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全国社青同69〜71・「反戦派」の動向

69年10月 全国社青同の革命的転換を克ちとるために(一部) 『解放』無署名論文
70年7月 社青同の崩壊にさいし全国の同志諸君に訴える 中執・中央委有志(主革系地本)
70年7月 社青同31中委報告 革労協社青同委員会
70年11月 11・23全国社青同交流討論集会の圧倒的成功をかちとるために(略) 革労協社青同委員会
70年11月 「70年代社青同への飛躍をかちとる全国交流集会」への参加要請 三県地本
70年11月 帝国主義社民の同伴者=協会向坂派の「全国社青同」デッチ上げ策動を粉砕し、全国社青同の階級的再建をかちとろう!(一部) 革労協社青同委員会
71年1月 全国社青同の再建に向けて、全国へのアピール 社青同東京地本第13回臨時大会
71年1月 社青同第十回定期全国大会」に関する声明 八県地本
71年2月 全国社青同の再建に向けた各県地本連絡会議」結成の呼び掛け 四県地本
71年2月 2・12闘争報告(一部) 『解放』無署名記事

協会両派の宗派主義を粉砕し七〇年安保闘争の中で
全国社青同の革命的転換を克ちとるために
(一部)

 九月二十一、二十二、二十三日にわたってもたれた社青同第九回全国大会は、第四回大会以来、『改憲阻止・反合理化』基調の守護者として、全国社青同の上に独裁的に君臨してきた社会主義協会派執行部が、「総辞職」という形で崩壊し、全国各地の青年労働者や学生の闘いの結合と発展を阻害してきた中央の宗派的官僚主義と排外主義でうち固められた旧体制は、一応は、打破された、ということができる。だがそれは、協会太田派(中執多数派)の自己崩壊であり、無責任な戦線逃亡であって、今日の社青同の組織的混乱の原因を単に太田派の宗派的囲い込みというところに転化して、自らは中間主義的調停者になることによって、協会向坂派(中執少数派)が、六〇年代から七〇年代階級闘争への脱皮をかけたこの重要局面の全国社青同を指導する新体制の集約者として収まり、「反戦派」が、この向坂派による新体制の、現在からの階級情勢の急速な転変の中で客観的に果たしていくであろう保守的・反動的役割について、徹底的対決課題としてあばき出すことなしに、“入閣”の道を選んでいったこと、そして、このことをめぐって、「反戦派」地本連合フラクが、大会二日目に分解してしまったことは、−−それ自体は、今大会に対する我々の闘いの決定的不充分さの結果としてあるのだが−−、ブロレタリア統一戦線派としての各地の闘いの自立的結合を通して展開されるべき社青同内分派闘争が、否応なく、新しい局面に入ったことを意味している。
 「七〇年代のファシズム前期の階級闘争」の時代を見極め、「労働者階級としての政治的支配能力をかけた七〇年安保闘争」を闘わんとする我々は、社青同、社会党(そして、それらが基礎としている労働組合)の各内部におけるプロレタリア的自立の闘いを、今や、それらを貫く一つの分派闘争としての全国的結合を通して、我々自身の党的展望を見出していくのでなければ、社青同という青年同盟の場において階級的、政治的に成熟しつつある個別闘争の革命的発展が保証しえないというところにきている。今回の社青同全国大会をめぐって突き出された、協会両派と反戦派各潮流の分極化による同盟内矛盾の深化拡大、そして誰がそれを真に止揚する能力をもっているのかということも、党と労働組合という、既成組織の、労働者の団結の基礎とその政治への関わり方という党的構造−−帝国主義支配の再編はこの総体を急激に解体し再編しつつあるのだ−−の桎梏をどれだけ問題にし、乗り越ええようとしているのか、ということを通してはじめて、明解にされる。福岡地本が、八回大会以来、一貫して全国に提起してきた課題−−帝国主義を打倒しうる社会主義的団結形成の基礎と内容、それにもはや答えない同盟基調の根底的再検討)−−の積極性と、同時にそれが、七〇年代へと突入していく現階級情勢の中で太田派の没落にかわる党、同盟を通しての最後の社民左派としての集約者たらんとしている協会向坂派の、社会主義者としての主観的原則主義(従って、彼らの良心)にもかかわらず、客観的に果たしていく体制内的反動性を、充分に見極めようとしない“自己回転”的限界性も、ここにあるだろう。
 我々自身は、中執旧体制の崩壊という情勢をとらえて、懸案の東京地本組織間題の解決を大会全体に突き出すという行動展開を通して、我々の闘いを日々妨害することによって成りあがっていこうとしている協会向坂派による大会集約路線のギマンをあばこうとし、この闘いは、その後の十月四日の社会党都本部大会へも引きつがれていったが、首都において特殊に鋭く現われている“解放派排除”の一連の攻撃(に対する我々の党派闘争)の持つ、普遍的、全国的意味について、遅ればせながら、明らかにしていきたい。それは、今日の社会党、社青同をめぐる危機が、単に「社民の没落」としてあるにとどまらず、日本労働者階級の解放=労働者革命への道の前進の前に一層、大きく立ちはだかる「帝国主義的社民」への解体的再編(秩序確立)と、それに抗する革命的労働者党建設の現実的闘いとしてあるのだから。

(一)反戦派の任務

 四月沖縄闘争を中心とする六九年前半期の闘いの総括を議題とした第二十九回中央委員会が、同盟の基本路線をめぐる三つの対立的見解の平行線(中執原案の実質的否決)のままで終り、この「三つの意見」(太田派、向坂派、反戦派)がそのまま、討論素材として大会に持ち込まれた。
   ……
 第二期と第三期の反戦青年委員会運動を推進してきた「反戦派」は、多かれ少なかれ、さまぎまな経緯で、ここに、自己の基盤ないしは関わりを持とうとしてきた。この過程を「社青同反戦派」として対象化してみる時、こういう、“隠れた内乱”としての自立をいかなる意識性をもって自ら作り出してきたか、……ということが問題となる。そういうプロレタリア的自立の闘いの全国的結合を通して、労働者反戦派運動としての、質的に新たな=社会主義労働者革命への現実的展望をもった地平線(全国展望)を切り闘いていく作業を深めることが、第九回社青同全国大会に関わる社青同「反戦派」自身の、主体的任務課題であった。
 この作業の決定的不充分なまま大会にのぞんだ「反戦派」地本連合フラクは、それぞれの党派潮流の反戦派としての存立構造の違いのゆえに、大会半ばにして、協会向坂派との提携路線の位置づけをめぐって、分解してしまったのである(下部では、青年労働者の流動化と新たな自立的台頭への対応として左傾化しながら、上方では未だ、社民・民同の中に戸籍を残している構革左派=『主体と変革』派、そして社青同のこういう分解過程の中から“反帝社会主義統一戦線”なる「新しい器」へ刈りとろうとして、「社青同を出るか残るか」の清算主義的な二者択一で立てる第四インターなど)。

(二)福岡地本の突き出した問題点

 「反戦派」フラクに一歩の距離を置く福岡地本が、第八回大会に提出した「意見書」以来、全国に対して一貫して突き出しで来た問題は、三池CO闘争から山田弾薬輸送阻止の反戦闘争へ、そして、再びそれからの反省を通して、「帝国主義を打倒していく社会主義的団結」の基盤の獲得を求めての職場闘争へ、と回帰していく過程の総括の中から、福岡地本自身の表現を借りて要約してみるなら、次のことである。

 〈労働着の日々の労働が、労働者人民を抑圧し、搾取する帝国主議を支え、強化している。これを拒否するならば、労働者として生きることができない、という「絶対的自己矛盾」を、労働者一人一人がつかみとり、その根本的解決のために闘い、そのような内容で結合すること。〉
 〈それが「帝国主義を打倒していく社会主義的団結」であり、その拡大の基盤を職場闘争の中に求め、労働をめぐる資本の論理」と「我々の論理」との根底的対決点を明らかにし、それを労働者自身による社会の組織化=社会主義革命の時点で社会関係の基本となる思想を蓄積していくことこそ。〉
 〈それこそ、現在的革命の前進であり、七〇年安保闘争は、労働者階級が、ブルジョアジーに支配階級としてとどまる能力と権利がないことを思い知らせる「革命的団結」の主人公として登場する展望をもって關わねばならない。〉
 こういう独自の内容をもって、同盟中央の指導路線(現憲法のブルジョア民主主義の有利な条件を守りつつ、「平和と民主主義、生活と権利を守る」闘いを徹底させる中から、社会主義革命の主体をつちかう、という)の破産を突きつけ、それが、東京地本が排除されているという状況の中で、今大会での基本路線をめぐる同盟内論争の新たな牽引力となってきた。

(三)協会太田派

 さて、追い詰められた中央本部は、福岡地本の見解に答えるに、「改良闘争に対する評価が欠落している」として、自らの本質を暴露したのであるが、前中執=協会派が、福岡地本の路線に対して、〈「生活の根本条件そのものを打倒する」というところから国家権力の打倒の問題がでてこない〉と批判し(この批判は、後にふれるように、一面で的を射ているのであるが、福岡地本が突きつけている課題に対してスリカエの一面的批判である)「広範な大衆が闘っている改良闘争の中に積極的に入ってゆき、権力との直接的対決にまで高めてゆく組織力、指導能力」を指摘する時、彼ら自身は、いかなる団結をどこに求め、それをどこに発展させていこうとしているのだろうか。
 旧体制の多数派として存在してきた協会太田派とは、結論的にいうなら、資本の労働者支配の再編の前に、日々の団結の基礎を奪われ、右翼労働運動に侵蝕されていく労働組合的団結(民間左派勢力を、左翼的イデオロギーで粉飾して革命的外見を保とうとしているにすぎず、必然、彼らの大衆運動=共闘方針は、自らの古い本質を実践的にあばかれることに恐怖して、共産党と連合して、古い団結を越えていく闘う部分に「小ブル急進」の排外的レッテルをはって敵としていく宗派的囲いこみとなる。

   …略…

(以下次号)
(三)協会「向坂派」
(四)「東京地本」の分派闘争の普遍的=全国的意味
(五)再び、「福岡地本の」問題性
(六)七〇年安保闘争と社青同の全国展望のために

1969年10月1日付
『解放』40号3面より
〔註・番号の重複は原文、この続稿部分は掲載されていない〕


社青同の崩壊にさいし全国の同志諸君に訴える

中央執行委員 村上 明 〔埼玉地本〕
中央執行委員 鍵山伊三郎〔大阪地本〕
中央委員   鴫野 勝 (大阪地本)
中央委員   川島 靖 (石川地本)
中央委員   江藤正修 (埼玉地本)

 七月六、七日に開催された第三一回続回中央委員会は、不信任された中執多教派の諸君が同盟権力に固執し破廉恥な居直りを行なうという事態の中で混乱したまま閉会した。われわれは、かかる中執多教派=協会向坂派の諸君の居直りを断じて許さないと同時に、第三一回続回中央委に於る彼らのかかる態度が、実質的には十年間の社書同運動を破産させる以外の何物でもないことを厳しく弾劾し、全国の同志諸君に対して、続回中央委員会の経過とわれわれの態度を明らかにするものである。
 今回の続回中央委員会は、先に行なわれた第三一中委が、四月社会党大会の反戦排除、機動隊導入、自警団等帝国主義の屈服に対しその先兵となって加担した中執多教派への弾劾の前に何ら決定することなく閉会した後を受け、全国大会へ向けた同盟内の意見討論の場として開催されたものであった。しかし中執多数派の諸君は、四月党大会に於ける彼らの態度を自己批判するどころか、「社青同第一〇回全国大会議案骨子」なる多教派見解を中央委に提出し、向坂派単独による全国社青同の私物化を目論んできたのである。
 かかる中執多数派の諸君の態度は、明らかに第九回全国大会決定違反であった。何故なら箪九回全国大会はあの混乱した状況の中で議運委員長集約として、異った同盟内の見解、方針は、実践的運動と討論を組織する中で統一を計るという方向が打ち出され、大阪、埼玉、宮城、福岡の各地本から少数派中執が選出されることによってかろうじて崩壊の危機が回避されたのである。しかし中執多教派の諸君は、同盟の崩壊を助長させる形で「多数派議案」を提出し、強引に採択を強行したものである。
 だがこの「骨子」なるものは社青同の現在直面している危機を一切理解していないばかりか、その一国主義的内容によって社会排外主義へ転落する危険性を持ったものであった。それ故、多くの中央委がこの「骨子」に反対し、それは当然にも採決の結果「骨子」賛成12、反対14、保留2で、否決されたのである。これは事実上、中執委に対する不信任であった。それ故、採決直後行なわれた中執の席上、鍵山、今野の両中執は、中執総辞職を提起した。しかし驚くべきことに、多教派中執は「全国大会を開催するまでやめない」として破廉恥な居直りを行なったのである。そして多数派中執の居残りと少数派中執のみの辞任は、当然にも多くの中央委が弾劾するところとなった。とくに大阪・埼玉、石川の中央委員は、「かかる多教派の居残りは、第九回大会決定違反であり、第二九回中央委に於る当時の多数派中執が一切の同盟内民主主義を無視し、官僚的・セクト的に中央委乗り切りを行なったのとまったく同じである」と厳しく主張し、多数派中執に再考を求めたのである。しかし多数派中執は一切われわれの見解を聞かないどころか、盛山委員長が「委員長個人の責任によって全国大会を開催するまで辞任しない」と発言するやいなや、突如として議事の打切りを行ない、抜き打ち的に中央委を閉会したのである。
 これは、右翼化した社会党−−総評ブロックの中で、その嫡子として単独による全国社青同の私物化を目論む中執多数派=協会向坂派が、自からの延命のためにとった処置に他ならない。それはまた中央委員会冒頭からの彼らの目標であり、それ故第九同大会決定を無視して「多数派骨子」なるものを提出し、採決したのであるが、続回中央委の結末は彼らの目論みが破産したことを隠蔽するものとして行なわれたのである。現在社青同の直面している危機は、単に運動論上、あないは組織論上の問題ではなく、日本帝国主義の「日米共同声明」にもとづく支配階級の七〇年代総路線に対し、七〇年代初頭の社青同の任務とは何かが基本的に間われていたのである。まさに今回の中央委員会及び第一〇回全国大会の意義は、十年間の社青同運動の総決算としてあるのであり、それはまた先の党大会に於いて明らかに帝国主義に屈服した道を歩み出した社会党に対し、社青同がどの様な道を選択するのかが問われていたのである。
 社青同が直面している危機はまさにかかる基本的課題であった。しかし中執多数派の諸君はこうした危機を理解できないどころか、同盟権力に固執する事によって実質的に全国社青同を崩壊させたのである。しかしかかる部分は中執多数派ばかりではない。それは三重、岡山を始めとする協会太田派も同様であった。彼らは第九回全国大会からの逃亡を一切自己批判しないどころか、逆に多教派中執が危機であると見るやそれまでの彼らの主張とは一変して中央委に出席し、あまつさえ多数派中執に辞任を迫まるという破廉恥な態度を取ったのである。しかしかかる協会太田派の諸君の発言が一切道義性を持ちえず最終的には沈黙せざるをえなかったのは当然であった。さらに太田派の諸君を一切批判せず、多数派工作を行った諸君が存在するが、そうした算術的合従連合ではもはや同盟の崩壊は阻止しえないことも今回の中央委員会で証明されたのである。
 今回の中央委員会の経過と結末は、まさに十年に渡る社青同運動の崩壊を意味していた。そしてその責任は全て中執多教派の諸君にある。われわれの続回中央委員会及び今後の問題に関しての基本的態度は次の三点である。
一、中央執行委員会は、すでに不信任をされており、居残り中執は一切認めない。
一、したがってこの「中執」僭称派が招集しようとしている「全国大会」は、認めることが出来ない。
一、われわれは、この様な一切の同盟私物化を許さず、すべての戦闘的労働者の結集をはかるために全力をあげる。

一九七〇年七月八日

『建設者』創刊号(1971年10月25日)「第1部 再建大会までの歩み(資料)」より


向坂派に階級的鉄槌を下し全国社青同の階級的前進を
社青同31中委報告

革労協社青同委員会

(一)向坂派の無責任な戦線逃亡と分裂策動が開始された

 社青同第31回中央委員会の続開委員会は去る7月6・7日の両日開催され、中執多数派(向坂派)の手による無責任な「第10回全国大会議案骨子』が採決の結果、当然ながら否決され、改めてこの間の向坂派の政治的破産が突き出された。
 さらにこれを受けての(即ち中央委員会による中執原案否決という事態を受けての)、中執は中執は総辞職すべきであるという当然の、政治的、道義的責任を全国同盟に果す立場から、少数反対派中執(今野、村上、鍵山三中執)が辞任し、かつ又、中央委員多数派見解として、同趣旨の発言が続出したにも拘らず、三役以下向坂派多教派中執は辞任せず、遂に彼らは、今日、全国社青同を唯一結合せしめている中央委員会を突如として「審議打切り」、自派中執、中央委員の総退場という行動でもってあからさまな、全国社青同に対する分裂策動と、七〇年代階級闘争を荷う「青年同盟」としての社青同建設の道からの戦線逃亡とを開始したのである。
 「第10回大会議案書」は言うまでもなく前大会、即ち昨年九月の第9回大会の決議をふまえ、かつそれを発展せしめるものとして提案されなければならない。周知のように9回大会で、決定、承認されたものは、唯一、三点にわたる大会議運委員長集約であり、その三点とは、同盟内の諸潮流の存在を前提とした上で、その共同の責務として、向う一年間の蓄積の中で、@今日の日本帝国主義の政治社会秩序の再編の厳格な分析と把握であり、Aこれに抗する青年労働者の新たなエネルギーの所在と性格の規定づけであり、Bその上に立っての「改憲阻止反合理化」の所謂、第4回大会の決定の基調に歴史的な総括を与えるということであった。
 向坂派の手になる議案骨子は、誰の目にも明らかに、この三点に答える内容のものではなかった。つまり「骨子」に「骨」がないのである。このことは、中執の多数派を占めて全国社青同の中央指導に責任を持つ部分ではないどころか、同盟内の一潮流としても、極めて無責任な潮流であることを暴露したということに他ならない。従って多数の中央委員の怒りを買って、否決されたのは当然すぎるほど当然であり、「辞職」しない理由など何処にもないのである。しかも、彼等向坂派は少数派中執の辞任によって定員の過半数を失い、もはや「中央執行委員会」としての機能と資格を全く失ったユーレイ中執にシガミツキ、あまつさえ、次々に出される、残存中執辞任要求に対し、居すわりの理由が皆無となるや、ユーレイ中執招集による大会開催を通告し、一方的に審議をを打ちきり、退場してしまったのである。
 今やこのことをもって向坂派は、我々が、この間、全国社青同の全国同盟員のみならず、全ての闘う青年労働者・学生に対して、幾度となく警戒を呼びかけ、その粉砕闘争の今日的意義を強調して来た「帝国主義社民」のまぎれもない尖兵としての正体をあらわにし、全国社青同の分裂策動に手をかけ、明確にその階級的前進に敵対する部分となったのである。

(二)全国社青同の統合=統一=階級的前進をかちとれ

   …略…

1970年7月15日付
『解放』57号2面より


11・23全国社青同交流討論集会の圧倒的成功をかちとるために
今こそ革命的青年同盟の建設を!

革労協社青同委員会

   …略…

1970年11月15日付
『解放』63号4面より


徳島地本・群馬地本・鳥取地本呼びかけ
全国同盟建設十周年−−「70年代社青同への飛躍をかちとる全国交流集会」への参加要請

○○地本殿
○○地本(準備会)殿

徳島地本
群馬地本
鳥取地本

 同盟第31会中央委員会続開委員会に置いて、中央執行委員会提案の「第10会全国大会議案骨子案」が否決され、この結果、少数意見中執は辞任し、併せて多数の中央委員より盛山委員長以下・残留中執の辞任要求が強く出されました。だが盛山委員長は「残留宣言」と共に突如の審議打ち切りを行い一方的な退場を強行してしまったことはすでに周知の事実であります。
 これにより、全国各地本の多数より指導の権威を否定された残留中執(支持はわずかに三分の一)しかも、構成員の多数を失った残留中執、それゆえ中執個人は残ったが、中央指導機関としての中央執行委員会の喪失という事態を、我々は迎えたわけでありますが、一方でこれら幾人かの個人的残留中執よりその肩書きを取り外してやる事こと−−勿論、その手段は説得と教育上の配慮を充分きかせるべき−−は当然としてもそれらは、問題の主要点ではありません。

 むしろ、いまこそ各地本が、今日の同盟の組織的危機、従って、政治的思想的危機状況を根底的に突破すべく、各々の10年の歴史に照らして主体的に立ち向かうべきことが肝要であろうと思われます。
 聞くところによれば、「同盟の崩壊」なる言葉でもって社青同からの離脱を行おうとする部分が存在するとのことですが、今日の組織的混迷が、単なる組織問題ではないとは言え、社会党の帝国主義社民への転化が、とりわけ70年安保闘争の敗北を通して加速度的に進行している一事をもってしても、プロレタリア解放闘争における社青同の持つ重みは依然として存在すると言わなければなりません。
 否、むしろ我々は昨六十九年十一月の佐藤訪米阻止闘争以来、本年六月に至る安保決戦を力の限り戦いぬいてきた歴史的実践の上に立って、全国同盟の階級的再生をかちとる必要性を痛感しております。

 班−支部−地本という基本系統の中で、同盟内民主主義を堅持しつつ、幾多の闘争をかいくぐってきた10年の歴史を背後にして、今我々は、前述の同盟の全国状況であるからこそ、「地本にして持つ全国任務」を果たすべきであるとの共通の認識を持つにいたりました。
 具体的には全地本参加による全国大会の開催を目指しての、まず地本間の相互討論と、傘下同盟員による問題意識の交換、闘争交流を行うことから開始すべきであるとの結論に到達しました。
 言うまでもなく、このことは、常に「第九回大会の議運委員長の三点にわたる要約」を念頭におきつつ、これに積極的な回答を与えるという内容として貫徹されるべきであります。

 以上の共通の確認に基づき、我々は、表題の集会を以下の通り開催することに致しました。ついては、各地本にあっては、共催もふくめて傘下同盟員の参加を積極的に推進されることを心から要請するとともに、事務上の都合もあり、その態度を文書でもって回答されるよう要請致します。

1 集会名称 表題の通り
2 日時 十一月二十三日(月)午前十時から午後四時まで
3 会場 東京
4 主催 前記三地本共催
5 連絡先 徳島地本

1970年11月15日付
『解放』63号6面より


帝国主義社民の同伴者=協会向坂派の「全国社青同」デッチ上げ策動を粉砕し、全国社青同の階級的再建をかちとろう!(一部)

革労協社青同委員会

 …略…
 ……我々は、以下の事を確認しその推進力となる決意である。
 第一に、社民中央の官僚的権力を背景とした協会向坂派の革労協排除での全国大会のデッチ上げ策動は、六十六年東京地本「分裂」攻撃と本質を同じくするものである。我々は「東京地本分裂攻撃」を組織的な団結力で粉砕しえなかった東京地本の階級的総括を(社青同の分派闘争の大きな後退と社青同中央の官僚的閉鎖性を助長させたことを含めて)プロ統系社青同全体のものとして共有し、すでに全国的に開始されている党・労働組合の官僚的権力をもっての協会向坂派の戒厳令を道義的にも粉砕しつくしぬくであろう。
 第二には、我々は、宮城等にみられる社青同からの脱落を許さず、そして又大阪・埼玉等の「デッチ上げ大会粉砕」のみで新たなる社青同の階級的再建を指向しない傾向に対しても、十年間の社青同同盟員の無数の努力で築き上げられてきた運動を引継ぎ発展させるべく、我々と共に歩むことを訴えるものである。
 第三に、我々はあくまでも向坂派中執招集の大会を認めない。早急に地本代表者会議をもって全国大会の準備を進めることを提案するものでありこの中で東京地本の復権を要求するであろう。もし協会向坂派居直り中執が自己批判し一同盟員としてこのことに協力するならば、我々は拒むものではない。だがあくまでも向坂派がデッチ上げ大会を開くならば、我々は総力をあげて粉砕するであろう。
 …略…

1970年11月15日付
『解放』66号1面より


全国社青同の再建に向けて、全国へのアピール
日本社会主義青年同盟東京地本第13回臨時大会

六十年九月の第七会地本大会で、わが東京地本にかけられた社会主義協会派の手による組織破壊=分裂攻撃が、今、方針と機能を失った中央本部(残留中執)自らの手による、社民中央権力を後ろだてとした官僚的・宗派的やり方で、全国に及ぼされようとしている時、全国の闘う部分に課せられている歴史的任務は、かかる中央官僚派=向坂協会派による全国的分裂・破壊攻撃をはね返し、階級的自立的力によって戦いぬいて来た六十七年以来の反戦闘争とりわけ六十九年十、十一月、七十年六月に至る七十年安保闘争の闘いの教訓を突き合わせ、切り開かれつつある七十年階級闘争の前進の為に打破されるべき六十年代社青同の古き組織の桎梏と限界を指摘しあい、七十年代の階級的青年政治同盟の新たな構築のために、総力を集中しなければならない。我が東京地本は、本日の第十三回臨時大会において、かかる局面の中で、自からの歴史を再度根底から総括し、青年同盟の革命的生み直しの全国的共同事業に、新たな決意と体制をもって闘っていくことを決定した。
 まず第一に、我々はこれまで首都同盟の、階級的統一の方策として「再審査−組織統一−全国復帰」を要求して闘ってきたが、今や復帰すべき全国同盟の統一機能の最終的崩壊を確認し、かかる新たな段階において、戦列に踏みとどまって帝国主義ブルジョアジーの支配を打倒するアカツキまで闘わんとする全国各地の社青同組織相互間の、戦闘的・革命的交流、わが東京地本との公式の結合を求めるものである。
 第二に、我々は、わが東京地本から分裂、脱落し、今又全国的分裂破壊の宗派的策動に加担せんとして我々に醜悪に敵対している「第二地本」に所属する、山崎、常松らを先頭とする、演壇占拠に加わり今も分裂策動をやめない同盟員全員の、最終的除名を確認し「第二地本の組織解散と、自己批判によるわが戦列への復帰」を訴え、全ての職場、産別、学園、地域、全ての戦線で我々の実践の前に彼らの解体、破算を徹底して推し進めることを誓う。
 第三に、我々は、全国社青同の階級的・革命的再建に向かって、我々東京地本が、六十六年分裂、破壊攻撃を階級的洞察と団結力で未然に封じることが出来ず、中央社民権力を後ろだてとした反階級的暴力を伴ったクーデターの実力による粉砕が結果したところが、社青同の階級的自立と利害を異にする社民勢力の集中攻撃を許し、首都青年戦線、そして全国の社青同の闘いに多大な損害を与えたことについて、改めて全国の闘う同士諸君の前に階級的自己批判を表明するものである。同時にこの自己批判は分裂解体攻撃後の我々の不屈の闘争の貫徹と不動の階級的団結の前進によって果たされていると確信する。
 最後に我々は、全国各地の同士たちと力を合わせて、真に階級的・革命的な労働者の党と労働組合を含む、強大な階級的統一戦線を問題にし、その展望を自から切り開いていく組織的階級的実践を通してのみ発展していく七十年代の階級的青年同盟の建設に、我が東京地本のもてる全精力を注ぎ込む決意をここに明らかにし、二月の向坂協会派による官僚的宗派的デッチ上げ大会の粉砕と、再建全国大会に向けた連絡協議会への総結集を、呼びかける。

一九七一年一月三一日

1971年2月15日付
『解放』68号2面より

社青同第十回定期全国大会」に関する声明

社青同宮城地区本部
社青同石川地区本部
社青同埼玉地区本部
社青同大阪地区本部
社青同群馬地区本部
社青同徳島地区本部
社青同栃木地区本部
社青同鳥取地区本部

 一九六〇年に結成された日本社会主義青年同盟は、いま最大の危機に直面している。
 社青同に結集するすべての同盟員が、十年におよぶ一九六〇年代社青同運動の歴史的総括と、一九七〇年代の政治的展望についての全面的な討論と大衆運動における検証をいっ切放棄したまま全国社青同の危機を克服していくことは、まったく不可能である。
 しかるに、「社青同中央執行委員長・盛山健治」名による「第十回定期全国大会」なるものが「一九七一年二月一二日−一四日、東京・教育会館」に「召集」され、社青同組織のセクト主義的私物化が策動されていることに、われわれは重大な関心をはらわざるおえない。
 この「盛山」個人の「召集」による「第十回定期全国大会」なるものは、次の諸点から社青同規約に違反するものであり、断じて容認できないものである。
 第一に、この「盛山召集状」によれば、その規約上の根拠として「全国大会は中央執 行委員長が召集する」との「条項」をあげているが、社青同規約第十六条第二項は「全国大会は中央執行委員会の議をへて中央執行委員長が召集する」と明記している。「盛山」個人が「中央執行委員会の議をへて」を故意に「削除」したのは、第三十一回(続開)中央委員会以降、中央執行委員会の構成員が過半数に達せず(定員二〇名中九名)形式的にも崩壊してしまったことを隠蔽しようとしたものにほかならない。
 第二に、「盛山召集状」は、第三十一回(続開)中央委で「中央執行委員長名による大会召集を確認」したとしているが、同中央委の経過があきらかにしている通り、このような確認は全くなく、混乱の中で一方的な議長の審議打ち切り宣言のまま盛山委員長らが退場したにすぎない。したがって同「召集状」の「確認」なるものは事実無根であり、第三十一回(続開)中央委の内容を歪曲したデッチ上げにすぎない。
 第三に、「盛山召集状」は「革労協(社会党・社青同解放派)」には社青同の解体・分裂を公然と宣言し実際に分裂策動を行っている動きがみられる。こうした社青同組織と敵対し、大会を破壊する動きにかかわる地本および同盟員には代議員権をあたえることはできない」として、いまだいかなる上級機関によっても組織的統制処分をうけていない地区本部から「一級上級の大会代議員を選出する」(規約第三十条〈三〉)権利を不当に剥奪している。かかる同盟規約の破壊行為は、同盟から特定の潮流を意図的に排除し、一派支配を貫徹せんとする醜悪な行為にほかならない。
 しかも、「中執」多数派提案の「第十回全国大会議案骨子」が第三一回続開中央委員会で否決され、一方的に中央委員会の「閉会」を宣言して同盟内民主主義を否定した「中執」多数派は、すでに「全国大会」を召集する道義性すら持ちあわせていない。もしも「中執」をせん称する人々が「盛山」個人で「全国大会」を強行するならば、社青同組織が全国単一青年同盟としての形式と内容を喪失しかれらの最終的な破局をむかえざるをえないであろう。
 われわれは、かかる「全国大会」を許さず「中執」自己批判および総辞職と全国地本代表者会議開催をあくまで主張し、社青同運動の新たな発展のために全力をあげるものである。
右声明する。

一九七一年一月三十日

1971年2月15日付
『解放』68号2面より

全国社青同の再建に向けた各県地本連絡会議」結成の呼び掛け

責任呼びかけ
社青同群馬地区本部
社青同栃木地区本部
社青同鳥取地区本部
社青同徳島地区本部

 全国の各地本、支部、同盟員諸君!
 今日の日付、即ち一九七一年二月一二日は、社青同に結集する全ての同盟員とそれに注目する闘うプロレタリア学生人民にとって、とりわけ青年労働者にとって最も悲しむべき日となった。
 何故なら、今や、盛山一派とそれを背後であやつる宗派「協会向坂派」の手によって、全国社青同の分裂、解体が公然と宣言された日であるからである。
 彼らは今日第九回大会決定に違反し、第三十一回中央委員会をふみにじり、あまつさえ、彼等が常に持ち出す同盟規約さえ破壊して単独一派大会、それもわずか三分の一の地本の参加をもってのみの少数派大会を強行している。
 我々は、先の八地本共同声明に基づいて、残留中執の自己批判および総辞職と、全国地本代表者会議の開催を要求してきたが、彼等は今や階級的良心の一片すらかなぐりすて、八地本を中心として全国から結集した同盟員の断固たる整然たる団結をもっての弾劾行動の前に既定の大会場すら放棄して逃亡し、文字通りの宗派集会たることをバクロした、全国社青同の統一的展開と、六〇年代社青同の歴史的総括を放棄したのは、彼等であり、挙げての責任は彼等にあることをここに明確に断言する。宗派向坂協会はもはや社青同とは無縁であり、彼等は自から、社青同の階級的統一の努力を放棄し分裂行為に走ったのである。
 我々は、しかし、闘うプロレタリア青年によって、歴史的に生み出され、プロレタリア解放闘争の条件となり切るべく、任務づけられた社青同の更なる階級的強化発展のために闘いを強め、日々起こるプロレタリアートと資本の攻防を通して、労働者革命を展望する新たな道を断乎としてバク進していくであろう。
 全国各地本、支部、斑、同盟員諸君! ここに至って、我々は、代九回大会を正当に継承すべく、ここに社青同全国を再建するための各地本の戦闘的・階級的交流、連絡の会議を提唱する。
 苦難の道であっても、我々は、一〇年に及び社青同運動の総括と点検、七〇年代の政治的展望についての全面的な討論と大衆運動の検証をさけることはできないのだ。
 地本連絡会はデッチ上げ宗派大会に参加しなかった全ての地本支部に向かって開かれており、又参加した地本の自己批判もあればこれにも開かれたものとして、立てられるべきであろう。
 全国の全ての同盟員諸君! 日夜闘い抜いている全てのプロレタリア、学生諸君!
 最も悲しむべき日ではあるが、しかし、若きプロレタリアの苦闘と苦悩を真に共同のものとして解決すべき第一歩となるべき日としての今日の意義をかみしめ、社青同全国を再建するための各地本連絡会議に結集せよ!

1971年3月1日付
『解放』69号1面より


2・12闘争 報告記事(一部)

 …略…
 この日礫川公園に早朝結集した八地本呼掛の集会には三百名の同盟員が参加し、大阪・群馬地本代表の決意表明及び全国社青同の統一機能の最終的崩壊の中これまで追求してきた階級的統一=全国社青同への復帰の道が消滅した東京地本の代表より、自らの分裂以後の階級的総括をふまえつつ全国各地本の社青同組織相互間の戦闘的・革命的交流の公式結合を求める事と全国社青同再建について訴えられ、更に演壇占拠に加わりいまも分裂策動をやめない第二地本同盟員の除名、その組織解散を彼らの解体・破産を徹底して推し進めることが報告され、満場の拍手をもって全国の同志から迎えられた。
 集会終了後、青ヘル(プロ統系)を推進力に銀ヘル(主革系)部隊を含む八地本を先頭に東京・愛知・京都・北海道等の同盟員は官憲の弾圧に屈せず、「向坂派デッチ上げ大会」会場である教育会館(ただし、当日、向坂派は会場を放棄し、千葉に逃亡した)に向けて進撃し実力弾劾行動を貫徹し、清水谷公園で解散集会を持ち四地本による「全国社青同再建に向けての各地本連絡会議」に結集せよとの呼掛に応えて、その後会場を牛込公会堂に移し「結成集会」をもった。
 …略…

向坂派デッチ上げ「大会」千葉県に逃亡、代議員・地本数共に遠く過半数におよばず、破産

 …略…向坂派「デッチ上げ大会」の内部で発表された地本数は十八地本であり、そのうち五地本は茨城・山梨等第三十一中委以後彼等が「デッチ上げた地本」にすぎず、実数は十三地本足らずである。又代議員数も「デッチ上げ地本」の代議員数を加えても内部発表八十名にすぎず、これ迄全国大会に二百名前後の代議員によって編成されて来た事に比較するならば、向坂派の「デッチ上げ」は一目瞭然である。そして、その裏打ちとしての「革労協」「第四インター」系の除名、「主革」「太田派」に対する「自己批判要求」と云う社青同の基本組織からとびはなれた、各潮流に対しての「統制」なる党派的色分けの態度によって彼等の宗派的本質を自らバクロしたのである。
 …略…

連絡会議に課せられた任務は何か
−四つの任務を完遂し再建をかちとろう

 …略…

1971年3月1日付
『解放』69号1面より


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