反帝教育闘争論

――反帝学生運動における社会運動を断乎として組織せよ!――

はじめに

現実の諸闘争が言葉を乗り越えている。それが一九六五年の教育闘争だと言える。その現実の諸闘争は、固定化されたドグマによる誤れる指導が行なわれている場合が多い。そしてその闘争は、貧弱な漏斗頭が陳列された。同じ言葉が激しく、かつ虚しく繰返され反響するサロンへと持込まれどこかに葬り去られがちである。個別闘争がそのまま個別闘争として固定化されてしまい普遍化されることはなく、ただブルジョアジーのみが闘争の中で成長していく。そして闘争はブルジョアジーによって個別撃破される危機を迎えている。われわれの第一の危機は真にここに存在しているのだ。一方、水脹れした「日共=民青」どもは反米民族統一戦線のため学内共闘路線によって闘争を裏切り、文部官僚の髭のツヤを一層よくする。自称他称諸トロツキストは、単純街頭行動屋の諸教育闘争の否定、もしくはまがいものの反スタイデオロギー注入の場としてのみの位置付けにより、これも又、ブルジョアジーから「純真な悪童」として許容される程に力とならない、体制内化された「反体制運動」としてのみ貫徹する。ここに全国の同志諸君の憂える第二の危機が存在する。

全国の同志諸君! 教育闘争の明確な位置付け、方針を、われわれ自身の闘争を総括するなかから確立し、日本資本主義の苦痛の中で我々に全面的に攻撃をかけてくるブルジョアジーとの闘争に勝利していくための実践的理論と全国的闘争組織を形成する事が我々の急務の課題と確認すると共に、直ちに実践を訴える。

現在とは何か? 学生運動における現在とは? 安保闘争を契機として、全国の学生大衆が既成自称左翼の誤れる指導から自己を区別し、新しい運動体を形成した。そして六五年の今日、その運動体は脱皮を迫られている――天上の激論から地上の激闘への脱皮を。

「革通方式」の運動論が学生大衆から茶番劇として葬り去られ、「反スタ」トロツキスト集団が、彼らの唯一の活動の場であった「形而上」の世界でさえも老衰しつつある今日、全国の現実の諸闘争は地上で激発しているのである。わが社青同学生解放派は、ここ数年にわたる全国の諸闘争の指導、実践、及び総括のなかから教育闘争の理論的位置付け、方針を全国の同志諸君と共に確立せんとするものである。

プロレタリア永続革命を現在直下に実践しつつある社青同解放派の学生解放派は教育闘争の理論を徹底したマルキシズムのもとに構築する必要があると考える。

なぜなら、教育闘争という社会運動を全国的に展開する場合、全階級構造、階級闘争の中で位置付けることが出来ないならば、犯罪的な役割りをはたすことになるからである。その犯罪は人間解放に対する犯罪となる。

日共の反革命的戦術からくる学内共闘路線の組織性を何と見た。だがしかし、われわれのこれまでの姿を忘れてはならない。全国的な教育闘争に関する指導・組織化は十分でない。今こそ実践的なマルキシズムに裏打ちされた闘争論を確立せねばならない。

一九六五年、それは階級闘争にとって主要な意味をもつ。そして教育闘争にとっては転機である。

日本資本主義が激動を開始した。構造的停滞に陥り、ブルジョアジーはプロレタリアートの上にファシズム的支配を貫徹しようとしている。日韓闘争、それは安保のような市民主義的な生温い闘争ではなくプロレタリアートの闘争課題なのだ。この階級対立の激化は必然的にブルジョアジーのより一層の反動化を生み出す。教育にその動きが出現しないということはこれまでの戦後日本史を知るものなら言わないことであろう。同志諸君対決に備えよ!

全国のいわゆる新左翼系の活動家諸君が、一九六五年に入るや、問題意識として「教育闘争」、すなわち学生運動における社会運動に対する再認識の必要性ということを提起した。又、各自治会で諸闘争を闘っている全国の同志から、社会運動についての理論的位置付けが必要であるという意見を多く耳にする。

確かに問題意識としては現在の諸階級矛盾階級情勢を敏感にとらえたものと言える。だがこの中には二つの異なった性格がある。一方は、己の集団が延命するためにはどうすべきかという純粋に運動論上からも問題を立ててる部分(関西社学同、明治自治会活動家諸君)、他方は、特に地方大学に多いのであるが、諸闘争を闘っていく中で発生して来た問題意識である。

しかし同志諸君! われわれは問題意識の優劣を言葉で語っている時ではない(関西社学同の諸君よ!)。今日の明日の現実的な闘争のために厳密な闘争の理論が必要なのだ。一九六五年とはそういう年だと考える。

安保闘争の政治的高揚の後、気付いたときは地域を日共が握り、社会党があわてふためき、学園は民青がその闘いの成果を「あらゆる要求」の学園主義のもとに疎外された大衆に追随しつつ、逆向きに掻っ攫っていくという事態を迎え、昨年学生大衆はついに「民青全学連」のデッチ上げという現実を見せつけられた。

そして今、民青の波が一定程度後退していく中で、日韓闘争が高揚しようとしている。今こそこの安保以後の全国学生の大衆運動の変移についての十分な考察が必要である。結論的には大衆運動にとって政治的に高揚すればするほど社会運動の徹底した組織化が不可欠なのだという事である。大衆運動を責任もって指導せんとする部分はこのことを不可欠の課題として確認せねばならない!

日韓闘争の後には政治闘争の高揚に子供のように小躍りする部分はもはや消えてもらうよりしかたないであろう(革通の諸君よ!)。

全国で闘いを進めている同志諸君! この論文に対する批判、意見があれば展開してほしい。我々のブルジョアジーに対する闘いをより一層強化せんがために。

日本資本主義の矛盾と教育矛盾について

日本資本主義が第二次大戦の価値破壊から立ち直り、朝鮮戦争を契機として帝国主義的に自立復活の道を歩み、安保改定をもって帝国主義としての旗を鮮明にした。そして今日、強力な合理化、社会構造の改編、及び海外進出をもって、その経済矛盾、階級矛盾の解決策を求めている。

ここで問題なのは、この戦後過程で階級闘争の激化が一貫して教育の反動化へと現われ、学生、教育労働者の闘いが存在していたが、そしてその教育矛盾はその時々の社会矛盾を鋭敏に反映したものであった事、そして今日、教育の合理化、支配権力の強化がブルジョアジーにとって不可欠の課題として確認されている事である。

日本資本主義が本格的に産業合理化を目的意識的に追求し始めたのは一九五五年、アメリカのテコ入れによって「日本生産性本部」が設置されたときと言われる。近代工業性の最終段階の動向である重化学工業化が推進されていく中で、オートメ化、機械化が行なわれ、それは設備投資、スクラップアンドビルドをもって展開されていった。

この産業構造の変化は労働秩序の再編をもたらす。一方における肉体労働者のスクラップ化、他方における高級技術者、管理労働者=産業士官・下士官の養成・確保として出現した。これは資本制生産が発展し、帝国主義段階に入った時点において起る現象である。自由主義段階にあっては、資本化が直接的に労働者を支配する構造をもつが、帝国主義段階に入るや、労働者内部に労働者の支配を行なう、すなわち奴隷を支配するという、資本化階級に擬制する上層労働者が形成されていく。それは、機械体系による労働者の物化された支配と相互[相補?]して、資本化階級の階級支配の重要な構成をもつ[なす]のである。

一方ではこの重化学工業化を推進するために、資本化階級は「科学技術振興政策」を前面に打ち出したのである。

一九五一年二月、日経連機関紙『経営者』は技術者養成の重要性を指摘し、それ以来、日経連は引続き教育制度の改編、科学技術教育についての要望・意見を公表しつづけてきた。そしてその要望・意見はブルジョア政治委員会=文部省を通じて実行に移されているのである。

「理工系ブーム」の背景にはこのような一連の生産工程における動きが存在しているという事を見落としてはならない。

十数年で大きな変化を見せた日本資本主義はその急激な変化故に、教育の改編を急ピッチで行なわれねばならなくなっており、それは勢い教育の一層の非人間化を生み出す原因となっている。

今日の教育構造は、労働過程のピラミッド型の構造――圧倒的肉体労働者、次に高級事務労働者、高級科学技術労働者(この部分は職制層としての性格をもっている)、その上に純粋の管理職及び官僚層がのっかっている――に完全に労働力商品を供給しうる、この労働過程にみあったピラミッド型として構成されている。

中学卒を肉体労働者へ、高校、専門学校を事務労働者、中級労働者へ、大学は高級事務、科学技術労働者へ向けて、旧帝大を管理職、官僚層の基盤とするように構成されているのである。そしてこの人員配列はブルジョア政治委員会を通じてうまくコントロールされている。

ところで産業構造の変化とともに一層非人間化され、物化、商品化されていきつつ、教育とはどのような動きなのか?

戦後教育の肉体労働力商品確保のための技能教育の偏重化傾向、高校教育の一方における能研テスト問題に表われる高級労働力商品の生産過程の目的意識的なブルジョアジーによるコントロール政策、及び高校教育の大学進学予備校化、他方における中級労働者確保のための技能習得訓練所化、この二極への分離の進行が行なわれている。

大学教育はどうか?

それは「単位制度改訂、一般教育縮小」の動き、「教育養成系大学の分断化」に端的に現れている。これは、これまでの新制大学制度――アメリカから直輸入され上から与えられたものである――を資本化階級の必死の要請により、その欠陥を指摘しながら、一層の労働力商品要請の「教育工場」へとこれまでの一切の幻想のベールをかなぐり捨ててその資本主義の赤裸々な姿を見せつけた政策であると言えた。

このように今日の教育は、教育一般というものの破壊云々ではなく、資本主義の論理そのものが教育に貫徹されており、資本主義の矛盾とともに教育矛盾も激化するという教育なのである。

我々は産業合理化の一つの重要な側面として搾取のみならず、階級支配の内容を孕んでいるのだという事を主張してきた。そしてそれは機械体系と、労働秩序の改編として現われ、全く労働者が商品化、物化されていくと述べてきた。そして一切の労働者を資本の軛のもとに包摂していく動きとしてそれは出現し、産業内部に軍隊的な秩序を導入し、支配の縦の系列を確立せんとしている。

この動きは必然的に教育への権力支配の衝動をブルジョアジーに与える。教育の支配抜きにこれは十分に貫徹しえないからである。その中で特に大切になってくるのが大学支配であろう。同時に、ブルジョアジーにとっては難事業であろうが。

四八年の大管法問題、六二年の大管法問題、そして今日のそのなしくずし的実施として行なわれようとしている。

それは「教育工場」全体の管理を行なうことを、まず第一に管理人及び商品を生産する教育労働者の管理支配から開始しはじめ、そこで生産される労働力商品が、全く資本家の言う事を聞き、労働者の管理のために、又、資本家の搾取に不平を言わないで黙々と働くように作成されるよう絶対的な命令を発するのである。

同時にここで個々の商品化された学生が資本家に買われる場合の問題すなわち生産工程での問題から大学支配の動きと同時に、「学生の自治活動」、特に政治的活動が、今日の日本にあっては一つの大きな個別資本家の問題を超越した資本主義社会そのものを問題にする運動体として成立していることに対するブルジョアジーの階級的弾圧の本質が含まれる。いやこの方が重要である。なぜならこの運動が存在しなければどれ程の学生大衆が右傾化していくか考えれば分ることである。

大学が反体制の大きな拠点となっており、その運動体は労働者階級のスローガンのもとに強力な闘いを展開しており、その闘争のエネルギーは、今日にあっては労働者階級の闘いへと大きな影響を与えている現段階にあって、これから激化するであろう階級闘争を資本家階級が自己に有利に展開するためには是非とも学生運動を破壊し尽くさねばならないというのがブルジョアジーの目標である。

そして諸左翼潮流が成長していく基盤が又、この学生運動の中にある。これこそは資本家階級にとって許すことの出来ない動きとして存在している。自己の存在そのものに対する恐怖感が一層の反動的な文教政策を打ち出させることになる。

このように今日の教育の矛盾は徹底した日本資本主義の階級矛盾の把握の上に位置付けられるものであり、したがってその中から出現する学生反逆は、一般的な、ルソー、ペスタロッテあたりの形而上的教育理念の幻想のもとに起ち上がっているのではないという本質構造をもっていると言えよう。

ブルジョア社会における教育の本質規定

ここで我々は、日本資本主義の矛盾の中で教育の矛盾を把握する作業を通じて、明確なるブルジョア社会における教育の本質規定をなさねばならない。これを抜きにして教育闘争の全階級構造の中での位置付けは不可能であると同時に、科学を喪失した単純反撥主義に堕する危険性をもっている――今日の闘争は、資本の目的意識的攻撃に対し、盲目的[遮眼的]、感性的反対運動では勝利出来ない段階に入っているという闘争の現状認識が必要である。

以下、資本制生産及び階級対立と教育の関係についてノーと風に記述したい。

教育に関する諸々の位置付け、及び教育論が巷に氾濫している。だが一口に言って、これら緒論が一方においては博愛主義者によって、ルソー、ペスタロッチの教育論を現代風に焼直したものや、ブルジョア御用学者達の国民経済学を基礎にしたブルジョア教育論を作り上げるもの、よくいっても唯物論的と自称しながらも、最も主要な点を見落としているが故に「教育」そのものが静○的に把握されているもの、又、現在下では諸々の疎外下にあるソ連、中国の教育を最高のものとして崇め奉るもの、これら一切の「教育論」を根底的に突破する方法論が必要である。

「人間は環境と教育の所産であり、したがってその環境が変わり教育が変われば人間も変わるという唯物論的学説は、環境そのものがまさに人間によって変えられると言うことをそして教育者自身が教育されねばならないことをわすれている。だからこの学説は、必然的に社会を二つの部分にわけることになり、そのうちの一つが社会の上に超然としているということになる(たとえばロバート・オーウエンの場合など)。環境の変化と人間的活動の変化との合致は、ただ革命的実践としてのみとらえられ、合理的に理解される」(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ 第三)ということ、教育そのものが社会的諸関係と無関係に存在するのではなく、社会の物質的基礎と明確に関係をもって存在しているのだということの根本的な認識の上にたって考察されねばならない。

その意味でマルクス経済学と史的唯物論を基盤としてマルクス主義的方法論の中に教育論を科学として確立していかねばならない。

そしてそのことによってのみはじめて、我々の目指す人間の解放、人間がこの社会の主人公になることの現在的な運動――プロレタリアートの解放闘争ということと教育闘争の実践的な関係が明らかになるのである。

本質規定に入ろう。

(1)労働力商品の生産過程としてのブルジョア教育

ブルジョア的生産諸関係が確立されてくる過程で人々の圧倒的な部分が賃金労働者に陥しめられていった。ブルジョア社会に入ってからの「教育」の歴史は真に資本主義社会が形成されていく過程と同一の歩みをもって発展してきたと言える。

土地集約的な生産様式とマニュファクチャは、子弟に与える教育は、野良と作業場における熟練で十分であった。だが近代工場制生産はその発達とともに知育を必要とし、それはただ工場のみならず、社会の諸機関・諸制度において強力に要求されていく。しかしながら企業家は児童の労働力、婦女子の労働力をも求めた。ブルジョア社会においてこの両者の矛盾のもとに教育過程は発展してきたと言える。ブルジョアジーが一九世紀からこの社会のヘゲモニーを掌握することにより、ブルジョア政治委員会は社会制度として、自己の特殊利害を最大限貫徹しうる教育制度を確立していくのである。ブルジョアジーによって形成された教育は、まさしく「労働者が生産過程のために存在するのであって、生産過程が労働者のために存在するのではない」(『資本論』779頁)と同様に、教育過程が生産過程のために存在するのであって、生産過程が教育過程のために存在するのではないのである。

したがって、このようにブルジョア制生産諸関係に物質的基礎をもつところのブルジョア教育は、徹底してブルジョアジーの支配物であり、一切の博愛主義者の語るがごとき、甘い幻想――社会的諸関係から分断された全く形而上の世界での「教育」――は、ただ、この醜悪なる、ブルジョア社会での「教育」のもつ本質的構造を隠蔽し、ブルジョアジーの腹を太らせるのみである。

労働力商品生産過程という事は、労働過程から不断に生み出されてくる労働者の子弟を、生産工場において生産的労働を営めるように「一般的、人間的な本性を変化させて、ある一定の労働部門における熟練と技能を習得させ、発達した独自な労働力とならせるため」(『資本論』)に教育工場で加工されてから再度、労働過程に送り込むということである。

一切のブルジョアジーの教育政策はこの事が根本となって展開されていくのである。

この労働力商品の生産過程は同時に、社会的諸関係の中における精神労働のブルジョア的役割をはたす。すなわち、生産工場における「実践」が教育工場において「思惟」されるのである。

それは「これらの(機械工)学校では労働者をブルジョアジーに対する反対派からひきはなし、うまくゆけば労働者にブルジョアジーをもうけさせるための発明をする手段をさずけるための自然科学が教えられている」(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)のであり、科学労働により資本家にサービスを与える構造をもつ。

次に「近代的工業は、決して、ある生産過程の現存形態を最終決定的なものとはみなさず、またかかるものとしてとりあつかわない。だから、近代的工業の技術的基礎は革命的である。――すべての従来の生産様式の技術的基礎は本質的に保守的であったのだが、近代的工業は機械、科学的処置、その他の方法によって、生産の技術学的基礎とともに、労働者の機能および労働過程の社会的結合をたえず変革する。かくしてそれはまた、社会内分業をたえず変革し、一生産部門から他の生産部門へ多量の資本および労働者を間断なく移動させる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を条件づける。他方において大工業はその資本制的形態において、旧式分業を骨化した分立性とともに再生産する。すでにみたようにこの絶対的矛盾は、労働者の生活状態のあらゆる静止、固定、確実を止揚するのであって労働者の手から労働手段とともに絶えず生活手段をうちおとし、彼の部分機能とともに彼自身を過剰ならしめようとする」(『資本論』第13章P774)という事と教育過程がいかなる関連をもつのかという事が重要な問題となる。

この問題は特に二〇世紀後期の高度に発展した資本主義のもつ矛盾を把握する場合には一層重要な意味をもつと言わねばならない。なぜなら「労働の転換がいまや圧倒的自然法則として――いたるところで障害にぶつかる一自然法則の盲目的、破壊的作用をもつ――のみ行われるとすれば、大工業は自己の破局そのものによって、労働の転換したがって労働者のできる限りの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常的実現に諸関係を適合させることを、死活問題たらしめる」(『資本論』第13章P775)からである。ここに生産されてくる招来の労働力商品の組織過程が重大な問題としてクローズアップされることになるのであり、大工業制が発展してくるに従って教育過程のコントロールは、真にブルジョアジーにとって不可欠の、それこそ死活問題となるのである。この労働力商品の組織過程に対するブルジョアジーの目的意識性はそれが強化されるに従って一層の教育の非人間化、物化、商品化が進行していき、これは生産過程の合理化攻撃と相まって、徹底した搾取と、階級支配の主要な環となるのである。社会的権力の強化はただ単に労働過程のみで行われるのではなく、その労働力の生産過程にまで貫徹されているのだという事を同時に把握していく必要がある。

(2)ブルジョア支配体制の維持発展のためのブルジョア教育

「ブルジョアジーはかつかつ必要なだけの生活しか労働者に許さないのであるから、彼らがまた労働者に、ブルジョアジーの利益になるだけの教育しかあたえないとしてもおどろくにあたらないだろう。そしてたしかにそれだけの教育さえあたえられていないのである。」(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)このことは一九世紀イギリスの特殊な状況なのか? 決してそうではない。ブルジョアジーは、労働者階級に対して、その貧困状態にあるのは「商業の自然法則」(マルクス「『プロシア王と社会改革』に対する批判的傍注」)であると教え込み、そして「(これら機械工」)学校では、国民経済学が説かれる。この国民経済学の偶像は自由競争であり、労働者にとって唯一の結論は、黙々としてあきらめて餓死することこそ労働者のなりうるいちばん理性的なことだということである」(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)ということを教え込むのにやっきになるのである。「だから労働者にとってはその教育は、ものしずかな服従と受動性とを、自分の運命への忍従をすすめる不断の説教である。」(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)

そして「資本制的生産の進行につれて、教育の伝統や慣習によりこの生産様式の要求を自明な自然法則として承認するような労働者階級が発達してくる。発達した資本制的生産過程の組織はあらゆる抵抗を打破し、相対的過剰人口のたえざる生産は労働需給の法則したがって労賃を資本の増殖欲に照応する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確立する」(『資本論』)と同様に教育においても、一方における教育労働者の「賃労働」及び非生産過程に存在するところから来るブルジョア的な意識構造、及び他方における文部省から末端教育労働者まで貫徹されていく支配構造の中で「無言の支配」は教育過程そのものを支配している――そしてその事は必然的に労働者階級の支配に通じている。

ここに教育は真にプロレタリア革命の回避のための階級支配の重要な策としての実体をもつのである。

次に問題となるのは教育によってもたらされる労働者内部の上下関係、すなわち、労働者でありながら労働者を支配する、あたかも自己が資本家階級と同じ場所にいるが如く錯覚した、資本家階級に擬制したところの労働者の形成の問題であろう。

このことは特に高等教育の部門において重要な問題となってくる。労働者内部のヒエラルヒーの形成の基盤が教育制度にあり、労働者内部の経済的上下関係は、ブルジョア教育制度の中ではその父の階層はそのまま子弟の階層に再生産される構造として圧倒的部分が存在する。

ブルジョアジーは自ら棍棒を持つことはやめて棍棒持ちを労働者内部に産業士官、下士官として目的意識的に形成するのである。このようにして初等教育と高等教育の対立を形成し、同時にこの親達の経済的問題による子弟の教育の不可能性を「個人の能力」の問題に還元し、自由競争ということを説教し、いみじくも、「能力あるもの」に対し奨励金を出したりさえもする――それもただ己れに高価なサービスをし、労働者を有効に支配する人材を作っているにすぎないのだ。

この労働者内部の問題と同時に教育はブルジョア社会の社会的分業の組織過程としての性格をもっているということも忘れてはならない。一切の社会的分業の組織過程として、ブルジョア政治委員会の手綱のもとに、個々人が自由意志で選択してその場にいるが如き幻想を与えつつ慎重な、徹底してブルジョアジーの特殊利害を貫徹しうる社会的制度として教育過程は存在するのである。

(3)教育費及び教育労働について

ブルジョアジーは己れの利害のために教育を必要としながらも、彼らが教育を与えることによって不利益を被ることもある。

教育のためには「多かれ少なかれある額の商品等価物を要費する。労働力の性格の非媒介性の多少に応じて、その教育費は相違する。だから、この習得費は、普通の労働力にとっては、ほんのわずかだとはいえ、労働力の生産に支出される価値の範囲に入ってゆくのである。」(『資本論』)

ところでこの教育費はどこから来るのか? それは労働者の労賃の中に含まれていることになる。「簡単な労働力の生産費にも、労働者種族が繁殖して消耗労働者を心労働者と取換えうるための繁殖費が加算されねばならぬ。」(マルクス『賃労働と資本』)そして「生存=および繁殖費の価格は労賃を形成」(マルクス『賃労働と資本』)するのであり、教育費は、親の労賃から支払われるようにされている。だがこのことは一体何をもたらすのか?

この「繁殖費」を考察する前に「労働力そのものの生産費とは何か?」(『賃労働と資本』)という事を明らかにせねばならない。

「それは、労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者として育てあげるために必要とされる費用である。だから、ある労働が必要とする育成時間が少ないほど、その労働者の生産費が少なく、彼の労働の価格すなわち彼の労賃がそれだけ低いわけである。殆んど全く教育時間を必要とせず、労働者の単なる肉体的生存だけで間に合うような産業部門では、彼の生産に必要な生産費はほとんどただ彼の労働可能な生活を維持するために必要な商品に限られる。」(『賃労働と資本』)

このことから一体何が言えるか? 貧困な肉体労働者はその子弟を再度貧困な肉体労働者としてしか再生産することはできないのである。そして中級、高級労働者の子弟はそれとして再生産される。

したがってこの「繁殖費」は事実上「労働者種族」に与えられたものではあるが、しかしながら、単に資本家階級が要求する豊富な労働力商品を、資本家階級のために生産するための生産費にすぎないのである。しかしながら「労働力の売却を唯一の生計の道とする労働者は、自分の生存を断念することなしには、全購買者階級すなわち資本家階級を見捨てることはできない」(『賃労働と資本』)が故に、ブルジョア社会での労働者は子弟の教育費をその貧しい生計の中から支払うはめに追い込まれ、又、子弟は自らの労働を持ってより高い労働力商品として生産せんとする売り手内部の競争が行なわれるのである。

だがブルジョアジーが教育に投資を行なう場合があるのは一体どういうことか? その前に如何なる場合に投資するかを考えてみることが重要である。

初等義務教育、これは労働者からの支出でまかなわれる。税金と直接の支出によって。 高等教育および専門学校への投資が中心になっている。そしてブルジョアジーは階級支配のためにはいくらでも資金を投げ出す。

すなわち言えることは、ブルジョアジーに利益をもたらす高級労働者の育成、そしてそれらを含めて労働者を階級的に支配するための投資、「資本は、労働力を搾取しなければ滅びてしまう」ことからくる圧倒的多数の労働力の生産のための投資として教育投資はなされるのである。

では教育投資はどう把握すべきか?

まず資本主義社会における労働としてはどのように規定しうるのか?

「学校教育は、児童の頭脳を加工するばかりでなく、企業家の致富のために自ら苦役するばあいに、生産的労働者である。」(『資本論』p804)この場合の「生産的労働者」というのは、資本家のために剰余価値を生産する労働者、または資本の自己増殖に役立つ労働者のみが生産的である」(『資本論』p804)ということで分るように単に「活動と有用的効果との――労働者と労働生産物との――一関係をふくむばかりでなく、労働者を資本の直接的増殖手段たらしめる独自的に社会的な、歴史的に成立した、一生産関係をふくむのである。」(『資本論』)

したがって教育労働者は「生徒達にたいしては生産的労働者ではないけれども、自分の企業家達に対しては、そうである。」(マルクス『剰余価値学説史』)

しかしながら注意すべきことは、この労働は「労働力を形成し、維持し、改良する等々の、つまり労働力に一つの専門性をあたえたい、また労働力をたんに維持したりするところのサービス」(マルクス『剰余価値学説史』)でしかないという事である。そして「このサービスは、その労働の生産と再生産の費用にはいるのである。」(マルクス『剰余価値学説史』)このことは、「学校教師の労働は、一般にすべての価値をつくりだす元本の生産費に、すなわち労働力の生産費にはいるのであるが、しかも彼らの労働が、自己にたいする支払をする元本を直接つくりだすものではない」(マルクス『剰余価値学説史』)からである。

以上のように教育労働を規定することが出来るなら教育をうけるものは「この学習費は、私の生活維持費とまったくおなじように、私の労働力の生産費にぞくする」(マルクス『剰余価値学説史』)ということになる。

(4)教育過程の疎外の止揚

このように教育及び教育労働は徹底して今日の資本制生産諸関係の中に位置付けられており、単に国民教育運動論者が語るが如き博愛的な「主観的願望」によって教育が人間的に解放されることはなく、それを信じるものは奇跡信仰屋であると言わねばならぬ。プロレタリア永続革命のみが実践的な解答を出してくれるであろう。

これまでの考察によって明らかになったように、教育過程の矛盾の激化は、それ自体として独自に進行する矛盾よりも、ブルジョア的生産関係の矛盾が教育過程の矛盾を深化させていくという構造をもっているのであるから、結論的には、教育過程の疎外は、教育過程のおかれているブルジョア制生産諸関係が変革されることぬきに止揚されえないのである。

反帝学生運動の教育闘争方針

――ブルジョアジーの教育合理化、権力支配の総攻撃と全面的に対決せよ!

一九六〇年以後、各大学において、今日の生産の矛盾の激化にともなって発生している教育の矛盾の激化が、全国の学生を闘いにかりたてている。そして今日、我々は全面的な対決を迫られている。すでに今年に入り、慶応、長崎、北大、山形、宇都宮、群馬、宮城学芸大問題、東学館、東学大、工業教員養成所等で大きな闘いが組まれ、そのきざしを見せている。この闘いを進めている背景にはその巨大な姿を現わしはじめた労働者階級の闘いがある。今や社会運動の方針抜きに学生運動を語ることは出来ない時期に来ているのである。

全国の同志諸君! 我々はこれまでの闘いの総括、及び諸論争の総括の中から、一九六五年秋現在における闘争方針を次の点を明らかにしつつ確立せんとするものである。社会運動と政治運動との関連、大衆運動の発展をどのように指導するのかの任務方針、そして組織方針も不可欠の問題としてあげられなければならない。

ここで闘争方針を明らかにする前に、教育闘争そのものの基本的構造をあきらかにしたい。教育にあらわれる諸矛盾は、生産過程の矛盾と構造的な関係を持っている。したがって教育界における闘いは、ブルジョアジーの願望――搾取とそれを貫徹するための階級支配――に論理的にも実体的にも対決するという構造をもつが故に、単純に「小ブルジョア」の改良闘争とブッタ切るわけに行かない。同時に何が何でも己れの闘争を美化したいが故に革命的反権力闘争という言葉を与えたがるのは、教育の本質規定、すなわち原理的把握を行なおうとさえしない部分の観念的な学生運動スポーツマンのやりがちな事である。

教育闘争は大きく三つに区別される。「教育合理化」、「権力支配の強化」、「経済的生活の破壊の動き」、この区別を明らかにせねばならない――そのことは同時に関連をも明らかにするものでなければならない。

闘争の質的な相違及び発展による闘争の内容が確認出来ずに闘うことは我々にとって好ましい結果を生まないばかりか、手痛い敗北に帰す危険性さえもっている。「教育合理化」は「経済生活の破壊」を含む。同時に産業合理化の中に社会的権力の強化が含まれているように、明らかに、生産されつつある「労働力商品」=学生への権力支配の内容を明確に含んでいるのである。

直接「経済生活の破壊」を生じるばあいの問題もある。だがそれが今日では明らかに「労働力商品」の分業組織過程として「合理化」攻撃の一環となっているのである。中産階級の子弟に高等教育を与えんとする動きもある。

自治活動に対する干渉、介入、処分問題はやはり社会的権力の強力としての「権力支配の強化」反対として展開される。

しかしながら、現実の闘争はこれらが複雑に交錯し、又、発展流動する場合が圧倒的である。

ここに「条件闘争」に陥る危険性と相互に関連ある諸闘争が分離される危険性が存在するのである。

まず第一に確認すべきは、教育闘争そのものは非生産行程における闘いであるという点から、小ブルジョア(的)闘争である事である。

教育闘争と労働者の職場闘争を同次元のものと位置付けることは決して出来ない。

しかしながら大衆運動の発展過程を追求する時、実体的なブルジョアジーの利害との衝突、加うるに論理過程として教育矛盾と社会矛盾の関連された把握が、大衆自身をブルジョアジーの精神的奴隷状態から解放する、すなわちブルジョアジーの反対派へと形成する重要な意味をもっていることを忘れるならば誤れる経済主義、物取り主義でしかないと言わねばならぬ。

次に自治活動、政治活動に対する攻撃に反対する場合には若干色彩が異なってくる。その場合は明らかにその活動の実体的背景――労働運動、反政府運動――に対する攻撃としての意味をもつが故に、単に学生一般という事から判断すると誤りである。実践的、イデオロギー的運動体そのものに対する攻撃は、特にわれわれの追求する反帝学生運動に対してなされる場合、プロレタリア革命そのものに対する現在的反革命の動きであると言える。

基本的に以上の構造をもった闘争は、指導部の主観によって別の闘争になるのではない事も付言しておこう。

(1)われわれの手で社会運動に全面的に組織せよ!

社会運動とは現実の階級的な利害と利害との対立である。したがって、徹底した事実のつきつけから出発する運動であり、大衆の目前に具体的獲得物が与えられている。したがってこの運動は、個別的、特殊的外観をもち、多様な現象形態をとるものである。個別的、日常的に学生大衆を、資本の下に包摂し、資本家階級の特殊利害を学生大衆(将来の労働力)の利害のごとく押しつけんとしている攻撃から目をそらすものは、如何に彼らが街頭政治行動をガナリ立てようとも何らただの宣伝屋にすぎない。社会矛盾の事実をつきつける事、特にそれの足下における矛盾の事実をつきつける事の出来ない政治運動の観念的な展開はトロツキスト集団のよく好むところである。

社会運動はどれ程徹底化してもしすぎることはない。ある個別的な場における闘いは、他の場における矛盾に火を付ける。個別と個別の中に共通性、原則が意識的に追求される場合、ある場における個別的な闘いは先駆的な意味をもち、他の大衆の道義的な支援と闘争の拡大、普遍化を可能ならしめる。すなわち、社会運動の個別的な闘いの単純寄せ算ではなく、闘争そのものが普遍化されていく過程をたどるのである。

特に教育の場合、攻撃をかけてくる側が、労働者の闘いは個別労働者に個別資本家が攻撃をかけてくる場合が多いのと異なって、ブルジョア政治委員会、文部省であり、その出先機関としての性格を今日ではもっている大学当局が執行者となっている。したがって闘争自体が個別的に争っているのみでは勝利しえない性格をもっており、社会運動を普遍化し、全国学生大衆と文部省という構造として政治運動化する必要がある

この社会運動の中でわれわれは「組織」を追求せねばならない。社会運動そのものの性格が実体的な矛盾の場に形成されるものであるが故に共通利害による組織化が可能である。したがって、政治運動の闘争部隊の組織は、社会運動の発展の中で形成される場合の可能性を最大限追求せねばならないのである。

次にここで形成される組織は、個別闘争が普遍化され政治運動へと発展していく過程で、より一つ普遍化された組織へと発展させられるその物質的な基盤となる。個別闘争が普遍化されていく過程は実体的な「組織過程」として出現するのである。ここにわれわれが重視せねばならないポイントが隠されている。

全国学生運動の統一的組織化の基盤は、社会運動の政治運動化の中に実体として含まれていると言えるのである。

社会運動の組織化を断乎として追求せよ!

個別闘争を普遍的な闘争へと転化せしめよ!

(2)教育問題全国共闘会議(仮称)を直ちに組織せよ!

われわれ社青同学生解放派は全国の同志諸君に、直ちに全国的な共闘体制を確立し、ブルジョアジーの全面的攻撃に対処しうる我々の隊列を整える必要性を訴えるものである。一九六五年以後は、すでに明らかにした如く、労働過程の労働者のスクラップ化さえ伴なう合理化が全面的に行なわれると同時に教育過程においてもこれまでにない合理化、反動化が展開されるのである。これに対決すること抜きにしては学生運動、ひいては学生の政治活動そのものさえも破壊されてしまうという危機に直ちに直面せざるをえないであろう。山形大学においてはそのブルジョアジーの動向に対して戦闘的な闘いをすでに組んでいるのである。全国の同志諸君、一九六五年の現在を重く、深く把握せよ。

前述の如く、個別的な闘いでは勝利し難い今日の教育闘争を、組織過程として現される普遍化の過程を追求していく中でその個別的な闘いの中から共通性、原則を明らかにしつつ政治闘争化せねばならぬ時、この過程は同時に「全学連」再建の過程でもあるという事を確認し、目的意識的にわれわれの手で追求せねばならない。これまでの諸全国組織が形成されてきた歴史的事実を見るならば、個別(特殊)から普遍への過程が組織過程として現われている場合が圧倒的なのである。

だが注意すべきは、ただ教育闘争によってのみ全学連再建が行なわれると錯覚してはならないのであり、その一つの重要な要因となりうるという事なのである。

そして社会運動が普遍化されて政治運動化されることと同時に、政治運動に対する闘争がこの社会運動を背景として徹底して追求される事が次の課題としてクローズアップされてくる。

(3)政治闘争の高揚の中で社会運動のより一層の強力な発展を追求せよ!

政治闘争が高揚している時、それは経済闘争において常時では勝ち取れないような成果が獲得可能である。政治闘争が前進するということは、階級闘争が前進しているということなのである。大衆自身が己れの力の強大さを己れの目で確認し、経済闘争において、大きな成果を獲得することができる。学生の場合はどうか? 同様の事が言える。

一つには学生自身の力を確認しうること、一つにはブルジョアジーに叛逆する部隊の強大さを確認しうることから、自己のブルジョアジーとの対決に大衆自身が数量的にも闘争の内容としてもより一歩前進しうるのである。

したがってわれわれの方針はこうでなければならない。

社会運動における徹底した組織化を背景として政治闘争を貫徹し、逆に政治闘争の発展を社会運動における勝利へと波及させよ! 真にこの過程は学生大衆がブルジョアの精神的奴隷状態からの脱皮及びブルジョア反対派への形成の過程でもあるのだ。

全国的運動の構造はどうか?

都市における政治闘争はかならず全国の先端にある。「大都市は労働運動の根源地」であり、「大都市においてプロレタリアートとブルジョアジーとの対立がはじめて出現し」、「農村では慢性的な形であらわれている社会の有機体の病気を、大都市は急性の病気に変化させようとすることによって、この病気の正体とそのただしい治療法とを明らかにした」(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)のである。

中央における政治運動の大衆的高揚は、地方における社会運動を中心にした大衆運動を強力な背景として勝ち取られていくのであり、反作用として中央の政治性は全国的に地方へと波及していく。この波が全国的に展開されることにより、階級闘争は進展していく。

この全国的視野からの闘争の指導を確立するためにも、社青同解放派は一刻も早く反帝全学連の再建の必要性を全国の同志諸君に訴えるものである

全国の同志諸君! ここに展開した反帝教育闘争論を基礎に、現在直下に進行しつつある教育闘争を一歩もひるまずに勝利へと闘いを指導せよ!

社会運動においても「日共=民青」の誤れる革命路線を大衆運動として実践的に止揚せよ!

観念的単純街頭主義=革通方式を止揚し、反帝学生運動を全国的に確立せよ!

教育問題全国共闘会議(仮称)を直ちに組織せよ!

反帝全学連をわれわれ自身の手で再建しよう!


1965年9月

日本社会主義青年同盟学生解放派理論機関紙『解放』2号

無署名(黒海一人・執筆)



誤植、読み取りにくい句読点等、形式的なものについては特に断らずに訂正した。内容に関わるものは、党派的な見解が確立した70年前後の時期から見て明らかに未熟と思われるものでもそのままにしている。