々の私大の当局者が自分自身の立場から行う教育自体が、ブルジョア社会=現在の社会によって制約されている。この事はこの東大にもあの日大にもどの大学にも妥当する。
 にもかかわらず、教育の政治からの独立あるいは自主性ということが長い間進歩派の間で独占的なスローガンのごとく唱えられて来た。このようなスローガン、理論、運動は、現在始まっている新たな質を持った闘いの前にはもはや無力である。
 教育と政治との間の関係の峻別の論理、そして教育の相対的な自主性という事に就いては次のように考える。
 現在の社会がブルジョア社会として生み出されて来る中で、その確立の過程(フランス革命等の民主革命=市民革命)自身が、政治権力からの教育の自主性という事を高らかに掲げていた。他方、市民革命に先行する萌芽形態としては既に中世がこれを用意した。即ち、身分的秩序の不動性(その極限はカースト)、人的支配、封建的な共同体による種々の制約等々を内容とする中世的なスコラ的な教育に対する、学生自身の組合としての大学、その中での自由な教育として発展してきた。これは、長期にわたるブルジョア社会の運動の全過程を貫いて発展し来たったもので、革命を頂点とする運動の中で確立されたものである。
 それだからこそ、パリ大学への警官導入に対する抗議は、五月のフランスの衝撃力を持った闘いへと発展したのであり、警官導入への怒りには、パリ大学始まって以来の公然たる国家権力の介入であるという歴史の重みがあるのである。この限りでは政治からの教育の自主性なるもの自身が必ずしも新たな進歩的な運動と言われていたものの独占的なスローガンではなく、すでに市民革命の内容でもあった。
 このように歴史は近代において全面教育と教育の国家権力からの自主性を高らかに宣し、近代が批判の対象とし打倒をもした前近代的な諸々の共同体的な制約から見れば達成しもしたのであるが、この政治権力からの教育の解放は、過去に向っては問題の解決として、現在に向っては再度問題を次の様に打ち立てる。即ち政治権力から自立したかに見えた教育は、自らの基盤を今や初めて社会のうちに見出したのであり、自らを必要とし、自らを樹立し、自らの成果を実現する真の母胎を社会=ブルジョア社会として発見したのである。この意味で、教育は社会によって制約されるという共産党宣言に明記されている事柄が、現在直下の問題として真正面に突き出されて行かなければならない。

A かいつまんで戦後の教育の生成過程としてこの問題を見ると、一方では、太平洋戦争の反省を通して情熱を持った若手教師を中心に新教育=全人教育が戦後のいわゆる民主教育の中で発展して行った。我々はこのような教育を受けて来ている。
 それなりに全人教育の理想を見つめ、新教育の理想を見つめていたこの民主教育は、制度としてはいわゆる単線型の教育制度として実現し、これは教育の機会均等の拡大の運動としては、単に中等教育の機会均等に止まらず高等教育の機会均等に達するものとして、ますますこの新教育が歴史の趨勢であるかのように言われてきている。
 しかしながら、現在では公然と実は頂点から否定される過程に入って来た。その内容は要するに多様性に基づく教育であり、これに対する国大協の態度は肯定である。
 このように現在ではいわゆる「戦後の新教育」が「多様性に基づく教育」なるものに取って換わられる時代にある。そしてこの後者は次のように理由づけられる。即ち、「戦後の教育は余りにも形式的な平等であった。形式的な教育の機会均等であった。実質を問題にしなくてはならない」と。或いは戦後新教育運動の担い手によっては次のように「これからの教育の機会均等は唯そのスローガンを捨てるんじゃなくて多様性に基づく教育の機会均等として貫徹し発展させるのだ」と主張される。男女間の問題等に就いても「女性は女性の特性に応じて! 職業の偏見は打破! 各人は自己の能力に応じて最善を!」等々が既に新しい教育の改革の標準として中教審等の答申中に明記される程に転換は鋭く進行している。
 このようにして実は小学校から大学まで徹底的に「多様性に基づく教育」を目的意識的に推進し、学校教育を制度として改変せんとしている。この「多様化」は単に大学自身の多様化と大学制度の間の関係の多様化だけでなく、一方における大学内部の多様化と、それを支えるものとして、後期中等教育から多様化し更には前期中等教育、初等教育から始めなければならないとして、初めは私立で実験的な試みとして行なわれていた適性の早期発見なるものが、現在では文部省の指針にまでなっている。
 かくて小学校入学の頃から適性の早期発見と徹底的な多様性に基づく教育を全社会的に推進する過程が今我々の前に進行しているだろう。だから戦後のいわゆる「全人教育」は「多様性に基づく教育」の前にリアリズムを失い、「一般教育、一般教養は専門教育に代わられてはならない」と叫ばれている運動自身が徹底して空しいものとして無力化する状況に入っている。
 「全人教育を!」と叫ばれていた戦後の新教育は実に多様性に基づく教育の名において、結論的には、全人に成るための教育ではなくて部分人に成るための教育と化し、従ってこの大学までの全教育課程を学生一人一人が自己の全力を挙げて専門家としての自己の完成を追求するものとして突進する。
 この状況に疑問を感じる者、あるいは疑問を表現するものは青くさい感傷主義者として弾劾される、このような状況に入って来ている。だから、全人教育を掲げ推進して来たかつての若い教師達は現在の過程の中で一歩一歩リアリズムの名において屈服していかざるを得ない。自分の教育労働自身が多様性に基づく教育として敵対して来る事に、一歩一歩後退して行かざるを得ない。
 この過程は戦後教育といわれてきたものが何であり、多様性に基づく教育として現在掲げられてきた新しいスローガンが一体何であるのかを暗示している。現在の社会をそのまま前提し既存の社会の中で全人教育を叫ぶならば、答えは否である。現在の社会が、現在の産業社会が要求するものは徹底的に多様性に基づく教育である。
 この否定的な状況からくみ取るべきものは、全人教育の要求を収奪してしまう現代社会をまず見つめること。我々がもし全人教育の意味を把え返し、それを真に、本格的に実現し、貫徹するとするならば、まずそうせねばならないだろう。教育の根拠としての社会を問題にし、自分自身の問題にする事を通して始めて、教育の場での闘いはリアリズムを獲得しえ、新しい革命的リアリズムを獲得することができる。
 しかしその社会に入る事を躊躇し教育の世界だけに閉じこもってしまうならば、その限りでは全人教育は現象的不可能として滅びさってしまうだろう。多くの学生大衆の疑問に対して本格的に答えていくことはできないだろう。そんなことをやっていて結局現代の社会が要求する人間になり切れずルンペンプロレタリアートになってしまうのではないか? という問題に対しても真の解決を獲得する事は今述べたような現在の教育闘争が孕んでいる課題であろう。
 以上のように現在の教育の教育としての特殊性は特徴づけられる。その特徴づけをもっと大胆に要約してしまうとすれば大体次のようになろう。
 即ち、小学校をできれば一年早く始め、小学校を卒業する時に試験をしその間でできるだけ適性の早期発見を行う。その試験にパスした人間は、前期中等教育課程に進む。その中で多コースに分れ、ますます多様化していく大学のどの類に入って行くかを決定される。他方、この試験に落ちた人達は義務制の中学に進み、この中学の卒業と共に無数の職業の数ほどに分解していく多コースの実業高校的なものに進む。これはせいぜい高専程度のものであり大学には進まない。このように学校体系の改編としては右のように要約されると思う。
 そして、実はこういう多様性に基づく教育を要求していくものとして現在の社会があるわけだが、その現在の社会の運動は産業と共に変動し、結局現代の社会のこういう教育を要求していく現代社会の現在的な運動としては、産業再編なる現在の産業合理化である。これは如何なるものであるかは後に再度検討するが、実はこういう種類の社会によって現在の教育は制約されている事を先ずもって把握しなければならない。

B 資本主義がいわゆる自由主義段階から帝国主義段階へ進展していく過程の中で一口にいって、資本所有と資本機能の分離が徹底的に進行していく。即ち株式会社の歴史的発生、その中味は資本所有と資本機能の徹底的な分離ということに要約されるものである。これは又、精神労働と肉体労働の大規模な徹底的な分離を意味する。
 かつては会社において資本家は雇った労働者を直接自分で指揮していたが、そして販売等々も自分で行っていたのであるが、段々と販売の機能からは解放され遂には資本の搾取機能からも解放されることになる。それと共に販売、労働指揮監督等の機能は所有者自身からは解放され、搾取する労働にたずさわる労働者に委譲する。この過程が独占的株式会社の発展の中味として把えることができよう。
 かく自由主義段階から帝国主義段階への移行の過程で、教育の中に現れてきたスローガンは「中等教育の拡大を!」という、教育の機会均等の要求であった。公立学校要求運動として、いかなる階層階級に所属しようともその区別なく全ての人が中等教育に進み得る機会の要求として。
 この機会均等要求の運動は、他方第一次大戦から第二次大戦へのドイツにおける世界最初の産業合理化運動と歴史的には併行して世界の進歩派のスローガンに掲げられ、イギリス労働党もドイツ社民党もそうであった。その背後には実は第一次大戦とロシア革命の影響を受けつつ出発した最初の産業合理化運動が有ったことを忘れてはならないだろう。
 この教育の機会均等拡大要求運動は第二次大戦を経た今では、単に中等教育の門戸を開放させることに止まらず高等教育をも機会均等にさせる事を要求し、戦後の世界的現象として、日本で、ヨーロッパで、アメリカで、大学へ大学へと大群が殺到し、しかも産業社会がそれを要求するもの故に促進されもした。フランスでも殊にドゴールの十年間に学生数が十倍化したように例外ではあり得ない。この過程を運動として見れば高校全入運動として、更には大学の門戸開放運動として厳然として高揚して行く運動が生産されてもいる。
 ところが今問われているのは、教育の機会均等が単に形式的であってはならず、実質が問題だと頂点から多様性に基づく教育が叫ばれている中で、今までの運動を越えるということ、教育の機会均等の単純増加的な運動以上のことを問題にすることである。
 何故なら教育の機会均等の形式的な拡大に就いてなら、既に頂点から資本主義自身の運動としてあるいは資本主義的生産様式の法則的な展開として、あるいはブルジョア社会の運動として拡大してきたし、現に拡大しようとしている。イギリスにおいては、教育改革が義務教育を一八歳まで拡大するものとしてイギリスの中教審の答申として行う所まで来ている。この様な状況があるからである。
 しかし注意せねばならないのは、そこでは同時に徹底的に専門化した教育として登場して来ている点である。だから我々の運動にとっては、現在の教育の中に置かれている学生生活からして単に教育の機会均等に満足せず分化し多様化した新たな質を進行させている、この質を見つめていかねばならない。そうでなければ、古い機会均等拡大の運動としてブルジョア的な新教育運動の前に時代おくれとして捨て去られ滅び去っていくことになろう。
 この新教育運動は「技術革新」の結果であるばかりでなく、積極的にブルジョア的な自己回復運動である。即ち、ブルジョアジーの台頭期においては偉大な個人が、この個人は単に分業内の専門的奴隷ではなく美術家でもあり、科学者でもある偉大な個人が無数に輩出したかの様に見えた、その意味で諸個人の個性の解放という事は生きた民主主義の名において叫ばれ、それが一定程度リアリズムを持ち得たように見えた。ところが、自由主義段階から帝国主義段階へ転変して行く中で、ブルジョアジーの、支配階級の田園的な牧歌的な人間性が失なわれ一歩一歩引き裂かれていく中で、この生き生きと個人を回復するかに見えた民主主義が結局のところ個人の洪水の中で個人の喪失を生み、この個人の回復ならざる個人の喪失が対応策としての資本主義哲学乃至実践哲学を常に起こし、日々に個人を回復しなくてはならぬという過程に入っていった。
 このことが教育の領域においては、個人の洪水の中での個人の喪失と、その中でもう一度位置づけした個人を回復したいという運動なるものが発生し発展してきた。その意味で新教育運動は帝国主義段階のブルジョア的な自己回復運動の意味を持っているであろう。
 こういうものにしがみつき、これが新しい運動だと思い込んでいるうちに一歩一歩そんなものはリアリズムを失い、弱体化して行く大衆民主主義運動の中でブルジョア的な諸個人自身が何ものでもない、さらには支配階級の内部でさえも、それが問題として感受される。
 支配階級の体制側からドゴール等の新しい近代派が登場し、各種の参加問題を掲げて登場する段階に至っている。かく世界的な問題状況に世界的に、体制側から反体制側から共に「参加」が提起されている。
 たとえばドゴールの下でのフランス・ナショナリズムは五月革命を敗北せしめて行く中で、「参加」を呼びかけ、企画と国家政策への個人の参加を呼びかける。新たな体制を呼号する格好で体制側も新しい解決のスタイルをとっている。フランスの左翼の新しい運動の原動力を体制側から把え返し先取りし再度の体制の打ち固めを行うという意味を、ドゴールの参加構想は持っていた。そのことを仏共産党はなんら理解することができなかった。新しい運動が下からの個人の回復の意味を内包して、新しい左翼の原動力を形成し始めていた点を仏共産党は何ら理解できなかった。結局、新たな運動に対して挑発者、反革命的分子と呼び、いわゆる「人民戦線」路線の中に何としても閉じ込めようとすることしかできなかった。
 同じ事はいわゆるスターリニスト圏においても、いわゆる「進歩派」と「保守派」の対立として、この区別は参加問題をめぐるものとして現われているだろう。即ち、社会主義の名における個人の喪失と、殆ど資本主義世界で行われる合理化と同じような産業合理化が社会主義圏の中でコメコンの分業等が行われ、他方それへの単純アンチとして自力更生が言われる。これは結局参加問題をめぐっている。いわゆる「保守派」はこの問題を理解できないで、むしろ恐怖を感じ、中国のプロレタリア文化大革命と呼ばれているものも、体制的にはスターリニズムの再生産に帰着するのだが、ただ新たな装いをこらして再生を図り、チェコの民主化なるものも同様に新たな装いを持ったスターリニズムの再生産であり、ここでも参加のエネルギーや参加の問題を体制側から先取りし横取りする事なしに現われている。
 この様に資本主義圏と社会主義圏との両方において世界的に同一の問題が現われている。従って教育をめぐる我々の闘いも、個人の真の回復とは何であるのか? 自分自身の運命を己が手に握るような生き生きとした個人の回復とは何であるのか? 個人の全面的な発達とは何であるか? この問に答えなければならない。
 そうでなければ、ブルジョアの側での多様性に基づく教育として提起され、それに対して真の解答を出さずに単に形式的な平等を叫び、それを墨守し、その運動を再生産する限りでは、一歩一歩新たな運動が持っている根底的な原動力に答え切れないで結局のところ、ブルジョア体制の側から先取りされ把え返され、再度その新たに発見して来た実質的な運動を吸収され体制側の近代派なるものに支えられる事になりかねない。
 この過程は既に始まっている。労働者の運動においては、近代的なスタイルを持ったIMF・JCの運動として既に進行している。このJC運動に対して、いかに民同左派が頑強に資本との協調関係を断ち切れと言おうと、結局民同左派の太田、岩井に代表される古い左翼性は現在の労働者の底から発生してきている生きた自主性の回復を、その意味を把え返す事ができない以上これは頑強保守派でしかない。これに対立するものとしてのJC運動として進められている右派の方が新しい装いをこらして新しい参加への回答であるかのように登場してきている。
 この右派の参加は、単に結果を追いまわすだけでは不充分だとして、産業政策が決まっていく段階から介入して行かなければならないということで「産業改造論」として現われて来ている。更に、産業別審議会を作らなければならないということで、すでに産業別審議会構想として提唱される、このような新しい運動の格好で実は右翼的な運動が進行しているだろう。
 この近代派の運動は、現在の産業再編成なるものに協力し、国際競争の場においては資本家と労働者の対立は言っておれない、産業の発達は国民の利益であり、単なる国家利益ではなくて国民の利益であると主張し、戦略産業の自動車産業は国民の発展のために育成せねばならない、産業の発展度はその国民の発展のメルクマールである等々の積極的にブルジョア社会の国家利益=国民的利益を掲げている。
 この新しい民主主義の装いをまとい、参加のエネルギーを汲み尽さんとし、産業の心を解し、国家をまで心配するほどに積極的な運動は上からも下からも呼号されている。最初に、問題を「教育は社会によって制約される」と設定し、まずこの理解から、視角として、これから把握して行かなければならない問題の中枢として設定したが、これを換言すれば今見た産業再編成=産業合理化、それに制約されるものとしての現在の教育の変貌と性格の変革、このことが多様性に基づく教育なるものだということだ。

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C これを今一歩内容を問題にすれば、次の様に言える。即ち、多様性に基づく教育を社会と産業の要請だとして突き出してくる社会、産業の運動とともに変貌して行く現在の社会があるが、この産業再編成とは一口に言えば大工場の出現という事に要約されるだろう。産業再編成とは一口に言って大工場の出現と発展に要約され、教育や国家の諸々の分業はそれに呼応して変貌していく。
 この大工場とは何か、工場制度とは一体何かという問いを突きつけられている。その理解のためには最も古典的な事から把握されていかねばならないだろう。普通、大工場の発展とは社会的な生産過程の発展だという点で押さえられてきた、それは同時に産業の発展として近代化・機械化として押さえられてきた。今、「産業の発達には反対できない」「近代化には反対できない」等々の形で、歴史の真の傾向の名において東交労働者一万人が消えていく、国鉄労働者五万人、更に十二万七千人が消えていくという状況の中に労働者はたたきこまれている。この「消えて行く」とは、配職や首切り等々を含めて、単に職業にありつけるだけという様な保障を含めて相対的過剰人口と化すこと、あるいは職業の不安等にさらされることをまずもって意味している。この様に産業の発達は同時に、旧来の職業からの労働者の追放をも大量に生産している。だから、工場制度は単に機械的生産の発展ではなくて、社会的生産過程の発展であるとともに、同時に労働者に対するマルクスの『資本論』に言う「暖和された暴力」と言うものの発展であるという事が、今いった事の把握をてことして引き出されねばならないところに来ている。
 独占的株式会社を中心として発展していく帝国主義的工場制度では、その内部において資本機能と資本所有の徹底的分離が進行していっており、又それは同時に工場労働者から精神的なものを徹底的に奪って行く過程でもある。労働者としての労働者から奪われたものは、別の種類の労働者が担い、徹底して奪われた諸々の精神的力能は労働者自身に敵対せしめられる。それは監督するという目に見えるものとして人を指揮するという事に含まれているどんな共同作業も持っていなければならない指揮権と搾取機能の問題という、単にそれだけではない。直接には誰をも指揮せず、誰をも直接には搾取しないかのように見える技師等々、更にそれからも離れているかに見える研究者等々が行なって行く精神的な諸成果は、肉体的な労働者から奪われ、かつ敵対せしめられる作用を持っている。その意味で、近代化、産業の発達全部が労働者階級にとっては自分自身を沈めるという作用をもっている。
 その限りで大工場制度の起源と発展は、徹底的な精神労働と肉体労働の分離でありかつ敵対である。そして肉体労働者の領域を進行してゆく分業の特性は、専門性の喪失として特徴づけられる。あらゆる専門性の喪失であり、職業白痴の消滅である。逆に精神労働の領域で進行している分業の特徴は、徹底的な専門性と同時に職業白痴の徹底である。ちょうど若きマルクスが『哲学の貧困』の中で予感的に描写していた工場制度のデフォルメ的な発展ということだと思う。
 現在では大工場制度の下で、労働者階級、工場労働者は殆ど何らの専門性も持たない。専門を持っていること自身が何も自身の労働にとっては意味を持たない。その意味で徹底的に労働の平均化が進行しているだろう。これを「半熟練労働」と表現する人達がいるが、しかし中味を引き出してみると、徹底的に単純労働化、簡単労働化として押さえねばならない。そしてそれは専門性の消滅、職業白痴の消滅として特徴づけることができる。職業白痴の消滅とは何かというと、ある特殊な労働、一定種類の労働にある個人がゆ着し、縛りつけられている事の廃棄、それが解き放たれ、労働一般が現実的なものになるという意味を持っている。これは後で一般の問題について若干ふれたいので一応ここで強調しておきたいと思う。「労働一般」が単にカテゴリーとしてばかりでなく、現実的にも意味を持つ、そういう状況が工場労働者の中に進行している。従って、ある特殊の専門にしがみついて何程かの賃金を受けとる、かつ受取った金をもってこの労働の生産物であるあらゆるものを買うという形の生き方から、労働一般の代償としての賃金、それによってその労働の諸成果を受けとる所にまで来ている。現在、大工場制の下での工場労働者の分業の性質は、そういうことを意味していると思う。
 そしてその事は、ある専門にしがみつき、専門に隷属することによって作られていく職業白痴――ある職業についてはベテランである、しかし普遍について全般的な総体性については白痴である――が、かえって肉体労働者の中において消滅するということなのである。職業に生きるための専門的な知識ではなく、職業の必要から解き放たれた新しい知識への要求が起きる。この全面的に発達した人間の傾向が、かえって工場労働者のうちに見られるという事である。ある専門にしがみついて生きるという、職業の必要が課した知識ではなくて、そういう事から解き放たれて、自由に自分自身の知的欲求をみたそうとする。その事が実は労働者の闘いにおいてきわめてリアルな意味を持っている。労働者が生きかつ闘い、はじめて生きて働くことができるような知識として復活しつつあると言うことができると思う。
 逆に、大工場あるいは帝国主義的工場制度の発展の中で、精神労働の領域にたずさわる人達と、その過程にある人達は、結局のところ、徹底的な精神の領域での専門化を強いられている。そして、それは自由な研究者であるという事自身をも含めた徹底的な隷属である。そして、それに呼応する形での職業白痴の大量生産といった過程が進行している。そしてその限りにおいては不都合は何もないかのように見えるのだ。何故ならば一人の人間が、専門に隷属するということは、隷属することをもって力を感じるという疎外にほかならない。その限りで言うならば疎外の活動として疎外において苦痛を感じるというよりは、専門にしがみつき、それによって競争戦に勝ち抜いて何者かになったという事に力を感じることができるということなのだ。産業を支配する側に立ったということに力を感じることができるという所へ来ている。そういう意味で、自分に専門性を与えるという事のうちで、専門性を与える事自身に歓喜する程まで堕落したというようにいわれる人ほどこき使われるといった過程にはいってきている。
 それにもかかわらず、このような教育課程は、実は精神労働の領域においてさえも、一人一人の個人の内に、多くの根底的な矛盾をはらみつつ進行しているという点が大切なのだ。それはこういう点で言えると思う。
 さきほど、産学協同路線ととらえるべきで、産学協同政策としてとらえるべきではないと言ったわけだが、それはまず、教育は社会によって制約されるということを産学協同政策なるものは無視していると言ったわけだ。そして政策が政策として真の意味を持つためには、各大学の政策、各企業の政策ということで言われるべきではなくて、権力もしくは政府の政策という意味で言われなくてはならない。ところが、産学協同ということは、つまり産業合理化への教育の適合なるものは、国家権力を単なる媒介にして行われているのではなくて、つまり政策を通して単に行われているのではなくて、それぞれの教育機関が教育者の自主性という形をとりながら、実は産業合理化に適合して行く教育を推進している、そういう意味において、産学協同政策ととらえることは正しくないと言ったわけだ。
 言い換えれば、社会的権力との関係で、学生の存在は一体何なのかという問題にもかかわってくる。現実的には競争あるいは社会的権力というように表現できるもの、この社会的権力は資本を意味する。政治権力を意味するのではない。政治権力を二つに分けて、社会的機能と階級的な機能=政治的機能があるとし、政治権力の機能だけを問題にするような方法に反して、我々は政治権力とは異なった資本=社会的権力として把えて行かねばならない。この「社会的権力」の言葉は、初期のマルクスから後期のマルクスまで何度もでてくる。資本は権力であり政治権力ではない。資本は何物をも買いうる。労働力商品を買い得るものとして、自分がいかにみすぼらしい肉体と、どんなに貧弱な精神を持とうと、貨幣という黄金を持つ限りにおいて、全てである。どんな偉大なものをも買い得る。
 教育の領域においては、私立大学においても、政治と教育の分離が一応たてまえとして通用している現在の教育制度においても、国立および公立の教育においても、教師等々は教育労働者として自分の労働力商品を通して交換している限りにおいては、社会的権力の問題は提起されているだろう。だから問題は駒場のあるいは日大の理事等々として人格的に表現されている、例えば日大の、資本に個別的に、日大の学生が隷属しているのではない。資本一般、資本の権力に隷属しているのではなくて、個別の資本に直接隷属しているという事は、直接は次のように言われねばならない。例えば、ある工場内において、その工場の工場労働者がその企業に、その工場制度の下で資本の直接的専制支配の下に立っている。その意味では直接的に隷属している。そういうものとしては現在の教師はそれぞれの教育資本に直接的に隷属していると言えるだろう。しかし学生はその意味で隷属しているのではない。それについては二つの事が大切だと思う。
 一つは労働者さえも、ある企業に雇われるか否かということは自由である。個別資本に自分の労働力を売るのに、どの個別資本に売るかは自由である。しかし労働者は資本一般から逃げることはできず、どれかの資本に自分自身の労働力を商品として売らなければならない限りで、資本に隷属している。従って労働者は相対的過剰人口の生産の中で首切りを突きつけられつつ、この個別資本の専制的な支配の笞の下に立つ。それから自由になろうとしても、何をもってしても、この個別資本の下で資本の直接的な専制支配下に立つことから逃れることはできない。これが第一点。
 次に学生にとっていかなる意味で資本への隷属が言えるのか。それは社会的権力との間の関連が大切な点であり、一口に言って、労働力商品の生産、再生産過程にあるという、その意味において理解されねばならない。これが大切な点である。これを何故問題にするのかと言えば、闘う自分は何なのかという事を把握するという意味において大切なことだからだ。

D 次のように考える人達がある。労働力そのものの生産と、労働力の価値の生産とは区別されなければならない。労働力そのものの生産とは生殖であり、従って教育ではない。労働力の価値の生産は、労働力の質にかかわる価値の生産である。この中において、教育を理解している。ここには、個別性について教育の内部に何が進行しているかを見るために、極めて大切な点が、この問題の解明には含まれている。それは、次のようにいわれなければならない。
 なるほど一人の学生は生きた個人としては、自分の肉体は全的前提となる。自分自身の肉体は、自分自身が創造したものではなく、別の人によって生み落とされたという意味で、全的前提となる。しかし、その人の新たな生命の生産及び再生産過程の中で、また新たな生命を産むという意味をも持っている。同時に、生み落とされている自分自身は、自分が創造したものではない、全的な前提である肉体的な或いは自然的な諸能力を開発してゆく。肉体的には、個人的創意の活動として教育により再生産し、精神的には、自分自身に教育を与えることで開発してゆく。そして、さらに肉体的にも、病気になれば、医者にかかり治療するということで再生産する。
 しかし、生産という言葉は、根本的には、何か、無から有を生じた時だけに使うのではなくて、全体系的な自然、根源的には人間の生みだしたものでない自然を、人間はただ加工するものである。生産とは、一般的には、単に個が創造したものではなくて、あるものの再生産を意味している。
 そういう意味で労働力そのものの生産及び再生産の過程の中に教育はある。つまり労働力そのものの生産は、単に生殖のみに止まるものではない。新しい生命の生産という意味での生殖行為から始まって、自分自身の生命の再生産という意味での活動も含み、かつ精神的な諸能力を開発してゆくという意味で、自分自身に教養を与えてゆくということも含み、不足した所を治療してもらうという意味で、医者にかかるということも含む、そういった全過程が労働力そのものの生産及び再生産過程である。
 同時に深刻なことであるが、労働力そのものの生産及び再生産の全過程が同時に労働力の価値の生産の過程でもある。労働力そのものの生産は生殖、労働力の質にかかわる価値の生産は教育と簡単に振りわけられるのではなく、労働力そのものの生産及び再生産の全過程(生殖に始まって、教養を自分自身に与えてゆき、かつ新たな生命をも産み出してゆくという全過程)が労働力そのものの生産及び再生産過程であると同時に、労働力の価値の生産の過程でもある。そのようにして、労働力商品の生産及び再生産過程は、どういうものであれ単に自己活動の外観をとっている。最も根源的なものとしての、自己活動としての生殖に始まり、肉体的成長過程と同時に精神的成長を推し進め、この精神的成長は更に教育という社会的制度において確立され強められる。
 ところで、この教育は自己を教養化し、「知育・徳育・体育」等々の形で理解されている限りでは超歴史的なものとして、従って、偶然的な、個人的自由として考えられもしよう。そのような伝統的な用法での教育概念では、教育を受けることは個人の自由な行為として、自発性として考えられてきた。このように、教育を受けることが個人的自由として考えられ、また現にそのようなものとして客観的な現象形態をとる理由は、第一に近代的公教育が成立する以前の社会にあっては、教育は例外的な特権的なものであり、教育を受けることが、社会の身分的な秩序と深く結合していたこと。従って、貴族の教育、武士の教育等々として自由と考えられたこと。第二に更に重要なことは、近代の成立、教育をも含む社会の全領域における私的個人の開花、そのようなものとしての教育における個人的自由。
 この後の事をより詳しく述べるならば、二重の意味で自由な労働力商品は、それの生産過程が即ち労働者の個人的消費過程としてあるが故に、社会的な必然的要請としての労働力生産過程は常に個人的自由を媒介にする。だから、労働力の生産、個人的消費、種々の量質における教育等々はブルジョア社会の存続のための絶対的条件であるが、それは常に個人的自由、個人的意志に媒介され現実化する。また労働力商品の生産過程は同時にそれの価値の生産過程でもあるのだが、その労働力の価値の生産は、種々な価値の生産として、個々の労働者の自分に対する「教育投資」という個人的自由の外見を持つ。
 以上の事が進行する社会においては、教育を受ける事、どのコースの教育を受けるか、就職する事、どこに就職するか、等々は競争という強制を持つ以外は個人の自由として自由の外見を持ち自由の社会的現象形態を持ち、更には自由を強制されもする。だから、高等教育の場も、先ず最初は、それ以前の教育課程で就職しても良いし、更に進学しても良い、そのような設定であった。ところがさきほど見たように高等教育自身が体制的な要求である。つまり資本所有と資本機能が徹底的に分離して行く中で、大企業の頂点さえも、大企業が大企業であればある程、独占的な株式会社の頂点さえも、資本家としての資本家がなっているのではないほどまでに、資本所有と資本機能が徹底的に分離する。このように、大企業の頂点さえも他人を支配する労働に携わる、資本機能の代行者としての労働者が取って代わる過程を受け、高等教育の体制化の要求は資本の要求として出てきただろう。
 そういう事の中で、就職してもしなくても良いと云うのではなく単に偶然的に商品となったのではなくて商品でなければならない、交換されなくてはならない、労働力が商品でなければならない、等々として一歩一歩「ねばならない」の過程に現在の教育が入って、その「ねばならない」の性格を強めつつある。その意味で現在の大学教育を含めた教育課程は、ますます労働力商品の生産過程としての性格を強めつつある。
 このように把えてみれば、先に述べた、専門への隷属はその限りでは必要であるかに見えるという事。資本家階級も疎外されている事。しかし疎外において力を感じる。労働者も疎外されている事。が疎外の中で苦痛を感じる。そして資本家さえも奴隷になる。更に資本家としての資本家=貨幣資本家は何もしない事を専門にする。つまり、何もせず従って何の専門をも持たない事が彼の専門であり、彼の専門に貨幣資本家は隷属する、そういう性格さえ持ってきている。そして、そのような人達は、その事に於いて力を感ずる。
 ところが今見てみると、つまり精神労働の領域に於いて(資本家としての資本家は力を感ずるに過ぎないのだが)、現在の精神労働を襲っている過程は、高級な労働力商品でなければならないものとして精神労働者が生みだされつつある。
 この事から、現在の高等教育の過程は万人の万人に対するすさまじい攻防戦の過程に入ってきている。従って、一つの専門に隷属しその専門に結び付き、かつその専門において何者かになる事は、万人の万人に対する激烈な競争戦を通してだ。
 そして、その中で滅びる人間は創価学会等として救いを求める。他方では、勝利して行く人間は産業の心を解し、産業再編成の中に自分の発展を思い描き、そして、勝利者としてブルジョア的所有者に成る。この過程はまたすさまじい競争戦を通してなのだ。
 そういう事の中で、新しい形での学生生活の中での孤独が始まっている。徹底的に一人の人間と他の人間との間の切断、連帯の喪失がおこり、その中では連帯的なものは空しいものとして実感の世界に入らない。
 他方において、この競争の中で磨滅して行く自分を感受する。これは更に物理的な磨滅ではなくて、人間的な全面的に発達した人間への欲求に対する部分人間化という競争戦自身が、この自分自身の自己活動という形をとりながら「ねばらない」という形で自分自身に専門性のお化粧を与える、お化粧を与えねばならない事をもって自己活動の外観をとりながらも、資本の過程が進行するという事。その中で自分に「ねばならない」を課しつつ、繰り返しこみ上げてくる自分の内部自然の人間としての成功、つまり、肉体においても精神においても全面的に発達した個人の回復、そしてその精神の領域においても単なる芸術的単なる科学的ではなく芸術的から科学的に凡ゆる精神諸能力の開花、こういう自分自身の生きた個人としての全面的な発達、これに対するものとしての「ねばならない」形での自分自身に課せられた専門奴隷への道。
 こういう事を苦痛として受け止め、感受する人達から闘いは開始する。
 その意味では、ただぼうようと皆が一挙にゲーテになるのではなくて、先ずゲーテが現れ、そして若きヴェルテルの悩みが書かれる。この一ゲーテは時代精神を代表し、そのものとしてゲーテ個人が生産した諸成果は同時に他の生きた諸個人によって自分自身の内部において再生産される。ゲーテの生産したものをてことし諸個人のうちに再生産される。そういう事をもって、ゲーテは時代精神を代表する。我々の闘いは、ぼうようとして唯、大衆が一挙に決起するという事ではない。自分自身の内部にこういう種類の思想性を感受する、その事から始まって彼は闘う。しかし、それは同時に体育会の学生も持っている根底的な内容であるし、そして無差別に競争戦に追いこまれている人達の感覚にもなっている。そういうものとして闘い、その内容を的確に表現し対象化する。闘いをもって表現することから、それはその時代の時代精神になる。
 このような過程に現在一歩一歩入りつつあるといえるだろう。

     (V)

E その中に既に色々な問題が含まれているのだが、これから、一体「本質」とは何か? 「抽象」とは何か? その中での「個人」とは何か? に若干ふれて最後の要約に進みたいと思う。と言うのは最初に闘いという事自身の持っている意味を一般的に設定すると、直接には産学協同という事を問題にすると、更にその事を通して一般的に設定された諸問題に返りたいと言ったわけで、最後的には一般的な問題に返るような形をとりたい。というのは、この過程の中で、その必要性についてふれるので。
 今触れたことは、新しい形での個人の個人としての回復とは、現在の個人の洪水の中で繰り返し個人が喪失せしめられ、その中で繰り返し個人を回復しようとして民主的なものが問い返される。そしてかつて生き生きとした個人の回復であるかに思われ、それなりに現実性を持つかに現れ、従って革命的、民主的というふうに、ブルジョア革命の破産が、民主主義が刻み込まれている、そのような民主主義が現在では個人の喪失の中で大衆デモクラシーなるものと言われる。もう一度民主主義が問われる、このような過程に入っている。
 その中で、新しい運動は直接民主主義だと言われ、他方では直接行動主義だと言われる。そのような不充分な方法を取っているのは既に述べた事情があり、民主的なるものに、そのような事情があるからだと思う。
 しかし、そのような事の中で進行しているものを的確に把むことができないならば、もう一度チェコの運動のような、或いは中国の文化大革命のような運動と、自分の今かかえている資本の鉄鎖の下で個人の問題が問われている事を取りちがえる。鉄鎖とは、この場合には資本一般、それに対する自己活動の外観をとりつつの隷属。この意味での資本への隷属を問題にして行く段階での個人の問題と右の様な様々な運動とを混乱させ、繰り返し「ニセモノ」をつかませられる現時点に致っている。だから、大学においても「参加」という事が東大当局等々から言われる。「参加」という事の中で「ニセモノ」を把んではならない事から、体制の側から提起してくる参加の問題を如何に捉えるのかという点においても、この問題は大切だろう。
 さきほどから見てきたように、現在個人の洪水の中での個人の喪失というのは、単に労働者だけの問題でなくて現在のブルジョア社会が全体としてかかえつつある。そして、ブルジョア的個人=ブルジョアジー以下、労働者まで全部その問題をかかえつつある。しかし、それぞれの階級的な違いを伴なってである。しかし、この問題をかかえつつある事に無理解なのが、体制側の保守派であり、反対側の保守派である。進歩派と言われるものは全部、この問題に対する適合を考えている。適合しようと努めている。しかし、本当は、そのような振り分けが可能なのではなくて、その内部には厳として、資本とその下での労働者というのが真の振り分けになるだろう。これが真の区別なのだというのが、今の問題を通して把まれていなければならない。
 今いった事を詳しくいえば次のようになる。現在、ブルジョア社会の運動としての産業合理化、それに制約されたものとしての産学協同という教育の改編、上からの改編が進行し、その過程の中で精神労働の領域において既に精神労働者に成って行く過程そのものが労働力商品の生産及び再生産の過程として、この万人に対する万人の競争戦の中に叩き込まれて行く、その中での個人の磨滅が進行している。そして再度その個人が生きた個人として自分自身を全面的に回復せねばならないという過程に入りつつある。それは資本の運動自身がその課題を負っている事は、今見た通りである。
 その中での個人の真の回復とは何かといえば、その個人が個人として全面的に発達し、個人として全面的に世界史に関わって行く能力あるいは換言すれば、自分の運命をこの手に握る能力を持っている事を実践的に証明するという事が出来なくちゃならないという事、そういう種類の生きた個人、資本の下で資本の鉄鎖の資本主義的生産様式の高速的な運動の展開、その中での生きた個人の全面的な復活とは一体如何にして可能なのか? このように問題は立てられなければならない。
 そして、この個人の問題をカッコに入れる限りは、どういう事が可能なのかというと、一方においてはそれを磨滅した個人がもう一度資本の運動が共同体の運動として発達するように、その中で自分を滅却するという事をもって救いを求めるという意味で、この日本の社会が一歩一歩孕みつつあるファシズムの運動、恒常的なものへ個人を滅却させ受け入れさせるという事をもって自己回復の欺瞞をとりまとめようとする事が一方において進行する。
 他方では、それと極めて似ているが、その生きた個人を繰り返しカッコに入れて産業政策論のように、現実的な資本、資本という社会的権力、それとの関連における生きた個人、この問題を捨象して政策論にしてしまう。このように運動としては生きた個人を捨象して、産業協同政策論のように、イデオロギーという世界の中に一人立って救いを求める、その世界においては普遍が生きているように見える。自分は生きた存在としては何ら普遍的な存在にならず実践的な人間存在として何ら普遍的な存在にならず、なり得ないで、ただ精神の領域において、従って抽象的な抽象の世界において普遍になり得たという幻想を持とうとする。こういう形の思い上がりを運動にするという構造になっている。
 一人一人が普遍精神の普遍という、そういう概念的な鏡を持ったかという格好で、一人一人が思い上がりの運動でヘゲモニーの頂点に立っていく。自分のセクトはヘゲモニーとして睥睨するという、普遍に立って睥睨するという。従ってそういう人達は大会においても睥睨したいというのを「全学連」なる名において言う。ここで彼等はヘゲモニーのもとに階級的運動を「革命的全学連」が主流派として睥睨したい。そういう大衆運動を思い上がり運動にする。そういうような構造で個人の幸福をはかろうとする、すりかえが起きる。
 そしてあくまでも個人の所に立とうとすれば資本との関連が見えなくて、ギリギリの直接行動主義ということでキラメクような個人が現れそのものとして滅びると普遍は獲得できない。資本との関連が見えない。解らぬということで、スターリニスト的な団結の裏側として団結として実感の世界にはいれないという事で、個人、キラメクような個人として磨滅し滅びる、これがブンド的直接行動主義として、これはどちらも現実世界における人間存在の変化を捨象しているということだ。
 一人一人の人間が現実の世界において、一人一人の生きた個人として、人間存在を生きた個人として、従って血と肉を持ちかつ生まれ死んでいくそういう生きた個人として、全面的に発達した人間になるということ、この問題を全部カッコに入れたそういう運動だ。そして、それがマルクス主義の名に於て長い間言われてきた。そしてその意味でさまざま「万国のプロレタリアよ団結せよ」ということが言われながらも、実際は万国のプロレタリアよ団結せよということばが空洞化させられる。
 そして団結とはマルクスが労働者の自然発生的な工場内での運動のゲリラ戦、労働者が工場の中で自然に生みだすというゲリラ戦の中に見たものである。それは一口に言ってこの最初の団結は資本に対するもっとも強力な手段であるばかりではなく、同時にもっと大切なことだが、労働者諸個人が自主性を獲得するための、自主的にふるまうための方策である、こういうふうに要約される。これはもっと単純化されて「臣民が成人になる為の方策である」というふうにいえる。
 つまり労働者が、資本の生みだしてきた工場制度の下で生きた労働者諸個人が自然に生みだしたことの中に新たな問いへの萌芽がある。それは、その団結において初めて労働者の真の自主性の開発が行われる。「臣民が成人になる」そういうことがこの団結に於いて進行するということだ。これがプロレタリアの団結だったのだと、これが工場制度のもとで発生した労働者の始源的な団結、プロレタリア運動の始源的な団結であるのだ。
 今、プロレタリアートにとっての団結は単に手段であるだけでなく、プロレタリアートが自主的に振る舞うための方策である事を確認してきた。
 しかしながら現実の歴史過程の中でこのような団結は物理力に陥しめられてきた。その解体の上にスターリニスト的な団結が打ち立てられた。例えばコミンテルンのスターリニスト的な改編の時に、各国の共産党のボルシェヴィキ党化が呼びかけられ、既に発生してきた工場委員会運動がこの過程を通じてボリシェヴィキ党化した各党の物理力に陥しめられる。最近では更に、ハンガリアの労働者の生きた始源的な団結が一方で進行しながらも解体され、その廃墟の上にスターリニスト的団結が樹立され労働者諸個人の生きた発展はどこにもない、その様な廃墟の上に立ってプロレタリア独裁が呼号され、その中では如何なる種類のものでも「個人の自由」が出現することに対して恐怖に駆られて否定して行く。これに対立するかのように、見せかけを与えるものとして文革運動がスターリニズム体制の再生産として登場して来ていることは既に述べた。
 他方では、学生が自分を磨滅させず、自己に強引に課している部分奴隷への道の中で、消し去ろうとしても消し去ることのできない全面的に発達した人間への欲求を感受し、この自己を引き裂く二律背反の中で、全面的な発達への欲求に忠実であろうとするならば、資本の鉄鎖を断ち切ることに向うことによってのみリアリズムを獲得することができる。
 そのためには「単に管理労働者になっていけない」と道義的に押え、ブルジョア的道義主義を掻きたてるのではなくて、学生生活にある自分自身を見つめ、それが抱えている全面的に発達したいという欲求を自己の中に確認する。更には自分自身の自己活動の形で屈服させようとする高級労働力商品への道を歩ませる現代の教育、このような教育を産学協同として要求する市民社会を射程のうちに入れる。この市民社会が前提として固定されている限りは、産学協同は必然である。
 この鉄の強さをもって貫徹する市民社会の法則的運動の必然性に就いては、現在の労働者が、或いは東交の合理化、或いは国鉄の合理化として突きつけられている問題である。資本主義社会を前提にする限りにおいては輸送力の合理化は、どんなに泣こうが喚こうが貫徹し、都電は撤去され、その過程で車掌は消えてなくなるという事、それの必然性にもかかわらず闘わねばならないという事は、そして一歩一歩自分自身の課題として現在社会の根底的転覆を自己が担い、その闘いをわがものにせねばならないのだ。これが突きつけられている問題であり、その解答の方向である。
 その課題を担う団結は、先に触れたように個人の自主性と自主的な発展を徹底的に必要とし、条件にする。そのような種類の団結の発展として実現されて行く社会はソ連的な社会になることはできない。ソ連的な社会を或る理念型で尺度して断罪するのではなくて、真の共産主義はそういうものになり得ないのだ。
 つまり、資本家や、或いは大学当局と執拗に闘わなければならない、そのためには団結は最も強力な手段として現象する。大学当局と闘い、又は資本の直接的な専制支配と闘うには、団結が頑強であればある程、それは強力な手段である。そればかりではない、闘いの団結を頑強に打ちたてようとする活動の中で初めて、一人一人の個体の自主性の全面的な開花が始まり得、他方そうでなければ闘い抜けないという認識が、部分的な萌芽としては既に行動委員会運動の中での執拗な闘いが突き出してきている。
 即ち、一人一人の個人が形式的には「全部」という形をとってきている。この事を大衆運動の次元で鋭く出してきているのが団体交渉=大衆団交である。大衆団交がその中に持っている鋭い中味とは何か? それは既に展開してきたような種類の団結、即ち諸個人の自立と団結の形成を二つながらに推進させる、そういう意味を孕んで打ち出されている戦術なのだ。そうでない場合としては、精神主義的に捉えてみたり、クラス末端からの直接民主主義などと、中味においては全くのブルジョア民主主義である運動でしかなくなる。大衆団交という言葉は、どんなに既存の改良運動等々と共通はしていても、中味においては右のような積極的な方向を持つからこそ、二〇年にもわたって大衆団交が要求されることになる。そしてその中には既に新たな萌芽がある。
 このような種類の労働者の団結の形成と同じように――尤も、工場制度の下での労働者のゲリラ戦術としては全プロレタリア運動の起源であり、他方学生にとっては必ずしも労働者運動と同じ所から出発しているのではないが――一歩一歩学生の行動委員会運動の形をもって始まった実質的な団結の運動は、見てきたように資本の鉄鎖を断ち切らなければならないような過程に一歩一歩踏み込むことをもって、プロレタリアート的団結の内容へ一歩一歩自分を近づけなければならない所まで来ている。
 その過程の中で、各大学の闘争の中から「君達は共産主義を考えているだろうが、俺達は共産主義革命なんてまっぴらだと考える。従って共産主義革命をやりたい連中はするがいい。自分達はそんなものは絶対にやりたくない」と言って、自分の現に歩んできて立っている立場と、バリケードを壊すことを合理化しようとしている。
 この事は次々と起きている。この事にはいかなる解答があるのか? それは左翼の現状、即ち共産主義をどのようなものとして広めてきたのかという、その左翼の現状の打開をもってしないかぎりは彼等に対する本当の解答にはなり得ない。何かというと「人間と組織の矛盾」なる問題を立て、一方で組織の立場に立つならば、個人を滅却させ、他方個人の立場に立つ者には組織は見えない。そういう事があっただろう。つまり、分業的諸集団が抱えていたブルジョア的結合形態しか知らない今までの左翼の運動なるもの。従って、組織の鉄の規律が強調されるときには、それに入り込まない個人が出てきて、きらめくようなアナーキストに成り、逆の場合にはスターリニスト的な形骸化した団結、この二者択一としてしか問題が立てられなかった、このような左翼の現状の打開が唯一の真の解答になり得るのだ。
 理想として思い描かれ、運動の発展の一定の段階において実現せられたと称せられる共産主義社会、社会主義社会なるものは、その中に生きた個人を全然登場させていない。だから、そのような個人のいない社会であってはならないという批判に対して答えることのできない運動を作ってきたものの根源から問題にしていかねばならない。このこと自身を廃絶していく闘いが我々の内部にあることを理論的にも実践的にも検証して行くことが真の解答になり得るのだ。
 だから現在の行動委員会運動の中にすでに将来社会が孕まれているし、真の共産主義社会とは、こういうものの実現である。さきほどの普通の左翼恐怖を持っている人達に対しても一人一人が現在の運動の中味を知らせることをもって、共通の基盤を獲得することができる根拠がある。
 このことはさらに他の機会に詳しく展開せねばならないのだが、要点だけを今触れておく。

F 次に実践にとっての認識や理論の意味を問題にしていきたい。
 何故そうするのかと言うと、最初に言ったように「闘い!」が学生生活の中で言い切られる状況が一歩一歩深化してき、その中で学生生活の中で一人の人間の感性をも含めた総力を挙げての闘いは空々しいと思われてきた。だから、そういう完結した学生生活しか知らない人達にとっては現在の闘いは唯すさんだ闘いとしてしか映じないという問題がある。
 ちょうど、実存主義者達が個人の洪水の中での個人の喪失を経て、なんとか個人の回復をしていきたいといった格好でとんぼ返りをする事の背景には、暗愚の無数のプロレタリアートがしのびよっていたのと同じである。労働者Aと労働者Bとは、人間としてどんなに質的差異があろうとも、機械化のメカニズムの中で、人間の領域を次々と機械がおそう。その中では、Aが死のうと生きようと、Bが死のうと生きようと、至る所代替できる砂粒のように等質な存在でしかないと、ヤスパースは言っている。そういういたるところとり換え得る等質の存在は、現に暗愚の労働者階級として登場している何ものにも換えがたい個人の特質はますます廃棄されていく。個人の廃棄! このことを見てきた。
 これと同じことは現在の学生生活にもあるだろう。この学生生活は階級的な対立を隠蔽され、幻想的な大学共同体論の上に多かれ少なかれ立っているその幻想に色濃く染められて今迄の学生運動というものは進んできたであろう。現在の闘いはすでにそうではない。一人の生きた個人が肉体の力と精神の力との全力を挙げて闘いをいい切る。だから大学共同体的な生活をしている人達からは非常にすさんだ闘いとして映じるような闘争が始まっている。
 ちょうど実存哲学者達がプロレタリアートを暗愚の大衆としてしか見ることができなかったように、古い大学共同体論的な見方に立つ人達は、現在一人一人の個人が彼の自然的な諸力の全てをもって闘いに登場してきているのを、暗愚な物理力的な大衆が登場したとしか見ることができない。しかしその本質というものは実存主義者がプロレタリアートの中で真の個人の回復が始まっているのを見落したのと同様に、大学共同体主義者は現在の肉体をもって登場している闘いが、全面的な個人の回復の芽ばえを孕んでいるのだということを理解することができない。
 こういう生き生きとした個人を挙げての闘い、ゲバルト、バリケード等々の文字通りの肉体的な活動をも含めた実践の過程が始まっているが、自分の学生生活にとってこういう肉体的な活動は何なのか? という問題が問われるだろう。
 この問題をもっと直接的に言えば、例えば理科系の人達にとってこのような活動をやっているならば、理科的な、それに必要な外面的な諸概念を学ぶ事が遅れないのか? そして語学なら各々について習得が遅れ、その結果ゲバルト的な闘いの中に酔っぱらい結局気がついてみたら青年時代の青臭い感傷主義者として社会の中に押し出され、そこでは何もできないことに後になってから気づく。そのような心配が闘争の最後の局面で俗っぽく言ってしまえば問題意識が一つのリアルなものとして登場してくる。それは、そのものとして表現されずに他の種々の表現形態、様々な屈折をとるだろう。その事は逆に内に反射して、肉体的に活動している事と、大学生活の中に入って真理を探求しようとした事の矛盾として、それだけ鋭く肉体的に活動している事への不安が強まるだろう。
 この問題を極く簡単に見ておくならば、次のようになる。
 よく経済学の方法、認識の方法、主体的な把握の方法等々で系統的な分析、現象的な方法、下向的な分析等々を含めて方法論の問題が問われる。そして我々の闘いの中で方法論的な問題が深まりつつある。そういう中で次のことが問題である。
 例えば、今見た産学協同路線なるものは、ここに展開した内容で叙述されることをもって、或いは一つ一つの個別大学の中で起きている事、その闘いをこのように捉えることをもって、社会との間の関連、政治との関連に考えが進み、それを考えることをもって全国的な闘争として結合し、権力に向う、そのような構造に一体なるのかという問題がある。一人一人に対する呼びかけ等々はさきほど言った事の要約を伝達するという事なのか、運動を拡大していく事が問題なのか等々の問題でもある。
 これを突きつめてみれば、次のようになる。「プロレタリアの立場に立て!」「実践的立場に立て!」「現実的立場に立て!」等々と言われる。立場の確立が呼号される。その中で次の事を区別するのが我々にとって必要であろう。
 成程、私は労働者の立場に立ち、或いは資本家の立場に立ち、人間が意識を持ち、しかも人類史とともに古い意識がある以上、私は他人の立場に立つことができる。ある時には大学の立場に立ち、ある場合には学生の立場に立ち、企業の立場に立つことも、労働組合の立場に立つことも可能である。そういう意味で学識的に使われている。成程、立場は自分がある立場に立ち、他の立場に立つことができる。その意味で「ある立場に立て!」と言い得る。例えば労働者が闘いの中で企業の組合の幹部に対して「企業の立場に立つな! 我々の立場に立て!」と実践的に突き出して行く中に「立場」という言葉は鋭く示されている。だから、どの立場にも立ち得るということは、私がどの立場に立つかを問いつめられることでもある。
 その意味で学生は資本家の立場に立つことを止めて一歩一歩自分の実践的な必然性を通して労働者の立場に立つことは可能だ。しかし立場を確立することは、ある立場にしっかりと立つ事を意味するのみならず、次の事をも意味する。
 即ち、立場の確立そのものは自分が勝手にやったのではないという事。例えば、現在プロレタリアートの立場に立つという事は何を意味しているのだろうか? プロレタリアートの立場そのものの確立は学生はやれない。浪人もやれない。あるいは他人の立場に立つということも、AがBの立場に立つことはBの立場そのものはAが作ったのではないという事。確かに立ち得るのだがBの立場そのものはAの創造ではない。
 労働者の立場そのものとは何か? 立場の確立とは何か? それは既にさきほど見てきたように、工場制度の下で労働者の自然に生み出すものである(――労働者の自然に生み出すものはスターリニズムありアナキズムあり、あれやこれやの不定形で、その不定形にどこからか信念が接ぎ木されると初めてしっかりした態度がとれる。そのようにしか自然発生性を見れない運動が長い間支配的なのではあるが)。
 労働者が自然に生み出した職場の中での部分的な団結の中に、労働力商品が労働力商品として自分自身の個人の労働力を自由に消費することをやめる萌芽がある。共同して処分することの萌芽が始まっている。そのように労働者の自然が生み出した、マルクスによってゲリラ戦と呼ばれたものから、労働者自身のプロレタリアの始源がそこから始まっている。
 この全過程は一つの台頭する新社会である。ただし、この社会とは、生きた個人がその中にいるということで、単にイデオロギーではなく生きた諸個人が社会的関連の中にたっているもの、すでに顕在化しているブルジョア社会の中で未だ顕在化していないが台頭すべき新社会、それが一歩一歩現実的に形成されていく過程である。
 従って、全ブルジョア社会を実践的に変革すべき対象として、従って理論的に認識すべき対象として現実的に立っている事は、つまり、ブルジョア社会がそのものとして把握されて行かなくてはならない対象として立っているためには、まずもってブルジョア社会が対象として立つように自分自身が突き離されていなくてはならない。
 あるものが対象として立っていることは、その対象から自分自身が引き離され、向こうに立っていることだ。そして、この引き離しは、理論の中で七転八倒した結果として、成果として初めて対象になったわけではない。まず、自分が実践存在としてあるものから引き離されている事があって始めて、そのものの理論的な把握がある。従ってまた、そのものが実践的に変革すべき対象としてあることだろう。
 この事はまた、ブルジョア社会に対してそれを越える立場とは、朦朧とした抽象の世界で追求されるのではなくて、工場制度の中にある。ブルジョア制度、あるいは、商品(『資本論』の冒頭商品)という普遍的商品から展開されたブルジョア社会の運動ないしは、ブルジョア的生産様式の法則的な展開、そういうものの運動にとっては労働者という生きた個人があって、それが最初の団結(マルクスがゲリラ戦と言った)その工場の中での最初の団結が形成し始める。これが、生きた本質の形成と言うことだ。その始まりである。
 この事は、実践を通じてブルジョア社会から身を引き離す過程として一歩一歩進行している。
 このことは学生にとってどうだろうか? 全ブルジョア社会を変革すべき対象として対象化せよ! と言ったところで、ブルジョア社会に首までつかっている人達にとっては何の意味も持たない。全ブルジョア社会が実践的に対象にならぬ人達にとっては「全ブルジョア社会を対象にせよ! 変革の対象とし、実践的立場に立て!」と呼びかけても何の反応もない。
 何故全ブルジョア社会を対象にせざるを得ないのか? 対象にせざるを得ない過程が進行している、その内実を把まなければならない。
 学生生活の中で闘いに決起している学生の九割九分が初め大学に入った時には革命をやろうとは考えていない。今闘いに決起している人の過半も革命をリアルに考えてはいないと言っても間違いではなかろう。それにもかかわらず一歩一歩リアルにならざるを得ないのは何故なのか? 
 実践的にあるものを対象にし、自分と引き離していく事が現実に進行している事を前提にして、その自分の立っている体制の把握が始まる。従ってブルジョア社会に首までつかっている人達にとってはブルジョア的なものしか対象に立っていない。
 「実践的な立場に立て!」と言っても、労働者だけが実践的なのではなくて、全人類が実践的であったから言えることなのである。ブルジョアはブルジョアなのに実践的である。何ものかを変えようとしている。一所懸命に動いている。大学当局も一所懸命に何事かを変えようと動いている。そしてその限りで何ものかを変革の対象として捉えている。
 だから、資本の鉄鎖とか、ブルジョア社会とか、そういうものを実践的に変革すべき対象として、あいたいして立っているには、自分自身が実践的にそのものから突き離されて行く過程が前提になっている。その事が立場の確立ということである。
 この事から認識は始まる。なるほど最初は直観として始まるであろう。最初は下向過程を辿る。それによってますます現象的なものから本質的なものへと発展する。三段階論であれ、二段階論であれ展開されて行く。そして本質的なもの、一般的なものへと到達したかに思う。一般なるものに到達したかに思う。そしてこの成果としての一般的なものから上向的に再現され、展開されて最初の生き生きした全体に到達したかに思う。
 この事は立場にとって何を意味しているのか? その立場に立ってその下向の過程の前と後ではどうなっているのか? 変ったのか変らぬのか? 如何なる意味で変ったのか? 如何なる意味において変らなかったのか? それが問題であろう。
 即ち、抽象的なものから具体的なものへの、或いは一般的なものからより複雑なものへといわゆる上向法として、精神の産物のように結合されてくるその産物は、それが現実的対象、対象的現実と一致することが確定されるならば、その時初めてその立場のリアルさが確定されたのだ。そして最後の妥当性、最後の一致なしには、初めの立場は未だ立場としては確定されてはいないのだ。成程、ある立場に立つという事は厳然たる事実ではあろう。しかし最後に一致し妥当することをもってその立場に確定されたのだと言えよう。
 では立場が確定されたとは一体何なのか? 学生がプロレタリアートの立場に立つという事は成程可能であろう。しかし、その場合にはプロレタリアートという事が現実に生きたものとして立てられているのではなくて、プロレタリアートなる場として立っているのだ。
 ともかく、それから展開され上向的に結合され且つ現実に妥当し、現実的な対象と対象的現実とが妥当したということ、この事によって確定されるとは何を意味するのか? それは、その立場自身がもはや、抽象を止めて現実的な生きた立場として自立するということである。
 では現実的な生きた立場の自立とは何かと言えば、既に工場制度の下で最初は労働者のゲリラ戦として開始している部分的な団結を通じての結合の運動、このような運動と自分自身の立場が一致している事を意味している。そういう意味で抽象の中で捉えられた本質は現実的本質として生きてくる。従ってそれは妥当せざるを得ない現実的な対象として把まえる。まずは、その妥当せざるを得ない現実的な対象としてブルジョア社会、その下で現実的な本質の形成としてゲリラ戦から始まった労働者の始源的な運動があるからである。そして現実的に生きるということであるから、これは変革せざるを得ないものとして立脚する。
 以上述べたことは、次のような事を意味する。学生にとって、学生自身が抱えている今いったような意味での自分自身の自然性として、生きた個人として、個人の人間存在として全面的に発達した人間になるということを現実的に意味している。
 この欲求に背反して、労働力商品として自分自身を生産し再生産する事は、自己活動の外観を通して自分に専門性のお化粧を与えて行く、その中で人間的な苦痛を感受するということが、現在直下の顕在的な過程としてはあるが、それの外皮を一皮むけばそういう事である。
 それ故に自己活動の外観を通しての自己疎外に対する人間的苦痛に始まり、一歩一歩体制の把握を深化し、今までの学問を反省し、その過程の中で捉えられて行く、現象から本質へ、更に本質的なものとして捉え返された対象的現実の把握がある。その把握されたという事は、実践的にも一人一人の学生が自分の実践的必然性を通して生きた全プロレタリアート運動の中に自己を位置づけてしまうという事を意味している。
 つまり自分自身の実践的必然性を通して現実のプロレタリア運動の中に自分を位置付けてしまうのであって、単にプロレタリアの立場に立っているのではなくて、現実のプロレタリアートの運動の中に自分を一環として入り込ませざるを得ないということなのである。
 何故そうなのかと言えば、自分自身が否定せざるを得ない専門奴隷の道を回避せざるを得ないからだ。回避しようとすればする程、それがリアルであればある程、さきほど見たような意味での産業再編成という産業合理化の下での現在のブルジョア社会の運動を廃棄して行かざるを得ない。そのものとして現実のプロレタリア運動の中に自分を一環として組み込んで行かざるを得ないからだ。
 最後に、次の事を強調して終ろう。即ち、今見てきた全過程が、言い換えれば一人一人が生きた個人として自分自身を回復する闘いという具合に現在の教育をめぐる闘いは表現される。個人が全面的に発達した人間になるための闘いという意味で、人間の人間に成るための闘いだと要約されるだろう。そして個人として全面的に発達した人間に成るとは何を意味するのかと言えば、生きた個人として精神を持ちかつ肉体を持ち、そして単に精神的な諸能力ばかりでなく、多くの諸能力の総体としての真に生きた個人に成るということなのだ。その意味で個人の回復の運動だ。その事は、生き生きとした普遍的なもの、協働的なもの、世界的なものに関わって行く能力を回復し、かつそういう能力を持っている事を実践的に証明していくことだ。
 ところが現実の今までの闘いの歴史においては、マルクス主義の名において個人の問題を問題にする事を嘲笑し、馬鹿にする事が支配的であった。だから、一方では個人の問題を笑いとばす事が自己の左翼性の証明として信じ込まれたり、他方で積極的に個人を問題にする側は実存主義に収斂してしまうことが多かった。
 このことは何を意味しているのだろう。こういう教育をめぐる闘いの中で一人一人の個人、文字どおり血と肉を持ち、生れ、生き、食い、最後には死んで行く生きた個人、これが全面的に発達した人間になるための闘いにおいては、多かれ少なかれ諸個人の人間の生命の死ということも孕んだ重い闘いである。そして、最後のハラを決めて行く闘いの背後には、一人の生きた人間の死とは何かとの最後的な問題がある。ここで闘いを止めるか否かの問題の背後には最後的にその問題がある。それは単に物理的に死ぬか否かではなくて、その根底的な問題である。
 教育をめぐる現在の闘いとは、そのような闘い、一方で個人の死の問題を突き出しながら、その中で全面的に発達した人間に成ろうとする闘いなのだ。
 その中での行動委員会運動をどう押えるのか? 多くのサークル運動はフラクションに陥しめられてきたのだが、そしてその中でもう一度粗悪な運動を作り出して行ったのだが、この行動を委員会運動とは大衆自身の自立機関として真の意味をもつ。すなわち、その中で一人一人の真の意味での自主性の回復を目指すものとして行動委員会運動はある。この行動委員会運動は、今見た生きた諸個人が如何に連帯を回復し得るのかの問題を突き出している。言い換えれば次のような問題でもある。
 ブルジョア的な個人、どういう個人であれ、そのブルジョア社会の中での個人は、現に生まれ且つ死んでいくのだが、この個人の存在、その生と死はブルジョア社会の共同体の同一性に対して何らの影響をも及ぼさない。即ち、現在のブルジョア社会の同一性は、資本の法則的な貫徹ということで、一個人が生まれたと言う事、或いは死んだと言う事はブルジョア社会にとっては関心外のことである。AはBに代替がきく。労働者にかぎらず個人は代替がきく。だからブルジョア社会のブルジョア社会としての同一性は一個人の生や死によって微動だにしない。一人の人間が死んでしまっても、前と同じようなブルジョア社会が相変らず存続する。そして、その個人は無名の大衆として消え去って行く。ブルジョア社会の共同体に対しては何らの現実的な意味もなしに消え去って行く。
 ところが、今述べた行動委員会運動の中で始まっている個人の徹底的な存在をも含めた、個人としての全面的な発達と普遍の獲得の闘い、そして始源的には労働者が工場制度の下で開始している団結、プロレタリアートの団結の中に進行していく結合の問題、これが何かと言えば、一人の生きた存在が生きた存在として生れ、生き抜いてき、そしてその人間が死んだという事が頭脳においてばかりでなく、その個々人が異なるが如く共同体全体が異なるような、その意味を根底に持った大団結である。
 このことは何でもないようではあるが、もっともっと徹底的に追求して行かねばならない問題だろう。かつファシズムを徹底的に克服し、ブルジョア社会を根底的に批判し、台頭する新たな労働者の生み出しているものが持っている真の巨大な意味を突き出す、そして西側から描かれてきた共産主義社会をもっと生き生きとした本格的なもの、目的として把み切れるためには、今の問題が徹底的に解明されねばならない。そして共産主義とは何かの意味もそこにある。又、そういうものによって捉えられていく対象的世界とは何かという問題でもある。
 そして、プロレタリア的団結の中においては、既に一人の人間が彼の人間存在をかけて共同体に関わっている。その一人の人間の精神的、肉体的諸力の総体としての一人の個人が、彼の総体をもってその団結の中に参加している。従ってAという人間とBという人間は、さきほど見た分業体制の上から見られたのとは異なって、根源的に全的に異なった存在である。そして異なった人間が異なった人間として最後には回復する。これは、ある人間にはある才能があり、別の人間にはそれがないから異なっているという体の専門奴隷的な差異ではなくて、Aの死をBによって代える事のできないという根源的な意味も含めて異なる存在である。そして、その異なる存在も含めて、その全存在をもって参加するのがプロレタリアの共同体=プロレタリアの団結である。
 従って一人の人間が死ぬという事は、その共同体全体が別の共同体になり、共同体のある展開は死んだという事を意味する。同様に一人の生命が生れ落ちたという事は、共同体が新たに生れ、それと共に新たな共同体が始まっている事だ。一個人の生と死をもって共同体は区切られて行く。そういう意味で、一人の人間が文献に記録されようとされまいと世界史に記録される。
 人間が人間に成るためには闘いという事は、以上展開して来たようにゲリラ戦とともに古い。学生の現在の闘いも又、その成果としてそういう方向を獲得してきている。それが全面的に発展して行くためには、あのプロレタリアの団結を我がものにして行く一人一人の全活動を経て、プロレタリア統一戦線を構築して行く中に学生の闘いを位置づけるという課題になる。

(『東大駒場新聞』二〇〇―二〇一号 一九六八年九月二八日講演)