教育と産業合理化
滝口弘人

 早稲田の学費、学館闘争は、狭い日常的な特殊利害を超えた時間的空間的に無数の人々の共同の紐帯の中に、自分自身を据え付けようと闘う社会性をその内に育てつつある。彼らの旗じるしは「産学協同反対」である。それは根源的な闘いであり、彼らは隷属教育からの自立と、豊かな普遍性をかちとる闘い、人間の人間になるための闘いを学んできた。
 現在、「大学の危機」がいわれ大学設置基準や教育免許法など、制度的変化を伴った動きとして現実化している。だが大学の問題は大学の問題としては完結せず、後期中等教育、更に義務教育をも含む戦後の教育体系、学校制度全体の系統的な変化のむしろ始りである。教育の分化と等級制、徹底した能力主義、多コース化として現われ、「教育の機会均等」を、「多様性」に応じた機会均等という風に表現してきているものは、要するに、「専門化」というものの問題性であり、科学技術教育と、社会政策的な(体制維持の)イデオロギー教育の問題性である。教育は社会によって制約され教育・学校をめぐる深刻な対立が歴史上幾度となく登場したが、今日この問題も、単に学生や教師の世界に止どまることはできぬ。「産学協同」こそは、今日の「産業と社会の要請」という事を公然とふりかざすものであり、実にそれは、現在国家の全般的介入を伴いつつ全社会にわたって進行する「産業合理化」への教育の全面的系統的な即応の運動として把えなければならない。
 五五年頃からの生産性向上運動という名の「高成長」下の合理化運動は、労働と資本の絶えざる流動を伴う突撃のような技術革新であり、六二年頃からのそれは、先行した技術革新を基礎に労働の社会的結合ないし社会的分業を定立し再確立する運動である。凄じい程に発達した機械体系又は労働の対象的諸条件を隷属化手段にして、「分業」という疎外された社会性を再生産しつつ人間を一層部分化、不具化、奇型化の奴隷とする運動こそ、今日の産業合理化である。作業場内(企業内)分業または「職場秩序」の再編成としては1資本所有と資本機能の分離、機能資本家の他人の資本の管理者にすぎぬ単なる経営者への転化の極度の進展とともに奴隷を管理する奴隷の成り上りへの再編(エリート)2労働、精神労働の等級的位階制(資格制度、昇進制度)3監督労働の系統図の再編(作業長・班長制度、企業内警察制度)4労働の最も単純な基本形態への極度の分割(作業の標準化)それに5これらの分業に即応するものとしての賃金体系または賃金形態の変革(安定賃金、職務給化)が、従ってまた、社会内分業または「産業秩序」の再編成が、国家の介入を伴った1企業の集中、合併、系列化の進展、「高成長期」に熱病的に膨大化した生産に適合するために2社会的生産過程の一般的条件をなす交通、通信、運輸部門の変革(「産業基盤」の拡充)や、3財政制度・公営企業制度・公務員制度の改革を含む公的部門の変革4農業、中小企業の「構造改善」を伴う相対的過剰人口の生産、そして、こうした社会内分業、作業場内分業に適合する「人材開発」のための教育体系、学校制度の変革として。
 分業の問題は秩序の問題であると共に「専門化」の問題である。「専門」について何の疑いも持たぬばかりか歓喜する程に隷属堕落しきった人であってはならぬ。一面的な力能を温室的に助長して他の諸力能を抑圧する人間の部分化、不具化、奇型化こそ「専門」への隷属であり、それは同時に、狭い特殊利害に埋没して「日常性」の中に普遍性を見失う「産業と社会の要請」という運命への隷属である。学生は自分自身のポンコツ化に抗して出発した闘いを、専門化した教育と「専門」への奴隷化の廃絶に向う「全面的に発達した人間」になるための闘い、人間相互の普遍的連帯への信頼回復の闘いへと発展せしめなければならぬ。豊かな普遍性を獲得する事なしに人間は真に人格的自由たる事は出来ない。これが現在の教育に突き付けられている問題である。
 古代の分業は質(使用価値)を問題としたのに対し近代の分業は量(交換価値)を問題にしているが、「国際競争に打ち勝つために」と産学協同が叫ばれながら日本の教育の歴史的変化の嵐が始っている。戦後日本のいわば米型教育が単に戦前に戻るのではなくむしろ英仏型に近づこうとしていると見られるが、その米、英、仏でも、「国際競争に遅れをとらぬ」為、かつ「国家と社会の繁栄と安定」の為にと、伝統的な教育のあり方に大きな変化が起っている。独占的大企業の世界市場的関連と共に日本の教育も世界史的問題性を含んでいる。
 米教育は、五八年の国防教育法を強調しつつ、有能児早期発見から国防研究生制度などまで進み、かつその「恩恵」を受ける者に体制維持の宣誓書を求め、その後のリッコーヴァーやコナントの提案も伝統的なデューイ流の経験主義教育を排撃して徹底した能力主義を説き、総合中等学校の内部の能力別多コースへの分化を強調し、いわゆる単線型教育の祖国で複線型のヨーロッパに学べと、スプートニク・ショックと台頭するEECへの対抗に駆られて国防と産業の要請だと、科学技術教育、イデオロギー教育、専門家した教育の突撃を以って「偉大な社会へ」(ジョンソン)というわけである。仏教育でもドゴール教育改革は、「教育の前の平等」の名で多様性に基づく教育、「産業と国家の為」の多コース化を推進し、他方「教育の自由」なるものの公認によって、保守主義のとりでとしての私教育=宗教教育への国家の援助と、更に公教育での体制維持の宗教教育をも公認し、伝統的なナポレオン学制もドゴール学制として「近代化」されつつある。英教育でも、「投資としての教育観」を強調しつつ、老いた資本主義の祖国英国の再興は国際競争にかつ為の教育への「投資」以外にないとして最も有効な「専門化」を呼号し、「英国の近代化」を掲げて登場した労働党内閣の下で産業合理化と科学技術教育へと突進しているが「個人の権利」、国教に於る「神への奉仕」としての教育観が赤裸々な「産業と社会の要請」に変る歴史的転換を含んでいる。「産業と社会」こそ神の秘密だという事をもらしたのだ。
 商品物神・貨幣物神・資本物神が世界市場的関連をもって人々の拝跪を迫っている。世界史的規模での人間の部分化、不具化、隷属化なのだから、自分自身のあり方は世界史を見つめて決断しなければならぬ。労働者だけでなく、労働者を支配する者も疎外されている。物神が全ての人を襲う。
 だが決定的なことは、資本家は疎外を力として感じるのに対し、労働者は疎外を苦痛として、自分自身の制限として感じざるを得ぬという事であり、労働者の中に豊かな普遍性への欲求が生れ、世界史的結合への運動が育つのだから、早大の闘いも、人間の人間になる為の闘いという背骨を貫く為には世界史的存在としてプロレタリアートに結びつかねばならぬ。
 一方では産業の技術的基礎の変革と労働の絶えざる転変、他方では社会的分業は廃棄されるどころか一層醜悪な形態でその骨化した分立性と共に再生産される、という資本主義の「絶対的矛盾」の運動、「資本家への労働者の絶望的隷属」を拡大再生産する運動、「国家独占資本主義」下でのその貫徹こそが、産業合理化運動である。だからこそ、これに適合せんとする産学協同の教育改革が、科学技術教育と専門化した教育を鬨の声としているのである。社会を表面から見る限り、交換を媒介とした分業として「自由、平等、財産、ベンタム」だが、一度工場の中に入れば資本の専制下の牢獄であり、「独占化」は単に社会的生産過程の発展としてではなく同時に巨大な牢獄、「兵営」の発展として把える事が大切だが、そこでは科学は自立した力として、労働の社会的結合は他人の意志の権力として、労働者に敵対する。直接的生産過程の外でも、個人的消費に於ても、資本の見えざる糸で隷属化されている。この資本への隷属を維持する為には、全所有階級を労働者革命に対抗して防衛する為の国家権力の最も醜悪な最終的形態即ちファシズムに向わざるを得ず、また戦争は国民的制服をかなぐり捨てて奴隷に対する奴隷所有者の戦争へと歴史的に転化して行かねばならぬ。隷属から自立せんとする闘いは、資本に対する「民族」を超えた国際労働者階級の世界史的な戦いへと発展しなければならぬのであって、その成熟の程度が「人類」の運命を解決する。
 教育の単線型・複線型がいわれるが、それは教育の階級的本質の疎外された現象形態なのであって、産業革命の中で出発した敵対的な「二つの教育体系」の闘いの独占的株式会社の発展と資本関係の外在化と共に進む形態である。早大闘争は闘う学生の自主的な闘争委員会を生み出したが、それは資本への隷属に抗する人間は再び官僚の奴隷になるのを拒否する事を含む。人間の部分化、不具化、隷属化に抗して豊かな普遍性を求める教育の闘争は単に学園闘争などに止どまらず、自分自身を乗り越えて、世界史的舞台をもった普遍対普遍、必然対必然の社会的政治的運動へと発展しなければならをい。

(東京『解放』9号・『東北学院新聞』二百号記念講演一九六六年四月)