『滝口著作集』の地平の発展のために

斎藤 明

1.解放派の根本反省とは?

 われわれ自身の反省を、どこに返すことによって、照らし出すのか。不動の、揺ぎ無い解放派の核心点は、何であったのか、何でありつづけるのか。。このように、下向することによってのみ、深刻な誤りを、原則的に突破することが可能となると考えてきた。
 自らの運動と組織のなかから、共に戦う労働者学生を襲う宗派を生みだしたという、厳然たる、痛苦な現実をいかに根本に返して反省するのか。この問に答える事抜きに一歩も前に進む事ができない。同じ事を繰り返さないという原則的な掘り下げ抜きに、解放派の前進はない。このような設問を前に、多くの同志が、多くの時間を費やして討議してきた。そして、一定の、これではないか、という点を、共通の認識として整理するために、提起するものである。
 組織の混乱と行きづまりの頂点としての八〇年九月三里塚労働者襲撃を、いかにつかむのか。そのためには、われわれは、いつから何からずれていったのか、ここから始めなければならないとしてきた。
 七〇年初頭の、社会党の左派パージにはじまり、革マルとの党派闘争の激化、資本の反攻を受け、われわれの運動の生命力の源泉が、すなわち、資本の侵害に抗して戦い結び合わされる労働者の自立した運動と団結が、停滞に追い込まれ困難局面を迎えたこと、その一方では、「虐げられた全人民の前衛として行動する労働者運動」としての発展を追求するべく戦線の拡大が進む。そこから、源泉が涸れながら、戦線を拡大するという無理が発生していた。この困難をどのようにくぐろうとしたのか、くぐったのか、ここが分かれ目であった。
 特に、七〇年前半から激化した、革マルとの対決において、われわれの道、すなわち宗派解体の道筋を進みえたのかという問がある。革マル的暴力にたいして、軍事的急迫によってのみ解体することは不可能である。彼らの確信が解体されること抜きには、固まるだけである。
 当時の革マルは、同様に自分達にも降りかかる「左派」パージに悲鳴を上げ、だからこそ、「ハミダシ反対」から、「権力の走狗粉砕」と、暴力、テロを拡大した。
 この対立関係を、われわれ流の解体の道筋にて対決しえたのかということが問題である。
 そして、運動路線、世界観、運動の確信が、深く問われるなかで、二種類の変質が生まれてきた。
 その一つは、神奈川大学における革マルの襲撃にたいする反撃についての総括のなかから、指導性の問題を掘り下げることをおこなわずに、大衆運動主義的傾向があった、反宗派主義では戦えない、等の、すり替えが一部の学生のなかから発生していったことがあげられる。宗派批判の原則的意義を十分理解せずに、レーニン主義の再評価を唱え、立場主義と、目的主義的決意主義におちいりながら、「基底還元主義」であるとか、「宗派批判は大衆運動主義である」とか、「労働者の階級形成の中からの党」は、「反前衛主義である」とか、一知半解な言葉を枕言葉に、レーニン主義組織論へと傾斜する傾向が生まれた。普遍的に発展していく団結体は、原則的確認によってのみ深い確信がうまれるものである。それを、このように語った方が効率よく人を決意させるだろうという、操作主義を基準に「理論」をもてあそび、個人的個人の決意主義と経験によって「革命家の党」をつくるとする、唯の「革命家サークル」とでもいうものに変質していった。
 また、その一つは、困難局面において、運動の中に個々人をとらえるという力が低下することによって、己の自意識を基準に、狭い心情によって、他人を評価するという傾向が生まれた。これは、これまでの運動と組織が一人一人の人格の発展にどのように影響をあたえつつ形成されてきたのか、各自の個体の自立=共産主義的変化が、どのように培われてきたのか、一人一人が、どのようにお互いを同志として信頼し、協力して戦っていくことができるのか、このことを問いかけるような事態が進んだ。
 中央部において、路線を失い立ち往生したまま、自己保身のために、「別の手段をもってする組織内抗争」を始めた人物が登場した。「スパイ問題」の政治的私的利用により、自分の周辺を叩き落とす作戦に出た。これと、当時、学生のレーニン主義的傾向、パルチザン型軍事戦闘への傾斜に抑制をかけていた中央部への攻撃を目論む部分が手を組んだ。この歪んだ「共闘関係」は深い腐敗を象徴している。このことに、背後から声援を送ったメンバーも少なからずいたことも判っている。
 そして、中原同志が革マルによって虐殺されたことを機に、「スパイ問題」を全面に押し出しながらの路線の逸脱傾向が進んでいった。変則的な事態であるが、解放派の最も優れたところである〈労働者性をふまえた革命的精神性〉が後退し、革命性を失った空疎な労働者性と、労働者性を失ったうわべだけの革命性が、自己保身的エゴイスト同士として握手した。
 そして、このスパイ問題の利用が、うまくいかないとみると、「解放派の革命化」のためにというお題目のもと、差別問題を「ふるい」とした「スパイ摘発=ロカ」としてエスカレートし、「内部糾弾」を政治利用したのであった。理論以前の単なる理屈をこねまわし、「綱領的に差別との戦いは一致をもっているにもかかわらず、差別をするのは、他の世界の人間であるとしか考えられない、すなわち、スパイである。」という二重の誤りをもつ「理論」が、使われた。二重というのは、差別にたいする戦いは、不断の積み上げていく戦いなのであって、綱領的一致というかたちで、立場をもてばいいというものではないということ、そして、「何々と考えるなら説明がつく」というのは、推論ではなく、単なる推測にすぎないのだということである。これは、カントが、神の存在を説明するために用いた、インチキな「理論」そっくりである。
 われわれは、この過程からして、単に原点に帰れとか、これまでの路線の再確認ということでは済まない過程的問題をかかえたのだということ、従って、原則的反省こそが必要であること、そういうものとして、再度、共産主義的労働者とはなにか、そして、徹底的な、宗教的な党、陰謀型の党、総じて宗派の再批判が必要である。そのためにこそ、レーニン前衛党組織論の批判を、そのプロレタリア的粉砕の道を今一段とはっきりさせねばならないと考える。そして、不分明な点を、照らし出し、明確な、誤解の余地のない、且つ、分かりやすいかたちにおいて明示しなければならないと考える。

2.マルクスの経済学哲学批判の核心点と「bU」

 組織内部において、「bU」批判が、語られたとき、はたして、鮮烈なかたちにおいて、われわれのよって立つ原点が共通確認となっていたかというと、疑問が残ることは否めない。
 「bU」批判は、二種類あった。
 その一つは、「基底還元主義」というもの、すなわち、意識、理論、立場の相対的独自性を強調し、下から主義であるから解党主義であるという主張である。これは、簡単な誤りであり、不理解の、為にする主張にすぎない。もう一つは、労働者以外の社会階層の個々人が運動に関わる場合の理論性について不分明である、という批判である。この批判は、理論的には、普遍的内容を掴み、しかし、現実の階級主体は、いまだ普遍的ではない形成期における理論的立場から、どのように運動に関係するのかという問題設定であった。
 認識の主体が、社会的主体において成立し、決して個人的個人の理論認識としてあるのではなく、個人の立場主義を越えて、団結と認識が、そして、個々人が協同のなかで発展していくこと、この論理のなかに掴み返されねばならないこと、関係が、外的に掴まれていること、このことが、この批判の決定的欠陥であった。
 今日、第一インターが掲げた「労働者階級の解放は、労働者自身の事業である。」という言葉を、ようやく気がついたように最近大々的に掲げるグループがいる。
 この言葉の原則的核心は、レーニン主義と真っ向から対立し、両立しないものであることを知っているとは思えない。われわれの過去も、上記のように、似たような傾向が無きにしもあらずということを認めざるをえない。
 「インターナショナルが設立されたのは、社会主義的または半社会主義的な宗派のかわりに、たたかうための労働者階級の現実の組織をつくるためでした。」(『全集』第三三巻「ボルテ宛の手紙(一八七一)」)とマルクスは語っている。この、宗派については、さらに、以下のように展開されている。
 「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争の第一段階の特徴は、宗派的運動である。プロレタリアートが、まだ階級として行動するほど十分に発展していない時期には、宗派運動にもそれなりの存在理由がある。個々の思想家が社会的対立を批判して、それの空想的な解決策を提出するが、労働者大衆としては、これを受け入れ、ひろめ、実行にうつすほかやることがない。こうした宗祖によってつくられた宗派は、その本姓そのものからして政治不参加主義で、あらゆる現実の活動、政治、ストライキ、団結、一言でいえば、あらゆる集団的運動と無縁デアル。プロレタリアートの大衆は、彼らの宣伝にはつねに無関心であるか、敵意さえいだいている。……これらの宗派は、はじめは運動のテコだったが、運動が宗派をのりこえるやいなや、運動の障害になる。そうなると、宗派は、反動的になる。」
 このように、「インターナショナルのいわゆる分裂(一八七二)」(『全集』第一八巻)において、マルクス・エンゲルスはラッサール派批判を語っている。
 マルクスの、当時のヘーゲル左派との決定的な峻別点は、つぎの点にある。
 「共産主義的な職工[HANDWORKER]が団結するとき、彼らにとってさしあたり目的となるのは、教説、宣伝等々である。しかし同時にかれらは、それを通じて一つの新しい欲望を、社会的結合の欲求をわがものとする。手段として現れているものがいまや目的になったのである。社会主義的なフランスの労働者たち(OUVERIERS)の集会しているのをみるならば、こうした実践的運動がそのもっとも輝しい成果において観察できるのである。喫煙、飲食、食事等々は、そこではもはや結合の手段あるいは結合させる手段としてあるのではない。社会的結合、団結、また社会的結合を目的とする楽しい懇談が、かれらには十分にある。人間の兄弟のような愛は彼らにあっては空文句ではなく,真実であり、そして人間性の気高さが労働によって頑丈になった人々のうちから、われわれにむかって光をはなっている。」(『経済学哲学草稿』「第三草稿」マルクス)
 この短い文章の中に、ヘーゲル批判と、ブルジュア経済学批判の、すなわち、経済学哲学批判の真髄がこめられている。重要な点は、生ける労働者の、人間的協同体こそが、普遍的人間解放の主語なのであって、その述語たる意識、理論が、その現実的主体を捨象して、独立化され、次に、それを、労働者が、有難く押し頂くという逆転が暴かれる必要がある。国民経済学は、労働者の中に、「労働する動物」しか見ない。労働者は、意識的な本質存在であることによって、類的本質存在なのである。フォイエルバッハは、ヘーゲルの転倒を暴き出した。マルクスは、この国民経済学批判をとうして、フォイエルバッハをも超えてヘーゲルを真に超えたのである。
 先に、われわれの内部にも、存在と意識の問題について、理論の独自の力や、意義をなまじに論じる傾向があったことを指摘したが、意識、および、理論活動について再整理する必要がある。
 マルクスは、意識について『経済学哲学草稿』、『ドイツ・イデオロギー』において、次のように語っている。
 「人間は自分の生活活動そのものを自分の意欲や意識の対象とする。人間は意識的生活活動を持つ。……まさに人間は類的存在者であるがゆえにのみ、人間は意識的存在者であり、つまり自分自身の生活が自分にとって対象なのである.」(『経済学哲学草稿』)
 「動物はその生活活動と直接的に一体をなしている。それはその生活活動と区別されない。それはそのまま生活活動である。だが人間は自分の生活活動そのものを自分の意欲と意識の対象たらしめる。これは意識的な生活活動である。かれがある規定をになっていても、彼はこの規定と直接的に溶けあってしまいはしまい。意識的な生活活動は人間を直接的に動物的な生活活動から区別する。ほかでもなくこのことによってはじめて、かれは類的本質存在なのである。というよりはむしろ、かれは、意識的な本質存在にすぎないのだ。」(『同上』)
 『ドイツ・イデオロギー』においては、「言語は意識と同様、他の人間たちとの交通への欲求から初めて生じる。ある関係が現存するところには、その関係は私に対して現存する。動物はなんにたいしても関係行為せず、一般に関係行為しない。動物に対しては他のものへの動物の関係は関係としては現存しない。意識はしたがって最初からすでに社会的産物であり、一般に人間が現存する限りはそうであり続ける。」このように規定されている。
 意識論を再整理すること、このことは、目的主義(目的が主体から分離され、独立化され、善の当為の目的とつくりかえられ、そして、その手段をみいいだすこととして、プロレタリアをその担い手として獲得するのだとする種類の転倒)に多かれ少なかれ転落している日本の新旧左翼の〈革命的主体性〉の宗派的本質をあきらかにするものである。
 解放派の核心点とはなにか。
 「主語と述語の顛倒」を明らかにしたこと、このことを、当時の戦う労働者の最先端の革命的覚醒として、突き出したこと、このことは偉大である。生きたマルクス主義が、戦う労働者の理論的武器となって、はじめて我が手につかまれた、日本における、生きた理論活動の夜明けであった。
 「本来の主語である現実の生きたプロレタリアの述語である意識が、自立的な実体とされ、独立の主語とされ、かかるものとして対象化され、後では、主体化され、現実的諸主体たるプロレタリアは、その述語とされ、外的現象とされ、その化身とされ、その単なる担い手とされる。これが宗派であり、宗派運動である。」(滝口弘人「哲学批判的反省」)
 現実的諸主体たるプロレタリアの述語たる共産主義的意識を、理論的に明示していくものとしての活動の認識主体は、あくまでも、生きて活動するプロレタリア個々人の団結した実践にある。
 マルクスのヘーゲル批判は、フォイエルバッハによるヘーゲル批判を、国民経済学批判と統一することによって、すなわち、〈経済学哲学批判〉として貫徹された。その意義が、今日においても、なぜに理解されえないでいるのか、この、重大なマルクス主義の革命的地平がつかめないのか。つまずきの石、それこそは、レーニンの「哲学ノート」に代表的な「転倒する−概念は物質の最高所産たる脳髄の最高所産である。」(「第二部主観的論理学(概念論)概念一般について」)というたぐいの「ヘーゲル批判」にある。われわれは、レーニンが、『なにをなすべきか』のなかで、〈存在と意識の二元論〉に陥っていること、したがって、意識を外部から注入するのだとしていることを批判してきた。このことは、共産主義を現実のものとしてとらえるのではなく、ふたたび、観念的理想として、考案された計画として、付与されるべき目的として、掲げられることになる。
 認識の活動、理論活動の社会的性格、すなわち現象的には個々の個人の作業のように現れるのであるが、社会的関係にある主体の協同認識作業であるということ、このことがつかまれねばならない。
 一九五〇年代のスターリン批判は「反スタ」という宗派を生み出した。それは、限定付ながら一歩の前進であったといえなくはない。そして、六〇年安保と三池は、戦う自立した労働者のグループを生み出した。それは、労働者政党の足元からの分派という姿をとってあらわれた。それが解放派である。解放派は日本階級闘争の歴史的所産としての発生史をもつ特別な党派である。その瞬間からかの宗派は反動的宗派に転化したのである.
 先にも述べたが、この労働者の階級的前進、その実践を理論的に突き出す活動としての理論活動は、宗派の「理論」と根本的に異なるものである。
 宗派の特徴的構造は、まず、考案された歴史改造計画が作られ、次に、その多数への拡大、すなわち「目的」から「手段」へと移行し、表向きの「目的」と隠された「目的」を二重化し、したがって組織も二重化し、陰謀型の秘密組織となっていくところにある。
 そして、更には、主体形成主義に不可避的に陥るため、その手段として、戦略無き戦術主義に転落する。宗教的主体形成主義は、イデオロギー的に「革命家」形成、軍事的主体形成主義は、万年決戦論か、先制的軍事戦闘を利用しての「革命家」形成を考え、そのためには、情勢分析もファッシズム論も改竄して、「実戦の中からの党」作りとなる。主体形成主義に転落して、逆転現象を示す。情勢分析から戦略戦術が導きだされのではなく、組織作りのために有効な戦術がつくられ、そのために情勢が語られる。すなわち、隠された意図がまずあって、次にその手段・方策として戦術が語られる。宗派は、急進的であるか、保守的であるかの違いだけで、皆同じになってしまっている。
 労働者の団結の、資本の侵害に抗して形成される社会的団結が、全国的に結合して政府に対する闘いを通して政治的な団結として形成されていく過程そのものが、階級形成なのであり、そして、「虐げられた全人民の前衛として行動する労働者運動を!」として、自らの団結の質を高め、深め、革命的階級形成を進めていくこと、このことが、戦略論の中に、そして、組織論として、含まれてなければならないのである。労働者の自己解放の闘いの道筋を照らし出すための理論活動には、隠された意図や、隠された目的のための手段を正当化するための屁理屈は必要ない。まさに、結合された目と知恵をもって、情勢を切り拓いていくことが、戦う労働者に問われていることなのだ。
 ここで、目的と主体の関係についての、直接性と媒介性という重要な点について更に言及する必要がある。解放派は、日本の労働者運動の歴史的所産である、と述べた。そして、それが、党派でもあるということ、このことが媒介的につかまれねばならない。党派としては、その戦略、戦術、情勢把握を、実践の中にその正しさを、また誤りを公然と示さなければならない。同時に、労働者の階級形成の現段階の最良の部分であるという本質的性格をもつ。その質を高めていくことが、過程として含まれていなければならない。そして、戦う労働者の結集体であるものそのものが同時に、普遍的に発達した個々人の人間的結合とし発展していく協同体でもある。しかし、それは、歴史的各段階の制限のなかにあるものであり、全体の中の部分として、制限付で生み出されているものである。その反省が、前提として踏まえられるということである。すなわち、端的には、誤りを犯すことがあるいうことである。反省が、なにを前提にしているのか、このことのなかに、その道筋の広さと狭さ、普遍性と疎外が明白になる。
 賃金労働と資本の両極を廃棄すること、このことが、賃金労働者の解放の歴史的課題である。そして、このことのなかに、実は、共産主義が含まれるのであって、共産主義の「手段」としてプロレタリア革命が位置付けられ直したり、共産主義革命のために「プロレタリアを獲得する」などというのは全くの逆立ちなのだ。すなわち、目的が、主体から分離され、自立化され、別のものにされ、次に、その担い手を多数性に拡大するとする。そうすると、この自立化された目的の最初の所有者が、独裁的な、その目的の守護神としてたちあらわれ、他を支配する構造が不可避的に生み出される。陰謀型組織が、独裁的専制支配の形になるのは、不思議ではない。
 階級的団結体が、宗派的変質をこうむる可能性は含まれている。エネルギーの停滞、運動の後退がある場合、可能性を排除できない。なぜなら、宗派的左翼活動家が、多くまぎれこむこと、そして、決定的には、真の意味の協同の理論活動が遅れているからである。さらには、己の確信に比して、全社会の深まる腐敗と人間性の喪失にもかかわらず、保守的再生が続いていることにたいするニヒリズムに陥って、主体形成主義に転落するからである。「革命家」が、「革命家」のみが、革命を起こす「可能根拠」なのだと。
 人間の生産と社会を変革するのだ、ということは、人間の生活活動を変えるということである。世代の交代をくぐりながら、所与の前提として生活条件が個々の労働者の前に資本制社会が、「社会主義社会」立ち現れているのである。この所与の前提の、根底からの崩壊が問題となる時期と、再編=動揺、安定の時期区分を持たない、実は、永遠に変化しないと考えるか、情勢と無縁であるとするかの情勢分析ならざる情勢分析が語られる始末である。

3.「自らの協同による自らの労働の支配を!」

 今日、再度、レーニン組織論を根底的に粉砕するための作業が重要である。それは、今日のソ連、東欧の歴史的劇的変質に対する回答のためにも大切なことである。
 「自らの協同による自らの労働の支配を!」というスローガンを掲げ、地区共同=ソヴィエト運動として闘いを推進した。この70年初頭の運動の路線は、組織論的には、生産協同組合運動であるが、今日、この意義をコミューンの内実として捉え返し、路線的整理をする必要がある。そして、これこそが、「社会主義圏」の矛盾の爆発と、根底的にしか問題解決はないという現状を克服する鍵となるものであると考える。
 われわれは、「賃労働廃止労働者連盟(案)」(滝口草案)を討論してきた。『解放bU』が、宗派の死滅の根拠を明示したとするならば、「賃労働廃止労働者連盟(案)」は、宗派を不可避的に不必要とする内実を明示している。それは、あたかも、マルクスが、神を類的本質の外在態としてとらえ、かつ、世界史的なプロレタリアートの普遍的人間的結合が進むことによって、一切の宗教が消えていくと考えたことに似ている。
 『滝口著作集』の地平を、さらに発展させるべく、実践と理論が生きて統一される場を再形成する方向を目指したいと考える。


資料賃労働廃止労働者連盟(アソシエーション)綱領案

但し解説部は省略、全文は第三巻を参照

1.資本と賃労働を両極とする社会の文明、すなわち近代文明は、ただ土地と労働者を滅ぼすことによってのみ、発展する。
―一般的見解
   (解説・略)
2.この近代文明の野蛮性がもたらす、労働者と土地の地球史的滅亡に抗して、都市と農村のいたるところで、いたるところの職場、地域、学園・研究所で、自然と人間の防衛と再生のために生みだされる運動、この運動を、われわれは、共に全力で推進する。都市と農村の、人間生活のあらゆる領域の運動の間に連帯を広げ、この連帯によってその抵抗力を強大化させ、さらにこの運動を発展させるために、われわれは、各領域の運動者の広がりゆく共同を組織しなければならない。
 その基礎には、人々の間の競争の激化が、すべての諸個人の世界史的な相互依存を突き進めながら、同時に、すべての諸個人を相互対立させて、孤立した個人にする状況、この諸個人の孤立化を日々再生産する状況のなかで、この国のあらゆる労働諸部門の間の競争に代える連帯と団結、その国際的発展が、必要である。
 この自主的運動の組織的原理は協同組合的原理(他人の意志の権力の下に支配されない、自分たちの共同による自分たちの活動の支配)であり、われわれは、その発展を推進する。
 人々のこの現実との衝突を意識して闘いぬくために、共同するわれわれ運動者は、この現実の社会的悲惨の原因を認識し、この運動の行く手を、見きわめようとする歴史的洞察を、最高の、そして最強の原則綱領として、にぎりしめようとする。われわれの運動は、その原因にせまり、その原因そのものを廃絶しなければならない。
―第一の意図
   (解説・略)
3.(1)この自然と人間の防衛と再生のために生みだされる運動が、その社会的原因である賃金労働制度の廃止、すなわち、自由で協同した労働の新社会の出現、それとともに進む近代文明の野蛮性の廃絶を現実になしとげてゆくためには、この、生産者を賃金奴隷にしている社会制度を守っている近代国家そのものの革命として、軍隊(常備軍)と政治警察をもつ特権政治家癒着の官僚政治に代わる生産者の自治が、推し進められなければならない。
 このような自治が実現されるや、資本に支配される賃金労働の廃止である自由な協同労働の新社会の出現が、ただちに始まる。
   (解説・略)
 (2)このような自治を実現していくためには、中央集権的な近代国家権力そのものに対峙して、性や人種やのあらゆる差別なしの人間生命の普遍的な発展のために、人々の自由な生存権の発展を生産者の自治による飛躍にまで推し進める、労働者の広範な大衆党が必要である。その党とは、都市と農村のいたるところで、いたるところの地方自治体で、生産者の自治への自由な発展のために活動し、都市では優勢となって農・山・漁村を鼓舞し、その発展してゆく意志を国民代表機関に意識的に表現して、労働者が自分自身の統治能力を鍛える組織的場となる性格の政党でなければならない。
 国民の人権の飛躍的発展のためには、人々の自由な生存権に対峙している、国家の主権と呼ばれて来た中央集権的国家権力そのものの否定として、生ける全国民自身が真実に現実に力をもった主権者となる、国民の自治となった生産者の自治の実現が必要である。この飛躍を怠るならばどのような悲劇に転落するかを、二〇世紀は、スターリン主義とファシズムの成立をもって示した。
   (解説・略)
 (3)このような性格の党が育つためには、その母胎の自覚的発達が必要である。この母胎こそは、近代文明の野蛮性がもたらす労働者と土地の地球史的滅亡に抗して、自然と人間の防衛と再生のために生みだされる運動、あらゆる方面のこの運動の実践者が一つに結社してゆき、この結びつきによって、自分たち自身が相互に豊かさを促しあいつつ、都市と農村のいたるところの職場、地域、学園・研究所からの、この運動を、賃金労働制度の廃止とそれによる近代文明の野蛮性の廃絶をなしとげてゆく生産者の自治に向かって、深め、強め、広げて、発展させてゆく、労働者自身が推進力となった、世界史的に広がりゆく、結社体(アソシエーション)である。われわれは、この労働者党の母胎である一大結社の形成を全力で推進する。自分自身の自治能力を育てあげてゆく労働者党はここから誕生し、生誕しつづけなければならない。
―第二の意図
 以上の三項目の見解と意図を原則綱領として、我々は、賃金労働廃止労働者連盟を名称として結社することを、宣言する。