1965年12月

闘いの記録
小島昌光

一、屈辱の六月二二日

○一九六五年六月二二日、東京

 「調印式の行なわれた首相宮邸の周辺は多数の警官によって警備が固められた。
 ホール中央には菊の花とカーネーションで日韓両国旗を描いた飾りがおかれ、それをはさんで代表団が着席、金びょうぶを背にする全権委員席に椎名、李両外相が肩を並べ、その左右に高杉、金両全権委員がすわった。日本代表団席のわきには佐藤首相が一人着席,石井法相ら在京閣僚も全員参列して署名を見守った。
 まず椎名、李両外相が全権委任状を示しあったのち、条約・協定の調印が始まり、四全権は基本条約などの条約、協定、議定書に各二通ずつ署名、二十三の関係文書を交換した。調印を終えた両外相は握手を交わし、それぞれあいさつを述べた。つづいて金員起立のうちに音楽隊が日韓両国国家を演奏、最後に佐藤首相が音頭をとって乾杯、調印式は約四十分で終わった。」(毎日、6・23)

 この日…………

○ソウルで

 「韓国の首都ソウルの街は、完全武装した警官隊と急遽出動した首都警備司令部の軍隊が実戦さながら東西南北に疾走し、デモる学生に催涙弾をぶち込み、その硝煙の中うずくまる学生に棍棒と銃床の洗礼をあびせ、果ては犬畜生のように引きずってたたみこむように警察車にほうり投げる惨劇がくりひろげられていた。警官のあまりにもひどい暴行を止めに入った市民も同様の目に会い、この光景を見た市民たちは世の末を嘆じて“哀号”とうなった。
 それでなくても栄養失調気味の学生たちが二百時間の断食記録をたて、新たに十数大学学生数百人が断食闘争の隊列に加わったで李承晩独裁政権の打倒デモにさえソッポを向いていた梨花女子大生までが街頭に進出した。大邸では大学教授二人が警察の棍棒で負傷した。前日の比較的大規模な単生デモに恐れをなした政府が、ソウル大など市内主要大学に対してとった休校措置を無視してデモに参加した学生数はソウルだけで一万二千、地方まで入れると二万五千と伝えられ、逮捕千五百人、負傷者八百人を出したといわれる。」(労働旬報社.「日韓条約」より)

○東京で
 六月十日にはじまった参議院選挙に、全国は動員されていた。“選挙中はやらないだろう”という希望的観測の全てをうち消して佐藤内閣は、選挙の最中の調印強行という自信たっぷりな高姿勢を示した。
 社会党は「選挙に国民の目が注がれているすきをねらって」行われた調印は、きわめて卑劣な行為であり、「党は批准粉砕の国民運動を盛りあげ、佐藤内閣打倒を戦いとることを誓う」と声明した。民社党は「不満な点は多々あるが」「全体的に見てわが国の利益に合致したものというべきである」と支持を声明し、注目された。(日経、6・23)

 この日・総評は、午後一時、三〇〇〇の動員を外務省前にかけた。
 午後三時現在、結集した部隊三〇〇名。うち半数は、社青同中央本部東京地本、宮城地本、神奈川地本などの自主参加。農林省前で抗議集会を行い、隊列を組んで外務省へ向おうとしてはげしく警官隊とぶつかりあい、社青同中央本部書記長立山氏が逮捕された。三〇○名はそのまま日比谷公園まで押し戻され、小音楽堂で解散集会をもった。解散後、社青同の約百名は、都学連のデモヘ合流し、ひきつづき夜まで闘った。
 一方、芝児童公園で集会をもった都学連は、三時半頃出発してデモ行進にうつった。動員数はほぼ二〇〇〇名。同数の機動隊に包囲されながら、はげしくジグザグデモを敢行し、虎ノ門交差点で外務省へ向ってはげしく機動隊と衝突、多数の負傷者と逮捕者をだしながら闘争した。全体はこのまま日比谷公園に押し流された。
 日比谷公園で一たん集会をもち、再び隊列をととのえ、再度外務省へ向って出発、公園入口をかためた機動隊と激突、機動隊は棍棒をぬいて学生におそいかり、学生は投石をもってこれと対抗した。こうして、公園の中を、再三にわたって警官隊と対決しながら、最後に有楽町までデモ行進を闘いとって闘争を終えた。
 日共系全学連も、この日、日比谷野外音楽堂で決起集会をもち、平和なデモ行進を行った。参加者は約五〇〇〇名であった。

二、日韓条約正式調印の歴史的な意味

 十四年間にわたってつづけられた日韓交渉は、六月二二日、ついに正式調印にこぎつけた。十四年問にわたる、日韓交渉の歩みは、そのまま日本の帝国主義者の復活への歩みであったと、言ってよい。そして、この交渉を、再三にわたってうち破り、こんなに長い時間をかけざるを得なくさせた大きな力は、韓国の学生を中心とする、英雄的な反帝闘争であったというべきであろう。
 この日、正式調印の阻止のための闘いが、東京とソウルで、はげしく闘われた。選挙中という事情もからみ、東京の闘いは、ほとんど形はかりのものとして終った。だがそれにしても、この日の闘いは、一つの目標のために異体的に立上った、国境をこえて団結する国際的な共同闘争として、日本の労働者、単生が経験する、はじめての闘争ではなかっただろろか。東京で立上った一万人は、同じ日にソウルで立上ったであろう数万の学生を、この日程親しく感じたことはなかったであろう。
 六月二二日は、日本と韓国の支配著にとって、犬きな歴史的な意味をもった。だが同時にそれは、日本と韓国の、支配される人民同志の関係にとっても、新しい時代の開始を告げたのでもある。

 戦後に育った私達は、旧日本の資木主義の歩みの歴史を、あまり知らない。しかし、少し学んでみれば最初に解ることは、日本の帝国主義としての歩みの最初の問題は、やっぱり、日韓間題であったということだ。六〇年前に締結された日韓保護条約(乙巳粂約)を第一歩として、日本は、アジアに君臨する帝国主義としてのみにくい姿を、公然とあらわしていくことになる。そか犠牲には、数百万の韓国・満州・中国、そして日本の労働者の生命がささげられ、行きつく先は、第二次世界大戦への死の進軍であった。
 私達は、六月二二日の日韓条約正式調印が、六〇年前の日韓保護条約締結の危険なくりかえしであることを、はっきりと見ぬかなければいけない。そして、六〇年前にはなし得なかった、日韓両国人民の反日帝共同闘争(それは主として、日本の労働者の責任であった)を通じて、今度は、この陰謀、死の進軍を、必ずやめさせなければならない。

○日韓交渉の主な経過

25年6月朝鮮戦争起る
26年10月連合軍司令部のあっせんで予備会談
27年1月韓国“李ライン”を宣言
27年2月第一次会談(4日に打切り)
28年4月第二次会談(話し合い進まず)
   7月朝鮮戦争休戦
  10月第三次会談(久保田発書で打切り)
30年8月韓国・日本と経済断交
33年4月第四次会談(北朝鮮帰還決定のため打切り)
35年4月第四次会談再開(四・一九学生革命の李承晩打倒によって打切り)
   5月日本の安保闘争激化す
   9月小坂外相訪韓
  10月第五次会談(三六年五月、軍事革命で打切り)
36年10月第六次会談
   11月池田・朴会談で「早期国交正常化」を合意
37年3月小坂・ 外相会談(請求権問題で話し合いつかず)
   10月金鍾泌来日。大平外相と会談。金・大平合意メモ。
   12月大野伴睦訪韓。東京で日韓予備接衝。請求権問題は事実上合意成立。
38年10月朴大統領に当選。
39年3月赤城・元農相会談。ソウルを中心に日韓会談即時中止を要求する学生デモ激化。首都戒厳令に追いこまれ来日中の金鍾泌を本国召還。
   4月農相会談中止。
  12月第七次日韓会談開始。全面的な仕上げ進む。
40年2月椎名外相訪韓。日韓基本条約仮調印。
   3月赤城・車農相会談。椎名・李外相会談。
   4月請求権、漁業、在日韓国人の法的地位につき合意事項の仮調印。
   6月正式調印。

三、韓国批准国会難航す

○全国非常警戒令の下に日韓条約批准窮五一回臨時国会開会

 「日韓諸協定批准の決議を決める韓国の第五一回臨時国会は、十二日午前十時から開かれ、与野党緊張したふんいきのうちに「日韓条約・協定・付属文書」など二十七の全文書の批准同意要案が提出された。
 国会は同案提出と同時に散会、審議は十三日から外務委員会を中心に開始される、しかし前途多難を象徴するように早くも国会周辺では批准反対の民衆が警官隊と衝突、デモの風説が飛び交うなど、緊張度は急激に増している。
 このため警察当局は、同日朝全国の警察署に非常警戒令を発した。」
 「またこの批准同意要請案と同時に、南ベトナムへの一個師団相当(一万五千人)増派同意要請案も提出された。これは韓国軍がベトナム戦へ直接介入する増派である。」
 「政府は十三日朝、丁総理ら全閣僚が全国のラジオ・テレビ網を通じて、これら二つの同意要請案に同調するよう国民に訴えることにしている。しかし、実際には与党の“批准強行”と野党の“決死的阻止”の両極端の対決は避けられず、十二日開会式後の与・野党総務団会議も、最初から物別れの様相を示した。
 一方、学生、一般の批准反対運動は次第に高まっており、この日も国会開会前から野党議員、キリスト教関係者ら百余人の群衆が、国会議事堂前に押しかけ「民族よ、目ざめよ、批准反対』と叫んで気勢をあげた。
 間もなく警官隊が出動して解散させたが、ソウル市内の緊張の度合は急激に高まっている。」(朝日、7・12)

 全国に非常警戒令を発した朴政権の、批准強行方針は、必ずしも思い通りにはならなかった。野党は、批准案の本会議提出そのものを、真向うから拒否しつづけ、無条件休会を主張し、議長席を占拠しても本会議を開かせないという方針で、はげしく抵抗した。だがそれ以上に、朴大統領にとって打撃であったのは、予想外に広汎で強硬な、批准反対、朴批判戦線が、急速に形づくられていったことであった。それはもはや、たんに学生の闘いだけの限界をはるかに超えていた。

○広がる反対勢力

 「韓国の第五一回臨時国会は、去る十二日から開かれた・政府がこの時期を選んだのは、執ような反対デモをくりひろげる学生運動を避けるため、大学の夏休みをねらったものといわれるが、この開会を前後して、日韓条約批准に対する賛否は、韓国の国論をひときわあざやかに二分した。
 それまで、表面的な批准阻止勢力の動きは野党と学生の一部に限られていたが、去る二日、八十人あまりのキリスト教連合会の牧師が、批准阻止の声明を発表し、四日からは各地で反対の祈とう集会を開いた。韓国の宗教界が政治に介入したのは独立後初めてのことであり、しかもキリスト教連合会は韓国で最大の信者をもつだけに韓国政府はもちろん、日本政府にとっても驚きであった。
 ついで九日、ソウルに住む八十二人の詩人と小説家が「批准拒否条約廃棄」を声明し「デモ学生の釈放」を訴えた。十二日には、ソウル市内の各大学の教授三百四十四人がソウル大学に集り「批准反対」を声明した。翌十三日には、ソウルの六大学の学生会長が集って「批准反対大学連合会組織」を結成して気勢をあげた。
 さらに、十四日目には、宗元内閣首班、金在春前中央情報部長、朴前国防部長宮ら十一人の予備役将軍が「批准反対」のノロシをあげた。特に、朴前国防部長宮は、韓国軍の良識と言われ、現没将校に多くの部下をもっている。」
 「阻止闘争がこれまで野党の院内闘争、学生だけのデモから発展して、宗教人、文化人など市民にまで広がったことは注目される。つまり、韓国の与党と経済界を除く大半の知識層が反対の旗印を明確にした点が、きびしい政局を暗示しているようだ。」(朝日、7・18)

 このようにしてもり上った韓国人民の反対運動は、与党と韓国政府の、第五一国会に於る批准強行を阻止することに成功した。情勢を見てとった政府は、一時的休戦をとることに決め、野党民衆党代表委員朴順天と、朴大統領との会談で、第五一国会の閉会、批准国会は改めて開く、との妥協が行われた。政府にとってはこの妥協は、野党から、次の国会への審議参加の言質を取ったという意味で、大きな戦術的有利さをもっていた。他方野党にとっては、従来の立場を議会主義的に弱めたことになった。このため、野党内部での、強硬派(ユン・ボソン派)と、穏健派の朴順天系との激しい対立となった。
 だが、いずれにしても第五一臨時国会の中断は、韓国内の反政府勢力の、急速な拡大・強化の反映であることにまちがいはない。

○日本・参院選結果出る

 日韓を争点の一つとして闘われた注目の日本の参院選は(七月四日に行われ)自民党が停滞、革新票が保守票を始めて上廻る等、注目すべき結果があらわれた。

   当選 新分野(改選前) 地方区得票率(前回)
自民 七一 一四〇(一四四) 四四・二(四七・一)
社会 三六  七三( 六五) 三二・八(三二・八)
公明 一一  二〇( 一三)  五・一( 二・六)
民社  三   七(  九)  六・一( 七・三)
共産  三   四(  三)  六・九( 四・八)

四、韓国与党単独採決強行、学生・市民の“無効闘争”激化

○第五二国会与党単独で批准強行

 七月二九日からはじまった、再度の日韓批准のための臨時国会は冒頭から与野党の激突となった。
 三日、特別委員会での審議開始をめぐって与野党の衝突が起り、大混乱となった。四日、野党の民衆党は、中央常務委で“全員脱党”(韓国の法律では、脱党すると議席を失う。野党全員が脱党すれば国会議員数は与党のみの百十議席となり、憲法では、国会は百五十〜二百議席を有する、となっているところから、国会の一切の審議が無効になる。“全員脱党”は、これをねらった強硬方針)を決議。
 こののち、野党の内部に対立が生じ、強硬派は脱党届を提出して議員職を放棄した。朴順天らの穏健派は、「脱党のような方法はとらない」としたものの、大衆の圧力で、これ又、特別委員会、本会議への参加、出席を拒否した。
 こうして八月十四日、野党全員欠席のまま「賛成百十票、反対なし、棄権一票」で、韓国国会は、日韓条約の批准を「可決」した。
 「午後七時二十五分、イ・ヒョサン国会議長の『政府原案が可決されたことを宣言します』の声に議場内は一瞬水を打ったように静まった。記者席のざわめきがかえって厳しさをひきたたせるようで九割方はいった傍聴席もしわぶきひとつ起きなかった。ただ丁総理がミン・クワンシク特別委員長と堅い握手を交し、李東元外務部長官が日韓会談のかげの推進者、金鍾泌議員の席にかけよった光景はあらゆる意味で暗示的な光景であった。」(読売、8・15)

 力による批准強行に対し、野党と反対勢力は、この強行採決は無効であるとして、不承認の態度を打ち出し、無効闘争を開始した。
 十四日には「午後一時すぎから文化人、大学教授、退役将軍らで組織する祖国守護協議会の約五百人がソウル市内で『売国協定無効大会』を開き、うち約百五十人が国会解散を叫んで激しいデモを行った。大会闘争宣言の中に『米国は協定批准に背後から操縦するな』と叫んで注目されたが、デモの先頭に元国防部長官朴 権、孫元一両予備中将や、断食デモを続けた宗教家ハム・ソクホン翁の姿が見られた。」(朝日、8・15)

○学生デモヘ軍隊の介入

 八月二〇日、開校とともに、学生はいっせいに立上った。ソウル六大学の「無窮花守護大学生総連合」(七月十二日結成)は、闘いの目標を「祖国解放」というより根本的なものに高めていた。
 闘争は始めから催涙弾と投石の応酬となり各所で警官隊の阻止線は突破され、デモ隊は国会周辺に押し寄せた。二四日には、デモは頂点に達し、試験拒否を決めたソウル大学の二五〇〇をはじめ二万が総決起。しかもこの日ついに三千の市民が合流し、李承晩打倒をなしとげた四月革命の様相を呈してきたのである。まさにこの時、朴は軍隊の直接投入を決意した。
 二五日、決起した学生に軍人が鎮圧のため出動し、なかでも高麗大に出動した三百人の軍人は、学園所に乱入し、学生に暴行を働き校舎を破壊し、ついには図書館に乱入して平和に読書をしていた学生を棍棒でなぐるなどの弾圧を行った。この日、全体で八百五十人の学生が、警察に連行された。
 軍隊の力をかりてデモを力で押えこんだ朴政府は、つづいて、百名をこえる教授と学生運動家を、指名逮捕し、末だに勾留しているのである。
 だが、韓国人民は、この闘いに敗れはしたが、朴の弾圧は、彼らに闘いをあきらめさせることは決してでできない。逆に、人民は闘いの目的を、今はっきりと、朴政府打倒へとむけ、韓国革命を底辺から成熟させつつある。

五、日本の闘争準備進まず

O日韓の口火を切った八・二五

 韓国の軍隊が、軍用トラックにのりこみ、大学構内に乱入して無数の学生に暴行を働き、これに屈せず一万人をこえる学生が、八百十五人の逮捕者を出して闘いつづけていた八月二五日、日本で、この韓国学生の闘争に呼応したのは、わずかに社青同東京地本の八月25日日韓粉砕決起集会であった。
 当日九段会館に集った一千名は、集会の後お茶の水まで、戦闘的なデモ後進を行った。社青同東京地本を中心にした一千名の労働者は、韓国学生に呼応して闘う誓いのシュピレヒコールを、夜の駿河台にひびかせて、闘いの出発を意志統一した。

○社会党臨時大会、日韓闘争方針打出す

 参院選の総活と、日韓闘争方針をめぐり、八月十六日から、社会党第二十六回臨時大会が開かれた。
 当面する日韓闘争の方針について佐々木委員長は、「本大会の第二の目的(参選総括と党組織強化が第一の目的)はベトナム侵略反対、日韓条約批准阻止、経済危機打開の三つの戦いを結合し、これに向けて全国民の「総学習、総行動」の戦いをもりあげる方針を定めることである。」「日韓条約について………帰するところは東北アジア軍事同盟という一つの目的を実現しようとの意図である。………われわれはこれを大規模な院内外の闘争で粉砕し、佐藤内閣を打倒しなければならない」とのべた。
 又成田書記長は、安保共闘の再開は考えていないが「一日共闘を強め運動の発展とともに共闘を前進させるべきだ」と発言した。
 これに先立って開かれた総評第二八回定期大会は、ベトナム反戦は論議され、反戦ストライキの問題が出されたが、日韓の問題は、全然論議されていなかった。
 韓国の単独採決強行、学生、市民の無効闘争の激化の中で、日本の闘いの準備は、ほとんど前進していなかった。人々の目は、韓国に注がれてはいたが、間もなく自国の問題となろうとしていることに対して、意識的な準備は、非常に立ち遅れていた。
 八月中旬の社会党大会が、“国民総学習”を提起したと同じように八・二五の段階で社青同東京地本は“闘う学習会”の組織化に、全組織をあげて努力をしていかなければ、決して日韓は闘えないということを警告せねばならなかった。

O反戦青年委員会の組織化はじまる

 八月末、日本社会党青対部は、社青同や総評青対部等、各種青年組織に、「べトナム戦争反対、日韓条約批准阻止のための青年委員会」(略称・反戦青年委員会)の結成をよびかけた。よびかけに応えて、八月三十日、四五団体の参加のもとで全国反戦青年委員会が結成された。全国反戦は、運動の重点を、一〇〇〇万青年署名、リレー式の全国縦断反戦行進と集会、各県、地区での反戦青年委の組織化を定め、代表委員に、楢崎弥之助(社会党)、池田光利(総評)、深田肇(社青同)、事務局に山下勝(総評)、高見圭司(社会党)、立山学(社青同)を選んだ。
 十月までに、各県段階の反戦青年委員会は次々と結成された。闘いの中心東京では、十月四目、社青同東京地本、東京地評青年協、都学連等の参加のもとで結成大会がもたれ、日韓批准阻止を、青年の実力闘争で阻止することが確認された。
 民青はこれに対し、反戦青年委員会が、安保破棄青学共闘の再開に対して分裂策動の役割を果すということ、トロツキストと修正主義者が参加しているということ、ベトナム侵略に反対するという立場ではなく単に戦争に反対するどいう立場は日和見主義でるる。等の理由で、参加を拒否した。

 青学共闘、安保共闘は、労働運動の右からの策動と共産党のセクト主義によって、事実上統一戦線の役割を果せなくなっていた。だが、日韓闘争の高まりは、闘いの武器としての統一戦線への要求を強めた。反戦青年委員会は、社青同、総評青年部、学生(トロツキスト諸潮流)の一つの統一戦線として、この要求に答えた。この部隊は、闘う勢力を結集した統一戦線として、労働者の闘い全体の中で突出した戦闘部隊として闘うことを可能にした。
 社青同は、反戦青年委員会が、日韓闘争の中で果す重大な役割を自覚しつつ、なお、民青をも含めたさちに広大な統一戦線への第一歩として位置づけた。

○労働戦線の状況

 十月六日、総評は第二九回臨時大会を開いた。八月の第二八回大会では、日韓についてはほとんどふれられていなかった。だがこの大会では、日韓国会の開幕と同時に緊迫感がもり上り、日韓批准阻止にデモやストで強い体制をくむこと、又一日共闘を通じて、共産党との共闘を発展させるという、重大な決定を行った。全逓は、一日共闘について態度を保留した。
 この大会では、公務員労働者の人事院勧告完全実施を要求して、十月二二日、秋闘第一波をくむことを決定した。これに先立つ日教組第二九回臨時大会は、勤評闘争以来の半日スト体制を、七一%という高率の賛成のもとに決定していた。自治労・国公・地公の各組合は、日教組とともに十月二二甘のストライキに立上ることを決めた。十月二二日ストは、公務員の賃闘として戦後初めての統一半日ストのもり上りとつくり出し、日韓闘争にも大きな影響を与えるだろうと予想された。

 他方、同盟第五回中央評議会は、九月二八日に開かれたが、討論の中心は日韓問題に集中した。造船総連、同盟中国ブロック等からは、日韓反対の立場があっても良いのではないかという少数意見が出されたが、多数は、第四回中央評議会の日韓賛成の基本線をもっど強めよという見解か強く押し出され、とくに中地会長は、民社党内の一部反対論者に言及し、「下部が反対だという理由で選挙がやりやすいようにと反対の主張をしているようだが、これは不都合きわまる。そういろ人は社会党なり、自民党なりに行ってもらってもよい」ときびしくきめつけ、労働者の利益からどんなに遠ざかっているかをあらためて示した。

 総評が一日井闘を確認するや、中立労連は十八日、第七四回全体会議を開き、席上、電機労連から“共産党との共闘に反対する”旨が強く主張された。中立労連としては、労連規定の満場一致制からやむを得ず、全国実行委への参加を中止することを決定した。電機労連の態度に批判的な全造船をはじめとする十五単産は、あらたに「中立共闘」をつくって、中立共闘として全国実行委員会に加盟した。(中立共闘への不参加は、電機労連と交通公社労組だけである)
 だが、下部のはげしい突きあげの中で、ついに電機労連も、何もしないですますわけにはいかず、二七日、日比谷に六千人を集め、日韓条約批准反対電機労連東日本大会を行い、デモ行進を闘った。

六、闘いの高揚・解体・停滞

○もり上る十月闘争

 十月五日、日韓国会は開会され、冒頭に異例の記名投票音行って会期は七〇日と決定した。五日、記者会見の席上で佐藤首相は、「今国会は日韓案件に全力を尽す。じゅうぶん審議は尽すが、院外闘争で批准を阻止しようとするのは民主主義に反する暴論である」(読売、一〇・一五)と、はやくもその高姿勢を示した。

 この日、都学連三千人が午後二時半から芝公園で集会を開き清水谷までデモ行進、途中機動隊と激突し、十三人が逮捕された。つづいて夜、社青同五百名と学生の残留部隊千名は、清水谷で集会を行い、国会請願デモを行い、参院議面前で全員が坐りこみを敢行した。国会前の坐りこみは、昨年の原潜闘争で一度見られた以来はじめてであった。約三十分にわたって坐りこんだ後戦闘的なデモを再開しゴボウ抜きをする警官とはげしく衝突、日枝神社坂下では投石と棍棒の乱戦となり、社青同の女子活動家一名が頭部を強打されて二週間入院の重傷を負った。夜は十一名が逮捕された。
 この日全学連(民青系)は一万人を日比谷野音に集め、「われわれは一万五千人の警官の弾圧をはねかえして闘う」(沢井議長あいさつ)「日韓条約をあらゆる可能な方法で阻止する」(川上全学連委員長)等と戦闘的に語った。一ヶ月の後、これらの戦闘的な言葉が実際に何を意味したのかを、全国の学生と労働者はいやという程知らされることになる。

 十月十二日、午後六時より明治記念公園で全国実行委員会の第二波統一行動が聞かれ、十万五千人が結集、安保以来のもり上りを示した。このうち約七万人は、国会コースにデモ行進し、途中、フランスデモ、ジグサグデモをくりかえした。参院議面前にさしかかりまず都学連の二千名が坐りこみ、つづいて社青同の千名、さらに社会党都本部の五百名が、参院議面前の道路を一杯に埋めて坐りこみをかちとった。この日も機動隊は暴力をふるい、学生と労働者、女性を含む約十名が入院した。だが、この日の高まりは、主催者にとっても権力にとっても、予想外のはげしさを示した。なお、中央実行委員会は日本青年館で屋内集会を行い、全国実行委員会との間でアイサヅ交換という形の共闘を実現した。

 十月十五日、全国反戦青年委の第一波中央行動が開かれ、全国各地から一万八千人が日比谷に集まった。デモに移って午後八時頃、先頭の地方代表をはじめ、一万八千人の全員が、参院議面前から衆院議面前までの道路上をはじからはじまで埋めつくした。坐りこみ集会は、約四五分間続けられた。この日、歩道上を歩き、何の指揮もしていなかった樋口社青同東京地本委員長が逮捕されるという、不当極まる弾圧が行われた。だが、一万八千の全参加者は、このような弾圧をはねのけ、労働者も学生も、新橋までの道路で安保以来の大キボなフランスデモ、ジグザグデモをくりひろげたのである。

 十月に入ってからの三回の闘いは、急速な高まりを示した。国会前坐りこみの数も、千五百名、三千五百名、一万八千名と、うなぎのぼりとなった。だが、実力阻止の指導の一貫した追求が欠如されるなかで、院内のかけひきに重点を移され、激突を恐れる日和見主義的な幹部のもとに、闘いの解体が準備されていった。十月一五日につづく闘争は、十五日間の空白をおいた、十月三〇日へとひきのばされ、一方社会党の院内闘争は、日韓の具体的なバクロを通じて大衆を結集する方向に有効に組まれず、単に審議引きのばしをはかるかけひきに終っていった。又、期待された十月二二日ストは、政府のなんらの回答もひき出せないまま、自治労を先頭に、全でくずれ去った。
 十一月に入っても、社会党は、“会期内成立のびきのばし”へと重点をおいて、闘いのヤマは十三日〜二十日前後と決定した。社青同東京地本は、十一月初旬に闘いのヤマが来ると指てきして、十一・五の東京反戦の行動を設定した。

○衆院強行採決阻止闘争の解体

 社会党の”中旬がヤマ”という設定は、佐藤内閣の異常な高姿勢を過少評価していた。自民党は、十一月六日午前十時、日韓特別委員会で強行採決を暴力的に行った。つづいて十二日未明、本会議で船田議長の“四五秒瞬間採決”という国会史上まれにみる暴挙に出て衆議院を強行通過させた。

 十一月五日、八千の東京の青年労働者は日比谷に結集、「我々は国会にお願いに行くのではない。実力で阻止するためにデモをかけるのだ」と確信してデモに出発、参院議面前で国会坐りこみをかちとろうとして機動隊と乱闘、四十名が逮捕された。
 六日の強行採決に怒った労働者は、六日、七日(日曜日であったがデモを敢行)八日とはげしく闘った。だが、反戦青年委員会を中心とする実力阻止闘争は、一つは闘わない組合幹部、二つには平和主義的な共産党の二つの方面から、集中的に弾圧されはじめた。
 十一月八日、全逓は十一月十一日に予定された反戦青年委員会の闘争への青年部の参加を禁止する通達を出した。
 十一月九日、第一波の国民共闘が、両実行委員会共催でもたれ、十八万人が参加した。この日共産党はいっせいに「トロツキストの挑発をゆるすな」とさけび、民青系全学連は都学連が統一行動の会場に参加することを阻止すると称してピケをはり、乱闘をひき起したちまちこの乱闘をタネに、「トロツキスト排除」をかなり立て、戦闘的な行動を封じこめようとして全力をあげた。とくにこの日、夜のデモでは、都学連と反戦青年委員会は、機動隊との激突の中で八十名の負傷者を出したが、共産党等の“民医連”は、「トロツキストの手当ては拒否する」と称して、資本家の法律ですら禁止されている“診療拒否”をあえて行った。

 衆院本会議強行採決が予想された十一月十一日の闘争は、三千人の地方代表を含め「今日は阻止するまで帰らない」と決意して、再度議面前坐りこみを闘いとることを確認していた。だが、当日、日比谷で開かれた総評単産委員長会議は「坐りこみ反対」を決定し、徹夜を決意して集った労働者を、全て流れ解散させてしまった。決定的に重要な時点であった十一日の闘争が解体された後、政府は、自信をもって十二日未明の“瞬間採決”を強行したのである。

 これに先立って総評は、十一月四日評議員会を開き、十三日のストライキを決めた。一部から「政府の緊迫した情勢の中で、ストライキが十三日では遅すぎないのか」との指摘がなされたが、「院内闘争の状況から見てヤマは十三日」という社会党の情報を信用して十三日の実力行使の方針がきめられた。十二日未明の瞬間採決は、明らかに総評の十三日のストを、気のぬけたビールのようにあいまいなものにしてしまった。国労を中心に十二日夜からストライキが実行されたが、これらはほとんど社会約な打撃とならず、八重洲口集会で若千の混乱が起っただけに終った。

 こうして、十一月の“衆院強行採決阻止闘争”は、解体されていった。闘いの決意にもえた労働者は、実力阻止へとむかう強い傾向を見せたが、九日、十一日、そしてストライキの時期決定等、決定的な点で、日和見主義者の闘争解体の攻撃に屈してしまった。

○参院段階への移行と闘争の衰退.

 闘争は参院段階へ移った。大衆は強行採決に憤激して、安保のようなもり上りを示すだろうと予想され、早速、“国会解散”のスローガンがもち出された。だが、事情は違っていた。大衆はこうした議会主義の空しさに、むしろ闘いの意欲を失なっていいた。もはや阻止は、単なるかけ声でしかない。結局、ずるずると通過を許してしまうことにしかならないなら、なんのためのデモなのか? 十一月十九日、二六日、十二月三日、四日、六日、七日、八日とデモが組織された。参加数は、日一日と減少した。七日、全国反戦青年委員会の闘争で、参院議面前で、社青同が十五分の坐りこみを行っ。だが、脇を通る労組の隊列は、奇妙なとまどいの表情をうかぺ、合流しようとはしなかった。この日、十七人が逮捕された。最後の坐りこみ闘争であった。
 十二月十一日、参院本会議は、日韓案件を一括採決した。佐藤政府は、自然成立を待ってはいなかった。

○共産党の役割

 共産党は、安保共闘再開を組織戦術の中心に置き、日韓闘争を、安保破棄の闘いへと集約させるという立場から、全ての宣伝を行いその沖で組織拡大を追求した。九月二一日の闘争以後、大規模な闘争は、十一月九日までくまなかった。この間の約二ヶ月は共産党が日韓に本気でとりくむつもりなら、当然許されるべきではない空白であった。十一月九日以後、共産党の主要な宣伝は、トロツキスト攻撃に終始した。「坐りこみやジグザグは、統一を破かいするからよくない。都学連や反戦青年委員会の中にはトロツキスト=職業的反革命家集団が入っていて、警官に応援されながら平和な請願を妨害している。」というのである。安保の時と同じく共産党は、闘いがもり上ってくるや、労働者の内部に分裂をわざわざつくり出し、闘い全体の足をひっばる役割を果した。

 民青系全学連も又、共産党のこのような役割によってひきずられでいったのである。十月五日には「警官の弾圧をはね返し、あらゆる可能な手段で日韓を阻止する」と、約一万の学生を結集して確認しながち、都学連−反戦青年委員会の実力闘争が急速に高まると逆に、大衆動員能力と低下させていった。二九日の全国第二波統一行動は、学内集会にすりかえられ、十一月一日に三万を明治公園に集めて闘う予定が、わずかに月比谷に二千人(主催者発表)を集めるにとどまった。その後全学連としての独自行動は放棄され、中央実行委や、国民共闘の集会に、千〜三千を動員するにとどまっている。
 これと対比するとき、都学連は逆に、連日数十名の逮捕者を出しつつ、動員数はかえって強化され、十月二九日には七千名を動員、十一月の連日闘争に常時二千〜四千を動員した。しかし、これも、本会議強行採決後、急速に分散していった。

○強化された弾圧体制

 この闘争の中で、警視庁の弾圧体制は一段と強化され、参加した労働者大衆は恐怖の念にうたれた。二千名の機動隊を中心に常時一万五千の警官隊が待機し、国会周辺にはつねに五〇台前後の鋼鉄車(用意された装甲車は一六〇台である)が配置され、包囲を阻止する阻止線をはりめぐらし、逮捕者は、闘争の全期間を通して、三五〇名を突破した。社青同と反戦青年委員関係の逮捕者数は、次のような状況である。
 九・一四逮捕一名 九・二二逮捕一名 十・五 逮捕五名起訴一名重傷一名 十・二一逮捕二名重傷一名 十・一五逮捕三名起訴二名 十・二九逮捕三名 十一・五逮捕十四名起訴二名重傷一名 十一・六逮捕十四名 十一・七逮捕一名 十一・九逮捕十五名 十一・一一連捕十三名 十一・一二逮捕四名起訴一名重傷一名 十一・一九逮捕一名 十一・二六逮捕二名 十二・七逮捕十九名
 合計 逮捕九八名 起訴六名 重傷四名

七、おわりに…………

 こうして日韓条約阻止闘争は終った。新しい闘いの時代、日本帝国主義の韓国侵略と日韓両国人氏の共同闘争とが、はげしくぶつかり合い世界の台風の目として登場する時代がはじまった。
 僕らは、全力を尽して闘いながら、いつもまだ力を出し切っていないという感じにおそわれていた。何故なら、闘いが自分のものになりきってはいなかったからだ。

 一生懸命、デモやストで汗水を流しながら闘っていて、ふと気がついたら、だれかの土俵で踊っていた、というような情ない事態をくりかえさないよう、今こそ、総括戦を通じて、戦列を拡大再生産しよう。
 職場から立ちあがって日本帝国主義との正面対決の戦線に全ての労働者が結集する、思想と組織と戦闘方針を、全ての闘った活動家の最大の成果として獲得し尽そう。


『日韓闘争――総括と記録――』
1965.12
日本社会主義青年同盟東京地区本部教宣部