日韓会談粉砕闘争総括

〈序〉

 昨日の椎名訪韓阻止闘争をもって、日本の反体制運動が四年の長きにわたって闘い続けてきた日韓条約阻止闘争は、基本的に終了した。
 この日韓条約反対闘争は、日本の階級闘争史上安保闘争にもおとらぬ内容をもち、従って、それを闘い抜いた我々に決定的な教訓をあたえた闘いであった。
 安保闘争におけるが如き、表面上の噴出とまたそれに伴なっての思想的流動化は、存在しなかったにもかかわらず――まさにそれが客観的に荷っていた決定的内容の故に――、その底に進行した事態の重大さは、安保闘争をはるかに上まわるものと言うことができよう。
 我々は、まさにこの闘争の中に「日本革命」をかいま見たのであり、それに盲目である部分の恐しいばかりの白痴性もまた、その故にきわだっていた。

 今こそ我々は、この日本革命の一つの帰趨を決定した日韓会談、日韓条約闘争の徹底した総括がなされねばならないと考える。
 何故なら、その中には、日本革命を荷う現実的基礎と、それを全力を尽くして死滅させようとする反革命の密集した軍団が、表面的な闘いの低迷の底に恐しいばかりの鮮明さをもって存在した闘いであったから――。
 まさしく、日本の反体制運動の勝利と敗北――その双方の芽が、この闘いの中に岩のような確かさをもって、成立していったのである。

 全自代に結集された全国の学友諸君!この重大な闘いの総括を、一歩も日和ることなく展開しようではないか。
 何故なら、既に歴史の中に反動物としてしか意味をもたなくなりつつある新左翼諸潮流は、薄汚れた組織維持の「執念」にもえて、問題をぼかそうとするから。

(一)日韓条約をめぐる状勢

 三たびにわたる資本主義の死の苦悶、世界的な規模での帝国主義競争の本格的開始に向けて、設備設資を軸とする異常なまでの高度成長によって、重化学工業を中心とする産業構造の高度化を急速におし進めてきた日本資本主義は、これまでの歴史が教訓的に示したように、今や自らの作り出した足かせの中でのたうちまわっている。
 過剰設備がもたらした過剰生産の危機は、全企業的な規模での構造的停滞をもたらし、64年にはじまる不況の波は、三次にわたる公定歩合引ぎ下げにも拘らず、何の効果もなく進行しつづけ、中小零細企業の倒産は、日本特殊鋼、サンウェーブ、山陽特殊鋼、日銀が無担保融資まで決めざるをえなかった山一証券等にまで及び、また大企業の減収、減益と、その反映としての株価の低迷がつづいている。
 こうした経済的危機を突破するために、政府は、有効需要を作りだすことによって景気回復をはかるために予算の繰り上げ実施、公共投資、独占企業に対する融資の増大等を行ないつつ、この財源を確保するために大衆収奪と独占擁護の公債発行を決定した。しかしこうしたインフレ政策が、現在の不況を根本的に克服することができないばかりか、日本経済をますます奈落の底に追い込むことを経験的に知る資本家階級は、全産業にわたる合理化攻撃を急速におし進めることに狂奔している。
 現在の合理化攻撃の特徴は、過剰設備の圧力としての金利負担の軽減と、減収・減益がもたらした停滞を突破するために、不要部門の切り捨て、人員削減と労働強化・低賃金、組合活動弾圧という、労働者の生活を直接に破壊するむきだしの攻撃となってあらわれている。鉄鋼でも電機でも、造船や機械や紙パルプやセメントでも、あらゆる産業において、長期減産に伴なう首切り配転、帰休制がまんえんし、大企業の集中合併、中小企業の系列化と倒産が続出している。
 こうした合理化の嵐は、単に民間産業にとどまらない。官公労においても独立採算制と社会資本の急速な充実という点から、今秋における攻撃は更に一段と強まり、東交における路面電車撤去、ワンマンカーの導入と全域化、電子計算機導入と新乗務カード実施に伴なう「前日組合せ制」「出庫ダイヤ制」「個人別カード」による労働強化、賃金カット、労働者分断、休暇や組合活動の制限等が現実に進行し、東水分では、上下水道料金の値上げによる大衆収奪と併行して、16億円にのぼる経費削減のための局内合理化が、手当削減集金工事関係の下請化等となって進行しつつある。都現業部門(清掃、病院等)では、分断三表による職種を異にする労働者の分断と低賃金政策が進行し、都職における機構改革、電子計算機導入に伴う事務簡素化等の攻撃が、今秋末に予定される地方公営企業調査会最終答中によって更に激化するであろうことは疑いない。
 公労協関係においても、全逓の郵政5ヶ年計画に基く昨年の深夜伝送便の実施に続いて、大都市における集中処理局の設置、郵便物収集方式の大規模化、航空機と自動車便の最大限利用とともに、住居表示制度採用による配達業務のスピードアップ、深夜伝送便の全国化、事務部門における機械化が進行し、電通では、全国自動即時化に向けての機械化と人員整理、国鉄の10月ダイヤ改正に伴う労働強化、小口荷物の民間移行に伴う七千人の首切り配転等の攻撃が、平均30%にのぼる料金値上げの大衆収奪の攻撃とともに進行しつつある。
 こうした各産業における合理化攻撃に見合って政府は、低賃金と格差拡大及び中堅層の優遇による労働者分断を一層徹底させるものとして、すなわち政府の労務対策を象徴的に示した人事院勧告を人事院の手を通じて提出させている。
 労働者を虫ケラのようにこき使い、彼らのご都合によって労働者の生活を奪い去る資本の論理は、資本主義の矛盾が拡大し、危機が深化するにつれて、一層鋭く貫徹せざるをえない。このような国内における経済的な危機の全面化と、南ヴェトナム・韓国等後進国における人民の闘いの急速な進展と拡大に、まさに日韓批准を焦眉の課題として突き出さざるをえない必然性が存在したのだ。

 日韓会談が意味するもの、それが労働者人民にもたらすものが何であるか既に明らかであった。日韓会談が、韓国を足場とする東南アジアに向けての従属的経済圏の形成を意図した公然たる帝国主義的経済侵略であり、日韓両国人民の革命的な闘いを一まとめに弾圧し、あわせてアジアの資本主義的繁栄と安定のための反革命階級同盟であり、労働者人民に対する徹底した搾取とファッショ的な抑圧とをもたらすものであることは、明らかである。
 韓国における安価な労働力は、直ちに、日本の労働者の労働条件を韓国の労働者なみに引き下げる衝動としてあらわれ、低賃金・労働強化首切り等の合理化攻勢が一層強化されるであろう。そして、日韓両国の下層労働者の血と汗で作り出された超過利潤が、職制の体制をますます強化する資金源として利用されることによって、大量の労働貴族や労働官僚を生み出し、「奴隷が奴隷を支配する」職場矛盾を強固にうちかため、下部労働者の戦闘的な芽をもぎとり、こうした状態にみあった労働運動の右傾化を促進させるであろう。そればかりではない。韓国における自らの権益を守るため、資本家階級は、韓国労働者の革命的闘いを弾圧するための政治支配、三矢研究に象徴的に示される自衛隊の海外派兵、自衛隊の増強と徴兵制の促進、憲法改悪へ向かって、ファッショ的な反動支配を国内においても貫徹せざるをえない。
 日韓条約は、このように、戦後ドルの一元的支配の世界の崩壊、EEC・日本等の帝国主義的自立の時代に於ける危機が、61〜65年を過渡期として、世界資本主義の心臓部における根深い危機の深化の到来をもたらし、その中の最も弱い環としての日本帝国主義が、この矛盾を政治的経済的な人民抑圧の行動により一時的に「止揚」せんがための行動であった。
 また、同時にそれは、帝国主義段階に突入して以来、進行した支配階級と労働者人民の鋭い対立は、すでに世界的に両者の力の均衡状態へと発展し、帝国主義の矛盾を帝国主義国間の戦争へ転化する力をもたず、それを「社会主義圏」に対する「体制間戦争」へと転化する衝動をはらんだものであった。

 我々は、この内容を再度、この段階にあたって要約しておきたいと考える。何故ならば、現在に於ては、それが如何に見せかけの「科学性」を保持していようと、ブルジョア階級の経済学である限り、現実の生きた方針たりえないことを暴露したからである。一方に於ける富の集積は、対極に於ける貧困と、生活苦・生活不安の蓄積であること、従って情勢分析が生きた力となるためには、その内容を現在的に収約しなければならないということである。
 日韓会談とは、その意味に於て、体制的な資本の再編であった。日韓両財界の共同提言にもみられるごとく、日本経済調査協会と韓国生産性本部が、昨年一一月以来の日韓経済協力の進め方について共同調査を発表した内容にも見られる如く、中小企業・農業を韓国へ、日本は産業構造の高度化重化学工業化をおし進める、という内容のものである。
 それは先程述べた如き、日本に於ける合理化を基軸にした労働者人民の資本による包摂・重圧の過程、日本に於ける中小企業の倒産更に保護関税加工貿易による韓国支配的な、韓国の安い労働力の獲得による日本の首切り、の道である。そして更に、60年代の合理化の基調と異なり、海外資本との競争を中心とする、65年以降進行する合理化は、資本コストの安さを求めて、資本高度化の中で、このような資本の動向による労働者人民の社会的重圧(貧困、労働苦、生活苦)の増大は、当然、公然・非公然の闘いをよびおこさざるをえず、それは、先程述べた世界的規模に於ける階級闘争を背景に、この危機の顕在化しつつある日本に於ては、極めて鋭い形で進行する。この人民の反逆に対して、支配者は、密集した(更に強い労働強化と大衆収奪を深めざるを得ない)敵となってあらわれ、日本生産性本部の設置・保守合同以来、行政権力の自立過程は進行し、60〜65年の過程は、すでにその飛躍的強化の道を藩進し、公然たるファシズムの傾斜を深めつつあるその内容は、一般的な抑圧などというものではなく、『解放』2号に於て述べた如く、ファシスト党への芽をもった公明党の動向と相まって、ブルジョアジーの立法権の躁購過程、行政権力の自立過程は、明確にファシズムヘの傾斜、すなわち全有産階級のプロレタリアートヘの赤裸々な暴力支配への傾斜を持っている。
 更に、帝国主義の現在的海外侵略の手は、後進国人民のプロレタリア革命への傾斜を抑圧するものとしての内容を備えた、人民抑圧の反革命階級同盟と、その「北」への進撃への衝動を、自ら内部の危機と、世界的なプロレタリア人民の前進を背景に持ったものである。

(二)日韓会談反対闘争における闘争の構造

 以上の如き、日韓会談をめぐる状勢とその背景の中で、更に、この闘いの本質的な内容を明らかにするために、全体の階級情勢の鍵をにぎる労働運動の状況を更に詳しくみる中で、この闘争の本質構造を明らかにする必要がある。
 日本の労働運動は、産別から総評へ、そして総評のニワトリからアヒルヘの変質に、まさるともおとらぬ巨大な転換期を今迎えつつある。
 合理化は、機械体系への労働者の絶望的従属の過程であると同時に、職場の指揮監督の強化としてあらわれる。その最も露骨な形が組合の破壊としての完全な体制内化である。
 先程述べた日本支配階級の動向は、鉄鋼を基軸とした重化学工業から始まった合理化が、交通運輸部門をもって一巡したその内容は、労働組合においては、組合の完全な体制内化の過程でもあった。そして、その結果の右翼的収約過程が、今、音をたてて進行しようとしているのだ。
 労働運動の最も中心的な部分としての金属関係の組合は、政治闘争を排除しようとするIMF・JCへ一括加盟し、自動車部門において、総評・中立・同盟を貫く自動軍労協の結成と加盟、合化労連と化学同盟の合同の失敗、つづいて化学同盟の中心である横浜ゴム東洋ゴムのゴム大手を中心にゴム労連が結成され、化学同盟からの実質的分離となったこと。太田の基盤、合化労連の中で、東洋高圧住友化学は、国際自由労連派への移行が決定的であること。
 第二に、資本主義的生産の一般的条件をなす交通・通信・運輸部門に属し、かつ官公労労働者の組合の強大な部隊である全逓、全電通が、「過度の政治闘争」と共産党を排レつつ、経済闘争では、全電通の如く二二万の組織人員の三分の二までの大量処分を出してもやり、中立をもまきこむのだという形で、IMFの流れに呼応していること。
 この、なだれをうってのIMFへの動向は、日本の労働運動の決定的転換を示しつつあり、総評における太田・岩井の退陣は確実のようである。
 このことが何を意味するかと言うと、民同の運動は、産業下士官職制と下部プロレタリアートとの決定的対立の構造に到らない時代における労働組合運動の型であるのに対して、このIMF・JCは本格的な帝国主義的労使協調路線である。民同運動においては、下部労働者階級と職制との量的にも質的にも未分化の時代の構造を示しているのに対して、IMF・JCへ圧倒的に移行しつつある合理化の完了した組合においては、合理化の激烈な内容と指揮監督の強化は、職制と下部労働者の対立の構造を決定的に顕在化させ、しかも同じ激烈な労働者重圧は、この下部プロレタリアートと怒りを激烈なものとするが故に、決して、下部プロレタリアートの利害は貫徹どころか、とり上げさえしない組合、完全に産業下士官の利害の上に立った組合への変質を生み出していった。
 このような根本的な労働組合の変質過程は、先程述べた如き、支配階級のファッショ的反動化と同時に、労働者階級を職場の末端から完全に支配して行く路線の鉄の如き貫徹である。
 以上述べた如き、全社会的な人民抑圧戦争とファッショ的反動化と、そして首切り合理化への突撃という内容を持つと同時に、労働者階級に対する末端からの鉄の支配の貫徹、組合それ自体が、労働者階級支配の道具に転化しているという構造において、労働者階級の闘争は、社民から徹底して訣別した組合内部における二重権力的団結の形成による、組合それ自体の変革を内包した、社民的ワダチを打破った、労働者階級が自ら統制するストライキ委員会による大衆ストライキ以外存在しないことは、明きらかである。
 組合それ自体が、全く体制化した時代、帝国主義後期においては、ストライキは、公的な組合機関によって指導される限り、必ず、裏切りをもっておわることは言うをまたない。そこには、組合内部における労働者階級の二重権力的団結、自己権力の樹立、ストライキ委員会の形成により、自ら行使し、自ら統制する闘争とストライキ以外に、決して「闘い」は存在しない。
 日韓が、今述べた如き構造の中で進行していた以上、日韓条約反対ということは、そのままこの準備と、その準備を進め同時に、全体的な闘いを引き出し、またそれを増幅する徹底した街頭行動以外にはなかった。
 それは、具体的には、全社会的な怒りの形成を背景に、そこから進むにはゼネスト以外ないという状況に到った時における、一点突破の無期限ストライキ以外存在しなかった。
 この闘いの方向性は、日韓闘争の闘いの構造そのものなのであって、先程述べた構造においては、他の「闘い」は存在しえず、もしこれ以外の闘争の構造を準備し語るとしても、それは明きらかに、「闘えない」または、全く初めから闘争を放棄した内容として存在したのである。
 日韓闘争は、一切この一点を見つめた、この闘争の構造へ全てを凝集せしめる闘い以外には存在しえない内容をもっていた。あとで述べる如く、我々のこの方針を、「できるか、できないか」などと傍観者よろしく「批判」していた諸君は、先程述べた社会状況と労働者階級の存在内容を一体御存知であったのだろうか。
 「一点突破のゼネスト論」という言葉によって表現されていた我々の闘争方針は、くり返し述べていたように、日韓闘争の本質的な構造なのであり、その構造以外に闘いの構造は存在しなかったのだ。

(三)闘いの経過――その成果と敗北

 このような闘いの構遺をもった日韓条約反対闘争の進展は、どのような経過をたどっていったであろうか。
 日韓闘争は、昨年の原潜闘争をその起爆点としてもっていた。それは、日韓会談そのものが、全世界の階級闘争の中で、その最も矛盾の集約点としてある東南アジア極東の線において形成されつつある、人民と支配者の闘争の一つの収約点でもあるからである。闘争局面においては、原潜−日韓−ヴェトナムと続いた闘いは、帝国主義段階後期の帝国主義間の極めて激しい分裂と抗争、その矛盾の中での人民の巨大な起ち上がり、そしてそれに対する人民抑圧の連合戦線、という構造が、目に見える形で現実につきつけられてぎている過程でもあった。
 すなわち、ヴェトナムにおける人民の闘争への、米帝を中心とする支配者の連合戦線−人民抑圧戦争の進展に伴い、アジアにおける独自の経済圏の形成と、人民抑圧の連合(反革命階級同盟)の盟主たらんとする日本帝国主義が、その人民抑圧の暴力装置の強化に積極的に加担しようとしたのが、原潜問題であった。そしてそのヴェトナムを巡る状況が、支配者にとってテロ独裁以外道のない所まで追いつめられ、その人民の激烈な闘争を、「北進」という人民抑圧の戦争に転化しようとして始まったのが、「北爆」であった。そして日本の佐藤政府は、積極的にこれを支持し、LSTの斡旋等、様々な支持の発言となってあらわれたのである。
 日韓会談は、このアジアにおいて進行する人民と支配者の闘争の構造が、その一つの決定的な形で、日本を中心として進行させるものであった。すなわち、すでにアメリカ・EECについで構造的停滞期へ突入した日本帝国主義が、自らの独自の経済圏を形成すると同時に、資本主義それ自体が生み出す人民の激しい闘争を抑圧する支配者の同盟を、日本が自ら積極的にイニシアティブをとり、アジアにおけるインドシナ半島、インドネシア、フィリピン、台湾、朝鮮というラインをしめくくり、自らのヘゲモニーを確立せんとするものであった。日韓両国人民にとっては、巨大な人民抑圧の体制、暴力によるファッショ的反動化の確立、更にそのホコ先を「北」へ向ける人民抑圧戦争の体制の確立であった。原潜−ヴェトナム−日韓という闘いは、このアジアに進行する支配者の巨大な構造を徐々に暴露し、それに真正面から対決する闘いとして存在せねばならなかった。なかんずく、日韓両国人民にとっては。
 この状勢は、労働者学生人民の中に、64年末から65年にかけて自然発生的にも大きな盛り上がりのきざしを見せ、この春の闘いは、60年の闘争を質量ともに再現させる如き闘いであった。
 しかしながら、この客観的な闘争の構造、従って労働者学生人民の中に存在するエネルギーを自らの闘いの中で確認するまでは、ブルジョア的外被をもって表われる「闘い」に自ら裏切られねばならなかった。労働者階級においては、社会党に代表される一般的「反戦運動」(安易なヒューマニズム運動)、日共にあっては、民族主義、その裏返しの、封じ込め反対闘争への歪曲となってあらわれた。

 1・17青学共闘をその大衆基盤として、2月17日の椎名訪韓実力阻止闘争を、その闘いの方向性を示すものとして出発した65年の闘争は、今述べた内容の顕在化の過程において、意識的な、無意識的な、社民思想に対する極めて苦しい闘いを通すことによってしか実現できないものであった。
 この一、二月の闘争は、春になってのヴェトナム闘争が、それが先程述べたアジアにおける人民抑圧の犯罪的戦線の一環としての内容をもちながら、自国政府との闘争を現実的に媒介されない時に陥る一般的ヒューマニズム運動、総評の音頭による発散運動へと歪曲されていった。
 学生戦線における5・21全国ゼネストも、この構造を明確にすることなく、むしろその底の浅いエネルギーに容易にのることによって闘われた。それは、65年という時代が、安保の60年当時の如く、日本資本主義の高度成長期の最後の段階、従って、戦後民主主義の「定着」、それに対する「反動化」の刺激という一定の体制内的なエネルギーの成立の時代とは異なり、すでに恐るべき反動化の現実化の時代であるが故に、極めて根の浅い春の「昂揚」として存在した。
 6月9日の「文化人五氏」の呼びかけに応じた「社共共闘」をその最後の頂点とし、この運動は、6月22日の調印により自らの命運を断っていった。
 6月22日以降、全体の運動は、本格的実力闘争への現実的大衆的萌芽が「敗北」の中で芽生えはじめ、それは、10月初旬のこの「敗北」の大衆的総括の結果と同時に、民同左派の右派からのヘゲモニーの奪還を目指しての「左翼的方針」の提示は、10月5日よりの国会周辺における労働者学生の坐り込み闘争として実現されていった。しかし、この10月初句の昂揚は、6月22日以後の戦闘的労働者階級の意識的活動が大きく作用しつつあったとはいえ、それが全体的な社民との訣別にまで到りえず、民同の今述べた思惑との合成として存在した。そして、この限界は、10月22日の半日ストの敗北、11月初旬の一定の昂揚とその再度の手痛い敗北を準備したものであった。11月9日を頂点とする街頭行動が、国会周辺において、日韓条約の本質を、支配者と被支配者の実力闘争の実現という鋭い形態の暴露と、その一定の社会的波及力をもち、また12日の国労ストライキが民同の再度のスト破りにも拘らず、労働者階級の激烈な突き上げの中で、実質ストとしてかちとられる、という今述べた二つの力がギリギリの点まで対決しつつ、闘う部分が決定的な爆破を行なえず敗退していった後、運動は、後に述べる脆弱性をバクロしつつ最終的な決戦時における敗退へ進むより他なかった。
 我々の学生運動の部隊も、10月9日を頂点として、日本学生運動史上、最も鋭い決意と準傭を意識的にもった都学連を中心とした闘いとして組まれながらも、後に述べるその過渡性と、社民左派的な残滓の広汎な存在は、日韓条約という日本ブルジョアジーの命運をかけた暴力装置を突破できず、敗北していかざるをえなかった。
 この段階においてはむしろ、全体的な大衆は、二度の強行採決の中で自然発生的に実力闘争の萌芽をもちながら、その総敗北の過程の中に沈黙していったのである。
 11月12日以後、再度10日の準備期間をもって提起された11月26日全国学生統一行動においても、自ら社民左派でしかないことを暴露した新左翼諸潮流が、議会内における社民、社民党、共産党の敗北に自らも「消耗」する中で、この最後の機会を自らの党派の組織を如何に維持させ、脱落を防ぐか、ということにのみ狂奔し、全く闘争を放棄する中で、我々が最後まで提起しつづけた実力闘争の方針も、後に述べる我々自身のブンド思想社民左派の思想からの訣別の不十分性の故に、活動家大衆の相対的な支持をえながらも、圧倒的大衆の闘争への決起を促すことができず、終局を迎えていったのである。

(四)如何に総括すべきか?
 展望は何か?

 日韓の先程述べた如き内容と、その闘争の本質構造、そして更に今述べた闘争の経過の概略的叙述を基礎にして我々が徹底して総括すべき点は何か? その中で我々は如何なる展望を確認するのか、それが次の課題である。

 我々の日韓条約反対闘争は、我々の当初提起した如く、日本帝国主義の本格的な行動に対決し、労働者階級が、社共と区別された自らの闘いを、どこまで実力闘争としておし上げていくかが鍵であった。先程の闘争の概略で述べた如く、合理化闘争の中で職制との現実的訣別をなしつつある、労働者階級の闘いは、次に述べる立ち遅れをもちながらも、行動委員会に結集した部分を軸に、安保闘争とは全く質的に異なった闘いの方向性をもっており、10月初旬、11月9日更に12日の国労ストライキは、そのわずかではあるけれども突出の現実形態であった。
 しかしながら、やはり我々は、日韓会談反対闘争において、労働者人民の部分的突出あるいは全体的な構造としての質的前進はありながらも、社共と異なった圧倒的潮流の形成と、それによる闘いにまで到らなかったことの、徹底した総括がなされなければならないと考える。
 日韓闘争の敗北を一口で言いあらわすならば、労働者階級人民の社民からの本質的訣別の不徹底さにあった。
 それは、文字通りに社共の支配力と同時に労働貴族階級自身の内部に存在したこの社民の存続を許したものを含めてである。勿論我々は、闘いの以前より社民に対する訣別を語り、組織化を進めてきた。しかし、これが、社民あるいは日共の、先程述べた時代におけるより本質的な把握と、従って、それをのりこえ破壊して進むための全体的構造の不徹底であった。
 誤解をさけるために、具体的に語ろう。社民は、先程述べた如くなだれをうってIMFへの動向へはしり、総評、同盟、中立を縦断する帝国主義的労使協調路線へつぎ進み、産業下士官の利害により下部プロレタリアートの利害は一滴も現実化され得ない組合への転化、組合の上からの鉄の桎梏の形成であった。一方、日共は、すでに三中総により自らの党の完全な一体化を誇り、12月中に党員の25万人への増大、三月中に30万の党へと歩みを進めつつある。それは、一般的に党員倍増ということではなしに、極めて具体的に民族民主革命への「権力基礎」の培養の成果をふまえてのものであった。農民、小市民、インテリ等においては、ほぼ完全にその組織化に成功し、ただ残すはプロレタリアートのみと豪語する彼らは、三中総以来、社民化を進めつつ、あらゆる手段を使っての労働者への浸透を始めつつある。
 このような、全体的な権力基礎は、明確に次のように位置づけられている。
 自覚的民主勢力=中央実行委員会を中心とし、民主勢力との共闘そしてあらゆる地域に職場に中央実行委員会を作ろう、と呼びかけている。それに対応して、社会党も全国実行委員会の各地域・職場への組織化をよびかけている。このように、65年以降の日本の極めて激烈な階級情勢の中で、社民は、労働者階級へ上からの強力なワクを、そして日共は、自らの民民路線の権力基礎の培養の具体的展望をもっての実行委員会、それと進む統一戦線を媒介としての運動により、プロレタリアートヘ民族主義のワクをはめようとしているのである。
 この状態の特徴は、社民・日共が、一時的に自らの利害を貫徹しようとしているところにあるのではなく、それぞれの権力基礎の具体的な展望と方針のもとに、それぞれの思想における実行委員会方式によって、何らかの形での大衆の分断を固めつつあるということである。
 このような時代においては、社民・日共に対決する内容は、一時的に、社共の弾劾にとどまりえず、権力奪取の自らの権力基礎の培養を戦略的に位置づけ、それを具体的な諸階層との関連、統一戦線の問題にまでしぼりあげたものでなければならなかった。勿論我々は、行動委員会の提起を行なった時においては、二重権力の基礎の培養、それによる民同からの訣別ということを目指していた。しかし、それは、日韓条約の内容、更には闘いの構造、そしてそれに対応した諸階級諸階層の動向にまで絞りあげた上での権力奪取の全構造を分析した純化された形での戦略的な方針の確立−その上に立ってしか、社共からの決定的対決、訣別は不可能である、という点において全体的に不徹底であった。
 我々は(二)において述べた如く、「一点突破」という言葉で表現された帝国主義段階後期における闘争の本質的な構造の徹底的な確認の上にたって、それが、なおかつ今述べた如き点において、全体的、包括的に不十分であったことの総体的な教訓を「プロレタリア統一戦線」という方向へ絞りきられるべき、非妥協的な戦略的方針の不徹底、あるいはその故に、自らの進むべき方向を、それへ収れんさせていくべき方向としてたてる。
 すでに、日本資本主義の危機は、支配階級へ本格的なファシズムヘの傾斜――行政権力の自立過程の進行と、そして大衆的なファシスト党としての萌芽をもつ公明党の形成を生み出している状況において、社民・日共も、すでに総体的・包括的な反革命的鉄鎖の確立を行ないつつあった。それは、具体的にはIMF・JCへの動向であり、民族民主統一戦線としての権力基礎の確立であった。帝国主義段階後期におけるプロレタリアートの闘争の構造の本質的形態の上に立って日本労働者階級が、これを粉砕して進むためには、このようなブルジョアジー、社共に総体的・全体的に対決する具体的な戦略・戦術への非妥協的な前進がなされなければならなかった。それを我々が一言に要約するならば、プロレタリア統一戦線の確立、という言葉である。
 今ここで問題を鮮明にするために、所謂統一戦線の問題について基本的な点のみ整理しておきたいと考える。
 スターリニスト党の統一戦線の問題について、大まかに分けて二つの分類をすることができる。勿論、この二つは、一つのことのウラとオモテであるが――。
 コミンテルン初期における統一戦線は、自らがプロレタリア独裁の旗を掲げて、その上で社民との統一行動を呼びかけた。それの利点は、第一に、社民がそれを拒否した場合には、それによって社民の裏切りを暴露する。第二に、もし社民がそれに応じた場合においては、それによって社民のもとに包摂されているプロレタリアートを自らのもとへ結集させる。――このような形で、自らをふやすための極めて技術的なものであった。
 これに対して、人民戦線当時における統一戦線は、自らプロレタリア独裁のスローガンをおろし、スローガン的には社民と完全に妥協する。そのもとに、とにかくファシストに対抗する政府を樹立することを自己目的とする、という内容のものであった。
 この二つの例は、プロレタリアのスローガンと政府権力への社民的道との「矛盾」を表現している。
 我々は、労働者階級の統一戦線とは、二重権力的団結を核とする労働者階級の他階級他階層と徹底的に区別された中核部隊を中心として、自らの階級階層の運動の破産の中で自らの方向性をプロレタリアートの利害と共に進むべく位置付けつつある他階級・他階層をその周囲に位置付けた、統一戦線である、と考える。
 このような形以外のものは、労働者階級にとって恒常的な統一戦線は存在せず、それ以外の統一行動は、一時的なものである。例えば反独占のスローガンにしても、その反独占のスローガンが一体いずれの階級の利害が最も規制的な力として存在するか、という内容によって把握されねばならない。
 以上の如く我々は、帝国主義段階の後期における、すでに決定的な階級対立が社会の末端にまでつき進んでいた時代における反体制運動は、本質的に、二重権力的団結の確立とそれを基礎にした街頭行動、一点突破の労働者自身の統制によるストライキ以外にはなかったということ、まさにその方針へと一切を絞っていくことこそ日韓闘争を「闘う」ということであったことを、再度徹底して確認すると同時に、それを客観情勢の深化の中における支配階級と社共の本格的動向の中で、自らの方針を総体的に深化させ、我々の方針の中に内包されていた内容を具体的な革命の展望の中にひきだす時、先述のプロレタリア統一戦線への非妥協的前進としてひきだすことがでぎよう。
 この組織に関しての全般的総括は今までに尽きるが、反戦青年委員会についての問題をこの構造の中で基本的に述べておけば、反戦青年委員会それ自体は、当初から我々が述べていた如く、社民の組織である。それに対する基本的戦術は、その極端化による変質過程の促進であった。そしてそれをおし進める鍵は、一切、二重権力的な行動委員会、ストライキ委員会の形にかかっていた。その戦術は我々の行動委員会の一定の形式が成功しつつあった所においては、一定の成功をおさめ、民同の恐怖の的となりつつあった。しかしながら、先述の点における不徹底は、全体としての反戦青年委員会への準備のたちおくれ、またその変質過程の一歩の立ち遅れを生み出していったと言えるであろう。
 このことの内容を、我々の配置されている戦線、学生運動についてより詳しく展開する中で、それを再度明確にしたいと考える。
 日韓闘争の中における学生運動は、平和と民主主義型の学生運動の消滅と、その中から本格的な反帝反権力の学生運動の胎動が始まるという、一つの過渡期的性格をもったものであった。従って闘争の構造としては、労働者階級の闘いが、社民との訣別の問題としてあったと同様に、社民左派としてのプント型の学生運動からの、現実の闘争の中での訣別の問題であった。
 日本資本主義の高成長の最後の段階における、「定着」した平和と民主主義を基礎とした運動は、61年以後進行した根深い日本資本主義の構造的不況の中で、日本独占資本が自らを存続せしめるためには、一切の他階級・他階層の利害を収奪し、非妥協的に自らの利害を貫徹する時代へ突入しつつあった時点においては、全くエネルギーを失いつつあった。このブルジョアジーの動向は政治的には、議会自体は、大独占の利害を強力的におし通すための単なる形骸化されたものに、すでに完全に形骸化された技術主義へと転化していったのである。
 このように恐るべき反動化が現実に社会的に定着化している時代における闘いは、この現実化・社会化した反動に対決する学生自身の団結を核に、市民主義の敗北過程の中でその自らの運動の破産が確認されていく状況の中で、それを反帝反権力の闘う団結の全体的突出の周囲へ形成する中で、支配階級の暴力的本質へ真向から対決する運動として確立されていかねばならなかった。
 しかしながら、丁度ロシア革命以前、一切の革命家はフランス革命を自らの革命の唯一のイメージとしてもっていた如く、日本学生運動における、輝かしい安保闘争へのくり返しのイメージの二重化は、日韓闘争を通しての決定的敗北が明らかになる寸前まで、我々自身をも含めて、闘争の本格的構造、従って組織方針・運動方針に到るまでの本格的な安保型運動を止揚した全学連運動の確立、あるいは手がかりを、現実の自らの感性化された確認としてもつことができなかった。丁度、労働者階級が、くり返し社民に裏切られながらも、なおかつ方向性をもった決定的な、非妥協的訣別の路線の全面的な確立へと突き進むには、未だ不十分であった如く――。
 6月22日から11月12日までの過程は、この市民主義運動の消滅と反帝反権力の実力闘争の団結の形成の胎動と、市民主義運動左派としてのブント型運動からの訣別の生みの苦しみの期間であり、その未確立の故に、11月12日以降の壊滅的敗北の準備の期間でもあった。

 この構造をより詳しく叙述すれば、一定の安定を基礎にしたブルジョア社会は、独占資本の他階級・他階層への一定のオコボレを基礎に、全社会を一つの「国民性」という共同性として現実的社会を確立している。そこには、明らかに諸階級諸階層の一定の安定の下に社会の深部までの亀裂は向自化せず、全体としての社会性は、民主主義として共同性が確立されている。しかしながら、資本主義の必然的動向としての矛盾の激成は、大独占をして、一切の他階級・他階層の利害を見捨て、自らの赤裸々な利害の貫徹以外ない構造へと追い込んでいく。この経済的内容は、政治的或いは社会的内容としては、それまでの一定の下部構造における一定の利害の共同性を基礎に現実的に成立していた市民的共同社会性は、ブルジョアジー自らの手によって収奪されていく。その典型が議会における「民主主義」の形骸化である。そして、この議会における民主主義の収奪過程が、決して議会それ自体が技術的、形式的なものではなく、社会的に存在する市民主義の政治的現実形態にあるが故に、その完全な破壊、形骸化は、それまでに全社会的に進行してきた市民社会の反動による破壊を、一挙に普遍的に確認することである。従って、すでに社会的にその定在を奪われつつあった市民主義は、この暴力的な議会の破壊に対して、全くエネルギーを発揮することができず、壊滅するのである。
 この社会的過渡期に存在した日韓闘争は、従って、この現実化しつつあった恐るべき反動化へ対決する団結の形成を核に、その団結がますます自らを確認していくとともに、総敗北していく市民主義運動の破産を自らのもとへ組織していき、全社会的に支配者が自らの本質を明らかにする11月12日を前後する過程で、自然発生的に実力闘争の方向へ絞られつつあった大衆と共に、一挙の実力闘争、決戦へ突き進むべき構造をもっていた。
 しかしながら、先程述べたような市民主義左派の運動からの訣別の体制の未確立は、自然発生的な実力闘争への芽を雲散霧消させ、あるいは技術主義的な「断乎やる闘争」へと引き出し、解消させていった。そしてそれは、11月12日以後、更に全大衆的な実力闘争への胎動も、寧ろあきらめへと転化させていったのである。

 このような構造の教訓は、先程述べたような労働運動のプロレタリア統一戦線の中に位置づければ、以下の如くなるであろう。
 まず、全体としての学生運動は、先程述べたプロレタリア統一戦線の一環としての反帝反権力の全学運運動として、あるいはそれへと形成していく運動内部においても、これ以後進行する反動化に真向うから対決する学生運動における二重権力的な核としての行動委員会の形成を基礎に、そのような労働者階級と共に自ら進む部分と種々な諸階級・諸階層の利害の影響下にある学生との統一戦線的な大衆行動の中で、客観的な事態の進行の中におけるその破産がファッショ的な反動化か、又それと対決するには労働階級と共に進むかという構造がくり返し突きつけられる中で、全体としての大衆運動を大衆的な基礎から反帝反権力の実力闘争の下へと結集していく構造として進む以外ないであろう。

(五)敗北的前進の中で、反動物に転化したものは何か?
 ――中間派の没落と破産を確認せよ!

 初めに述べた如く、表面的には寧ろ安保より後退したかの如き闘いの中で、手中に握られた物質の如き確かさをもって進行したのは、何が革命的なものであり、何がすでに歴史的生命を失い反動物へ転化したのか、という眼に見える形での事態の進行であった。
 闘う労働者・学生・人民にとって、この革命と反革金が、単に言葉ではなく、また「理論」としてではなく、自らの感性的確信として確認されたという意味において、それは日本革命の現実的出発点としての闘いであり、日本革命の前崎戦にふさわしい闘いであった。
 我々はその中で、すべて全く破産し、なすすべを知らなかったにも拘らず小官僚的セクト根性の故に、組織防衛に狂奔し、再び反動的役割りを果たそうとしているかに見える、反体制運動における中間諸潮流の破産を確認する必要があろう。
 ブントから発生し、その総括の中で結局ブントの枠を脱皮できず終了した新左翼諸潮流にとって、日韓闘争とは、再び自らの限界を確認させられた闘いであうた。
 この部分が、様々に異なったことを「語り」ながら、実質的には一つのものとして共通の反動的内容をもつのは、次の点においてである。
 現実の資本動向の中に生きている諸階級を、現実的な感性的活動として把握しきることができない。例えば、経済学においては、確かに人間も物化された形で扱われるし、そうでなければならない。しかしながら、そのように物化された形で扱われた場合においても、その全体としての資本への動向が、疎外され物化された形で存在する人間、諸階級に如何なる現実的な感性的苦痛の激化として形成されていくのか、という資本の動向の内容的分析にまで到らない限り、それは平面的なブルジョア経済学へ陥っていく。
 例えば、日韓条約が日本資本主義の海外進出であるという規定では、全くそれが経済学としても不十分であり、物化された人間にとって如何なる形で重圧としてかかってくるのか、というところまで到らない隈り(例えば合理化、大衆収奪)、何故、日本プロレタリアートが闘う必然性をもってくるのかわけがわからなくなってくる。そして、この経済学的分析の上に立って、現実的に諸階級は、本質的に如何なる存在であるのか、従って、その苦痛は、諸階級に如何なる現実的活動を呼び起こしていくのか、という弁証法的唯物論、史的唯物論的階級の把握がなければならない。はなはだしい部分は、我カのこういう指摘を、道徳主義だなどとバカげたことを言う。全く語る言葉もない。
 これが欠如する時、経済学として物化された社会の分析を行なった後、結局は階級が欠除し、一般的な人間の危機感以外の何物も引き出すことができない(つまり自分の小ブル的危機意識の一般化)。このマルクス主義の基本的方法の欠除は、新左翼潮流に一貫している。従って「経済学をもっている」部分は、その経済学の、全体としての史的唯物論的な資本主義社会の把握の中での位置を知ることができない。従って、決して経済過程の把握が生まれてこない。
 また、政治過程論を持っていると称する部分は、諸階級の本質規定ぬきの(その活動としての政治過程であるという内容ぬき)現象論へ陥っていく。要するに、この部分というのは、疎外された人間の分析は行なっても、その疎外の本質構造の把握がないから、その疎外物化の中で、如何にそれをのりこえる活動が成立してくるか、という分析が不可能であるから、現状分析の中から方針、組織論が生まれてこない(社学同諸派)。
 この逆は、革共同諸派である。
 この部分は、人間の物化された存在、その中における感性的活動の本質規定の分析を、たとえば社学同のように「疎外された形」ですら放棄する。一切をイデオロギーの次元にきりつめ、現実の大衆運動は、そのイデオロギーが大衆を収奪していくための手段である。
 大衆運動というが、自らの中に革命への前進の現実的感性を獲得する、ということを見ない。その純化された姿が革マル派であり、その右翼路線が中核派である。
 いずれにしても、現状把握の中から方針は生まれてこないのだから――自らの主観的危機意識、またはイデオロギーの自己運動だから、総括などというものは、とってつけたものにすぎない。
 一応このような基本的な点を確認した上で諸党派を見てみよう。

 中核派
 中核派にとっては、植民地主義というイギオロギー、排外主義の払拭運動。――帝国主義の一般的把握のため、現在における帝国主義の海外行動は、人民抑圧の反革命階級同盟としてあるなどということは、問題にならない。反体制の内容は、大衆運動それ自体の中にあるのではなく、反植民地主義というイデオロギーをもった人間がどれだけふえるか、ということ、あるいはそうした部分が、どれだけ既成の左翼の中に市民権を持つか、ということに矮小化されてくる。そのもとに、一歩一歩民同の行動の現実的許容。自らの民同化−−革マル大衆化路線。矮小化された日共。

 統一ブント派
 この諸君の我々に対する「公開質問状」については、ほぼ今までの叙述で答えていると思う。何故我々があえてこのように言うかと言えば、この部分は、それなりに自分らの矮小さに気付き、何とかしてそれを払い去ろうとしているが、如何せん、先程述べたように階級を本質的に把握できず、従って活動として把握できぬが故に、我々の方向のまわりをグルグルめぐりしているが、どうしても内容的に理解できない部分としてある。つまり、一応我々との対話に努力しようとしている部分だからである。この部分の特徴は、実にあれやこれやと種々の考察を行なうが、決して本質論がない、ということである。例えば、階級形成論がブント止揚の一つの核心であることに何となく気付き、それを「政治的観点から」自らの理論として正当性を宣伝しようとしているが、語るそばから無内容さが暴露されていく。
 我々に投げかけた、「一サイクル、単発主義」という批判は、全くの見当違いてあることは、今までの叙述で理解できたと思うが、階級形成論の核心は、諸階級の活動のブルジョア体制として表現されていく。有産階級の動向が政治過程として表現され、それはファジズムヘと収れんしていき、また労働者階級の資本への反逆の活動、自らの体制内存在の中にそれを打ち破って形成される共産主義的感性は、この体制にとっては非合法的存在として形成され、その現実的形態は二重力的団結として形成されていくということである。

 マル戦派
 革通にさえなり切れなかった「社学同」マル戦派は、七月頃まで階級決戦論を出しながら、破産を見越した「政治的配慮」により、組織の破産を救うために、彼等の理論からすれば当然、日韓階級決戦――革命になるはずなのに、それをひっこめ、以後全く無方針。今、組織を何とか維持しようという小官僚の意図により、統一ブントとの合併に狂奔。この部分の特徴は、自らの破産を隠すために、その部分について相手の理論を勝手にデッチ上げ、きめつけることで組織を維持するという、極めてこそくな方針である。
 一例をあげておけぱ、最近我々が「ファッショ的反動化とファシズム」とを「すりかえた」という「神話」を作りあげて、自らの政治過程論の欠如を隠している。我々がファッショ的反動化を、一般的危機、反動化の意味に使うていないということは、『解放』2号を読めば自明の理である。この諸君が合併しようとしている統一ブント派が、現在を「プレ・ファシズム」だなどと、我々の後にくっついてきているとぎ、どういった言い逃れを合併後行なうか、みものである。すでに全く生命力を失い、小官僚の必死の細工によってどこまで上手に合併でぎるかのみが問題の組織。

 革マル派
 如何にどうわめこうと、現実の階級闘争に全く無関係になり、ますます「天に昇り」、それをもって自己満足にひたっている。現実に対して「観念」を対置し、その「無キズ」な「天上」で現実を非難する倒錯。

 この日韓闘争の中で問題になったことは、すでに、新左翼と呼ばれる部分が、単なる階級闘争の傍観者となり、自らが主体的に日韓を総括しきれなくなっていることである。
 我々に対する「一点突破」の批判にしても、その闘争構造の無理解は、それなりに仕方がないとしても、その批判の仕方が、左翼としての視点を全く失っているのも、その結果である。
 日韓条約の締結は、日本が独自の経済圏をもったと同時に、それは、危機の先進国への波及、日本資本主義のますます大規模な、襲滅的な矛盾の爆発へと進みつつあることを意味する。
 すでに支配階級は、ファッショヘの傾斜を深め、諸階級、諸階層は社会の深部にわたる亀裂へと進み、歴史は我々に、巨大なる、そして最も偉大なる任務を与えつつある。
 つまらぬ組織防衛から出てくる様々な理論は、それとして続けるがよい。我々はただ、自らのに任務を遂行するため前進するであろう。
 全日本の学友諸君! コミューンか帝国かという時代は、すでに荒々しく我々に迫りつつある。この時代を迎えるべく全力を尽くして進もうではないか。
 我人社青同解放派はその先頭に立って闘うであろう。

(中原 一)

(『コミューン』臨時号 一九六五年十二月)