〔教育工場論〕
滝口弘人

「学校は、教師たちが自分の労働力を教育資本に商品として売ることによって資本の生産過程として「頭脳に加工する」教育サービスをする工場であり(それは剰余価値を生産するものとして「生産的労働」である)、そこで同時に学生は、この資本制サービスを買って(これが学生及び親が支払う教育費、自分自身に専門性を与える。彼がどのような人間になるかは教育工場の生産過程にではなく彼自身の再生産過程に属し、教師のせいではなく彼自身のせいとされるのは医者に対する患者と同じである)。彼らの多くは種々の職業部門への就職として自分自身の専門的労働力を商品として資本に売り、その相当な部分が、資本所有から分離された資本機能を担う「搾取することの労働」をする管理者、技術者などとして、専門に隷属する「賃金労働者の特別な部類」となる。産業再編成とともに種々の領域で拡大再生産される分業体制は、「社会の要請」として、多くの専門奴隷となった部分人間を必要とする。彼らはこの専門へ隷属することに力を感じ、歓喜するほどに堕落することができるが、工場プロレタリアの社会革命は、このような専門奴隷たちを解体してしまうのである。教育工場と労働力再生産過程との対立を通じて、また工場プロレタリアに照りかえされることによって、自分自身に専門性を与えて就職しなければならぬ労働力再生産過程そのものの矛盾をつかみ、こうして自分は革命的労働者階級によってのみ解体されることをつかみこの階級の闘いに結びつくこと――これを教育闘争が突きつけたのである。」

(『われわれの問題追求史』機関紙『解放』@号、機関誌『解放』第9号 一九七八年二月)