第二章 「政治の死滅」と抑圧的「共同性」
一 抑圧的「政治」の経験がわれわれに課したもの
七〇年代におけるわれわれの政治経験において、まぎれもなく重要な比重を占めた幾つかの抑圧的な「政治」への遭遇について考えるとき、とりわけ印象的だったことの一つは、当初、相互の対立と共同においてきわどいところで保持されていた開かれた政治性が、その後の困難な諸事態の重圧のもとで、まず他党派との関係において、つぎには党派内部の関係において、急速に閉ざされていったことであり、その過程で、われわれがスターリン主義として批判してきたことと同質の傾向が、それら「反スタ」を掲げる党派の活動のなかに原型的にはらまれたということであった。
そのことは、スターリン主義批判の照準を「二段階革命」論、「一国社会主義」論、「平和共存」論等々の革命路線の次元から一旦ずらして、それを、形成されるべき新たな政治的共同性の内的関係のあり方、そこでの政治的対立の克服のしかた、政治的異論への態度、公的意思の形成のしかた等に当ててみれば明らかとなる。
それは、深刻な政治的対立が生みだされたとき、公然たる論争あるいは政治闘争によって帰趨を決するのではなく、対立意見を政治的異論としてより政治的悪、さらには倫理的悪として描きだすことによってそれへの憎悪と打撃を組織化し、かつその担い手の階級的倫理性を逆手にとるかたちでその意志を圧服しようとするような態度に特徴的にあらわれる傾向である。
ここにあるのは、対立と共同の公然たる展開をその本質的属性とする本来的「政治」空間の原理的否定であり、そこでは政治闘争のあらゆる堕落形態の駆使をもって政治的対抗軸の形成の動きを封殺しようとする企てがなされることになる。
このことは、政治的対立の克服の仕方が「寛容」であるか「粗暴」(レーニン「遺書」でのスターリン評)であるかという次元の事柄なのではなくて、いかなる政治的共同性を新たに形成しようとしているのかということに関わる一つの重大な原則問題なのである。
なぜなら、新たな政治的共同性がはらむ解放性とは、それがどれだけ無矛盾的かつ均質的な共同性を実現しえているかということではなく、そこに不可避に再生する新たな諸矛盾にもとづく政治的対立の克服あるいは転轍のしかたにおいて、いかなる非抑圧的な政治形態を開拓しえているかという点において量られるのであり、政治的異論を悪として抹殺することを通してのみ成立する「共同性」は「墓場の上の統一」としての抑圧的「共同性」でしかありえないからである。
これら本来的「政治」空間の否定にもとづく政治闘争の頽廃形態とでもいうべき傾向は、周知のように一九二一年を前後するロシア革命の深刻な危機をめぐるボルシェヴィキ党の党内対立のなかから、スターリン独自の政治的人格と政治思想をもって生みだされ、二〇年代において明確な相貌をかたちづくり、三〇年代において全面展開に入ったスターリン主義の、いわゆる「上からの革命」論とならぶ重要な特質の一つなのだが、この傾向は日本の共産主義運動のなかに早くから流入しており、それを批判しつつ出発した新左翼運動においても、六〇年代後半から七〇年代での政治的対立の激化のなかでただちにとり入れられたわけである。
抑圧的「政治」への遭遇においてもう一つ印象的だったことは、それがある困難な事態への対処をめぐって「革命政治」の内部から、その疎外態として生成するかぎりにおいて、抑圧的「政治」もまた現状を変革せんとする矛盾感覚とエネルギーをそれなりの根拠と切実性をもって引きだしうるのは当然だが、そのことをも背景として、「革命政治」とその頽廃形態との質的差異を見きわめるということは誰の目にもただちに容易ということではないのみならず、スターリン主義批判を掲げる党派の内部においてもそれを積極的に支持する層が形成されうるということであった。
抑圧性ということも「革命政治」が不可避にはらむ公的規制力なのか、あるいはその頽廃形態としての制圧性なのかは、実際にはない交ぜとなって現れるのであり、その意図がある特定グループの特殊利害であることが歴然としている場合でも、その主張が「革命政治」の疑似的な語彙と論理をもってなされるとき、そのまやかしの構造がはっきり対象化され、かつ明確な代案をもって対抗がなされるのでないかぎり、それをただちに論駁し払拭することはそう容易なことではない。たとえば特定グループの利害防衛のための「党内民主主義」の制限が、「革命政治」の公的規制力の名のもとに施行されるとき、それへの批判者は、そのままでは一種の「ジレンマ」に追い込まれることになる。スタ的「政治」はただ抑圧ではない階級的倫理性の簒奪構造をもっているのである。
さて、これら抑圧的「政治」の生成を歴史的知識としてではなく同時代的に経験するとき、かつて見えていなかったことで新たに見えてくるものもあり、それをほり下げることによって、スターリン主義の特殊な抑圧性についての認識を一歩深めることが可能となるようにも思われた。
その重要な一つは、抑圧的「政治」の生成は何か「邪悪な意志」の働きによるものではなく、「革命政治」の内部から生みだされたその疎外態であるという、考えてみればあたりまえの事柄であった。
それはある困難な問題への対処をめぐる「革命政治」の内部対立の中から、その一傾向として独特の「政治思想」的萌芽をもって生みだされるわけだが、当初におけるその特徴は「政治的戦略と戦術」、また革命理念の領域において何か独自な展開がなされているということではなく、主として「革命政治」の内部的政治関係の形成においてこれまで理念的にあるいは不文律のうちに共有され実践されてきた相互関係の律し方とは異質な「新しさ」の導入にあり、抑圧性もそれをめぐって浸透することになる。
それは、たとえば公的意志形成過程での機関決定の名による組織内緊縛として現れたりするわけだが、そのこと自体はある時機での「革命政治」の公的規制力の発現としてもありうるのであり、いわゆる「民主主義的中央集権」が即、抑圧的「政治」だというわけではない。そこにさきに見たような傾向、すなわちある特定グループの見解以外の見解は政治的のみならず倫理的悪として弾劾され、かつその担い手の階級的倫理性を逆手にとるかたちでその意志を挫き崩壊せしめるために、あらゆる物理的、心理的圧迫がなされるというような傾向が浸透することによって抑圧的「政治」が生成することになる。
そしてそれがある「邪悪な意志」にもとづくものなのではなく「革命政治」の内在的疎外態であるということは、「革命政治」そのものが当然のことながら単体なわけではなく、複数の政治的諸力の対立と共同が働いている場であることに関連している。
すなわち「革命政治」のようにそこで問われていることが根源的・包括的問題である場合に、そこに旧来の共同性を崩壊させるかたちで深刻な対立が生みだされたとき、それを思想的・制度的に制御ないし転轍することによって新たな対立と共同へと昇華することができないまま放置すれば、そこには自らを「普遍」として相互の否定へとのぼりつめる力学が客観構造として不可避にはらみ込まれてしまうのであり、しかもその際それなりの論拠をもって対立見解の「客観的役割」論や「階級的根拠」論がただちに動員されることにより、政治的異論の「止揚」が本来的「政治」空間の抹殺を意味するような状況が招来されてしまうのである。
この過程に「邪悪な意志」の働きをもふくむ政治的人格の問題が大きく作用するのは確かである。だが、憎悪、猜疑心、嫉妬、権力欲、派閥意識等々がそれ自体において抑圧的「政治」を生みだすのではなく、それらがさきの客観構造を受けることにより、かつ一つの問題的な「政治思想」によって整序されたとき、抑圧的「政治」が生成する。
と言うことは「良き意図」や「人格的高潔さ」等も、それだけでは本来的「政治」空間を擁護すべく先験的に作用するわけではなく、さきの客観構造に無自覚なとき、むしろその否定を徹底させてしまうことはいくらでもありうるのであり、「地獄への道」は常に「善意の小石で敷きつめられている」のである。
以上のようなことは、われわれに解明すべき幾つかの課題を課すことになる。
その第一は、われわれがスターリン主義として批判してきた「政治」の抑圧形態は「労働者階級の自己解放」の原則からの背反、逸脱であるといって済むことではなく、「労働者階級の自己解放」の過程そのものが政治的な性格を帯びるかぎり、ある困難局面での政治的対立の発生の過程で、スタ的な政治的人格や政治思想に媒介されてそういう頽廃を可能とする力学がはらまれうるのであり、その構造そのものが解明されなければならず、かつそれを対立と共同の非抑圧的な政治関係へと転轍せしめる諸条件が探られなければならないということである。
スターリン主義は「小ブル中間層」のイデオロギー的制圧であり、「貧農的社会性」の浸透であると言うことは、プロレタリアートの存在本質の根源的解放性という把握からの立論としてまちがいではないとしても、政治思想としてはそこに寄りかかっていて済むことではなく、まさにその「根源的解放性」が、たとえば本来的「政治」空間の維持・防衛・発展という至難な課題において、いかなる内容と形態をもって実現されなければならないかということにまでほり下げられないかぎり無力なのである。
このことはスターリン主義の免罪ということではなく、問題をこう設定することによってマルクス主義そのものがこの課題にいかなる原則的解答を提起しているか、さらにレーニンがこの課題をめぐって理論的・実践的にいかにきわどい尾根を歩んだかということが切実な検討課題となるのであり、そしてスターリンがこの問題にいかに「決着」をつけてしまったかということを浮き彫りにすることが可能となるのである。
第二に、それらをふまえるとき、スターリン主義批判は徹底してスターリンの独自な政治思想の検討をその中軸におかなければならないということである。
抑圧的「政治」の「革命政治」への内在性の承認ということは、言うまでもなくその免罪や「革命政治」の頽廃の不可避性の承認ということではなく、そこでの対立の深刻化が不断に本来的「政治」空間の抹殺への衝動をはらむかぎり、事態はそこに介在する政治思想の質に媒介されて、対立と共同の非抑圧的政治空間をきわどいところで保持するか、あるいは抑圧的「政治」による制圧へとつき進むことになるということをはっきり認識するためである。
そして実際には、機関操作とか、デマゴギー的キャンペーンとか、陰謀とかの政治術策や、ある問題への対処のしかたに占める人格的資質の比重など、一見「政治思想」外的要因に見える諸契機が無視しえない比重を占めていくのだが、しかしそれらが一定の「普遍性」をもって他者を組織化しうるのは政治思想としてであり、したがってそれとの対抗、克服を課題とするとき、その「政治思想」としての対象化と批判は不可欠な前提なのである。そうでないかぎり、ある特殊な状況のもとで、ある特殊な形態をとって、「革命政治」の公的規制力とない交ぜになって現れるスタ「政治」の特殊な抑圧性を見抜く力を鍛えあげることはできないからである。
三〇年代以前のスターリンは多くの場合レーニンの引用のかげにかくれて自らの政治的発言を行っているわけだが、その引用のしかた、その再構成のしかたにおいてすでにその政治思想的「独自性」ははっきり現れているのである。
これまでのところ、「一国社会主義」論、「二段階革命」論、「平和共存」論など革命路線上の検討と批判は比較的なされてきたとしても、スターリン政治思想のもう一つの重要な側面、すなわちその「党」論、「分派」論、「党派闘争・党内闘争」論、「自己批判」論、「カードル」論、「プロレタリアートの独裁の体系」論等々の領域、言いかえれば革命的共同性の形成過程における対立と共同の組織化をめぐる特殊な抑圧性については必ずしも充分なほり下げがなされてきていない。
この点の解明にこそわれわれの立ちおくれがあったのであり、レーニン「外部注入論」批判をもってスタ批判も基本的には済んでいるなどとしていたかぎり、この種の問題に対してはほとんど無防備だったのである。
第三に、われわれが抑圧的「政治」の生成に必ずしも有効に対処しえてきていないということの根拠の一つを以上のようなことのうちに探ることが重要な課題となる。
スターリン主義に対してただちに形成された少なくない反対派がなぜ敗北したのかということがくり返し問題となるわけだが、このことはわれわれにとっても依然として切実な課題である。その際、これこれの時点で原則的に、さらに「政治技術」的にもこうこうすべきであった、というような歴史の教訓化のしかたは必ずしも無意味ということではないであろう。だがそれが「歴史の後知恵」的に語られたところで、まったく異なる状況下に異なる形態をもって立ち現れるスタ的「政治」への対応にとって役に立つか否かは別問題である。
もしこの問題に関する歴史的総括を試みようとするなら、われわれにとって必要なことはそういうことより、スターリンに対する反対派の敗因の重要な一つとして、彼らが党内闘争の過程でおしなべて一種の「ジレンマ」をかかえ込んだということの根拠は何であり、その突破はいかにして可能かと問題を立てることだろう。
たとえば以上のような諸点での総括と検討をへないまま、われわれが経験した幾つかの抑圧的「政治」に対して「プロレタリア的共同性」が抽象的に対置されるかぎりでは、それはスターリン主義批判の深化にも、また抑圧的「政治」の解明にも、さらにわれわれ自身がなぜそれに有効に対処できなかったのかということのほり下げにもつながらないのではないのか。
ここではこれらの課題の一端について、それをソヴェト権力初期の「革命政治」の推移をみるなかから検討してみよう。
これまでふれたような問題意識のもとに、スターリン主義の特殊な抑圧性についてつかみ直そうとするとき、その前提としてそれに先だつレーニンとボルシェヴィキ「革命政治」そのものの「抑圧性」について検討することが必要となる。
論者のなかにはたとえばソルジェニーツィンのように「スターリン主義などというものは無かった。彼はレーニン学説の忠実な信奉者だったにすぎない。」と言いきる者もいるし、それと異なる立場からもレーニン主義とボルシェヴィキ党そのものの構造のなかに「抑圧性」は本来的にはらまれていたという主張は近年の「流行」となっている。
ここから各々の思想的・政治的立場によって、あるいは心情的に「労働者反対派」あるいは「クロンシュタット」さらに「マフノ」、エス・エル左派、アナーキスト等の「再評価」等々がなされることになり、それらの選択はある意味で「自由」なわけである。
だがわれわれにとってそのことは「到達点」ではなく、問題の再設定の「出発点」でしかない。スターリン主義の抑圧性の根源はレーニン主義そのもののなかにあるという把握のしかたは、ある真実とともに一つの陥穽をかかえ込むことでもあり、そこにとどまるかぎりでは問題の真の所在に接近することはできないのである。以下そのことについて見てみよう。
一〇月革命以降のボルシェヴィキ権力の「抑圧性」については、すでにソヴェト権力の初期において、エス・エル左派、アナーキスト、メンシェヴィキ左派の一部等、その過程を共に闘い、のちに対ボルシェヴィキ蜂起を含む決裂に踏みきった政治勢力の立場からする批判と証言が多く残されている。だがその「抑圧性」への根深い批判は、まさにボルシェヴィキ党内部からくりかえし生みだされたという点に事柄の深刻さがあると言えよう。
すなわちブレスト講和と労働者管理をめぐる「左翼共産主義者」の批判、「戦時共産主義」下での諸論争、「労働組合論争」における「労働者反対派」「民主主義的中央集権派」等々からの批判である。彼らにとっては革命権力の実態はボルシェヴィキ綱領そのものからの逸脱、背反であり、革命の危機、変質であると映ったのである。それらはたとえばダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』等に描きだされている。
これらの事実認識の深まりはわれわれにとって良いことである。少なくとも公認党史の無謬性の神話や、その影響下でのボルシェヴィキの「革命政治」への無批判的容認を解体する上でそのことは一歩前進と言えよう。
しかし、ここでのわれわれの課題からいえば問題はつぎのように再設定されなければならない。すなわちボルシェヴィキ「革命政治」の「抑圧性」は、「革命政治」の不可避な公的規制力なのか、あるいはその頽廃形態なのか。
問題をこう設定することによって、われわれは、多くの場合無謬性神話の裏がえしでしかない反対派への種々の「再評価」というような次元をこえて解明すべき事柄の核心に接近することが可能となる。
革命による解放過程は媒介的・過渡的・政治的性格を帯びた新たな公的力の再生過程として、固有のイデオロギー的・制度的な規範、規矩を伴なうのであり、そしてそのことがまたルソーの言う「公的なものは不平等と悪徳への第一歩」というような状況を招来することにもなるのだが、しかし、その過程をあらゆる公的規制力の消滅を意味するかのように理解し、公的規制力とその頽廃形態を混同したまま「抑圧性」一般として批判することは、一方では現実の解放過程を挫折させてしまうことになりかねず、他方では真の抑圧的「政治」の生成を弁別できないまま、それへの対抗力を鍛えあげることができないことになる。
しかしそれらの批判に対して公的規制力をただ擁護することは、一歩まちがえればその頽廃形態でしかないものを正当化する危険性をかかえ込むことになる。
したがってボルシェヴィキ初期「革命政治」の「抑圧性」の性格を見きわめるためには、問題を二つの側面において検討することが必要となる。その一つは一連の党内闘争の真の対立性格の把握であり、もう一つはその過程での政治的異論の扱われかたである。
こうすることによって、対立の一つの争点となっているソヴェト権力による「上からの」統制とそこでの「強制力」がいかなる性格のものであったかの評価がある程度可能となるだろう。
1 ボルシェヴィキ党党内論争の対立性格
ブレスト講和をめぐって開始されたボルシェヴィキ党内の論争は、ただちにそれと不可分なものとしてあった社会主義建設のあり方そのものの対立へと発展することになるのだが、その背景にあったのはつぎのような事態であった。
二月から一〇月に至る過程でボルシェヴィキは主として工場委員会に依拠しつつ闘いを組織したのだが、戦争と革命による経済的崩壊はその予想を上まわるものであり、一方でのブルジョアジーのボイコットとサボタージュ、他方での工場委員会、地方ソヴェトによる「労働者管理」の混乱のもとで、ソヴェト権力の経済的基礎は危機に瀕することになる。ドイツとの戦争の再開とブレスト講和はその実態を浮き彫りにし、さらに迫りつつある内戦の危機のなかでレーニンらボルシェヴィキ党中央は工場委員会や地方ソヴェトの「下からの」活動を抑制しつつ、急速に「上からの」統制に向かうことになる。
労働組合の国家機関化とそのもとへの工場委員会の包摂、「労働者統制」からの「労働者管理」的側面の排除、最高国民経済会議の設置とその権限のもとでの任命制、ブルジョア専門家の高給をもっての登用と単独責任制の導入、労働規律、出来高払い制の実施などである。
ブハーリン、オシンスキー等「左翼共産主義者」はそれをつぎのように批判する。
「『トラストの組織者の指導下での社会主義建設』という観点に、我々は立たない。『工業の首領』の法令によるのではなく、労働者自身の階級的創意によるプロレタリア社会の建設という観点に、我々は立つ。……もしプロレタリアート自らが、いかにして、労働の社会主義的組織化に必要な諸前提をつくり出すか知らないならば−−誰にもプロレタリアートに代わってこれを行うようプロレタリアートに強制することはできない。もし、労働者に対してステッキが振りあげられるならば、それは、別の社会階級の影響下にある一社会勢力の手中にあるか、さもなければソヴェト権力の手中にあるかどちらかである。あとの場合にはソヴェト権力は、プロレタリアートに対抗するための支持を、別の階級(たとえば農民)に求めることを余儀なくされるであろうし、またこのことによって、プロレタリアート独裁としての自らを破壊するであろう。社会主義と社会主義的組織は、プロレタリアート自身によって打ち樹てられなければならない。さもなければ、全く打ち樹てられないか、なにか他のものが−−国家資本主義が−−打ち樹てられるであろう。」
「国家管理の形態は、官僚主義的中央集権制、さまざまなコミッサールの支配、地方ソヴェトからの自主性の剥奪、下から管理する『コミューン国家』形態の事実上の拒否、へと発展するにちがいない。」
しかしこの段階では反対派の批判はいわば原則的な路線批判であり、党―ソヴェトにおける抑圧的な政治関係への弾劾が前面化しているわけではない。少なくとも党内での公然たる批判、分派形成、党内論争は当然のこととして許容されていたのである。
だが開始された内戦を「戦時共産主義」の施行をもって勝利的にくぐりぬけたとき、この問題は「ソヴェト官僚主義」のみならず「党官僚主義」の生成へと発展してきており、それへの危機感のもとで形成された「デツィスト」(「民主主義的中央集権派」)、そしてそれをさらに拡大した「労働者反対派」の批判は陰鬱なトーンを帯びることになる。しかし批判はなお容認されており、彼らは事態の抜本的な改変を要求して、その克服の方向をつぎのように提起している。
「いま官僚的機関の鈍重なイニシアティヴと活動に依拠している経済機関の現行のシステムと方法を根本的に改造することによってのみ、わが国の生産力の復興および昂揚、崩壊からの脱出が可能になり、達成され得るのである。組織された価値生産者の頭を飛び越して、疑わしい質のブルジョア専門家である任命指導者によって官僚主義的方法で行使される経済政策の実施機構は、経済管理における二元支配をもたらした。すなわち、それは経営委員会と経営管理者との間に、また労働組合と経済的国家機関との間に無限の衝突を生み出した。この機構によってつくられた諸関係は、広範な労働者階級の中の経済建設への情熱の発生を妨害し、経済的崩壊の克服への労働者階級の組織的参加を不可能にさせている。このような機構は拒否されるように決定されなければならない。」
「国民経済全体の管理の組織化は、労働組合に組織された生産者の全ロシア大会の義務である。この大会は共和国の全経済を指導すべき中央機関を選出する。」
これらボルシェヴィキ「革命政治」の根底を問う批判に対して、レーニンは個々の事実については容認した場合でも(たとえば「コミューンの原則」からの後退、官僚主義の形成、等)、批判者たちが拠ってたつ政治思想については全面的な論駁を行い、さらにその政治的帰結に対しては徹底的に拒絶し、批判勢力を組織的に封じ込めている。
ここでは両者のうちどちらが正しかったのかということを検討することが直接的な課題ではないが、その後の経過から見るとき、そしてブロレタリア革命の原則からいって「左翼共産主義者」「デツィスト」「労働者反対派」の批判は正鵠を射ていたと言いたいところである。しかし事はそのように単純明快ではない。この問題に一定の判断をくだすためには、幾つかの手続きを必要とする。
ここではソヴェト権力がおかれた困難きわまりない状況を背景として展開された論争の全容を追うことはできないが、党―ソヴェトにおいて形成されつつあった政治関係の評価に絞って両者の対立性格を検討してみるとき、各々が不可分な関連にある一連の問題群が浮かび上がってくる。
それらは〈1〉現時機の把握と任務、〈2〉「媒介環」の押さえかた、〈3〉「党性」の把握のしかた、〈4〉「党―ソヴェト官僚制」への態度、〈5〉公的規制力の評価、等であった。
そしてそれら現時機の評価、個々の政策をめぐる対立の根底にあって、深いところからそれらを規定していたのは、既成の官僚的・軍事的統治機構を破壊した後に可能となり、したがってめざすべき課題は、純粋な「社会的力」の発現であるか、あるいは本来的な「政治的力」の形成であるかという一つの原則問題での把握の相違であった。
これらの問題群についてのレーニンの見解は、『ソヴェト権力の当面の任務』『食糧税について』等に示されている。
〈1〉現時機の特異性と任務−−「われわれボルシェヴィキ党は、ロシアを説得した。われわれは貧乏人のために金持ちの手から、勤労者のために搾取者の手から、ロシアをたたかいとった。いまは、われわれはロシアを管理しなければならない。そして現在の時機のいっさいの特色、いっさいの困難は、人民を説得し搾取者を軍事的に弾圧するという主要な任務から管理という主要な任務への移行の特殊性を、理解することである。」
「もしわがプロレタリアートが、権力を獲得したのち、全人民的な規模での記帳と統制と組織の任務を、急速に解決していたならば−−(このことは戦争とロシアの後進性のために実現できなかったが)−−、そのときはわれわれは、サボタージュを粉砕し、全般的な記帳と統制とによってブルジョア専門家をも完全に服従させていたであろう。しかし一般に記帳と統制とがいちじるしく『たちおくれた』ために……いまやわれわれは、古いブルジョア的なやり方に訴えて、ブルジョア専門家のうちの大物の『サーヴィス』には非常な高給を支払うことに、同意しなければならなくなった。……このようなやり方が、一つの妥協であり、パリ・コミューンの原則やあらゆるプロレタリア権力の原則からの後退であることは明白である。」
「われわれは、われわれの誤りや弱点をかくさないでまだやりおえていないことを適時にやりおえるように努力しながら、社会主義への最高度に困難な新しい道の特殊性を研究しなければならない。ブルジョア専門家を法外に高い給料で引き寄せることは、コミューンの原則からの後退である。このことを大衆にかくしておくならば、それはブルジョア政治屋の水準に堕落して、大衆を欺くことを意味しよう。どのように、またなぜ、われわれは一歩後退したのかということを、おおっぴらに説明し、それから、手ぬかりをうめあわせるためにどのような手段があるかを、公然と論議することは、大衆を教育し、経験にまなび、彼らとともに社会主義建設をまなぶことを意味する。」
〈2〉「媒介環」の押さえかた−−「いま、ロシアではまさに小ブルジョア的な資本主義が優勢であるが、それからは、大規模な国家資本主義へも、また社会主義へも、同一の道が通じているのであり、『物資の生産と分配にたいする全人民的な記帳と統制』と呼ばれる同一の中間駅を経由して道が通じているのである。このことを理解しないものは、現実の事実を知らず、現にあるものを見ることができず、真理を正視する力がないか、あるいは『資本主義』を『社会主義』に抽象的に対置するにとどまって、現在わが国でおこなわれているこの移行の具体的な諸形態と程度とをふかくきわめようとしないかして、許しがたい経済的誤謬をおかしているのである。」
「『われわれ』プロレタリアートの前衛、先進部隊は、直接に社会主義に移行する。しかし、先進部隊は全プロレタリアートの小部分にすぎないものであり、プロレタリアートは、それはそれで、全住民大衆の小部分にすぎないのである。そこで『われわれ』が社会主義へのわれわれの直接的移行という任務を首尾よく解決するためには、そのためには、どのような媒介的な道、やり方、手段、補助策が、資本主義以前の諸関係の社会主義への移行に必要であるかを理解しなければならない。ここに核心がある。」
「家父長制から社会主義への過渡段階、媒介環」
〈3〉「党性」の把握のしかた−−レーニンの批判は「労働者反対派」の「国民経済全体の管理の組織化は、労働組合に組織された生産者の全ロシア大会の義務である。この大会は共和国の全経済を指導すべき中央機関を選出する。」という命題に集中している。
「これや、これに類する無数の言明の基礎にある思想は、理論的に根本からまちがっており、マルクス主義および共産主義とも、また、すべての半プロレタリア革命や現在のプロレタリア革命の実践上の経験の総括とも、完全に手を切るものである。第一に、『生産者』という概念は、プロレタリアと、半プロレタリアや小商品生産者とをいっしょにするものであり、こうして、階級闘争という基本的概念に、また諸階級を正確に区別するという基本的要求に、根本的に背反するものである。第二に、党外大衆をあてにすること、あるいは、彼らにこびを呈すること−−これは引用した命題に現れている−−は、前者におとらず根本的に、マルクス主義に背反するものである。」
「このようにして、プロレタリアートの労働組合にたいする党の指導的・教育者的・組織者的な役割も、また半ば小市民的およびまったく小ブルジョア的な勤労大衆にたいするこのプロレタリアートの指導的・教育者的・組織者的な役割も、まったく回避され、排除されている。そして、ソヴェト権力によってすでにはじめられた新しい経済諸形態の建設の実際の仕事をつづけ是正していくのでなくて、この仕事の小ブルジョア的・無政府主義的な破壊がおこなわれている。」
「エンゲルスに生産者の連合についての考察があるということをよりどころにしてこの条項を擁護することは、けっして出来ないということを、われわれはすでに明らかにしたようにおもわれる。なぜならエンゲルスが言っているのは、階級のない共産主義社会のことであるのは、全く明瞭であって、当該の箇所を厳密に参照してみればわかることだからである。……マルクスとエンゲルスのすべての著作からして、彼らが、階級がまだある時期と階級がもうなくなった時期とを、峻別していることを、よく知っている。マルクスとエンゲルスは、共産主義になる以前に階級が消滅するというような考えや、言説や、仮定を容赦なく嘲笑して、共産主義だけが階級を廃絶する、と言ったのである。われわれは、この階級の廃絶という問題がはじめて実際に提起されており、農民国に現在労働者階級と農民という二つの基本的な階級がのこっているというような状態に達したのである。さらにそれとならんで、資本主義の残存物と遺物の幾多のグループがある。わが党の綱領は、われわれは第一歩をすすめている、まだ幾多の過渡段階があるであろうと明確に述べている。だが、われわれは、現在反対派があたえているような理論的規定をあたえるのは正しくないことを、われわれのソヴェト活動の実践と革命の全歴史とのなかで、たえず明瞭に見てきた。……ここで、われわれは問題の核心にはいった。ブロレタリアートに敵意をもつような階級がまだのこっているような状態がありうる。だから、われわれは、エンゲルスが問題としているものを、いますぐ実際につくりだすことは出来ないのである。まずブロレタリアートの独裁がくる。そのあとで無階級社会がくるであろう。」
ここで主張されている「党の指導的・教育者的・組織者的な役割」ということは、無根拠なままでの先験的な指導権の要求ということではなく、将来の「無階級社会」に至る過程は、革命後の過渡期社会においても、国家と「政治」一般が死滅するのではなく、既成のそれの廃絶を通じて、本来的な「政治」とその組織形態が再生するのであり、そこでは新たな性格の媒介的政治性が作用するという把握にもとづいている。
そのことは、ドイツ共産党から分裂した「共産主義労働者党」の「党の独裁か、それとも階級の独裁か? 指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?」というような主張への批判のしかたをみれば明らかであり、そこでは明確に「共産主義の立場から党派性を否定することは、(ドイツにおける)資本主義崩壊の前夜から、共産主義のもっとも低い段階にでも中位の段階にでもなくて、もっとも高い段階に一足とびにゆくことを意味する。」というふうに述べられている。
〈4〉「党―ソヴェト官僚制」への態度−−「一〇月革命から、われわれが古い官僚主義機構を上から下まで打ちこわしてから半年たったころは、われわれはまだこの悪を感じていなかった。さらに一年たった。一九一九年三月一八日―二十三日のロシア共産党第八回大会では、新しい綱領が採択されたが、この綱領では、この悪をみとめることをおそれず、これをあばきだし、暴露し、さらしものにし、この悪と闘うための思想と意見とエネルギーと行動を呼びおこすことをのぞんで、われわれは率直に、『ソヴェト体制内部における官僚主義の部分的復活』と述べている。さらに二年たった。官僚主義の問題を審議した(一九二〇年一二月)第八回ソヴェト大会ののち、官僚主義の分析ともっとも密接に関連のあった論争に結末をつけたロシア共産党第十回大会(一九二一年三月)ののち、一九二一年の春には、われわれはこの悪がさらにいっそうあきらかになり、さらにいっそうはっきりとし、さらにいっそう恐ろしいものになって、われわれのまえに現れるのをみた。」
「官僚主義の経済的根源はなにか? この根源は、主として二とおりある。一方では、発展したブルジョアジーは、まさに労働者(と部分的には農民)の革命運動に対抗して、官僚機構を、まず第一に軍事的な、つぎに裁判所等々の官僚機構を必要とする。われわれには、それがない。われわれの裁判所は、ブルジョアジーにたいする階級的裁判所である。われわれの軍隊は、ブルジョアジーにたいする階級的軍隊である。官僚主義は軍隊のなかにあるのではなく、これに奉仕する機関のなかにある。わが国には、官僚主義のいま一つの経済的根源がある。すなわち、小生産者の分散した、ばらばらな状態、その窮乏、非文化性、道路のない状態、文盲、農業と工業との取引の欠如、両者の結びつきと相互作用との欠如がそれである。これは大半が内戦の結果である。……官僚主義は『包囲』の遺産として、小生産者のばらばらに分散された状態の上部構造として、その姿を完全に明るみに出してきた。」
ここからネップという「媒介環」を通じての社会主義への接近が、官僚主義克服のためにも不可欠とされることになる。
だが、この段階ではレーニンは官僚主義の問題をいまだ旧ツァーリ官僚制の精神的・人的遺制、あるいは経済的・文化的立ちおくれが生みだす「上部構造」というふうにとらえており、「革命政治」の内部からの、その疎外態としての抑圧的「政治」の生成という視点は希薄なわけである。このことの問題性はのちにみることにしよう。
〈5〉公的規制力の評価−−「単独処理の独裁的権限は、民主主義とも、国家のソヴェト的な型とも、集団管理とも、両立しないかのような意見が、非常にひろまっていることは疑いない。これ以上に誤った意見はない。民主主義的組織原則−−大衆が一般的な規則や決定や法律の審議に参加するだけでなく、その遂行にたいする監督に参加するという提案と要求が、ソヴェトによって実行されるという最高の形態での民主主義的組織原則−−それは大衆に属するひとりびとりが、市民のひとりびとりが国法の審議にも、自己の代表者選出にも、国家の諸法律の実施にも、参加できるような条件のもとにおかれなければならないということを意味する。しかしこのことから、個々の場合に、一定の執行機能にたいし、一定の実施にたいし、ある期間の共同労働の一定の過程にたいする指導にたいし、だれが責任を負うかということについて、いささかでも混乱あるいは無秩序が許されるという結論は、絶対に生じない。」
「われわれは無政府主義者でなければ、資本主義から社会主義へ移行するためには国家が、すなわち強制が必要であることを、みとめなければならない。強制の形式は、その革命的階級の発展程度によって、それから、たとえば、長い反動的戦争の遺産といったような特殊事情によって、さらにまた、ブルジョアジーや、小ブルジョアジーの反抗の形態によって、きまる。したがって、ソヴェト的(すなわち、社会主義的)民主主義と、個々の人が独裁者的権力を行使することのあいだには、どのような原則的矛盾もけっしてないのである。プロレタリア独裁がブルジョア独裁と異なっている点は、前者が多数の被搾取者のために、少数の搾取者に打撃をくわえるということであり、さらにまた、プロレタリア独裁を−−個人を通じても−−実現するのは、たんに勤労被搾取者の大衆だけではなくて、こういう大衆を歴史的創造活動にめざめさせ、それに立ちあがらせるようにつくられている組織(ソヴェト組織はこういう組織にはいる)でもあるということである。」
ここでレーニンが「独裁的権限」「強制」など極端化したかたちで挑発的に言わんとしているのは、革命による解放とは、疎外されたままでの私性の解放ではなく、その「止揚」としての新たな公性と私性の関係の形成であり、それは無媒介的に実現可能なわけではなく政治的なかたちをとるものであるかぎり、公的規制力を伴うということであった。
革命が新たな公性の再形成であることはレーニンによってつぎのように自覚されている。「ソヴェト的な国家的統制と記帳という思想を大衆のなかにうえつけるための闘争、この思想を実現するための闘争、衣食の獲得を『私的』な仕事と見、売買を『私だけに関係した』取引と見る癖をつけてしまった、のろわれた過去と関係をたつための闘争−−この闘争は、世界史的意義をもつ偉大な闘争であり、ブルジョア的・無政府主義的自然発生性にたいする社会主義的意識性の闘争である。」
「物資の生産と分配の記帳と統制の問題」は「資本主義のもとでは、それは個々の資本家、地主、富農の、『私事』であった。ソヴェト権力のもとでは、それは私事ではなくて、もっとも重要な国事である。」
以上、批判者たちへのレーニンの論駁を、さきにあげた問題群にしぼってその骨子をたどってみたわけだが、そこにはレーニン政治思想の顕著な特質としての、所与の情勢の全体的分析、「現時機」の固有の特殊性の把握とそれに適合した戦術的「環」の設定、移行の過渡的媒介形態の開拓等、いわゆる「弁証法」的思弁力が、批判者をはるかに凌駕する政治的射程力をもって示されている。
そして重要なことはそれを可能とした根拠の一つとして、革命による解放過程の媒介的政治性という本質論次元での把握があったということである。このことをぬきにして「革命的リアリズム」と言ったところで仕方がないのである。
そのことはすでに『国家と革命』において提起されていたことであり、かの「半国家」論、「もはや国家ではないあるもの」としてレーニンが新たに概念設定した対象領域もそのことに関わっている。その「半」ではあるが「国家」性の存続、「本来の国家」ではないが「国家の死滅」した状態でもない「あるもの」性がはらむ公的規制力は、ただ「搾取者の反抗を抑圧するため」の必要悪の残存形態ということではなく、既成の国家権力と対抗的に分化した新たな公性の現実形態でもあるのである。
このように言うことは、「国家の死滅」を無限に遠ざけることであるようにみえて、おそらく事態は逆なのであり、新たな公性の再生を通じてのみ「国家の止揚」が可能となるのである。レーニンはそのことを「国家権力の諸機能の遂行そのものが全人民的なものになればなるほど、ますます国家権力の必要度は少なくなる。」というふうに言っている。
しかし他方そこにはレーニン政治思想のはらむ危うい問題性もまた見逃しえないものとして示されてしまっている。
「われわれは無政府主義者でなければ、資本主義から社会主義へ移行するためには国家が、すなわち強制が必要であることを、みとめなければならない。」とレーニンが言うとき、それは実現すべき新たな政治的共同性の本質的属性、すなわちそこでの複数の政治的諸力の対立と共同の非抑圧的な政治形態の開拓ということをふまえてのものだったかということである。
すでに「大衆は、自分たちのために責任ある指導者をえらぶ権利をもたなければならない。大衆は、彼らを解任する権利をもたなければならない。大衆は、どんなに小さくとも、彼らの活動の足取りをすべて知悉し、点検する権利をもたなければならない。大衆は、例外なくすべての労働者成員を管理機能に推挙する権利をもたなければならない。」というレーニンの主張が、直接的にはもちろん、いわゆる「民主主義的中央集権」的な党内手続きによっても極度に困難になってきているとき、その把握の有無は事態への対処に大きな影響をもたらすことになる。
「デツィスト」さらに「労働者反対派」の批判はまさしくそれをめぐっていたのだが、しかしその批判のしかたは、新たな政治的共同性がはらむ公的規制性とその頽廃形態としての抑圧的「政治」が混同されたまま「抑圧性」一般とみなされ、それに対して抽象化された「労働者民主主義」が対置されることにより、「政治」一般を撤廃すれば抑圧的「政治」も消え去るというようなものとなってしまっており、その結果、さきに見た問題群でいえば、〈1〉、〈2〉、〈3〉の革命の現実過程においては死活的な課題に耐ええないものとなっていると言えよう。
公的規制性と「民主主義的組織原則」とのあいだには「どのような原則的矛盾もない」と言うレーニンにとっても、その均衡を保持することの至難性、頽廃の危険性は自覚されていなかったわけではないのだが、レーニンが避けようとしていたのは、現実的には破綻を意味する「集団管理か単独責任制か」という抽象的な二者択一であり、それをこえた解決形態が模索されているように思われる。つぎのような言葉はそのことを示している。
「ソヴェトが勤労『人民』と密着しているということこそ、リコールその他の下からの統制の特殊な形態をつくりだすのであるが、これらの形態は、現在、とくに熱心に発展させなければならない。……ソヴェトをなにか固まってしまったもの、自足的なものにしてしまうほど、ばかげたことはない。われわれが現在、過酷なほど毅然とした権力を決然と擁護し、純行政的な諸機能の一定の時機における、一定の作業過程のための、個人の独裁を決然と擁護すればするほど、ソヴェト権力を歪曲するわずかの可能性をもことごとくなくすために、またくりかえししつっこく生えてくる官僚主義という雑草を根絶するために、下からの統制の形態と方法とはますます多様でなければならない。」
しかしすでにふれたように、その「下からの統制」活動を制度的・心理的に不可能とするか、あるいはそれらをも自らの政治的利害の物理力へと簒奪していく抑圧的「政治」が、「革命政治」の内部から生成してきていたのである。
すなわち、公的規制力を伴う本来的「政治」の形成は不可避な媒介であるが、「それを通じて疎外が生まれる媒介」(マルクス)として、抑圧的「政治」もまたそこから生みだされうるという「ジレンマ」をレーニンとボルシェヴィキ「革命政治」はかかえ込んだのである。
そのことを見るまえに、このボルシェヴィキ「革命政治」の「抑圧性」をどう評価するかということにとって重要な意味をもつ問題、すなわちそこでは政治的対立の克服のしかた、政治的異論の扱われかたはいかにしてなされたかということについてみておこう。
2 「分派禁止」決議の評価について
生起した党内対立の克服のしかた、とりわけその過程で政治的異論の評価のしかたは、党内に形成された政治関係が、新たな政治的共同性の種々のゆき過ぎや逸脱を含む現実形態であるか、あるいはその頽廃形態としての抑圧的「政治」の生成であるかの重要な判断指標の一つである。
たとえばレーニン主導下のボルシェヴィキ党の内部的政治関係と明らかに異なるスターリン時代の特徴の一つとして印象的なことがある。
そこでは「反対派」「偏向」「日和見主義」「分派」等々の表現は、それに「陰謀」「挑発」「裏切り」「投降」等々の語感が伴うことになるのみならず、文字通りそれらの言葉と組み合わされて使用されたことに示されるように、反対派は、政治的異論あるいは政治的誤りとして対処されるのではなく、政治的かつ倫理的罪悪として遇されることになる。もちろん、スタ的抑圧「政治」がある日突然完成された姿で登場したわけではなく、レーニン主導下のボルシェヴィキ党においても、すでにそれは萌芽的に生成していたのだが、しかしそこでは少なくともそれが基調とはなっておらず、それに対抗し、克服しようとする思想と実践は健在だったと言えるだろう。事実ソヴェト権力初期のボルシェヴィキ「革命政治」には、中央部批判、相互批判の自由な雰囲気があったことが証言されている。誰しも恐れをいだくことなく、自らの政治的見解を表明できたわけである。
もっとも、政治的対立が生みだされたときのレーニンの態度を「公明正大」「不偏不党」として描きだす必要はない。自らの政治的見解を他者の組織化を通して貫徹せんとする組織者として行動するかぎり、内容的な思想戦のみならず、「狡智」を働かしての組織戦は不可避となり、そこには「身内びいき」や、多数派工作のための「小陰謀」や「策略」も否応なしに伴うからであり、レーニン自身そういうことに無縁だったわけではない。
だがレーニンの場合、激しい政治的対立とそれに伴う政治的悪罵の応酬のなかに個人的憎悪、怨恨を含むことはなかったということがよく言われる。レーニン自身、のちに見るグルジア問題のなかで「この場合には、スターリンの性急なやり方と行政者的熱中が、さらに評判の『社会民族主義者』にたいする彼の憎しみが、致命的な役割を演じたとおもわれる。総じて憎しみは、政治では、通常、最悪の役割をはたすものである。」というふうに言っている。
ここには人格的資質の問題もあるが、しかしわれわれがとらえ返していかなければならないのは、その根底にある政治思想についてである。
すなわち、政治的異論発生の本質的な根拠をどのようなものとして把握しているか、言いかえれば新たに形成されつつある政治的共同性の内部的あり方がどのようなものとして把握されているかという問題である。革命による解放過程は「媒介そのものの止揚」としての全的解放状態の即時の招来としてあるのではなく、複雑な過渡的・媒介的性格を帯び、そこで形成されていく共同性は一挙的な「国家と政治の死滅」を意味するのではなく、レーニンの表現でいえば「半国家」「もはや国家ではないあるもの」、すなわち新たな政治的共同性の再生という姿をとっていく。
このことをその内部的あり方の問題としてみれば、そこでは複数の選択肢のもとでの異なる政治的見解の対立と共同がその本質的属性となることを意味しており、それは「階級的利害」の反映を伴うこともありうるが、しかしすべてをそれに還元することは誤りとなる性格のものであり、それをどのように克服していくかが重要な課題となる。
そこではある政治的見解の独占的正しさということはありえず、対立意見の発生はそれなりの根拠、場合によっては積極的意義をもつものとして不可避であり、かつ「政治的正しさ」ということも当初から過不足ないかたちで先験的に存在するのではなく、論議と相互批判の応酬のなかから形成されるものであること、したがって政治的誤りが公然と批判されなければならない場合でも、それはあくまで政治的限界としてであり、誤りの根拠を「邪悪な意図」や人格的腐敗として描きだし、その結果「自己批判」ということも全面的な自己否定、悔悟と忠誠の公開的表明としてのみ許容されるというような処遇は誤りであるということである。
以上のような視角からレーニンの「半国家」論、「プロ独」論をみるとき、そこには原則論次元での「プロレタリア民主主義」論において、また状況が強いたものとしての「一党独裁」、さらにつぎに見る「分派禁止」などの措置において、ボルシェヴィキ「革命政治」の「抑圧性」を新たな政治的共同性が不可避に伴う公的規制性一般と同義とすることを躊躇させる問題的な偏差がはらまれていると言わざるをえないのだが、しかしその帰結まで煮つめられていないにせよ過渡的・媒介的過程が徹底的に重視されている点において開かれた政治性への道は閉ざされておらず、それはきわどいところで保持されていたと最低限言いうるであろう。
そのことはたとえば「左翼共産主義者」「デツィスト」「労働者反対派」との党内論争の過程でも示されている。
そこではまず、政治的異論に対するレーニンの反批判が、たとえばさきにみた〈1〉、〈2〉、〈3〉、〈4〉、〈5〉というような諸点をめぐって内容的に展開されることに努力の大半が費やされることになる。それは一言でいって現時機と任務の設定における全面的、弁証法的把握の欠如という批判である。
それではなぜ論敵はそのような政治的誤りに陥ったのかということの心理的背景として、レーニンがよくあげる印象的な論点の一つは、事態の急激な転換あるいは非常な困難さ等の事実の圧倒的な重みに押しつぶされての動揺、あるいは党外の小ブルジョア的動揺の感染、という評価のしかたである。
「あなたはいくつかの悲しむべき、苦い諸事実に押しつぶされて、冷静に力関係を評価する力を失ってしまった。」(「ミャスニコフ氏への手紙」)
このことはその誤りに固執しないかぎり他者の政治的人格はその訂正によって復元可能なものとして把握されていることを意味する。
以上のことをふまえた上でわれわれがレーニンの対応について検討しなければならないことが幾つかあるわけだが、ここではつぎの二点に絞ってみよう。
その一つは、レーニンによる論敵批判の論理のなかにもはらまれており、のちにスターリン時代において猛威をふるうことになる対立意見の「客観的役割」論、「階級的根拠」論の問題である。
もう一つは、第一〇回党大会におけるかの「分派禁止」の措置についてである。
これらの問題は、反対派に対するスターリン主義的な抑圧的論理はすでにレーニン主義のうちにはらまれていた証左とされる場合があり、事実スターリンはしばしばレーニンからの引用によって自らの論理を構成している。
最初の問題からみていこう。
「左翼共産主義者」に対して−−「(ブレスト講和反対の革命的空文句は)これは大衆を欺くものである。いま戦争をしたいなら、あからさまにそう言いたまえ、いま退却したくないならあからさまにそう言いたまえ。さもなければ、諸君は、その客観的役割からいえば、帝国主義的挑発の道具である。諸君の主観的『心理』は激怒した小ブルジョアの心理である。」
「ここにあげた『左派』のテーゼのような議論は、最大の恥さらしであり、事実上完全な共産主義否認であり、ほかならぬ小ブルジョアジーのがわへの完全な移行である。」
「労働者反対派」に対して−−「したがって『労働者反対派』やそれに類する分子の見解は、理論的に正しくないばかりでなく、実践的にも、小ブルジョア的および無政府主義的なぐらつきの現れであって、共産党の首尾一貫した指導方針を実践的によわめ、プロレタリア革命の階級敵を実践的にたすけるものである。」
この「客観的には」論、「階級的根拠」論は、われわれがスターリン主義の抑圧的「政治」の論理構造を把握する上で重要な課題の一つなのだが、しかしこの論理それ自体をもって即スターリン主義的抑圧性とすることはできない。
ある主観的意図が、客観的には別の役割を果たしてしまうということは、政治的言動が諸関係のなかで機能するものである以上充分ありうることであり、とりわけ階級的対立が激化し、内的政治関係と対外的政治関係が相互浸透する状況のもとでは、そのことに無自覚なままの言動が政治的誤りを構成してしまうことは起こりうるのである。
この背反構造そのものをあらかじめ免れている政治的言動というものはありえず、またそれを免れうる何か別の思想的原則というようなものがあるわけではなく、可能なことは「情勢の全体的分析」「現時機の特質の把握」「複雑な過渡的措置の全体系」の設定を通じて「政治的正しさ」に接近することである。
そうであるかぎり、論敵批判のなかにこの論理が登場するのは不可避であり、事実この論理はボルシェヴィキの専売特許ではなく、ジャコバン独裁の「恐怖政治」のもとでも「愛国者とは全体において共和国を支持する者であり、細部についてそれを攻撃する者は裏切り者である。」(サン・ジュスト)というような論理が用いられている。問題はそれが内容的に論敵の政治的誤りの論証となっているか、あるいは対立意見封じ込めと断罪の口実となっているかの見きわめであり、前者から後者への頽廃的移行を封じることである。
しかしこの論理をそれとして弁別し、うち破ることはそう容易なことではない。なぜならそれはただ詐術、牽強付会なのではなく、それなりの論拠をただちに動員しうるものとして侮りがたい呪縛力をもつのであり、しかもその抑圧性の真の所在は、それが相手の階級的倫理性を逆手にとって動揺させ、その意志をうち砕くものとして作用するというところにあることに注意すべきであろう。(モスクワ裁判記録、ソルジェニーツィン『収容所列島』等を参照。その呪縛力は一時期のメルロー・ポンチに『ヒューマニズムとテロル』というこの論理の「内在的理解」とでも言うべき文章を書かしめたほどである。)
レーニン自身のこの論理の用いかたにも必ずしも歯止めがなされていたわけではない。たとえばレーニンがソヴェト刑法典の作成にあたり、ソヴェト権力に敵対する他党派の反革命運動について述べた「同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェヴィキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これらの活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけなければならないと思う。」という言葉がある。ソルジェニーツィンがレーニンの思想とのちの粛清裁判の論理の連続性の証左としたものである。そしてそれはかの「刑法五八条」として成文化され、のちにスターリンのもとでボルシェヴィキ党内反対派に適用されることになり、モスクワ粛清裁判等において猛威をふるうことになる。
だがわれわれが見落としてはならないのは、レーニンがこの論理をもって論敵を批判するとき、その批判の大半はさきに見た意図と結果の背反構造の解明に費やされており、そのことへの無自覚が政治的誤りを構成するというふうに押さえられていること、さらに反対派への批判は党中央を批判すること自体に対してではなく、その内容と形態をめぐっており、かつそれはソヴェト権力の命運との関係でなされているということであろう。
その際レーニンは「偏向」「潮流」「分派」等の表現の使用には慎重であり、たとえば「労働者反対派」がレーニンの「サンディカリズム的・無政府主義的偏向」という規定に抗議したのに対して「この言葉は法外なものではなく、よく考えぬかれた言葉である。偏向はまだ完成された潮流ではない。偏向は、訂正することのできるものである。いくらか道を迷ったか、あるいは迷いかけているのだが、まだ訂正することはできるのである。……この言葉は、ここにはまだ決定的なものはなにもなく、ことは容易に訂正できるのだということを強調している。この言葉は、警告を発し、問題を完全な形で、原則的に、提起しようという願望をしめしている。もし誰かが、この考えをもっと十分に言いあらわすロシア語をみつけてくれるなら、そう願いたい。」というふうに述べている。
以上のように、レーニンにおいてはこの論理の頽廃的使用はきわどいところで封じ込められていたと言えよう。だが、深刻な対立状況の深まりそのものが強いる本来的「政治」空間の抹殺への圧力に耐えてこの思想的緊張を保持することは至難であり、かつレーニン自身がこの問題をはっきり意識化する時機がなかったこともあって、レーニン死後のボルシェヴィキ党党内闘争の過程ではこの論理の頽廃形態が党内を制覇していくことになる。
ここではとりあえずその諸契機を、〈1〉新たな政治的共同性の性格、すなわちそこでは異なる政治的見解の対立と共同の非抑圧的展開が本質的属性となることが把握されていないこと、〈2〉党中央あるいは一グループの政治的立場、利害が、革命の命運、ソヴェト権力の命運と等置され、党中央を批判すること、さらに党員が独立した見解と思考をもつこと自体が、内容的論証ぬきに政治的誤りあるいは「分派活動」とされること、〈3〉批判者自身が、〈1〉を共有していることにも起因して、一定の現実的根拠をもって登場するこの論理とその頽廃形態を弁別しえないまま、あるいは自らの階級的倫理性にもとづく自己否定によってこの頽廃的論理に呪縛されてしまうこと、というような諸点において押さえておこう。
ここからわれわれは、検討すべきもう一つの課題、すなわち第一〇回党大会での「分派禁止」措置の評価に入らなくてはならないのだが、それについてはこれまでの作業によって幾つかの手がかりを得てきていると言えよう。
この大会での特別決議「党の統一について」での「分派禁止」措置こそ、その後の党内闘争での反対派制圧にとって最大の論拠となったものであり、それがレーニンの直接の発意のもとに決定されたということの評価を避けることはできない。
『レーニン主義の基礎』でのスターリンの「分派の存在と両立しない、意志の統一体としての党」という規定が直接に依拠しているこの決議について、古くはトロツキーにより、最近ではメドヴェーデフ等により、それはあくまで当時の情勢のもとでの「非常措置」であり、それを原則として一般化することは誤りであるという評価がなされている。
たしかにこの決議は、内戦勝利後の一九二〇―一九二一年にかけて一挙に顕在化した労働者階級と農民のあいだでの動揺と不満の高まり、その党内への波及、そしてクロンシュタット反乱で頂点に達したロシア革命の深刻な危機ときり離すことはできず、ボルシェヴィキ党はこの時期、レーニンの表現によれば「われわれははじめて、外部からの急襲としてではなく、労働者階級と農民の相互関係と結びついた内部の政治的動揺を、ある程度経験した」のである。
それは戦争と革命による全般的疲弊、国際的・国内的反革命などソヴェト権力がおかれた客観的状況に由来するものだが、それに強いられたものとしてではあれボルシェヴィキ党の政治方針での「幾多の誤り」(レーニン)の是正、転換を不可避としていた。
「誤り」はとりわけ「戦争から平和への移行」、社会主義建設での「複雑な過渡的措置の全体系」「テンポ」の問題をめぐっており、レーニンはこの時期、いわゆる「戦時共産主義」の批判的総括と、のちに「ネップ」として定式化される新たな政策の検討に着手している。だが、ロシア革命のこの移行期、転換期にはその独特の階級的諸関係により「小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性」こそ「デニキン、コルチャック、ユデニッチの徒を全部あわせたものの何倍も上まわる大きな危険」となるとレーニンは強調する。
「これを克服するには、大きな団結−−しかも、形式的な団結にとどまらない団結−−が必要であり、単一の、協力一致した活動が、単一の意志が、必要である。」
「クロンシュタットの水兵と労働者の提起した権力の−−どう言ったらいいか−−移動−−彼らは商業の自由についてボルシェヴィキを訂正しようとしたのである−−、この移動が、最初はどんなに小さな、ささいなものであったにしても、スローガンが同じ『ソヴェト権力』で、わずかな変更あるいは訂正を加えたものと思われるほど、小さな移動であるように思われようとも、−−実際には、無党派分子はここでは、白衛軍が現れるための踏み台、階段、橋渡しとなったにすぎない。これは政治的に不可避である。」
「私は、この小ブルジョア的・無政府主義的反革命の思想やスローガンと、『労働者反対派』のあいだには関連があると主張する。」
「われわれはもっとも広範な、もっとも自由な討論を開始した。『労働者反対派』の政綱は、党中央機関紙の紙上で、二五万部も印刷された。われわれは、この政綱をすべての面から、あらゆる仕方で評価した。われわれはこの政綱をもとにして選挙をおこない、最後に大会に集まった。そして、大会は政治的討論を決算して、つぎのように言っている。偏向がはっきり現れた。隠れ坊遊びをするのはやめよう、偏向は偏向であり、それは訂正されなければならないと、率直に言おう。それを訂正しよう。そして、討論は、今後は理論的討論にしよう、と。」
「小さなサンディカリズム的、または半ば無政府主義的な偏向など、おそれるには足りないであろう。党は急速に、はっきりとそれを見わけるであろうし、その訂正に取りかかるであろう。しかし、もしそれが国内で圧倒的優勢を占めている農民と結びつくならば、もしプロレタリア独裁にたいするこの農民の不満が増大するならば、もし農民経済の危機が限度に達するならば、もし農民的軍隊の復員が、ぐれた、職のみつからない、戦争をやることが商売同然のならわしになり、ギャング行為を生みだす人間を街頭へほうりだすとしたならば−−理論的偏向の論議などしているときではない。そしてわれわれは、この大会ではっきりと言わなければならない。われわれは偏向についての論議をゆるさないであろうし、この問題に終止符を打たなければならない、と。党大会はそうすることができるし、またそうしなければならない。大会はこのことから適当な教訓を引きだすとともに、これを中央委員会の報告に付けくわえ、これをつよめ、固定し、かつ党の義務に、法律に変えなければならない。論争の情況は、プロレタリアートの独裁にとって最高度に危険なものとなりかけており、直接に脅威になりかけている。」
「同志諸君、いまや反対派は不必要である! 私の思うには、党大会はこの結論をくだすべきであろうし、また、いまや反対派として行動することをやめるべきであり、われわれには反対派はもうたくさんだという結論をくだすべきであろう。」
「党の団結、党内に反対派があるのを許さないことは−−現在の時機から生じる政治的結論である。」
見られるように、ここでは「分派禁止」措置の必要性は、スターリンが定式化したような党は本質的に「分派の存在と両立しない」というような論拠からではなく、第一に、政治情勢が要請するものとして、第二に、「労働者反対派」は「偏向」であり、それは訂正されなければならないという政治的結論にもとづいて主張されている。
しかしこの措置の危険性が自覚されていないわけではなく、「政治方針、政治闘争」のための分派結成と区別されたものとしての「理論討論」「特別の小冊子や論集のなかでの意見の交換」の保障と奨励をもって、党内での公的政治空間を窒息させないための努力はなされている。
また「労働者反対派」等の批判活動が全面的に否定されているわけではなく、官僚主義批判における「功績の承認」、「同志的信頼の表明」「援助を受けたいという願いの表明」としての中央委員会への推薦などが強調されている。
「根本問題について意見の相違が起こった」とき、「党員や中央委員から党に上申する権利を奪うことは出来ず……政綱にもとづいて選挙をおこなわなければならないということもありうる」ということも擁護されている。
ところで、この「分派禁止」には単に政治情勢が要請する「非常措置」ということに止まらぬものとしてレーニンによるもう一つの判断要素が介在していたように思われる。
それは分派活動を無限定に容認することはレーニンが危惧するような危険をかかえ込むことになるが、他方その禁圧は党内での公的政治空間の窒息となり、党員の自主的な活動性や官僚主義の克服に不可欠な政治的積極性の萎縮となりかねないという「ジレンマ」を二つながら克服しうる党内政治関係の新たな形態、あり方が模索されていたのではないかという問題である。
それはレーニンが「問題をこのように取りあつかってはならない。」「そのような仕事の仕方をしてはならない。」というふうに何度も強調したことなのだが、反対派あるいは批判者たちの活動形態、スタイルの評価にも関係している。
「なぜ同志シャリプニコフは人民委員であったとき、なぜ同志コロンタイは、彼女もまた人民委員であったとき、官僚主義との闘争をわれわれにおしえなかったのか? われわれ自身、われわれに官僚主義の気味があることを知っている。……官僚主義的機構がこのように膨大であるとき、どのようにそれを点検するのか? 諸君はどうやってそれを縮小するとよいか知っている−−それならば尊敬すべき同志諸君、どうか諸君の知識をおすそわけしてくれたまえ! 諸君は論争したいという希望をもっているが、一般的な声明以外に諸君は、なに一つあたえていない。そのかわり諸君は、正真正銘のデマゴギーに没頭している。『専門家は労働者を侮蔑し、労働者は、勤労共和国で囚人のような暮らしをしている』と諸君は言っている。これは−−正真正銘のデマゴギーである!」
「党からの共産党細胞の遊離? それはある。これは害悪、不幸、病弊である。それはある。重い病気だ。われわれはそれをみている。それの治療は、『自由』(ブルジョアジーのための)によってではなく、プロレタリア的・党的な手段によってすべきである。……ソヴェトを活気づけ、非党員を引きいれ、党の活動を非党員に点検させる−−これこそ絶対に正しい。ここに山ほど仕事があり、無数の仕事がある。なぜあなたは、実際的な方法でそれを発展させないのか? 大会のための小冊子のなかで? どうしてそれに着手してはならないのか? なぜ人足仕事(中央統制委員会を通じて、党の機関紙を通じて、『プラウダ』を通じて職権乱用に迫害をくわえるという)におびえるのか? 人足仕事、緩慢な、困難な、重苦しい仕事から、人々は恐慌に陥り、『容易な』打開策を、『出版の自由』(ブルジョアジーのための)を探しもとめる。なぜあなたは、自分の誤りを、明白な誤りを、『出版の自由』というような非党的・反プロレタリア的スローガンを固執しなければならないのか? なぜあなたは、あまり『かがやかしく』(ブルジョア的な輝きによる)ない仕事、職権乱用の実際の一掃、それとの実際の闘争、非党員にたいする実際の援助といった人足仕事に手をつけてはいけないのか? どこであなたは、これこれの職権乱用を中央委員会に指摘したか? また、それを訂正し、根絶するこれこれの手段を指摘したか? 一度もない。ただの一度もない。あなたは、おびただしい災厄と病弊を見いだし、絶望に陥り、そして他人の抱擁、ブルジョアジーの抱擁(ブルジョアジーのための『出版の自由』)に身を投じた。私が忠告したいのは、絶望と恐慌に陥らないようにということである。」
「党のいろいろの欠陥は無条件に批判すべきであるが、この批判はつぎのようになされなければならない。すなわち、すべて実践的な提案は、できるだけ明確な形で、すぐさま、面倒な手続きはいっさい抜きにして、党の地方および中央の指導機関の審議と決定に付する。批判をおこなうものはみな、そのうえ、批判の形式については、党が敵の包囲のもとにある状態を考慮に入れなければならず、また批判の内容については、ソヴェトおよび党の仕事に自分で直接参加することによって、党または個々の党員の誤りの訂正を実践のなかで点検しなければならない。すべて党の一般方針の分析あるいは党の実践上の経験の評価、党の諸決定の実行の点検、誤りを訂正する方法の研究、等々は、どんなばあいにも、なにかある『政綱』その他にもとづいて結成されているいろいろなグループで事前に審議したりしないで、もっぱら、直接に全党員の審議に付さなければならない。」
ここにあるのは、分派活動の禁止によってあらゆる批判活動を窒息させるということではなく、内部批判の不可避性、場合によってはその積極的意義を承認したうえで、しかしその内容と形態は、克服すべき事態に対する無責任でない実際的な働きかけへと転換され、秩序づけられていく必要があるという主張であり、生みだされた政治的対立をその相互止揚への道を閉ざす抽象的な対立という形態のまま放置し、克服の目処が立たないまま瓦解に至らしめるのではなく、それを問題の克服へ向けての具体的活動へと転轍せんとする意志であったと言えよう。
すなわち分派禁止は単なる「非常措置」ということではなく、いわば転轍器のような機能を果たすものとして期待されたわけである。このように見てくるとき、ある時機でのこうした措置そのものを、党内における公的政治空間の保障一般を論拠として原則的に誤りとすることは、レーニンが格闘した「ジレンマ」に無自覚なことを意味してしまうことになる。
だが、他方ここでのレーニンの提起は、レーニンが当然としていた「党の地方および中央の指導機関の審議と決定」の「公平さ」を保証する本来的な開かれた「政治」空間が抑圧的「政治」の浸透によって失われたとき、反対派の批判活動はその実効性を全く喪失することになる点への歯止めを欠いてしまっていると言えよう。事実「批判の内容については、ソヴェトおよび党の仕事に自分で直接参加することによって、党または個々の党員の誤りの訂正を実践のなかで点検しなければならない」という主張は、のちに見るようにスターリンのもとで「われわれは民主主義を、党員大衆の積極性と自覚をたかめるものとして、問題の審議だけではなく、仕事を指導することにも党員大衆を積極的に引きこむものとして、理解している」というふうに「継承」されて、反対派封じ込めの論拠とされていったのである。
こうしてレーニン主導下のボルシェヴィキ党においてはその政治的・思想的指導力によってきわどいところで封じ込められていたこの措置の危険な側面は、その条件が失われたとき、全面的に露呈することになる。
それは、この措置が党機関とバラバラの党員諸個人という関係のみを正規なものとして一般化することを意味する以上、その機関にある抑圧的「政治」勢力が台頭したとき、〈1〉進行している事態について考え、評価し、それに抗する意識を形成していく上で不可欠な横断的な情報交換、論議、意志疎通が公然とは不可能となり、かつ党内に疑心暗鬼が生みだされ、党内政治空間が閉ざされ萎縮したものとなっていくことによって機関の側を利すること、〈2〉その結果、独立した対抗的政治勢力の形成は「地下的」にのみ可能なこととなり、そのことがまた「分派活動」「陰謀」という弾圧の口実を与えてしまうこと、というような状況の発生である。
晩年のレーニンの活動はこういう事態との格闘に費やされることになる。
3 「レーニン最後の闘争」がはらんだジレンマ
晩年のレーニンの、主として「国家機構の改善」をめぐる活動、というより党―ソヴェト官僚主義の克服をめぐる一種悲劇的な闘争の経過と死による中断については、レヴィン『レーニンの最後の闘争』やフォティエワ回想録『レーニンの想い出の日々』等に描かれているが、ここではわれわれのテーマに関連するかぎりでの問題の一端について検討してみることにしよう。
それは、さきに見たボルシェヴィキ党党内論争でその本領を発揮したレーニンの政治思想がはらんでいたもう一つの問題的な側面の露呈についてである。
すなわち、あらゆる「媒介性」を解放過程への抑圧であるとする政治思想は克服されなければならず、媒介的政治性の領域は確固として形成されなければならないのだが、しかしそれを通じて政治的頽廃もまた生みだされうるのであり、新たな政治的共同性の本質的属性を保持しえないかぎりそれは不可避となるという深刻な認識を欠くとき、「媒介性」とその疎外形態を弁別する力を曇らせるという危険性をかかえ込むことになるという問題である。
事実、内戦後のソヴェト権力の最大の危機を党内外の「小ブルジョア的な自然発生性の動揺」ということにみていたレーニンはその克服をくりかえし強調したが、党―ソヴェトにおける抑圧的な官僚主義の生成については彼自身認めたように当初気づいていない。だが「デツィスト」「労働者反対派」等による官僚主義批判の高まりを通じて、さらには「戦時共産主義」からの転換としての「ネップ」(「新経済政策」)の推進そのものにとって、この問題が大きな阻害要因となっていることに気づくとともに急速に重要視するにいたる。
しかしこの時期、ソヴェト権力とボルシェヴィキ党が置かれた客観的条件に根本的には由来する官僚主義の生成について、レーニンはそれらを「共産党員の高慢さ」、権威主義的な「行政的手法の乱用」をふくめて、かつてのツァーリ官僚制の人的・精神的存続形態としてみており、のちにスターリン主義として全貌をあらわす「革命政治」の内部からの疎外態として、新たな人的基礎と独特な政治思想をもって生みだされた抑圧的「政治」の生成という側面の把握は希薄だったように思われる。そのことはレーニンによる官僚主義批判が主に「事務渋滞」、「命令主義」、その根底にある「文化」の不足というような側面においてなされていることにも示されている。
そしてこの問題を、党の粛清や革命裁判所の強化、労農監督部の確立をもって克服しようとしていたレーニンは、しかし「グルジア問題」の処理をめぐるスターリン等の対応を知るなかで、事は単に旧ツァーリ官僚主義の精神的影響などということではなくて、新たな抑圧的「政治」の形成であることに気づきつつあったかにみえる。
いわゆる「グルジア問題」の背景としてあるロシア革命の複雑な民族問題的側面についてはレヴィン等の関連文献を参照のこととして、ここではソヴェト・ロシアと非ロシア独立共和国諸国との関係をめぐるスターリンのいわゆる「自治共和国化」案とレーニンの「連邦化」計画との対立と政治的決裂がわれわれのテーマにとって意味しているものについてみておこう。
この対立には二つの側面があるだろう。その一つは言うまでもなく「民族問題に関する真にプロレタリア的態度」(レーニン)という原則次元での路線対立であり、もう一つは公的規制力を伴いつつも根底において開かれた「政治」と、その疎外態としての抑圧的「政治」の対立である。
最初の問題については、スターリンはレーニンのこれまでの一貫した「連邦制」批判を「忠実に」継承しただけであり、レーニンがのちに「連邦制」を主張したのはあくまで「民族的感情」を配慮した「譲歩」「過渡的措置」としてであって、スターリンへの批判も「性急すぎる」ということであり、「連邦は、ロシア諸民族の統一を、民主的・中央集権的な単一ソヴェト国家の形で実現することへ向かっての一歩前進」(レーニン)とする把握においては二人は基本的に同じ立場にたっているという評価もある。
しかしある目的へ向けての過渡的条件のほり下げが、目的そのものの内容の再検討、再構想を促すことになることはありうるのであり、この時期のレーニンの構想とスターリンのそれとはやり方の差だけだったと断定することはできないだろう。それに過渡的な事柄への対処のしかたが目的そのものの性格を規定してしまうのである。
それはさておき、ここでは二番目の問題が課題である。
実質的には属国化を意味するスターリンの「自治共和国化」案に強硬に反対したムディヴァニ、マハラッゼ等グルジア共産党中央委員会が、グルジアにおける歴史的経過、さらにはオルジョニキッゼ、スターリンらの中央集権化方針への反発の結果、多分に「民族主義的」傾向を帯びたのは事実のようであり、いまだ事態の真相をつかんでいなかったレーニン自身彼らと何度も論争し批判している。
それではなぜレーニンがカーメネフ宛の手紙において「私は戦争を、小さな戦争ではなく生か死の戦争を大ロシア排外主義に挑む。」と書き、さらに当のムディヴァニ、マハラッゼ宛に「親愛なる同志諸君、私は、あなたがたの事件を心をこめて追っている。私はオルジョニキーゼの無法ぶりと、スターリンとジェルジンスキーの共謀にたいして憤激している。私は、あなたがたのための覚え書と演説を準備しつつある。」と書くようになったのか?
のちに第一二回党大会においてブハーリンもまたこのことについて触れている。まだスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの「トロイカ」に決定的には与していなかったブハーリンはこの大会ではレーニンの意思を担わんとしており、レーニンの趣旨はグルジア党中央委員会に「民族主義的」傾向があるにしても、もっとも重大な民族主義である大ロシア民族主義、すなわち他の民族主義を触発し、諸共和国間の関係を損ないかねない傾向への批判であったというふうに発言している。
グルジア党との係争問題について、はじめオルジョニキッゼ、ジェルジンスキー、スターリン等を、彼らからの情報にもとづき支持していたレーニンは、スターリンの「自治共和国化」案を知るにおよんでそれを批判し、自らの「連邦化」案をもって是正せんとしている。だが、この段階ではレーニンはこのスターリン案が小委員会で採択されるに至る過程での抑圧的「政治」の発動を知らず、したがってそれは国際主義的原則という次元からの提起であり、スターリンに対する批判も「あまりに急ぎすぎている。」というものであった。
これに対してスターリンはかなり露骨にレーニンの主張は「民族主義的自由主義」であり、民族主義的傾向を助けるものと反批判しているが、しかしレーニン案が多数の支持を獲得する状況のなかで、その提起を受け入れている。だが、それは表現上の妥協にとどまり、その具体的条項においては当初のスターリン案の趣旨がつらぬかれており、事実その序文には「原則として正しく、完全に受け入れられるもので」あった原案を「少しばかり修正し、より精密に定式化したもの」と述べられていたのである。
二二年一〇月六日この文書はボルシェヴィキ党中央委員会で正式に採択される。これに参加できなかったレーニンはカーメネフ宛の手紙のなかで「大ロシア排外主義との生死をかけた闘い」を表明することになる。
この後、第一次の発作から小康状態に向かったレーニンは非常な危機感をもって第一二回党大会に向けての一連の重要な提起を行っているが、「グルジア問題」を中心とする民族問題もその一つであった。
この時期レーニンはグルジア党中央との係争問題の経過についての再調査に多くの時間を割いている。それはレーニンがこの問題のもつもう一つの重要な側面、すなわちスターリン原案への原則的批判のみならず、それがグルジア党中央の反対を押しきって専門委員会で採択される過程での抑圧的「政治」の発動という問題に関心を集中してきていることを示している。
マハラッゼらグルジア党側からの要請もあって、ジェルジンスキーを中心とする調査委員会によってこの問題の調査が再開され、それとは別にルイコフも現地にとび、各々の報告がレーニンにもたらされている。決して公平とは言えない構成メンバーによるジェルジンスキー委員会の報告を通してすら、幾つかの深刻な事態が明らかとなり、大きなショックを受けるなかでレーニンは、すでに党中央の公的機関の調査結果を全面的に鵜呑みにすることはできないという判断のもとに、多くの悪条件のもとで、彼の秘書たちによる独自の情報収集と公的資料の批判的な再分析を行ってもいる。
フォティエワによれば彼らはつぎのような項目のもとに作業を行ったという。
「〈1〉前グルジア中央委員会が偏向について非難されたのは何故か。
〈2〉彼らが党規律を破ったとして非難されたのは何故か。
〈3〉トランスコーカシア党委員会がグルジア中央委員会を抑圧したとして非難されたのは何故か。
〈4〉圧迫の物理的手段(いわゆる「生物工学」)。
〈5〉ウラジミール・イリイッチが不在の時と健在の時とに、ロシア共産党中央委員会の取った路線。
〈6〉委員会は、その作業中に誰と接触したか。それはグルジア中央委員会にたいする非難を調査しただけなのか。それともトランスコーカシア党委員会にたいする非難も調査したのか。それは「生物工学」事件を研究したのか。
〈7〉現在の情勢。選挙運動、メンシェヴィキ、抑圧、民族的な紛争。」
その後さらにレーニンによる新たな指示がつけ加えられている。
「三つの要素。1)人を殴ることは許されていない。2)譲歩は不可欠である。3)小国を大国と同列においてはならない。スターリンは(事件について)知っていたのか。何故、彼はそれについて手をうたなかったのか。」
これら一連の再点検過程で明らかになったことは、スターリン原案が専門委員会で採択される過程でオルジョニキッゼ、スターリン等によって上級機関権限の名によるグルジア党中央委員会への行政的抑圧がなされていること、「民族主義的偏向」という表現が政治的論争での批判としてではなく、政治的かつ倫理的悪であるかのように浴びせかけられていること、それらに抗議して総辞職したグルジア党中央委員会に代わってただちに新中央委員会が上から任命され、前中央委員会指導部にはモスクワへの召還命令が出されたこと、それらの係争のなかでオルジョニキッゼが中央委員会の一員であるカバニッゼを殴打したこと、等々の諸事実であった。
事態の深刻さの衝撃のなかでレーニンはつぎのように述べることになる。
「同志ジェルジンスキーが私に告げたように、オルジョニキッゼが腕力をふるうという行きすぎをやるところまで事態がすすんだとすれば、われわれがどんな泥沼にはまりこんだかは想像にかたくない。明らかにこの『自治共和国化』の企ては根本的にまちがっており、時宜をえないものであった。」
「この場合には、スターリンの性急なやり方と行政者的熱中が、さらに評判の『社会民族主義者』にたいする彼の憎しみが、致命的な役割を演じたとおもわれる。総じて憎しみは、政治では、通常、最悪の役割をはたすものである。」
「見せしめのために同志オルジョニキッゼを処罰し、またジェルジンスキーの特別委員会の資料を全部あらためて追審し、調査する必要がある。これは、そのなかに疑いもなくふくまれている大量のまちがった偏見にとらわれた判断を訂正するためである。この真に大ロシア人的・民族主義的なカンパニア全体にたいしては、もちろんスターリンとジェルジンスキーに政治的責任をとらせなければならない。」
グルジア問題にあらわれた事態はしかし偶発的な事柄ではなく、スターリン主導下の書記局を推進力とする抑圧的「政治」が全党を覆いはじめていることの一端であり、そのことは、第一次発作以降のレーニン自身自らの政治活動が「病人の保護、監督」の名のもとに他者のある政治的意図によって制限されるという体験を通して身をもって感じつつあったのである。
「われわれの官僚主義は、ソヴェト機関だけではなく、党機関にもある。」という認識とその克服のための格闘は、以後晩年のレーニンの政治活動において大きな比重を占めることになる。中央委員会の拡大、労農監督部の改組と中央統制委員会との「融合」等、第一二回党大会へ向けての一連の提起はそのことをめぐっていた。
『共同組合について』での社会主義に向けての「複雑な過渡的措置の全体系」の再設定とこれらの「国家機構の改善」という基本的な政治方針の提起において、レーニンは特殊現実的に緊急なこととして大きく二つの問題について考え、それを二つながら解決しうるような構想を練っている。
その一つは、人格的にはトロツキーとスターリンの関係からくる中央委員会の分裂の危険性の防止策であり、もう一つは党―ソヴェトにおける官僚主義の克服とそこでのプロレタリア性の回復のための諸方策である。注目すべきことは、これらの諸方策がただ一般的方針としてではなく、スターリン主導下の書記局権力の解体を不可欠としているというふうにレーニンが把握したことである。
そしてついにスターリンの書記長更迭を提起したのみならず、第一二回党大会でのその政治的打倒を決意することになり、そのための政治的陣型の準備をトロツキー等との「同盟」の打診をふくめて開始している。
グルジア党のムディヴァニ、マハラッゼ等に宛てた書簡はつぎのように書かれていた。
「親愛なる同志諸君、私は、あなたがたの事件を心をこめて追っている。私は、オルジョニキッゼの無法ぶりと、スターリンとジェルジンスキーの共謀にたいして憤激している。私は、あなたがたのための覚え書と演説を準備しつつある。」
またフォティエワは「ウラジミール・イリイッチは、大会のために、スターリンに対して、ほんとの爆弾を用意しています。」とトロツキーに述べている。
だが大会を一ヵ月後にひかえた一九二三年の三月、第三次の発作が起こり、レーニンの政治生活は終了する。
ところで、この時期書かれた『量はすくなくても、質のよいものを』は一種不可思議な感じのする文章である。そこでレーニンはまったく新しい政治制度について模索しているように思われる。すなわち、何者にも制御されない一党独裁権力のもとで、それが官僚主義的な抑圧的「政治」に変質しないための自己更新力を、労農監督部と中央統制委員会の融合による一種独特な機関の創出を突破口として実現しようとする試みである。そしてそれらはロシア革命が置かれた独特の国際的・国内的条件をふまえ、「東方」への注目を含む国際革命の新たな展望の再設定と『共同組合について』に示される社会主義建設への新たな接近のしかたの練り直しのなかに位置づけられていた。
だがそれはレーニンとボルシェヴィキ「革命政治」がかかえ込んだ「ジレンマ」、すなわちソヴェト権力の倒壊につながりかねない危険要因の除去としてなされた憲法制定議会の解散、他党派の非合法化、さらに党内分派の禁止という諸措置が、しかし官僚主義克服にとって不可欠な党―ソヴェトにおける政治的積極性の培養を唯一可能とする本来的な「政治」空間の枯渇となっていった問題の克服の端緒たりえたのだろうか?
この構想について考えるときただちにつぎのような疑問が浮かぶだろう。
まず、それを任命するのは誰か? そして、官僚主義の克服は複数の政治勢力が対抗的に制御しあうことなくして、自己更新力のみによって可能となるか?
たしかにレーニンはこれらの諸方策をスターリンの政治的打倒をはじめとする抑圧的「政治」勢力の除去と不可分のものとしてみており、任命過程そのものが当の官僚統制のもとに置かれてしまうというような、のちに実際に起こったことにまったく無自覚であったというわけではないであろう。
だが仮に清廉潔白な人材によってそういう自己更新力が実現できたとしても、それはすでに本来的「政治」空間とは言えず、「哲人政治」のごときものとして、党―ソヴェトにおける政治的活性化へとつながらないのではないのか。
たとえばローザ・ルクセンブルグは、その『ロシア革命論』において、ボルシェヴィキの土地分配、民族自決政策とともにこの問題について、それをボルシェヴィキが置かれた状況の客観的構造そのものがはらんだ「ジレンマ」として、メンシェヴィキやカウツキーの批判からは擁護しつつ、しかしレーニン、トロツキーのプロ独裁論、民主主義論等その政治思想の問題性に由来するものでもあるとしてそれに批判を集中していた。
「レーニンとトロツキーとは、普通選挙によって生まれる議会ではなく、ソヴェトが労働者大衆の唯一真実の代表機関であると称している。けれども、全国の政治生活を抑圧すれば、ソヴェトにおける生活も次第に萎縮しないわけにはいかない。普通選挙、何者にも妨げられぬ出版および集会の自由、自由な論争、そういうものがなければ、あらゆる公共的制度における生活は亡び、偽りの生活になり、ビュロクラシーだけが制度の活動的要素として残ることになる。何人といえども、この法則を免れない。公共生活は次第に眠り込み、尽きることを知らぬエネルギーと限りを知らぬ理想主義とを持つ二、三十人の政党指導者が、支配と統治とを行い、実際には、その中の一ダースばかりの卓越した人たちが指導して、労働者のエリートは、時折、会議に召集されて、指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場一致で賛成することになる。要するに、派閥政治になる。−−これも独裁には違いないけれども、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家の独裁、つまりブルジョア的意味における独裁、ジャコバン支配の意味における独裁である。そればかりではない。こういう状態は、暗殺とか人質の射殺とか、公共生活の野蛮化を生まざるを得ないであろう。」
ローザの言うことが実施可能ならば、もともと「ジレンマ」は生じないわけだが、そこで指摘されていることが深刻な「法則」であるのも事実であり、晩年のレーニンの一連の提起はその問題との格闘であった。
この問題については、当時の状況のもとで革命を防衛しようとするかぎり、結局のところボルシェヴィキ一党独裁という一種の「開明的専制主義」しかなかったのではないのか、いや「ネップ」の延長上に分派禁止の解除のみならず「複数政治体制」が予感的に構想されていたのではないのかというような論議があるわけだが、ここでは深入りすることはやめよう。
これらのレーニンの提起は、周知のようにある政治的見解や文書がそれを支える組織的力を失ったときにおちいる運命をたどることになる。すなわち第一二回党大会においてそれらはその全き姿で公表され、賛否が問われたということではなく、「情報独占」が可能な立場にいるグループの政治的利害のもとにその真の趣旨は隠蔽され、改竄されて、それがレーニン自身の趣旨だとして報告されたのである。
そこではレーニンの「遺書」は公開されず、スターリン等の政治責任が問われる民族問題での発言を委任されたトロツキーは独自の政治判断によって沈黙をまもり、レーニンの意図を知ったスターリンは大ロシア民族主義と官僚主義の批判者として完璧にふる舞い、レーニンの提案した中央委員会の拡大、中央統制委員会と労農監督部の連携は決定され、スターリン主導下の書記局の選抜下に実施されて、抑圧的「政治」の忠実な担い手となっていったのである。