『週刊朝日』1968年2月9日号 26p〜27p28p〜29p30p

佐世保の主役
全学連の“教祖”たち

中核派 北小路 敏、社学同 岩田 弘、社青同 滝口 弘人、革マル派 黒田 寛一

 反代々木系全学連の学生デモ隊は羽田、佐世保両事件で警官隊に真正面からぶつかった。この事件で逮捕された学生は九百五人、第一羽田事件では、ついに死者まででた。
 無謀とも思える学生たちの行動だが――この学生たちの心を支える理論的指導者はだれか。各派の学生たちが“教祖”とする人たちの横顔はこうだ。
下の写真=佐世保橋上で機動隊と衝突した三派系全学連

「なぜ、君たちはあれほどまでに警官隊のカベにぶつかってゆくのか。恐くはないのか」
「ボクたちは何もメクラ滅法で突込んでるんじゃないんです。若さのせい? いや、そんなものだけでは、とてもできませんよ。信条というか、それだけの理論武装があるからこそできるんです」
 米原子力空母エンタープライズ寄港阻止の闘争がくり広げられた長崎・佐世保市で闘争資金カンパをしていた全学連学生とカンパに応じた市民との問で、こんな会話がかわされていた。
 反代々木系全学連――「ゼンガクレン」の名は、昨秋の第一、第二羽田事件、こんどの佐世保事件で、安保騒動以来ひさびさに世間の注目を集めた。いったい学生たちを催涙ガスと警棒の乱打の中にかり立てる信条とはなにか。
 ひと口に反代々木系全学連といってもさまざまの系列に分れている。今度の羽田、佐世保事件で主役を演じた三派系全学連の中核派(マルクス主義学生同盟中核派)、社学同(社会主義学生同盟)、社青同(社会主義青年同盟)解放派と、三派とは別の立場にある革マル派(革命的マルクス主義派)がそれである。彼らが“教祖”とも理論的指導者とも呼んでいる人たちは、どんな意見と生活を持っているのか――。

北小路 敏 変節をしない魅力

 まず、反代々木系全学連が生れていく過程を北小路敏氏の歩みと共にながめてみよう。
 三派全学連の「主流派」を名のるのが中核派だ。中核派は革命的共産主義者同盟全国委員会の傘下にある。元全学連委員長北小路敏氏(三一)はその革共同幹部だ。
 北小路氏が第一羽田事件で逮捕されたとき、「彼はまだ学生運動の先頭に立っているのかね」と、驚いたゼンガクレンOBも多かった。が、学生たちにとっては、その変節しない生き方が魅力なのであろう。ある中核派の学生は、
「たいてい、大学を出ると、みんな変っちゃうんですね。終始一貫、革命運動をつづけているのは北小路さんくらいのものですよ。いい指導者をもったことをしあわせだと思います」
 と、大変なホレこみようだ。
 京都市立紫野高校を卒業した北小路氏は三十一年、京都大学へ入学。高校三年の七月に共産党へ入党していたが、活動家仲間では「北小路」という名はすでに知れわたっていた。父親の北小路昂氏が二十八年暮れ、偏向教育がどうかで全国的に注目を浴びた京都・旭ケ丘中事件の教頭だったからだ。父親はその後、日共に入党した。
 しかし、父が共産党員であったとき、彼は共産党のやり方に真向から反対して、三十三年九月、自ら脱党していったのだ。父はコミュニスト、子はトロツキスト――当時、“政治親子”として格好の話題になった。
「火炎ビン闘争、スターリン批判、ハンガリー事件などを通して共産党への疑問が強くなっていった。共産党を唯一の前衛だと信じていたぼくたちは、共産党をすてるかどうかの瀬戸際に立たされた。共産主義は正しいが、共産党はまちがっている。その結論に達するまでは本当に苦しみました」
 北小路氏は当時を思い起しながら語る。
 こうして共産党を脱党した約二千人のうち千人は、三十三年暮れ、新たに共産主義者同盟を結成した。全学連を牛耳っていた共産党の威信は崩れた。
 しかし、安保闘争は共産主義者同盟にとって大きな試練となった。共産主義者同盟は三派に分裂し、それも半年ほどのうちに崩壊してしまった。なぜか? 北小路氏はこう説明する。
「簡単にいえば、共産主義者同盟には、“共産党によって歪められたマルクス主義を修正しなければならない”という共通のことばはあったのですが、その内容ではマチマチだったのです。だから安保闘争をどう評価するか、今後どう進むべきかという点で意見が対立してしまった」
 崩壊した共産主義者同盟のメンバーの多くは、あとに登場する黒田寛一氏のひきいる革共同全国委員会(のちの革マル派の母体)に合流した。北小路氏もその一人であった。革共同は三十二年に誕生した組織で“トロツキスト・グループ”と呼ばれていたが、その主流は「トロツキーの理論を機械的にあてはめるのはまちがっている」として、三十四年に革共同全国委員会を結成していた。
 この中の学生組織がマルクス主義学生同盟で、その中心が、三派全学連の“主流”と自称する「中核派」である。
 一方、共産主義者同盟崩壊後、黒田氏のもとへ走らなかった人たちは三十七年、新たに共産主義者同盟を再建し、安保以後も生残っていた社会主義学生同盟を、その傘下におさめた。これが三派系のひとつ「社学同」である。
 北小路氏は、「三十七年当時、全学連中央執行委員会の多数派を占めていたのは革マル派で、わたくしたちは全学連の中に足場を失いかけました。しかし、全学連は一派の私有物ではありません」
 と、強調する。
 彼は、いま新しい労働者党の結成にも夢中である。毎日の仕事は労働者を中心とした職場活動、地域活動の連続だ。
 東京・杉並のアパートには妻の潤子さんと二歳になる陽子ちゃんがいる。
「子どもは、その時代の人間としてはずかしくないように育ってくれればいい。ただ日共に入られるのだけは困りますね」
 とニガ笑い。法律事務所に勤めている潤子さんとの共かせぎ。「どうやら生活はしていけますが、親せきや友人に、まだ借金が二十万円ほど残っているんです」という。
 学生運動について――「政治を動かす先進的な役割をになってもらう。学生生活を通じて革命的活動家や知識人を社会に送り出し、卒業したら労働者の側に立つ人間になるんだという信条を一般学生の間に植えつける。少なくとも、自民党総裁や警視総監になろうという学生が出ないようにしたい」
 いまの彼にとっては、読書の時間がないことが一番の苦痛だそうだ。テレビは「三匹の侍」「七人の刑事」「シャボン玉ホリデー」のファンと、他の“教祖”にくらべてよくしゃべった。

本多 延嘉 力で権力と闘おう

 この北小路氏とともに革共同全国委員会をリードしているのが書記長の本多延嘉氏(三三)である。川越高校二年生のとき、日共入りして、三十三年、早稲田大学の学生だったとき脱党、黒田氏のもとへ走った。しかし、「無謬の“教祖”としての、黒田氏をどうしても認めることができず」北小路氏らとともに、そのもとを離れたのである。
「いまの学生運動が暴力的だといいますが、ああして闘いとっていかなければ静かなデモすら規制されてしまうのです。機動隊の装備にくらべたら角材などは“武器”なんていうしろものじゃない。政府が力で押えようというなら、ぼくらは力で闘いとる。佐世保闘争のときの“飯田橋事件”でも、あれより方法がなかった。角材を置いて三々五々東京駅へ向ったとしても、事前検挙の構えていた警察はあらゆる挑発をして検挙したでしょう」
 暴力は使いたくないが、権力で平和運動をつぶそうとするのだから、角材を持つのもやむをえないというのである。一線に出ている学生たちも、みな口をそろえて、同じことをいう。七〇年安保に向って、学生と機動隊の激突、これは避けることのできない“宿命”かもしれない。

岩田 弘 権威に頼らぬ行動

 反代々木系全学達の学生たちは、不思議な表現をする。
「××先生の理論の▽▽の部分を支持する」
 こんな意味で、社学同の学生から大きな支持を受けているのが、立正大学経済学部教授、岩田弘氏(三八)である。教祖といえば、一般的には他人を教え導く人間ということだが、こんな事情が岩田教授に「私は教祖なんかじゃない」といわせる根拠のようだ。が、岩田教授の思惑とは別に、教授の人気が高まっていることは事実だ。
 岩田教授は開拓農民の四人兄弟の長男。三重県の旧制神戸中学を卒業後、名古屋経専に進み、さらに名古屋大学経済学部、東大大学院に学んだ。名古屋経専在学中の二十二年に日共に入ったが、実践運動は半年ぐらいで、資本論を読みふけるようになった。名大卒業後、学問に熱中しているうちに東京へ転居、党に転居届を出さなかったので自然に党籍は消えたという。
 もともと彼は、中学時代から天文学や宇宙物理学を志していたが、戦争の激化とともに天皇制に漠然とした批判をもつようになり
「なにも知らなかったせいもあるが、ヒトラーの『わが闘争』を読んでいるうちに、その中に出てくる国家社会主義を社会主義と思いこんで興味をもちはじめた」
 という。これが後年、岩田教授がマルクス主義につながる糸口となったのだから奇妙な話だ。
 岩田氏は東大大学院で宇野弘蔵教授のもとで経済理論と四つに取組んだ。安保騒動期には書斎にとじこもったままで、やがて世界資本主義の現状分析を手がけるようになった。
 現在の学生運動について、岩田教授は、
「彼らは既成の革新勢力から放り出され、権威に頼らずに行動しているところに強さがある。彼らの行動は素朴な抵抗主義だが、素朴なだけに運動は根強いと思う。既成の革新政党に不満をもって行動している点では、べ平連のそれと相通じるものがあるが、ベ平連がゆるやかな市民運動の限界内にとどまっているのに対し、学生たちの行動は前衛的、戦闘的ウィング(翼)である点が違うだけだ。 三派全学連については、指導部レベルでは三派のできたいきさつや人間関係から多少のニュアンスの差はあろうが、一般の活動家には大差はないと思う。ただ中核派や革マル派にくらべると、社学同はイデオロギー的宗派性がもっとも薄いと思う」
 机を手のひらで一つ、大きくだたいてから話をつづけた。
「学生がコン棒をふるったり投石をするのは、警官の警棒がそこにあるからだ。デモが戦闘的になるのも、デモを阻止する警棒があるからです。いまこうした戦闘的デモを行過ぎだというのは、敵の宣伝に手をかすことになる。あくまで敵の警捧に責任があるのだ」
 こんな話しぶりや、現状分析の中で「戦後の経済体制は曲り角にきている」とか「世界の民主主義は曲り角にきている」といった部分が、学生たちのかっさいを集めるところなのかもしれない。
 ところで、学生たちが警棒の乱打を浴びているが、その点については、
「われわれ理論派は学生たちに明確な戦略、戦術を示しているとはいえない。これはマルクス主義理論戦線の退廃であり、責任を痛感している」
 と、頭をかかえた。
 独身。書斎ではベートーベンの交響曲を聞きながら研究に没頭しているとか。
「近ごろのながら族ですね」とニガ笑いをした。

滝口 弘人 鉄鎖をたちきろう

 滝口弘人(ペンネーム)と聞いてピンとくる人があれば、相当の全学連“通”といえるだろう。とりあえず略歴を紹介すると――
 三十三歳。東京外語大在学中は学生寮自治会運動に没頭し、その後東大教育学部に編入学。昭和三十六年ごろから社青同の活動家として機関紙「解放」に論文を書くようになった。現在は、社会党員。
 学友の中島嶺雄・東京外語大講師の語る、彼の横顔はこうだ。
「おとなしく、目立たない学生で演説もうまい方じゃなかった。だから彼が社青同解放派の中で指導的地位にあると聞いたとき実に意外な気がしました。人間的には、ぼう洋として偉大ななまけものって感じだった。素朴で策士タイプでないところが、心情的に若い学生をひきつけるのではないか」
 さっそく会見を申込むと、「私ひとりが代表のように考えられ、スター扱いされるのは困る」と、ひどくシブった。
 彼の論議は、教育の現状批判からはじまる。
「戦後日本の民主教育は、教育の中だけでの全人教育を目ざして、社会への目をとざしていたため、現状では、社会の要求するままに、専門化された人間を作り出す過程になってしまった。こうした人間の部分化を食止めるためには、それを求める社会をみつめ、そうした社会の鉄鎖をたちきらなければならない。そこから、学生の闘う姿勢が生れてくるのだ」
「解放派」らしく、のっけから「鉄鎖をたちきる」だの、「専門ドレイ化からの解放」だの、「個人の全人格的解放」とか、やたら“解放”のついた言葉が飛出す。
 といって弁舌さわやか、というのではない。一語一語を慎重に選びながら話すといった調子だ。
「現在の、いわば専門ドレイ化をたちきるには、まず自分自身の中にあるドレイ化現象を、人間的、社会的苦痛として感じ、これを甘受することから出発しなければならない」
 そうした現状を克服し、一人一人の個人が普遍性と連帯性をわがものとしてゆくことが、解放派の根本思想だ、と彼はいいきる。
 羽田から佐世保へと続いた一連の学生の激しい行動については、
「あれはいわゆる暴力ではありません。人間的力であり、道義的力なのです。単に反対しましょうという意思表示ではなく、ひたむきな反対の行為そのものなのです。しかも、感情のアレルギー爆発ではなく、一人一人が自分の問題として社会の問題をみつめる結果、自然に出てきた力なのだ」
 と語調を強める。
「理論の説明だけならば」ということで会見に応じただけに、滝口氏は息つく間もないほどビッシリと議論を続け、「どうしても表面に出たくない」と写真撮影も断る、というはりつめかただった。
 最後にチラリと、広島県人としてプロ野球はカープのファン、といって表情がほころんだところで素顔がのぞいた。

黒田 寛一 黒メガネの“教祖”

 最後に、もっとも“教祖”らしい“教祖”、黒田寛一氏(四〇)をとりあげよう。革マル派は佐世保では三派系ほどさわがれなかった。が、その理論的支柱・黒田氏は、安保騒動の前後から、反代々木系学生運動の大御所と仰がれた人物である。
 いまでも、三派系全学連の“闘士”たちから「黒メガネの教祖」と一目おかれている黒田氏は、江戸っ子の植木屋仕込みという巻舌口調でまくしたてた。
「ボクらの目標? それは全世界のドンデン返し。全世界民衆の解放のために、現在のソ連をも含めた帝国主義をぶちこわすことにある。羽田や佐世保での放水とコン棒の闘いは、革命という視点に立てば水鉄砲と割バシを使った鬼ゴッコみたいなものだ。しかし、そこで学んだものを取入れ、次の大衆行動のための血肉にしている」
 多くの革命運動家は、黒田氏を
「クロカン」と呼ぶ。黒メガネの容ぼうともマッチしていかにも“教祖”にぴったりの呼び方だ。
 黒田氏は
「デモ戦術などを直接、学生に教えるようなことはないが、革マルの学生がよく遊びにくるし、革マル派の理論研究会にもしばしば顔を出す」
 という。
 黒田氏は昭和二年、埼玉県に生れた。現在、独身。家業の医者をつぐために旧制東京高校理科乙へ進んだが、結核のため中退。若いころは「北アルプスの山を全部、歩いた」というほどだったが、次第に絵画や化石収集に興味をもつようになり、同時に哲学の世界に没頭するようになった。
 昭和三十二年、トロツキスト連盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、さらに同じころ弁証法研究会を組織して、学生運動の方向づけをした。
 かつて、哲学者の森有正氏に
「週刊誌などは読むな」といわれてからは、週刊誌に目を通すのは年に一度か二度。もっとも十年ほど前から目が悪化してほとんど活字が見えなくなっているせいもある、というが、ここ十数年間は、
「いわゆるジャーナリストには会っていません」
 という。
 だが、情報の収集は早く、こんどの羽田、佐世保事件をめぐる各派の微妙なからみ合いは、ちゃんと黒田氏の耳に入っているようだ。
 三派系全学連、とくにその主流といわれる中核派は黒田氏との理論上の対立からタモトをわかったものだが、それだけに黒田氏にとっては愛憎ともに深いものがあるらしく、
「中核派は私が認知しない私生児のようなものだ。理論的な反省はなく、キメの荒いザル頭の指導者の扇動に乗っで動いているだけだ。ある物事が目の前に起きると、無反省にソレとばかり飛びつき、行動する。私はこれをカガミ的反映論と呼んでいるが、行動的には目の前にチラチラするものがあるとすぐ突っかかっで行く闘牛と同じだ。大衆的には核兵器はこわい、戦争はこわいという単純な、市民的な反戦運動と同じで、違うところといえば『反帝』『反スターリン』というもったいないスローガンを勝手につけているだけだ。だかちボクは、中核派のことをケルン・パーと呼んでいる。ケルンはドイツ語の核、パーは一時流行した『アジャパー』のパーど派をひっかけたものだよ。あとの派はコンマ以下」
 と、いやはや手きびしい。
 それに反して、革マル派は、ベトコン戦術をやれる唯一の組織だという。第二羽田事件の際は、三派系か空港から約二キロはなれた大鳥居交差点で“市街戦”を繰返しているスキに裏道を回り、警備の裏をついて空港近くに突込んで気勢をあげたという。
「闘争とは同じことをくり返しながら革命という大地を深く耕していくことです。ポンド危機、ドル防衛、そして最近の朝鮮問題などをみると、現在は危機の時代では.あるが、ボクの判断では革命の前夜ではない。スターリン主義は千年はつづく、といった人がいるほどだ。自分たちの行動の中から理論をつくり、さらにそれによって行動する。革命の大地を耕すのは大変なことだ。まあ、のんびりやりましょうや」
 黒田氏はこういって、ニヤッと笑った。
「ボクの略歴や家族のこと? まあ、そんなことはいいだろう。いまはほとんど字が読めないので、他人に本を読んでもらって勉強をしている、学生諸君が闘争をしている間はヒマだが、これから忙しくなる。
 登山帽? こりゃ、私の体の一部だ。生計? 医者をやっている親のスネかじりさ……」
 黒田氏は、そういって横を向いた。