1971年3月

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社青同全国大会開催をボイコットしたのは誰れか
−−三分の一の結集に終った千葉セクト総決起集会−−
編集部

 一 失敗に終ったデッチ上げ「大会」

 二月二一、ニニ日の両日、脱落協会派系の社青同同盟員は秘密裏に彼等の全国総決起集会を行ない、これを社青同第十回全国大会であると偽装した。「大会」をデッチ上げた。だが社青同の規約、慣行の全てを無視し、同盟内民主主義を完全に否定したこの「社青同全国大会」デッチ上げの策動は失敗に終った。
 デッチ上げにも色々とある、大会としての手続上の要件を欠いていても、明らかに同盟員の圧倒的多数を反映する「代議員」を掌握し、全国的実体を持った地本数を結集していれば、それはそれで一派大会でも迫力があろうというものであるが、全国大会と自称する脱落協会派のこの集会は、水増しとサバ読みを重ねても、社青同の今日の全国の実勢力の中でわずか三分の一の脱落協会派ただ一派の寄せ集めで終ったのである。
 この「大会」の「運営委員会」なるものは「大会参加有資格地本二二、代議員八五名」と発表した。そのうち新潟地本八名は「大会として認めず」と通告に行ったのであり傍聴にまわった。したがって二一地本、代議員七七名である。その中には、例えば二年以上の長期同盟費滞納で大会参加資格を有しなかった長野地本(代議員四名)、地本確立が確認さえされていない茨城地本(一名)、地本としての「大会」参加が決定されず勝手に出て来たもの和歌山(一名)等々を含んでおり、実数は一七、八地本、七〇名前後の代議員にすぎない。逆に二一地本が正規の地本機関で、盛山招集の集会を「大会として認めず」と決定している。
 通常の社青同大会の、有資格代議員数は一八○名前後であった。同盟大会の代議員割当は平均五〇名に一名であり、同盟員総数は公称一万五千、実数一万であるから、一万割る五〇は二〇〇である。その二割近くが同盟費未納等で資格を失うと厳密にみても代議員総数は一八○名前後ということは誤魔化しようがない。彼等の「大会運営委」が水増しをした七七代議員ということをそのまま認めてやってもその四割にすぎず、水増し分を引けば三割強にすぎない。参考までに言えば先の第九回全国大会の脱落協会係の代議員数がほぼ七〇前後と目されていた。それを再びよせ集めたにすぎない。
 すなわち、社青同の規約も慣行も一切を無視して、盛山名の「全国大会」なるものをデッチ上げしよとしたがこの一派集会に結集し得たものは全国四七都道府県のうちわずか一七、八地本、代議員数にして全国同盟の三分の一に終ったのである。これを彼等は社青同全国の再建、全国社青同と自称するのであるが、それは“裸の王様”よりもコッケイな姿だといわなければならない。
 盛山大会参加地本
 青森(三)岩手(五)秋田(二)山形(三)福島(六)千葉(二)東京(一八)神奈川(三)静岡(三)兵庫(七)広島(三)香川(三)佐賀(三)宮崎(五)長崎(二)山梨(一)〈茨城(一)〉〈長野(四)〉〈山梨(一)〉〈(和歌山(一)〉〈大分(一)〉〈富山(一)〉〈 〉内は未確定、未資格と思えるもの
 盛山「大会」不参加決定地本
 北海道、岐阜、愛知、三重、滋賀、京都、岡山、愛媛、高知、福岡、熊本、鹿児島、宮城、埼玉、群馬、栃木、石川、大阪、徳島、鳥取、新潟

 二 規約違反・規約偽造の盛山招集「大会」

 彼等は、この集会に参加しなかった同盟地本、同盟員を「大会ボイコット」と呼んでいる。だが、正規の同盟全国大会の開催を一貫してボイコットして来たのは、われわれではなく社青同中央本部を第九回全国大会以来私物化してきた脱落協会派である。われわれは首尾一貫して規約にのっとった大会の開催を主張し、彼等は、これを拒否して一セクトの党派総決起集会に逃亡した。
 盛山名の「第十回全国大会」なるものをわれわれはなぜ拒否したか。それは、社青同全国大会としての全ゆる要件を欠いているからである。手続、形式的にも規約違反、第九回大会決定違反である。さらに重要なことは、大衆的政治同盟としての大会開催の全ての手続を踏みにじった脱落協会派の“政治的動機”なのだが、それは後に述べるとして、まず、簡単になぜ盛山招集の「第十回大会」招集を拒否したか、われわれの正規の大会開催の努力がいかに脱落協会派によってボイコットされたかを明らかにしておく。
 〈1〉盛山執行部は第九回大会事後処理の臨時管理執行部にすぎず、中央委の議を経ることのない定期大会招集権限はない
 周知のように盛山執行部は、第九回大会で運動方針が未決定になり、その下部討議の組織化、運動方針決定のための臨時大会にむけて選出された臨時執行部である。われわれは、早急に臨時大会を開催し運動方針を決定すべく、策三〇回中央委(六九年一月)以来一貫して主張してきたが、彼等はこれを拒否した。運動方針のない臨時執行部の彼等が総括、行動方針を出し臨時大会ではなく、第十回定期大会を招集することは、明らかに第九回大会決定の越権である。
 〈2〉規約違反と規約の偽造
 社青同規約は委員長の単独大会措集権を認めていない。規約第一六条は「全国大会は中央執行委員会の議を経て中央執行委員長が召集する」と、記している。大会の招集は中執の議決が条件である。そして中央委の議決は中執の議決に優先する。第三一回続会中央委員会は盛山中執の第十回全国大会案件を否決した。これを無視して委員長招集を行なうことは全くの規約違反である。さらに、この第三一回続会中央委において反戦派三名が辞任し一名は行方不明となった。第九回大会での中執定数二〇名中脱落協会派九名、この行方不明の一名を加えて残留中執十名であり、中執定数の過半数に満たず、第九回大会の臨時執行部選出の経過かちしても中執は崩壊した。中執は何も決定できない。この事実を盛山執行部が認めたからこそ、第十回大会招集状は中執名と並記ではなく、盛山委員長名による委員長招集であった。加えて、この招集状の規約引用は、この重大な「中執の議を経て」なるところを作為的に削除している。規約違反に加えてその偽造までやってのけたのである。しかも、中央委員会は大会の開催一般を拒否したのではなく、中執総辞職の上で、大会運営のための委員会を構成すべきことを提案している最中に、脱落協会派が第三一回続会中央委より退場を開始し審議打ち切りとなったのである。正常な大会開催の努力を放棄し、規約違反の委員長招集にしがみついたのは脱落協会派である。
 〈3〉他派代議員資格のハク奪−−大会の最低要件の破壊
 社青同大会はどんなに混乱が予想される場合においても、代議員資格要件については中央委員会において決定してきた。それは慣行というよりも、規約に準ずる原則として同盟内民主主義の柱になってきたことである。なぜなら、青年同盟という実体から、地本の再建や新たな確立、滞納の処理等々が多くありこれを全体の合意で確定しなければ、大会の最底の基準が壊れるからである。脱落協会派は、そのための中央委、代表者会議の開催をも一方的に拒否し、すでに崩壊している「中執名」で(イ)一月末日までの同盟費納入地本のみに代議員資格を与える(ロ)革労協、解放派に属する地本、同盟貝には資格を与えないと通達した。これは明らかに自派以外の代議員の事前の締め出しである。愛知、京都、大阪、福岡等において、解放派とわれわれとの対決の中で組織問題が続き、一千名を越える同盟員の資格問題が未処理のままであった。これを中央委で確定することをせず、他方では勝手に脱落協会系に忠誠を誓う少数のサークルを地本として勝手に認定するためである。多数決が成立するためには多数、少数が成立する土俵−大会の最底の条件である代議員の資格については全体の合意が成立しなければならない。後に述べるが、代議員資格要件の確定の中央委さえ行なわなかったのは、脱落協会派が自派の代議員権を水増しし、他派の代議員をしめ出すためのテクニックであった。解放派については、社青同の綱領を否定している以上、これを処分することは必要である。だがそれは、社青同の組織原則を守るためであって、これを破壊するためにではない。社会党の反戦パージにあってさえ、除名決定までは彼等の党員権を認めた。中央委さえ開催せずに、例え除名の対象者であっても同盟員としての権利をハク奪することはできない。しかも、脱落協会派のこの排除処置は、同盟の組織原則が排除基準ではない。例えば、彼等の集会で福岡の大津留一派が福岡地本再建等々を演説しているが彼等は明らかに今月まで反戦、解放派と共に行動し同じ論理を主張してきた反戦・解放シンパだった。反戦、解放シンパでも脱落協会派に迎合する部分については、“排除”どころが双手をあげて歓迎するのである。
 〈4〉「大会」代議員選出過程のファッショ化
 同盟民主主義を破壊した「大会」は同盟内民主主義を完全に否定した各地本での大会代議員選出と結びついている。その代表例が東京地本臨時大会(一月二九日)でのファッショ的運営と田中同志へのリンチ事件である。われわれは盛山招集の「大会」の不当性を追及しながらも、最後まで正規の大会の実現に努力すべく、東京地本臨時大会に参加した。全国大会のための臨時大会と称するこの大会は、討論時間わずか二時間で、動議等々もすべて採決抜きで打ち切り、大会防衛隊なる脱落協会派行動隊は、事前に東京地本津和副委員長の指導にもとずき白手袋を配布し全く武装していないわれわれの同志にテロを仕掛け、田中同志はロッ骨骨折の重傷を負った。このようなファッショ的な大会代議員選出過程の東京地本代議員を認めたこと自体が「大会」としての条件を失している。
 〈5〉「大会」主催者の義務放棄
 彼等は「全国大会」の開催者を気取りながら、大会主催者としての全ての義務を放棄した。教育会館を大会会場として告示しながら、秘密裏に千葉に移動し、これを自派以外の代議員・地本に公正に徹底する処置を行なわず、代議員章さえ自派以外にはわたさなかった。多くの地本が代表者を派遣し、事後承認となっても止むを得ずというところまで譲って、中央委、地本代表者会議を招集し、「大会」を一時延期して正規の大会とするよう本部を説得するために努力しようとしたが、前日にすでに社青同本部は閉鎖され、わずかに前日までに党派間の連絡ルートをのこすのみで、中央、地本のパイプさえ、彼等の側からシャット・アウトした。
 以上に明白なように、定期大会開催の権限なき臨時中執が、その大会案件を中央委で否決をされ、中執定数の過半数を欠き、規約を無視し、規約を偽造し、委員長単独招集を行ない、他派代議員の資格を勝手に奪い、ファッショ的代議員選出をテロとリンチで行ない、大会会場をも自派以外の者にはひた隠しにして開催された集会−これを社青同大会とはどこからみても呼ぶことはできない。
 それは単なる脱落派協会青年静の一派総決起集会である。逆にわれわれは一貫して規約にもとづく大会の開催を主張し、ねばり強い統一の努力を行なったが、この正規の大会開催をボイコットしたのが彼等なのである。

 三 「止むなし」路線の意味するもの

 ここで、社青同の問題を正しく理解するために最も重要なことは、単に脱落協会派の「大会」開催の形式的、手続的な無原則性だけではなく、こういった同盟民主主義をあえて破壊するにいたった、脱落派の“政治的動機”を把握することである。
 脱落協会派も、盛山招集の「大会」が非常手段だということを認めている。そして、それを合理化する理由は、反戦、解放派の“大会粉砕”のゲバルトから大会防衛を行なうということである。いわば非常事態の宣言であり、非常事態に対応して同盟の規約、慣行の部分的停止は止むを得ないとする理屈である。
 周知のように、脱落協会派は一年ちよっと前までは社会党の「左」右の派閥の“反戦利用”と同じく反戦派を利用して第九回全国大会で社青同中央のイニシアを握った。一転して、彼等は今日“反戦排除”を前面に打ち出している。このことは、同盟と青年運動の利益を守るために、反戦派運動と対決してきたわれわれの首尾一貫した正しい立場に彼等が接近してきたことであろうか。そうであることをわれわれは期待した。だが事実は否である。彼等の昨日の反戦との野合、今日の反戦排除は、現象は全く異るが、それは本質的には全く変ることのない反戦利用とその逆利用による脱落協会派のセクトの保身策だといわざるを得ない。同盟の原則と運動を擁護するために非常事態の処置がとられたのではなく、脱落協会派の無節操と危機を隠すために、非常事態が逆に同盟内民主主義を破壊するために利用された、これが今日の脱落協会派の大会デッチ上げの本質である。今日までの諸経過がこのことを雄弁に物語っている。
 脱落協会派は、今日もなお社青同の“統一のためには、第九回大会は止むを得なかった”と強弁し、一片の自己批判もしていない。第九回大会で脱落協会派は何をなしたか。〈1〉「改憲阻止・反合理化」の基調を放棄した〈2〉運動方針案を反戦派と共同で偽造した〈3〉運動方針なき社青同とした〈4〉反戦青年委員会育成をかかげた。〈5〉反戦派と中央執行部をワケあった。つまり反戦派と共同で執行部をワケ合うために脱落協会派は、社青同から運動路線を抜き去るという無茶苦茶な代償を支払ったのである。なぜか。脱落協会派は、表むきは「改憲阻止.反合理化」の基調を否定し得ず、表むきは、反戦派のプチブル急進主義を批判していた。他方反戦派は路線上は「改憲阻止・反合理化」の基調を改良主義として否定していた。さて、そうすると、脱落協会派が反戦育成・反戦利用の立場をとっていた社会党の左右の派閥の要請に応え中央本部のイニシアを握るために、道は二つしかない。それは、脱落協会派が公然と反戦派の路線を承認するか、あるいは、大衆的青年同盟としての社青同の運動方針を消去し、反戦派との路線はちがうが利害で一致させようというセクト共闘をなすかである。脱落協会派は後者の道を選んだ。反戦派との執行部分けあい−「野合」のために社青同運動の原則放棄の道を選んだ。反戦派はこの全国大会で公然と六〇年代社青同の清算と反戦社青同への転身をかかげた。この反戦派と脱落協会派は共同で、社青同運動の原則のタナ上げをやった。したがって、両者は、共犯者として社青同中執を構成したのである。この両者の共犯行為は、単なる大会の裏舞台だけではない。大衆闘争の面前においても積み重ねられた。証拠を挙げよう。六九年の四・二八闘争をめぐる社会新報を再読すれば歴然としている。社青同本部書記長を自称する山崎耕一郎を委員長とする当時の東京地本は、反戦排除反対・全国反戦再開を主張する各県反戦連合の四・二〇反戦集会に当時の社青同本部の不参加指示を乗り越えて“批判的参加”をやった。この「勇気ある態度」が新報一面に高々ど評価されている。脱落協会派は、反戦派の全国反戦、無条件・即時再開の声明を「立場は異るが」と但書きをつけながらこれを支持し、総評青対部(当時担当竹内氏)反戦改組論を、“官僚的抑圧”と批難し、当時の社青同本部が四・二八社共統一集会の「反戦としての形態としての参加を認めず」との一項を承認したことは反戦排除に加担するものであると強硬に反対した。脱落協会派がイニシアを持つ社青同東大班は、あの東大闘争に際しては、全共闘に加わり反日共の一軍として民青とのゲバルト戦に参加し、大内脱落派協会代表は機働隊導入に菓子箱をもってお礼に行きたいと『世界』に論文を書き、その弟子達は機動隊導入反対のビラを書いて新左翼に歓迎された。当時社青同東京地本委員長山崎耕一郎は、都本部の設定する都本部青対委において、解放派の樋口一派と共同のテーブルにつき、しばしば社青同東京地本の統一問題なることについて談合し合った。
 これ等の諸行為が、“反戦排除”を最高の目標にかかげる今日においても「止むを得なかった」として総括されているのである。社会党の反戦利用から反戦排除への転換も無節操であったが、それでも、その誤りは一応公的に自己批判され、方針転換が公的に表明されている。だが、社青同脱落協会派の場合には、今なお「止むを得ざる処置」として大衆と同盟員をダマシつづけようとしているところに、その厚顔無恥さがある。ただ一つの真実がそこには反映されている。それは「止むを得ざる処置」という言葉の上に「社青同運動にとっては」という主語をおけば筋はとおらなくなるが、「脱落協会派のセクトのためには止むを得なかった」といえば、全ての筋は明白になるのである。たしかに脱落協会派が社青同本部のイニシアを取るには、当時の社会党や反戦ムードの上に乗って反戦派に秋波を送り、同盟の諸原則を犠牲に供えるというサービスを行なって共同で中執を構成することは「止むを得なかった」であろうし、今日、このかつての共犯者との約束を反古にして、自己の犯行の証拠を隠滅して、反戦パージムードに乗って、脱落協会派が社青同権力にしがみつくためには、同盟内民主主義を完全に破壊して、一派大会を社青同大会と偽装することもまたセクト利益のためには「止むを得ない」こととなるのである。
 この脱落協会派のもう一つの「止むなし路線」を合理化する論法が、聖なるレーニンの言葉を引用しての“マルクス主義的妥協の論理”である。当時の状況では反戦派との“妥協は止むを得なかった”と。しーニンは、妥協のない運動はないことを「左翼小児病」論で明らかにしながらも、後日、脱落協会派のように、これを自分勝手に悪用する者のあることを予見していたかのようである。妥協一般を排することが非マルクス主義的な立場であると共に、無原則な妥協の合理化がいかに階級的な裏切りであるかをレーニンは次のごとく述べている。脱落協会派があまり引用したがらないことなので、ここに記しておこう。
 妥協を「原則として」否定したり、妥協は、それがどんなものであろうとも、全然ゆるされないものであると否定することは、まじめにとリあげることさえできないほどの子供じみたふるまいである。……
 「妥協一般」をとやかく論議することによって責任をごまかしたり、逃げをうったりすることをゆるさないようにしなければならない。イギリスの労働組合ならびにフェビアン協会……の諸君は、まさにこのようにして、まさに彼等がおかした裏切りの責任のがれをし、実際上もっともたちのわるい日和見主義、変節、裏切りを意味するような、そういう妥協をむすんだことに対し、責任のがれをやっているのである。
 妥協にもいろいろある……強盗からうける災難をすくなくし、強盗をとらえて銃殺する仕事をらくにするために強盗に金と武器とをやる人と、盗賊の獲物の分けまえにあづかるために盗賊に金と武器をあたえる人を区別するすべをまなばなければならない」
 脱落協会派の反戦派との取り引きは、決して「止むを得ざる妥協」ではない。彼等は、積極的に、例えば山崎耕一郎が同盟員大衆をプチブル急進主義の四・二〇集会に参加させたことに明らかなように、プチブル急進主義に助力し、これと協同したのであり、積極的に脱落協会派はプチブル急進主義と闘争している部分への攻撃に加わったのである。しーニンの例からすれば、追はぎに自分の持ち金を与えたのではなく、追はぎと共に旅人(同盟)をおそい、その盗財(中央権力)を分けあったのである。
 再度、九回大会の問題にもどるが、もし同盟にとってあの「第九回大会は止むを得なかった」ということを認めることは何を意味するか。それは、反戦派社青同を叫ぶ反戦派との連合を容認し、同盟の原則の放棄−運動方針なき社青同を容認することである。これがいかに今日の脱落協会派の態度と矛盾しているかは明白である。当時、武装闘争路線を最も高く叫び、実際に最も行動を活発にしていた反戦派を執行部に加え、解放派とさえ談合を重ね、全く無防備の第九回大会に追い込んだことさえ“止むを得ない”ことだとするならば、今日、ゲバルト路線を事実上放棄し、少しは現実の階級闘争の苦い味をなめて反省期に入った同盟内反戦派をなぜ“排除”せざるを得ないとの論理がでてくるのか。彼等が社会党粉砕を叫んでいるからか、社青同綱領を否定しているからか、そんなことは、すでに第九回大会の会場の中において彼等は公然と演説していたではないか、だからわれわれは、このような反戦派の路線を断じて社青同の方針に受け入れることを拒否し、彼等を社青同本部に入れることを拒否してきた。それをセクト主義と批判したのは一体誰であったのか。
 第九回大会以来、事情と状況が変化したのは、反戦派運動がより下り坂になり、彼等が停滞したこと、社会党が“反戦育成”から“排除”へと方針転換を行なったことである。
 これによって、脱落協会派と反戦派の利害同盟は破産にひんした。
 脱落協会派の「止むなし路線」は、この前後においても社青同の運動がどんなに矛盾と混乱をはらもうと、「権力を握っているためには止むを得ない」という態度においては美事に一貫していた。まず両者は運動方針なき臨時執行部にもかかわらず、社青同の両者による私物化をはかった。一〇・二一闘争に際しては、“社青同”中執今野が、社共集会粉砕の反戦集会の世話人となり、昨日まで反戦排除の社共集会反対を叫んでいた盛山一派は、今度は口をぬぐって社共集会に参加し、社青同本部はこの両方の集会への参加方針を流した。脱落協会派の反戦排除の社共集会反対の見解は、公的には同盟内で下部討議中でありながらすでに彼等の行動は自からその主張をも否定したものとなっていた。反戦派の方がまだその主張と行動が一致していた。これはまさに同盟員に対する二重のベテンである。一つは、臨時執行部にすぎないものが同盟分割にも等しい二つの方針を下ろし、他方では、自からの行動と全く違った見解を下部対議に付し同盟員をペテンにかけているのである。われわれはしたがってただちに臨時大会の開催を要求したが、この時は、反戦、脱落両派が共謀して大会開催を拒否した。つまり、もし脱落協会派が多少とも社青同の運動を大切に考えていたら、この時点で大会招集に努力するはずである。自からの路線の転換を同盟員に問うことは党派の最低の大衆組織への義務だからである。だが彼等は反戦派との野合が成立する限りこれを怠った。つまり反戦派が何をしようとも、脱落協会派の権力を危うくしない限り、これと手を結んでいくという態度を変えなかった。
 この姿勢は、驚くなかれ、社会党大会で脱落協会派同盟員と反戦派が敵味方で対決した後においでもなお続けられるのである。つまり脱落協会派は、今日、大声で、反戦派、革労協の社会党大会への暴力的破壊活動を断罪しているが、彼等は、この社会党再建大会の事件の後においても、反戦派の社会党大会への抗議を支持する中執を処分もしなければ、弾劾もしなかった。今野、村上等々の反戦派の中心人物を社青同中央本部の専従者として抱えたままであった。なぜか。彼等を切れば、脱落協会派の権力が崩壊するからである。
 この事態になっても、脱落協会派は何んとかして反戦派との利害共闘を保とうと心をくだいた。その証拠を示そう。第三一回中央委員会では、反戦派地本は、中央委の資格要件である同盟費を未納にしていた。われわれは、このような地本の資格を認めるべきではないと主張した。だが盛山は、委員長の責任においてこれ等の反戦派の地本の資格を認めると発言した。なぜか。反戦派地本の資格を認めなければ、すでに危機に直面している脱落協会−反戦の野合中執の崩壊が決定的になり、中央委員会での反戦派の助力が決定的に得られなくなるからである。
 ここに現れていることは、脱落協会派の権力擁護に協力するならば、失なうベき中央委員の資格さえ、反戦派、解放派地本であれ、これを認め、脱落協会派の擁力を危くするならば、代議員権さえ一方的にハク奪するというムキ出しのマキャベリズムなのである。このように、今日反戦排除を叫んでいる脱落協会派は、社会党再建大会の後、今から十カ月足らずのつい先だってまで、必死で、反戦派との仲を取リつなぐべく、サービスにつとめていたのである。このサービスは、再び社青同運動の原則を売りに出すものであった。反戦派が「改憲阻止・反合理化」の基調を否定し、改憲阻止をブルジョア民主主義と否定しているところから、彼等が第十回全国大会議案骨子で提出した内容は〈1〉「改憲阻止・反合理化」の基調の表現の再検討〈2〉改憲阻止青年会議運動の否定〈3〉反戦青年委運動の育成ということであった。これは、明らかに、改憲阻止派とは組みません。反戦派との利害同盟はつづけますという再度の反戦派への脱落協会派の秋波であった。だがさすがに反戦派は、誤った路線に立っているとはいえ、脱落協会派ほどに無節操にはなれなかった。誰が見ても、脱落協会派は、彼等の言う反戦青年委さえやる意志もないことは明白であったからである。
 以上の経過に明らかなように、脱落協会派は、第九回大会においても、それ以降の社会党再建大会以降においてさえ、社青同運動の原則を擁護するためではなく、逆に、反戦派との野合で成立した社青同本部権力を手ばなすまいと、社青同の諸原則、運働を踏みにじって反戦派との野合をつなぎとめるべく努力を重ねたのである。彼等がいかに反戦派との闘争を同盟という立場からではなく、私的利害からだけ係わってきたかは、この中央の経過だけではなく、改憲阻止派が同盟の原則を守るために反戦派と闘争した結果引きおこされた京都、福岡、大阪、愛知等の組織問題においても、再建派が一貫して、反戦派に肩入れをする立場でしかかかわってきていないことをみても明白である。
 脱落協会派が、反戦排除を前面に押し出しできたのは、反戦派が第三一回続会中央委で中執から辞任し、脱落協会派の第十回全国大会案件が否決され、辞任を迫られるにいたってからである。
 脱落協会派が、その権力を握るにいたった野合基盤が壊れたことは、その権力の基礎を失なったことである。われわれは、彼等が今後、同盟の諸原則を擁護するならば、彼等の今日までの犯した誤りを許しうるし共闘の条件はあること、同盟の原則にのっとっての全国同盟の再建の道はあることを再三にわたって説得し、最後的には、例え共闘関係が成立せずわれわれの方針が全て否決をされようと、執行部に全く入らずとも、中央委員会を開催し規約にしたがった大会ならわれわれは大会に加わる決意であることさえも明らかにした。
 だが彼等は、自己の犯した同盟の原則無視、反戦派との野合と取引の数々におびえた。自からのあまりにも矛盾に満ちた路線転換を同盟大衆に間う勇気も、誠意も失なっていた。彼等は、全てを「止むを得なかった」として誤魔化す道を選んだ。この道は、同盟内民主主義を保障した大会では貫徹することはできないし、その権力を維持することはできない。彼等は、多数派と自称しながら、民主的に中央委を多数で乗り切り、大会を多数で乗り切る確信も失なった。彼等は少数派にすぎないだけでなく、脱落協会派についてきている同盟員にさえ責任を問われざるを得ない立場にあることを自覚した。
 道義を有しない少数派が権力を握って離さない唯一つの道、唯一の活路は、民主主義を完全に破壊し、自派とこれに追随する以外の全ての部分を排除することである。それはセクトを生かし同盟を殺す道である。彼等は、これを「止むを得ない」とした。反戦派との野合が破産することによって露呈した脱落協会派系社青同一派の非常事態を、全同盟の非常事態としてぬり変え、全同盟員と大衆をダマス道をつっぱしった。この作意に満ちた非常事態宣言の下に同盟の規約、慣行、民主主義の全ては否定され、正規の中央委、大会の開催はボイコットされた。この筋書きのために、再び反戦派・革労協のゲバルトが逆利用された。解放のゲバがくるという口実で中央委開催がネグられ、東京地本大会にテロが行なわれ「大会」は消去されたのである。
 そして、この脱落協会派の非常事態宣言のマヤカシを見抜き、社青同の原則を守ることを主張する全ての同盟員は、解放派の手先、その密通者として宣伝されたのである。
 以上で、この問題の本質は明白であろう。同盟の原側と運動を守るための非常事態と非常処置−その条件下での諸手続の一定の制限ということ自体は一般的に否定しうるものではない。今日にははじまったことではなく、反戦派、解放派は、すでに六八年ごろより公然と社青同の綱領、規約を無視し、反戦派社青同の道を進んでいた以上、これとの訣別は、社青同運動の発展のために必要なことである。だが、そのためには社青同運動の綱領と規約にしたがった諸原則が擁護されることが前提であって、脱落協会派の今日の反戦排除は、これを逆に利用して、自派のセクト利益を守り、同盟員大衆をダマスために、同盟の諸原側を踏みにじるもの以外の何者でもない。このような反同盟的動機を背景に持つ手続違反であるが故に、われわれは絶対に、盛山招集の第十同全国大会招集なるものを拒否したのである。

 四 「中央」の逃亡と全国同盟の再建

 以上事実をもって証明したように盛山招集の“全国大会”なるものは、名実ともに、わずか社青同の三分の一を結集した一派総決起集会であり、社青同とは無縁である。社青同にとってはこれをボイコットするも何もない。脱落協会派が何をやろうとそれは自由にして勝手であり、ただ大衆的な政治同盟としての社青同にとっては、脱落協会派の仲間内の集会に参加すべき義務もなければ義理もないのである。
 ただ今後の社青同運動にとって、直接的な関係があることは次の点である。すでに社青同中央本部として一セクトに対してではなく、全同盟に責任を負う自負も能力もすでに失なっていた盛山本部なるものが、一派大会の指導部に逃亡したことを彼等自身が公的に宣言したことによって、彼等が社青同本部としての任務放棄をなし、社青同本部は存在しなくなったということである。社青同本部なくして社青同は存在するか、存在する。社青同の基本組織は班であり、班が綱領、規約にのっとり存在している限り社青同は生きているのである。ただ全国は無くなった。したがって、同盟の綱領と規約にもとづいて社青同運動をあくまでも前進させる決意の同盟員は、同盟の綱領と規約にもとづき、社青同中央を下から再建し、全国社青同の再建をかちとるべき新たな任務を背負うにいたったのである。全ゆる困難を排して、この任務を達成しよう。
 反戦派が同盟綱領と規約を否定し、事実上反戦派社青同の道をあゆみ、脱落協会派が一派集会に逃亡した今日、「改憲阻止・反合理化」の基調の下に首尾一貫して社青同の諸原則と運動を擁護して奮闘してきたわれわれこそが、社青同全国の真の再建のための活動の先頭に立ってたたかわなければならない。ただし、この任務は、単なるわれわれのセクト的立場から追求されるものではない。脱落協会派の地本、同盟員も、同盟の諸原則に立ち帰るならば、セクトの差異ではなく全国同盟の再建の立場においてわれわれは一致点を求めていく努力をおしむものではない。
 全国同盟の真の再建を担うもの、それは同盟員自身であり、同盟組織がいかに青年大衆に信頼され、支持され、拡大するかにかかっている。社青同全国の再建を確認するものは単なる形式ではなく、全国の青年労働者、学生大衆に支持される社青同運動の全国的建設である。そめためには、七〇年代の新たな情勢に対応する青年運動の方向性を、階級闘争全体の再編動向の中でさらに位置づけていかなければならない。それ等の基本間題については別の機会にゆずるが、ここで一言付言しておけば、今日の同盟の危機なるものは、決して社青同運動の後退の側面のみを現すのではなく、政治的青年同盟としての社青同が多くの未熟さをかかえながら労働運動と結びつき、資本、権カへの闘いに全力を上げて肉迫してきたからこそ直面した矛盾の現れであり、ての危機の中にこそ七〇年代の新たな前進と、自己の質的高まりを生み出す契機が秘められていることを自覚しなければならない。
 脱落協会派は、その一派大会を社青同全国大会であり、その指導部なるものが社青同中央本部であることを、同盟員と青年大衆によってではなく社会党、とりわけ社会党本部に認知されることを最も期待しているようである。自主的な青年同盟の大会の認知権が、議員候補公認権と同じように社会党に存在するかのように振るまう脱落協会派の姿勢がすでに彼等の性格を見事に物語っているが、ここでは脱落協会派のためにではなく、党のために一言しておくことが必要であろう。
 社会党においても、社会党がいかに原則的に青年運動に係るべきかを、反戦青年委問題の苦い教訓をふまえて確立することが大切である。古傷をえぐるようだが、社会党の派閥が利用できる青年運動上のパイプをもとうという安易な反戦利用主義に走ったことは党と大衆運動に大きな損害を与えた。われわれの反戦利用批判は、当時は、あたかも党の方針に反し、党の利益にそむくかのように見えたが、結果的にはこの批判が党の利益にマッチしていたのである。今日、もし、社会党が、党の反戦排除と一体だということで反戦排除の脱落派一派集会を支持すればよいという安易な道を選ぶならば、それは党のかつての反戦利用をウラガエシにした安易な社青同運動へのかかわりと同じであり、より以上の混乱を党自身にハネ返らせる結果となろう。
 今回の青年間題は七〇年代の労働運動、階級闘争の決定的ポイントをなす問題であって、決して単なる党内派閥関係の操作によって片がつく問題ではないのである。社青同自体の運動の危機の根底には、今日の階級的青年運動に問われている階級的、党的指導性の確立という党自体の機能の確立の問題が問われているのであり、この問題は、例え反戦・解放をパージしたとしても、終っている問題ではない。旧態然たる、派閥処理によって、この社青同問題に対応するか、あるいは、この問題を契機に原則的な青年間題へのアプローチをなすかは七〇年代の党の青対方針だけではなく党の変革の問題とも深くかかわる問題を提起するであろう。


社会主義協会『社会主義』1971年3月号・所収

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