はじめに

 スターリン主義的抑圧権力が大衆決起のもとで瓦解し、長年にわたる苦闘の中から培われた政治思想がようやくかたちをとりうるかにみえた東欧諸国での共産党「改革派」内部や在野の左翼グループがおそらく八九年以降経験しつつある事柄を考えるとき、われわれもまた一〇年前自分らにとって八〇年代はどのように訪れたかを想い起こすことになる。
 周知のように七〇年代は、この現実の変革を志向する運動が、その時代を画した活動の背後で種々の深刻な問題をかかえ込んだ一〇年間であった。その多くはわれわれの政治思想の根本に関わる問題性に起因するものであることにより、それを総括し克服していく作業が喫緊といっても、なかなか先が見えない状況のもと、八〇年代は訪れ時代は一転回したのである。
 そこでは六〇年代後半から七〇年代にわたる諸事態の推移は、マルクス主義そのものの問題性による不可避な軌跡と帰結を「古典的に」、絵に描いたようにたどっただけの事例として、いまさらその総括から何かが生まれることはありえず、その内部での克服の苦闘の有無にかかわらずひと括りにして、ただその破産を確認すればよいとするような風潮が「流行」となったのである。
 これらの主張がスターリン主義のみならずレーニン主義、さらにマルクス主義そのものがなお政治思想的にはらんでいる「抑圧性」への諸契機を感受しえていたのは事実であろう。そこでは一世代が困難な経験を通してはじめてつかみとってきた事柄が、ごくあたりまえの日常茶飯のように呼吸されているかのごとくであった。
 だが「後世の特権」、時代の認識水位の底上げによって、あることが分かってしまい、見えてしまうということは、それを克服しえているということを必ずしも意味しない。
 七〇年代の活動がはらんだ深刻な問題性ということも、なにかこの現実に無根拠なただ恣意的な「理念」の誤りの結果ということではなく、本来的かつ歴史的な限定性のもとにあるこの現実の社会のもとでその変革を志向するとき、人間の活動が不可避にかかえ込むことになる本質的事柄に起因しているのである。
 それはそれらが複数の意志の対立と共同の政治的場に関わることにより、「意図」と「結果」の背反構造をはらむある「悲劇」的な力学を構成するということをめぐっている。そこでは、人間の「解放」ということへの洞察が、その相対性、限定性の認識を通して、政治的他者との対立と共同における非抑圧的な政治関係の思想的・制度的開拓にまで深められていないとき、あらゆる「善意」が新たな「悪」をはらんでしまうことによって、悲劇を成就してしまうことはいくらでも起こりうるのである。
 そしてそのことはいかなる理念によってであれこの現実の変革を志すかぎり、どんな「穏健」かつ「理想主義」的な思想と活動においてもはらまれうるのであり、変革への思想と活動が不可避にはらむ解放と抑圧への両義的な諸契機を、非抑圧的な政治関係に転轍することによって、そこにはらまれていく悲劇性を廃棄していく以外に、それを馴致したり消去することはできないのである。
 このことにおいて七〇年代の活動とマルクス主義は何であったかという点で総括、批判は深められなければならないのであり、その「抑圧性」が見えてしまったということをもって、その根底にある本質的な事柄そのものが消滅したと考えることは錯覚である。たとえば「弁証法」について、その抑圧的諸契機を批判することはできても、それがこの現実の成り立ちかたにそれなりに由来する性格の論理である以上ただ抹消することはできず、それを非抑圧的なものへと鋳直すことがなされないとき、それは再び条件を得て新たな形態のもとに、その「抑圧性」をふくめて幾度でも再生しうるのである。
 当初の多くの可能性を「革命は自らの子供を貪り食う」ごとく食いつぶした負の時代として語られることの多い七〇年代は、しかしこの本質的な事柄が否定的なかたちをもふくんで鋭く顕在化し、それをめぐって一世代にわたる膨大な経験がなされたものとして、それらをただ凍結することはできないのである。
 この時代が開示したことの一端を僅かでも将来へ繋ぐことを意図した以下の作業は、直接には今日の東欧変革とペレストロイカとがわれわれに喚起するものとは無関係になされた。自らが経験した事柄をほり下げることのなかに「活路」を見出すしかないのであり、「今度は東欧のフォーラム型革命」というたぐいの論評をあらたな意匠のもとにくり返したところで仕方がないからである。それに実をいえば、新しいものに「のりうつる」余力もなかったのである。
 だがあるとき、七〇年代の経験がそのほり下げをわれわれに課したと思われる重要な課題の一つが、すでに早くから東欧諸国の「改革派」内部や在野の左翼グループにおいても追求されていることに気づかされた。それはのちに見る非抑圧的「政治」という対象領域についてである。この同時代性のあらためての確認はせめてもの救いであり、何に繋がるかが定かではないこの作業も、まったく無意味ではないようにも思われた。
 今日これら「改革派」内部や在野の左翼グループの苦闘とそこに胚胎した新たな政治思想は、自らがきり拓いた突破口から奔流する歴史の一転回のもとで、ふたたび水面下に押しやられ、スターリン主義的抑圧「政治」そのものがその対極に、階層や思想をこえて陶冶してしまった新たな人的資質を核とする「フォーラム」や「ポピュリズム」の共鳴力、吸引力のまえに影をうすくしている感がある。そして「社会主義の失墜」による理念的空隙は「自由と所有」、「民族的・国民的伝統」や「宗教」等によって埋められるかのごとくである。
 そのことは「社会主義という言葉」が「とうの昔にまったくありふれたゴム製の警棒になって」しまっており、「それは人間を操作し抑圧することしかできない一つの体制となんでもかんでも関連づけられて、長年にわたり呪文のように使われてきた言葉だった」(バーツラフ・ハベル)東欧諸国において、一度はくぐらなければならない「浄化」の過程なのかも知れない。批判派としての困難な道を歩んだにせよ、一党独裁のもとで抑圧的「政治」の一端を担った「指導責任」、さらにはそこで「社会主義者」であること自体の「思想責任」が、その経歴や人物評価をふくんで世論の記憶のもとに問われることになるのは不可避だからである。
 そして「プラハの春」以降の二〇余年は、それら批判勢力のそれぞれの個体史にとっても残酷な時の経過であり、「世代の交代」もまた避けることはできない。
 だが以上のことは、スターリン主義的な抑圧的「政治」との理論的・実践的苦闘を通してつかみとられてきた対象領域の重要性が減少することを意味するわけではなく、それが新たな政治的共同性の本質的属性に関わる事柄であるかぎり、「反共産党独裁」の一点での共同の時期が過ぎ去り、複数の政治的諸力の対立と共同のもとでの現実の再組織化という課題に直面するとき、再び問われることになるのは不可避であり、「フォーラム」もまたただちにその問題をかかえ込むことになる。
 もっともわれわれのこれらの印象は、マスコミがその価値観によって取捨選択し、再構成した「情報」にもとづくものでしかなく、実際には何か別のことが進行しているのかも知れない。そしてそこでは非抑圧的な政治的共同性の形成をめぐって、新たな世代や層のなかから新たな政治思想が育まれているのかも知れないのだが、いまはそれを確かめる準備がない。
 ここではそのことを見きわめていく予備作業として、また以下に収めた作業の「まえがき」として、一九六八年の「プラハの春」を前後してわれわれの目にとどき出した東欧の批判勢力の主張のなかから、現在の東欧変革とペレストロイカのなかでふりかえってみるとき、あらためて印象的づけられる一つの論点についてみておこう。
 それは、スターリン主義的な抑圧的「政治」への批判が、「国家の死滅」論の一環としての「政治の止揚」論的視点からではなく、スターリン主義のもとで窒息させられていた本来的な非抑圧的「政治」の再生への志向としてなされていることである。
 このことは、これまでスターリン主義のもとで、革命によってひとたびきり拓かれた自由な政治空間が再び圧殺せしめられ、しかもそれが社会主義のもとでの「社会的矛盾の消滅」論と「物の管理」論にもとづく「国家の死滅」論によって正当化され、あらゆる批判を簒奪するイデオロギー的・制度的な抑圧構造が、その核心においてうち破られつつあることを意味していた。
 以上のことは今日の東欧変革とソ連のペレストロイカをどう評価するかということに深く関わる事柄なのだが、ここではそれらの見解の幾つかを、とりあえずその全体の文脈の評価はさておき、そこに窺われる新たな「社会主義のもとでの政治」観について見てみよう。
 たとえば一九六八年の「プラハの春」に際して、チェコのカレル・コシークは「政治の本質と使命」についてつぎのように述べている。
 「チェッコスロヴァキアの目下の事態は、公的な関心の中心に政治をすえ、それを万人の事業とさせているが、それはこの政治の問題性をも示している。政治の自然的要素は権力である。しかし、その権力は、現行権力がなにをめざして利用されるのか、なにに奉仕するのか、という政治の本質に左右される。政治はたんに、すでに生まれ、規定されている状況への反応ではなく、現存諸力を運用することでもない。権力は社会的諸力に、諸階層、諸階級に基礎をおくだけではなく、人間の情熱、理性、感情にももとづいている。どのような政治のなかにも新しい諸力が生まれ、つくりだされているが、そのことは、なにが人間のなかに生じ、めざめているか、そこではなにが解放され、抑圧され、眠りこまされているか、という政治の本質に左右される。こんにちの世界では、政治は教育の補足部分である。なぜなら、政治生活のなかでこそ人間のあれこれの潜勢力、可能性がめざめさせられ、成長させられているからであり、あれこれの行動、活動、性格のモデルが重要性をおびているからである。この政治が、権力のためにたたかい、ないしは権力の維持のためにたたかうことによって、権力を適用し、行使することによって、人びとのなかに不満、私的利害、偏見、低級な本能をめざめさせ、人びとの心中の正義感、真実感をにぶらせ、かれらを通俗性と暴力にかりたてるのか、それとも、逆に、この地上で芸術的に、自由に生きることができるようにする人間の性向、情熱、能力、可能性を自己の力量、支柱として発展させることに腐心するのかは、政治のいかんにかかっている。政治はつねに人間の指導でもあるが、それは、だれを指導しようと欲するか、現実にはだれが指導するのか、というその本質によって左右される。すなわち、無責任な、操作される無名の大衆か、それとも自由な、責任ある市民であろうとのぞむ人間かによって左右される。
 チェッコスロヴァキアの目下の事態は、したがって、政治の本質と使命についての、こんにちの世界でのその可能性についての論議への寄与をもあらわしているのである。」(「現代における人間の危機と社会主義」)
 コシークはここで、これまで抑圧的権力による「操作」としてあった「政治」に対して「この地上で芸術的に、自由に生きることができるようにする人間の性向、情熱、能力、可能性を自己の力量、支柱として発展させる」ような「政治」の形成を強調している。
 また一九五六年の「ポーランドの十月」以降の模索のなかからウォジミエシ・ブルスは、ここでの論点に関わるつぎのような興味ある見解を提起している。
 「社会主義社会がその出発点としての革命の時点から遠ざかれば遠ざかるほど、それを通じて国家統治への−−すなわち資源配分の決定への−−社会の参加が可能となる民主主義的なメカニズムの活発化と拡張なしに、何が社会の利益であり、何がそうでないかを決定することはますます困難となる。資源はつねに限られており−−ひとつひとつ取れば一見どれひとつとして社会の利益には反しない、競合する目標はきわめておびただしくある。これらの選択肢のなかから選択し、規模、時間などに応じてその順位をきめることは、その点検と統制に社会的創意を発揮させるためのしかるべき機構がないかぎり、恣意におちいるおそれがおおい。」(『社会主義における政治と経済』)
 「生産手段の利用の仕方についての決定に社会が参加することなしに、大衆の利益が少数の前衛によって実現されるような、家父長的な体制」を想定するとしても、それは「何が社会の利益であり、何がそうでないかを決定する」上で「客観的な過誤、すなわち社会的利益に一致しない決定」がなされたり、また「社会的利益が実現されるとしても、その実現のされかたについての望ましくない主観的結果」を生み出す可能性を封じるフィードバックを欠落しているのである。
 このようにブルスは「社会主義のもとでの政治」を「社会の利益」の決定と推進における複数の「選択肢」の存在に根拠づけている。すなわち政治的行為としての経済活動という把握である。それは「社会主義のもとでの矛盾」についてのつぎのような把握にもとづいていた。
 「資本主義の打倒は、生産力の発展に対するあらゆる社会・経済的障害とそこにおけるあらゆる矛盾の除去を意味するという確信」、つまり「社会主義の社会的・経済的諸問題は、いわば透明であろうから、物神化された形態のヴェールの背後にかくされた実体の暴露を事とする科学の必要性は消滅するであろう」という主張は、「かなりの程度の真実がふくまれている」にしても、「この考えの正しくない点、不完全さおよび不正確さは、結局のところ、それが資本主義の社会的・経済的諸矛盾の克服と矛盾一般の克服とを同一視していることから、生じている。」
 「このことは、社会主義のもとでの生産関係と生産力との関係には矛盾はなく、完全に調和している、という主張につうじる。これは、もちろん正しくない。社会主義は疎外克服のための前提条件をつくりだしはするが、しかし、この前提条件は前提条件以上のなにものでもない。生産手段の国有化からその完全な社会化、すなわち、労働および社会的私有に対する社会主義的態度としてしばしば呼ばれるものとのあいだには、長い道のりが横たわっているのである。そして、もしそうであるとすれば、社会主義は、経済運営の技術的理論、すなわち『生産力の合理的組織の科学』だけでなく、厳密な意味での政治経済学−−この政治という形容詞にはすべての重みがこめられている−−をも必要とする、ということになろう。必要とされるのは、経済運営一般の理論ではなく、社会主義的生産様式における矛盾に透徹した分析をくわえて、その克服方向の批判的解明を提供する、経済活動の社会理論なのである。」
 社会主義のもとでの「政治経済学」の必要性ということをもってブルスは、われわれの言う非抑圧的「政治」の対象化の必要性を強調しているわけである。すなわち資本主義的矛盾の除去のあとにも社会主義に固有の矛盾が生成するのであり、したがってそこには「物の管理」に還元されない「人と人との関係」、複数の選択肢をめぐる対立と共同の「政治」関係が、資本主義のもとでの「疎外された政治」とは異なったものとして成立するのであり、マルクス主義はそれを解明しなければならないと言うのである。
 これら東欧「改革派」の背後にあって、大きな影響を与えてきたのは一九四八年の「スターリンとの決裂」以来、独自に「自主管理社会主義」の途を模索してきたユーゴの論客たちの見解であった。その主要なイデオローグであるカルデリはすでにつぎのように述べていた。
 「政治は、ブルジョア議会制民主主義のもとでは政党の首脳部に一任されているので、実際上市民から疎外され、手の届かないところにあ」ったのだが、その廃絶後に形成された革命政治の「深刻な歪曲」としての「スターリン主義型の一党制は、ブルジョア議会政治のメカニズムを社会主義的な社会経済関係に単純につぎ木したことによって生まれた」ものである結果、そこでの「政治」もまた「直接的な社会管理から人間を引き離して」しまい、「人間の役割を政治的市民の役割に限定し、そうすることによって人間を、利益を選ぶのではなく人を選ぶたんなる選挙人に変えてしまった。市民は、選挙にさいして、社会と彼自身の利益とを管理する全般的な権限を政治組織と国家の執行機関に委譲することになった。」
 しかし「自主管理社会主義の社会では、政治は自主管理の構成部分であり、自主管理主体が社会生活の個々の領域でその利益を実現していく、さまざまな形態による自主管理的で民主主義的な活動の一部」となり、「自主管理的意志決定の一部となることによって社会化される。」(『自主管理と民主主義』)
 カルデリはここでブルジョア的、スターリン主義的な「政治」の疎外形態に対して「社会化された政治」という概念を提起している。(もっともカルデリの場合「社会化」ということによって「政治」の固有の領域が散逸させられてしまっており、その結果それはユーゴ共産主義者同盟が独占的に担うというものとなってしまっているのだが。)
 このカルデリらユーゴ共産主義者同盟主流派と対スターリン主義では共闘しつつ、しかし内在的批判をおこなうことによって弾圧を受けてもきた『プラクシス』グループのメンバーもまたつぎのように言っている。
 「語の最広義における政治とは、重要な公共的・社会的過程を規制し、方向づける決定を下し、実現するすべての人間的活動である、とわれわれは理解する。階級社会における政治をマルクスは正しくも疎外の領域であると考えていた。道徳、科学、哲学から孤立し、ある階級の特殊な地位と利害によって完全に制約されている部分的社会意識として、政治は、個々人が自己の人間的本質を実現する現実的可能性を、そこでは永遠につかみそこなうところの実践の形態であらねばならなかった。資本主義社会の支配階級廃絶後に、政治にかんして何がおこっているか。ブルジョアジーの政治的・経済的権力の革命的廃絶過程が続いている間に、著しい諸変化が進行する。−−旧社会の国家装置は根底から崩壊する。ブルジョア政党は姿を消す。経済も科学も文化も芸術も、政治の事業、すなわち革命的・集権的規制と方向づけの事業となるのであるから、政治は巨大な意義を獲得する。そして特に重要なことは、非常に広範な層の人民が政治的に活性化することである。すなわち、大多数の人々が旧社会の政治的克服過程に直接参加するか、あるいは少なくとも、事業のこれから先の経過が彼らの態度に依存しているという生き生きした感情を持っている。しかしながら、かつての支配階級との革命闘争の成功以後、多くの時が流れるにつれて、限定された指導者グループの掌中へすべての決定的な社会的問題にかんする全体的決定権の極端に集中する傾向がますます明瞭に現れてくる。実際、彼らは、他者の名前で、しばしばその同意を得て、決定する。しかし、常に政治的主体であり、決定を下し、遂行する人々と、常に政治的客体であり、その決定に合意し、その決定に調和して行動するように呼びかけられるだけの人々とへのこのような鋭い分裂がいったん社会に進行してしまうや否や、政治的疎外のすべての本質的特徴を摘発することは困難ではなくなる。」(ミハイロ・マルコヴィチ『実践の弁証法』)
 マルコヴィチはこのように「疎外された政治」の廃絶後に「巨大な意義を獲得」することになる新たな「疎外ではない政治」の性格について述べるとともに、しかし「革命的エリートが官僚層に転化し、政治的主体と政治的客体への人々の分割が確定されるかぎり」再び「ドラスティックな形態の政治的疎外が可能となる」と強調している。
 このような「官僚化傾向を内在させるいわゆる国家的社会主義の弁証法的否定は、革命的自主管理である。」
 「合理的かつ革命的自主管理のこうした構想は、政治概念の根本的転換に導く。政治はもはやある特別の職業の対象ではないのみならず、孤立した部分的な社会的活動でもない。今や政治の実用主義、ひんぱんな不道徳性、即興的性格が廃絶される。基本的・革命的自治の意識をヒューマニズム的な哲学が政治に与える−−今や政治は哲学的となる。現実的状況と運動傾向の認識を科学が政治に与える−−今や政治は科学的となる。選ばれた手段が目的に適合するために、政治的行動は基本的な、一般に承認されているヒューマンな価値に照応する一定の道徳的規範に合致せねばならない−−今や政治は道徳的となる。政治は徐々に一種の芸術になり始める。なぜならば、この領域においても、美、高貴さ、節度の感情が思想の生硬さと行動の粗野さよりも高く評価され始めることがないだろうという理由はないからである。」
 同じ『プラクシス』のリュボミール・タディッチもまたつぎのように言う。
 「自由な市民の作品と実践としての政治は、自由のないある組織の隠密行動があるところでは、すなわち自由がないところでは、けっして実現されえないものである。およそそれがあってはじめて合意というものが達成されうる公然とおこなわれる諸見解の論争のない、社会的葛藤の合理的で人間的な形態としての自由な対話のない『政治』は、政治がまったく有無をいわさぬ確かさとして、粗野な権力として、いわゆる組織された国家への黙々とした服従としてつかまれるところでだけ可能である。」(「社会主義革命と政治支配」)
 「粗野な権力」に対置されるタディッチの「自由な市民の作品と実践としての政治」は「社会的葛藤の合理的で人間的な形態」としての「公然とおこなわれる諸見解の論争」が生みだすものとして把握されている。
 さて、このように見てくるとき、ここで語られている「政治」のイメージはいかにも牧歌的であるかにみえる。しかし彼らはここで、これまでの社会主義のもとでの「政治」の頽廃の深さに反比例して「政治」にかんするユートピア的な「夢物語」を語っているのではなく、スターリン主義的な抑圧的「政治」は旧来の「国家の死滅」論の一環としての「政治の死滅」論のうちにこそ、その思想的根拠をもっていること、それを根本的に克服していくためには、対立と共同を非抑圧的に律する本来的な「政治」の領域を再形成していかなければならないことを切実に主張しているとみるべきだろう。
 これらは、たまたまわれわれの眼についた今日の東欧変革に先だつ「プラハの春」を前後する時期での「社会主義のもとでの政治」に関する言及の幾つかをとり上げてみたものだが、それらは今では「上からの改革」の試みとしてすでに破綻し、「下からの変革」によってのりこえられたものとされている勢力のなかからの発言である。だがそこにはスターリン主義の特殊な抑圧性を見きわめ、今後それが新たな条件のもとで再生することを封じ込めていく上で現在的にも継承されるべき重要な把握がはらまれているのであり、それらを非抑圧的「政治」という対象領域の重要性というわれわれの問題意識からとらえ返せば、たとえばつぎのような諸点である。

一 「疎外ではない政治」の領域

 その一つは、「社会主義のもとでの政治的疎外」という概念の提起であり、そのことは、いわば「疎外ではない政治」の領域ということが措定されていることを意味する。しかしそれは、「政治」は支配・抑圧を本質的属性とするというマルクス主義の「政治」の伝統的な把握とはどういう関係になるのか?
 もともとマルクス主義においても「どこでも政治的支配の基礎には社会的な職務活動があったのであり、政治的支配は自分のこの社会的な職務活動をはたした場合だけ長くつづいた」(エンゲルス)、「国の一般的な、共通の欲求によって必要とされる諸機能」「正当な公的機能」(マルクス)という把握はあったのであり、それが階級対立に媒介されて「本来の意味での政治的権力」となるとされているのだが、重要なことはこの「社会的な職務活動」「社会的機能」そのものが、たんに洞察された「社会の真の利益」にもとづく「物の管理と生産過程の指揮」としてではない本来的な「政治活動」「政治機能」として把握されるべきことなのであり、「政治的暴力」「政治的抑圧」はその疎外態であるととらえ返すことなのである。
 なぜなら本来的・歴史的な限定性のもとにある人間社会は、そこに生みだされる社会的諸矛盾をめぐる複数の諸力の対立と共同によって成立する「政治的共同性」として本来あるのであり、そこでの「政治」機能は支配・抑圧を本質的属性としているわけではないのである。
 そして革命による階級対立と「政治的暴力」「抑圧力」の廃絶もまた「政治」一般の「死滅」した「社会」の実現を意味するのではなく、そこに新たに再生する固有の諸矛盾にもとづく対立と共同を非抑圧的に律する新たな政治的共同性の再生を意味するのであり、この非抑圧的「政治」状態が衰退したとき、スターリン主義的な抑圧的「政治」は不可避となる。したがって「政治的過渡期」から将来社会において、この非抑圧的「政治」の思想的・制度的開拓は重要な課題となるのであり、それはまた現在的な革命運動の本質的属性たるべきものでもある。
 この把握を欠落するとき、革命運動の「政治」はつまるところ一種の「必要悪」とされるか、あるいはそこではその「主体」が変換しており、さらにそれは「政治の死滅を志向する政治」であることによって是認されるというようなこととなり、その結果、そこでの「政治的実践」はその母胎として出現している非抑圧的「政治」状態が把握されないまま、狭義の党的実践とその「戦略・戦術」にきりつめられることによって党派の、さらには党中央の占有物とされ、そしてそれが「必要悪」という把握をこえるものでない以上、政治的異論や政治的他者に遭遇するや抑圧的「政治」がただちに密輸入されることになる。
 このように「国家の死滅」論を掲げることと、抑圧的「政治」はなんら矛盾しないのである。
 しかし、この問題はレーニンの『国家と革命』や『背教者カウツキー』におけるソヴェト論、「半国家」「非政治的国家」論、そしてその内部政治関係としての「プロレタリア民主主義」論を、非抑圧的「政治」という対象領域に照らして再点検することを不可避とする。そのことは「ブルジョア民主主義よりも百万倍も民主的」とされる「ソヴェト」と「プロレタリア民主主義」がすでに論理の次元においても新たな抑圧的諸契機をはらんでいたことを明らかにするだろう。
 このことはまたレーニンが依拠しているマルクス、エンゲルスの「政治的過渡期」論、「共産主義」論そのものの再点検をも不可避とする。ここでの論点に関連するものに絞れば、それはつぎのような主張である。
 「発展の進行につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味での政治的権力とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。」(『党宣言』)
 「これらの機能が政治的であることをやめるやいなや、(1)統治機構は存在せず、(2)一般的機能の分担はなんらの支配も生じない実務上の問題となり、(3)選挙は今日のような政治的性格をまったく失う。」(『バクーニン・ノート』)
 これについてたとえば「プラハの春」をくぐったチェコのラドスラフ・セルツキーはつぎのように述べている。
 「しかし、いつになったらそのような機能は政治的でなくなることができるのであろうか。私は、社会的分業と稀少性の廃絶の後でしかない、と提言する。社会的分業と稀少性が存在するかぎり、対立する優先順位について、したがってまた利害対立について決定を下す機関のヒエラルキーが存在しなければならない。……換言すれば、被選出機関は統治機能を遂行しなければならないであろう。支配のための余地は存在しないであろうというマルクスの提言は、十分に具体化されていない。社会的分業と稀少性とが一般的である長期間にわたって、一般的機能のために選出されたすべての者は物だけではなく人をも管理するであろう。」
 「マルクスは、政治的対立が(敵対的)階級対立だけでなく、一社会階級内部、あるいはもっと重要であるが、無階級社会内部の対立をも反映することがあるという事実を、十分に強調しなかった。たとえば、工業と農業とサービス業とのあいだや、さまざまな工業部門のあいだなどに、対立が存在しうる。倫理的価値(たとえば堕胎や死刑など)にかんする対立も存在しうる。これらの対立は階級構造や階級抑圧とはほとんど関係がない。それらはどの社会にも発生することがある。マルクスとエンゲルスの政治認識は、あまりに図式的で狭く、またあまりに階級志向的であった。一つには、政治は階級対立だけでなく、主要社会集団のあいだのあらゆる利害対立を反映する。二つには、政治は経済から生じるだけでなく、政治自体から生じる対立(たとえば、支配階級の異なる部分のあいだの、あるいは異なる社会階級や集団のあいだの、影響力もしくは権力を求める競争)や、衝突する倫理的価値かイデオロギー的見解から生じる対立をも反映する。したがってマルクスやエンゲルスの確信とは反対に『公的権力は政治的性格を失う』ということは、階級区別の廃絶の後でさえ、とても考えられそうにない。」(『社会主義の民主的再生』)

二 「社会主義のもとでの矛盾」の承認

 以上のことは当然、階級矛盾の打破は矛盾一般の止揚ではなく、「革命後の社会」に固有の新たな社会的矛盾が、階級矛盾の残滓や「新しいものと古いもの」「正しいものと正しくないもの」との矛盾とは異なるものとして生成することの承認を意味しており、重要なことはそれをめぐる対立と共同が本来的な「政治」を構成するという把握がなされていることである。
 この「社会主義のもとでの矛盾」の承認そのものは新しいことではなく、すでにその歴史をもっている。
 一九三六年、スターリンはソ連邦における「社会主義制度の完全な勝利」と「経済的・政治的矛盾の消滅」「ソヴェト社会の精神的・政治的統一」を宣言し、そこでは「生産関係は生産力の状態に完全に照応」していると述べたのだが、しかしそれはソ連邦が無矛盾的な桃源郷となったことを意味したわけではなく、この時期モスクワ裁判にいたる粛清が猖獗をきわめていたのである。
 このスターリン報告に対して、党内から階級対立のみならず階級そのものが消滅したのなら、いまや経済建設が第一義的な課題であり、党内外の敵への警戒心の名による粛清は不要となり、国家も死滅へ向かうべきだという反応が生みだされたのだが、スターリンはそれらを「政治的無頓着」「革命的警戒心の欠如」と批判し、逆に三八年、粛清の理論的根拠となった有名な「党活動の欠陥とトロツキストおよびその他の二心者を根絶する方法について」を提起し、「党政治活動の強化」を強調する。さらに同年の第一九回大会においてはエンゲルスの歴史的限界の指摘というかたちで「国家の死滅」論を批判している。
 重要なことはこれによってスターリンが「国家の死滅」論を放棄したのではなく、その将来における実現のためにこそ現在的には「国家は最大限に強化されなければならない」という論旨のものであり、ここには「国家の死滅」論が現実にはどのような機能を果たしたかがくっきりと示されている。それはただ詭弁的な口実ということではなく、非抑圧的「政治」をふくまぬ「国家の死滅」論は抑圧的「政治」となんら論理的に矛盾することなく、むしろその理論的根拠を提供してしまうという問題である。
 これに対してはすでにトロツキーが『裏切られた革命』等で批判していたのだが、第二次大戦後、スターリンは自らの主張の戯画的弊害が無視できなくなるなかで、それを手直ししてつぎのように述べている。
 「同志ヤロシェンコは、社会主義のもとでは社会の生産諸関係と生産諸力とのあいだにはなんの矛盾もない、と主張しているが、それはまちがっている。もちろん、われわれの現在の生産諸関係は、それらが生産諸力の成長に完全に照応していて、それら諸力を非常に急速に前進させる、という時期を経過しつつある。しかし、これに安んじて、わが生産諸力と生産諸関係とのあいだにはなんらの矛盾も存在しないと思ったら、それはただしくないであろう。生産諸関係の発展が生産諸力の発展から立ちおくれつつあり、またこれからも立ちおくれるかぎり、諸矛盾はかならずあるし、またあるだろう。指導的諸機関のただしい政策のもとでは、これらの諸矛盾が敵対に転化することはありえないし、またこの場合には、生産諸関係と社会の生産諸力とのあいだの衝突にまでいたることもありえない。もしわれわれが、同志ヤロシェンコのすすめるような、ただしくない政策を実行するなら、問題はべつである。その場合には、衝突は避けがたいであろうし、われわれの生産諸関係は生産諸力のより以上の発展のきわめて重大なブレーキに転化するおそれもあるのである。それゆえ、指導的諸機関の任務は、成長しつつある諸矛盾を適時にみてとり、生産諸力の成長に生産諸関係を照応させるという方法によって、それら諸矛盾を克服するための処置を講じることにある。」(『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』)
 「マルクス主義は、古い質から新しい質への言語の移行が、爆発によらず、現行の言語の絶滅と新しい言語の創造によらないで、新しい質の要素の漸次的蓄積によって、したがって古い質の要素の漸次的死滅によって、おこなわれるものとみなしている。爆発に熱中している同志たちの参考までに、一般的につぎのことを言っておかなければならない。爆発による古い質から新しい質への移行の法則は、言語発展史に適用できないだけでなく、土台または上部構造に類する他の社会現象にも適用できるとはかぎらない、と。この法則は敵対的諸階級に分裂している社会にとって拘束力がある。だがそれは、敵対的諸階級のない社会にとってはけっして拘束的ではない。」(『マルクス主義と言語学の諸問題』)
 社会主義にも固有の「矛盾」は生成するが、それは「敵対」や「衝突」が「拘束的」なものではなく「指導的諸機関のただしい政策」によって克服可能なものという、このスターリンの提起は、その後、スターリン批判をへたのちにも社会主義諸国での「矛盾」論争の大枠を規定したものであった。
 とりたてて問題ではないかにみえるこの主張のどこに抑圧性がはらまれてしまうかと言えば、それは「生産諸力と生産諸関係とのあいだの矛盾」は合理的に測定可能であり、その有資格者は一党独裁としての共産党あるいはその中央であるというような把握に関わっている。すなわち、そこには固有の「矛盾」の承認ということは、「ただしい政策」の決定そのものが複数の選択肢のもとでの対立と共同を通じて妥当なものを選択するという政治的行為であることの承認を意味するのであり、そのことは「指導的諸機関」そのものをもつらぬくという把握はまったく排除されてしまっているのである。そうであるかぎり、「ただしくない政策」もありうると「指導的諸機関」を相対化し、限定づけているかにみえても、何が正しく、何が正しくないかは独占的かつ恣意的な判断となり、その結果、敵対」や「衝突」が生みだされたとき、それはある「指導的諸機関」の反党的な挑発・撹乱として処理されることになる。
 だが、このスターリン論文による論議の原則的解禁とスターリンの死によるその現実化、そしてハンガリー蜂起の衝撃のなかで、五五年から五八年にかけて「矛盾論争」がソ連を中心に、東欧諸国、中国をふくめて展開されるなかで、いわゆる「非敵対的矛盾」という概念が市民権を得ることとなる。
 ソヴェト社会には「葛藤」に至る否定的現象はすでになく、あるとすればそれは内外の敵からの挑発・撹乱であるとして異論摘発の論理となった「無葛藤理論」を克服する上で、この「非敵対的矛盾」論はそれなりに積極的意義をもったと言えよう。それは「社会主義制度下においては、矛盾は爆発によるのではなく、党・国家の上からの指導と人民大衆の下からの支持のもとにだんだんに解決される」(ステパニャン)というように、大勢としては依然としてさきに見たスターリン的把握の枠内にあったのだが、しかしそこにはそれをこえていく要素もはらまれていた。
 この「論争」がスターリン主義批判にとってもつ意味に注目した三浦つとむは、マルクスの、ある種の矛盾は「止揚」によってではなく「これらの諸矛盾がそれにおいて運動しうるところの形態を創造する」ことによって「自らを解決する」という把握や、エンゲルスの「たえず自己を生みだしかつ解決する矛盾」という把握を援用しつつ、ソボレフの「ソヴェト社会の矛盾の大部分は、矛盾する各面の相互作用・相互影響によって克服される。この場合、相互作用・相互影響とは相互扶助・相互強化の意味である。」という主張をとらえ返して、「止揚できないあるいは止揚してはならない矛盾」としての「非敵対的矛盾」は、「実現そのものが解決」であるような「調和する矛盾」であり、その実現形態、運動形態が開拓されるべきものであると問題の所在に一歩接近したのだが、それはなお「民主集中制」や「プロレタリア民主主義」の正しいあり方の根拠をなすものという把握にとどまっており、それらがはらむ抑圧性の諸契機そのものを克服していく非抑圧的「政治」の開拓へとさらにほり下げられることはなかったのである。
 毛沢東の「人民内部の矛盾を正しく処理する方法について」(五六年)もこの「論争」の流れのなかでの提起であったのだが、「敵と味方を区別する問題」ではなく「人民内部の矛盾」としてのその「矛盾」性格は、依然として「正しいものと正しくないもの」「新しいものと古いもの」とのあいだの「矛盾」であるとされてしまっており、ここでもまた複数の選択肢をめぐる相対的に等価な見解の対立の可能性という視点は皆無であった。
 非抑圧的「政治」の成立根拠としての「矛盾」という把握に比較的接近しえていたのは四八年の「スターリンとの決裂」を通してソ連「社会主義」の全般的な再検討につき進んだユーゴ共産主義者同盟であり、カルデリは「ユーゴスラヴィアの社会主義的実践は、固有の経験や他の社会主義諸国の経験から、社会発展の過渡期としての社会主義は矛盾や抗争なき社会ではないという事実に、かなり早くから気がついていた。……自主管理と社会主義的・自主管理的民主主義の目的と意義は、なによりも、勤労者自身が、社会関係や人間の社会意識の発展において客観的に存在し、つねにくりかえし発生してくる矛盾を、できるだけ民主的に解決するという点になる。」と述べている。
 そしてスターリン主義は「社会主義国家の政治制度にかんするマルクス主義理論の発展を数十年にわたり妨げるという否定的影響を生み、社会主義のもとで民主主義制度の特殊な形式を発展させるうえで、深刻な停滞をもたらした」という認識のもとに「社会化された政治」としての「自主管理的民主主義」の制度的開拓が試みられているのだが、しかしこのカルデリの場合も「矛盾や抗争」の承認は、共産主義者同盟内部や他の政治的諸力との対立と共同を非抑圧的に律する政治関係の承認を意味したわけではなく、「われわれにとって複数政党制か一党制かというジレンマは存在しない。あるのは自主管理的利益の複数主義か自主管理の廃止につながる多党制ないし一党制かというジレンマだけである。」という苦しい言いまわしのもとで「権力の問題」をめぐる共産主義者同盟の「特殊な社会的役割」「特別の責任」の占有は揺るがしがたい前提であったのである。
 だがこのユーゴの実践と理論は、ブルスが「社会主義においても発展は内在的な社会的・経済的諸矛盾を克服することによって生じるという認識は、ユーゴ共産主義者たちの最も重要な歴史的貢献」と述べたように、東欧諸国の「改革派」に大きな影響を及ぼし、「プラハの春」をへて今日の変革に至る過程でひとつの道標となったのだが、今度はこれら東欧諸国の経験との相互作用のなかから、八一年から八四年にかけてペレストロイカのソ連において新たな「矛盾論争」が展開されることになる。
 そこではブテンコ等により、社会主義に固有な「矛盾」は「党・国家の上からの指導と人民大衆の下からの支持」によって予定調和的に解決されるわけではなく、その「党・国家」がその内部に対立と共同の開かれた政治関係を創出しえていないとき、その内部矛盾そのものが「敵対的矛盾」として発展しうるということが主張されているように、「矛盾論争」はついにスターリン主義的な抑圧的「政治」批判としての射程をはらみだしたのである。
 これらは依然として「生産力と生産関係の矛盾」という旧来の理論的枠組みのもとでの論議であるが、われわれの関心をひくのは、それらの論議がつぎのような状況を招来していることである。
 「したがって今日、ソ連の改革派指導部が政治制度改革と『スターリン体制』批判を展開するのは、『国家の死滅』とか『政治の終焉』といったユートピア主義と、その反面としてのスターリン・ブレジネフ時代の権威主義的な政治文化への反省である。つまり政治的思考を戦術といった政治の技術へ解消してきた従来の思考からの転換であることにまず注目できよう。その意味で現在生じているのは『政治学的思考』の復権なのである。」(下斗米伸夫「ソ連−−『政治学的思考』の復権」)
 そしてこれらのことはマルクスのつぎのような把握のしかた、あるいはその理解のされ方の再検討を不可避とすることになる。
 「この共産主義は……人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である。それは歴史の謎が解かれたものであり、自分をこの解決として自覚している。」(『経哲草稿』)
 「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。ここで敵対的というのは、個人的敵対という意味においてではなく、諸個人の社会的な生活諸条件から生じてくる敵対という意味においてである。」(『経済学批判』)

三 「物の管理」論の批判

 ここから「物の管理」論が批判的に再検討されることになるのは不可避であった。
 将来社会における「矛盾の消滅」論とともに「国家の死滅」論を根拠づけているこの「物の管理」論こそ、現実には「過渡期」から将来社会における非抑圧的「政治」を抹殺していくものとして作用したのであり、抑圧的「政治」の政治思想的根拠をほり下げようとすれば、この問題をそのままにしておくことはできないのである。
 将来社会においては「人間にたいする政治的支配が物の管理と生産過程の指揮とにうつりかわる」(『反デューリング論』)という把握は、これまで不動の前提として根本的な批判に晒されたことはなかったのであり、日本の新左翼運動もまたそれを当然のこととして受容してきたのだが、この思想はたとえば八九年「ベルリンの壁」の崩壊にいたる東ドイツ解放運動のさなかにおいても、たとえばフォルカー・ブラウンの讃歌『自由の経験』に「その時には人間による人間の支配は終わりを告げ、『事物の管理』がはじまるのだろう。」という字句が挿入されているように、共産主義運動の歴史のなかに根深く血肉化されてきたのである。
 サン・シモンに由来するこの思想は、エンゲルスを経由してレーニン『国家と革命』においても基底音をなしており、ブハーリンはさらに「国家権力と、人間関係における強制的規格化が死滅していくにしたがって、共産主義的人類は『物にたいする支配』の最高形式を創出し、その場合、どんな方式のものにせよ、合議制または個人制の問題そのものが消滅する。」と例のごとく「非弁証法的に」極端に走ったのである。
 しかしいま必要なことは、この「物の管理」論を根本的に再検討することであり、「人間にたいする政治的支配」か「物の管理」かという抽象的な二者択一の狭間に、人間と人間の非抑圧的な「政治」関係の創出ということを設定することである。
 この「物の管理」論は、周知のように主としてエンゲルスによるつぎのような論旨によって構成されていた。
 「一八一六年にはサン・シモンは、政治は生産にかんする科学である、と言明し、また政治が経済にそっくり解消することを予言している。ここでは……人間にたいする政治的支配が物の管理と生産過程の指揮とにうつりかわっていくこと、……『国家の廃止』ということが、すでにはっきり言明されている。」
 「抑圧しておかなければならない社会階級がもはや存在しなくなるやいなや、階級支配や、これまでの生産の無政府状態にもとづく個体生存闘争とともに、特殊な抑圧権力である国家を必要とするような、抑圧すべきものはもはやなくなる。国家が現実に全社会の代表者として立ちあらわれる最初の行為−−社会の名において生産手段を掌握すること−−は、同時に、国家が国家としておこなう最後の自立的な行為である。社会関係への国家権力の干渉は一分野から一分野へとつぎつぎに余計なものとなり、ついでひとりでに眠りこんでしまう。人にたいする支配にかわって、物の管理と生産過程の指揮とがあらわれる。」
 そしてそれは「社会が生産手段を掌握し、生産のために直接に社会的に結合して、その生産手段を使用するようになるやいなや、各人の労働は、その特殊な有用性がどんなにちがっていても、はじめから直接に社会的な労働となる。その場合には、ある生産物にふくまれる社会的労働の量は、まわり道をしてはじめて確かめるまでもなく、……(それに)どれだけの労働時間がふくまれているかを、社会は簡単に計算することができる。」「公的諸機能はその政治的性格を失って、社会の真の利益を監視する単純な管理機能に変わるであろう。」「結局のところ計画を決定するのは、さまざまな使用価値間の比較と、それぞれの生産に要する労働量との比較からみた有用性である。ひとびとは有名な『価値』に依存することなく、すべての問題をきわめて簡単に調整するであろう。」という把握に裏うちされていた。
 将来社会においても「各人の労働は、その特殊な有用性がどんなにちがっていても、はじめから直接に社会的な労働となる」ことは可能であるかという問題はそれとしてあるのだが、それはさておき、自然と人間との関係は、人と人との関係を媒介とするのであり、また何が「社会の真の利益」であるかの決定過程自体が複数の選択肢のもとでの対立と共同の政治的行為なのであり、たんなる「物の管理と生産過程の指揮」とは次元をことにしているのである。
 ここにおいて人と人との非抑圧的な「政治」関係の創出が重要な課題となるのであり、このことを欠落した「物の管理」論は、現実には「人にたいする政治的支配」の巨大な一元的政治管理を不可避に呼びこむのである。
 マルクスの「人間は生産において、たんに自然に関係するだけはない。人間は一定の仕方で協力し、相互にその活動を交換しあうことによってのみ生産する。生産するために、人間は互いに一定のつながりや関係を結ぶが、この社会的なつながりや関係のなかではじめて、人間の自然にたいする関係も生まれ、生産が行われるのである。」(『賃労働と資本』)という把握は、以上のような「物の管理」論をこえうる理論的契機をはらんでいると思われるのだが、そのマルクスの場合もそれはつぎの主張と併存していたのである。
 「いまでは、資本主義社会とは違って、個々の労働は、もはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在している。」(『ゴータ綱領批判』)「他方において、労働時間は同時に、共同労働についての生産者の個人的分担の、したがってまた総生産物のうちに個人的に消耗されうる部分についての生産者の個人的わけまえの尺度として役だつ。人々の、彼らの諸労働および彼らの労働生産物にたいする社会的諸連関は、この場合では、生産においても分配においても、依然としてすき透るように簡単である。」(『資本論』)
 以上のような東欧諸国での「社会主義のもとでの政治」に関する把握は、言うまでもなくスターリン主義的な抑圧的「政治」との内在的な実践的・理論的苦闘のなかから形成されてきたものである。
 東欧諸国は「東欧革命」の歴史的、地理的位置により、その悲劇的経験を代償としてだが、スターリン主義的「政治」の特殊な抑圧性をみぬくことが可能となった。ユーゴにおける「自前の革命」の場合はもちろん、他の諸国での微弱な主体的条件のもとでの「上からの人民民主主義革命」の場合もまた、そうであるからこそ逆にスタ的抑圧性の特徴の一つである「革命意志の簒奪構造」へのくみ込まれ方は綻びを残しており、その分だけスタ的抑圧性の思想構造は露わとなったのである。
 このことは今度はソ連自体にはねかえり、ペレストロイカの思想的要因の重要な一つを構成することになる。現在の東欧変革とペレストロイカの今後の帰趨がどうなるかは別問題である。しかしそれが可能性としてたしかにはらんでいるこれまで見たような新たな政治思想はそれとして真剣に検討されていかなければならないだろう。
 ここにはかの「市場と民主主義」の評価のしかたをふくめて、今後検討されるべき多くの問題が残されているのは事実である。だがそれへの批判がこれまで不可侵の前提としてあったマルクスの「政治的過渡期」論や「共産主義」論を無批判的な尺度としてなされるかぎり無効である。なぜならそれらが、あるいはそれらの受容のしかたが欠落しているこれまで見たような諸点を根本的に問うものとして、東欧諸国での実践的・理論的苦闘はあったのだから。
 そしてわれわれにとって東欧諸国の経験への関心もまたそのことをめぐっている。と言うのは、そこでの「現実」を構成しているのは、何かスターリン主義の純粋形態といったものではなく、スターリン主義的に歪められたマルクス主義「過渡期社会」論の理論と実践であった以上、そこではスターリン主義的な抑圧「政治」の経験を通してレーニン主義そしてマルクス主義の「過渡期社会」そのものもまた経験されたのであり、それがどのような対抗的な政治思想を育んできているのかということが、われわれの切実な関心課題でないはずはないからである。
 以上のような東欧の批判勢力のなかからの主張は、われわれもまた七〇年代の総括のなかで避けがたく直面した問題なのだが、それはいまだ日本の新左翼運動において本格的に検討されてきてはいないのである。
 以下に収めた作業は、われわれの固有の経験に照らしてその問題の所在だけをふれてみたものである。内容のほり下げと論旨展開の不出来ぐあいが、その対象領域の重要性を貶めてしまってはいないかという危惧もあり、またそれらがどの程度一般性をもちうるのか心もとないのだが、しかし同時代性の共鳴力を信頼すべきだろう。


 なお、執筆時期は以下のとおりである。
第一章 新たな共同性と「政治」           八六年一一月
第二章 「政治の死滅」と抑圧的共同性        八八年 一月
第三章 「国家の死滅」論が欠落しているもの     八九年 九月