社会主義協会の分裂と向坂派の形成(3)
−−向坂派の社青同占拠と党への全面介入
一九六五年〜現在
西村真次
一 壮年期の特徴
幼年期から青年期、そして壮年期に入った社会主義協会向坂派(以下向坂派という)のこの期間の特徴は、〈1〉一九六七年六月の大会で太田派と分裂し、彼らの別党コース、、党派化を非難しながら、自らもまた一つのセクト性のつよい党派として成長、発展していく過程であり、〈2〉一九六六年、協会テーゼ「勝利の展望」の討論をはじめて、一九六八年「向坂派テーゼ」を決定、自らを向坂派マルクス・レーニン主義の集団と規定する。それはソ連共産党二〇回大会およびモスクワ八一ヶ国共産党・労働者党宣言の方向性を色濃く反映し、その後ソ連、東独などとの具体的な交流をふかめながら、ソ連型社会主義(実は修正主義から社会帝国主義に転落)を目標とする政治党派となっていく道をたどり、〈3〉まなぶ−労大−社青同−向坂派協会−社会党という図式のなかで、まず社青同を向坂派が独占し、労働組合のなかに浸透、介入し、さらに党への介入、支配、占拠を強めるなかで、自らの組織を強化、拡大していく組織路線を着々実行し、C社研からもぎとった三月会という社会党内派閥をかくれみのとして、全野党共闘の名のもとに、実は日本共産党との統一政治戦線を結成しようとする方向性を明らかにしてきた時期である。そしていま、向坂派の実体が、社会党の内外でその極端な秘密のベールをはがされて、集中的に攻撃され孤立をふかめている。
この十二年間にわたる壮年期は、社会党の佐々木・成田、勝間田・山本、成田・江田、そして成田・石橋執行部体制にわたる時期であったが、彼ちが党の庇護の中で成長、発展した時期は、おおむね成田・石橋体制が確立された社会党第三四回大会(一九七〇年)以後、約七年問のあいだであった。彼らは、方針のうえでは「日本における社会主義への道」(以下「道」という)を向坂派テーゼ流に歪曲して「道」の擁護をさけび、中期路線、新中期路線、国民統一綱領に発展させた。彼らは成田委員長が提唱した成田三原則を最大限に利用し、自らは一九七〇年七月に「思想闘争の前進のために」をうちだして、向坂派の思想・組織・運動論を公然と展開し、本格的な党への介入を開始したのである。その突破口はなんといっても七一年二月の社青同第一〇回全国大会における反戦派、太田派の謀略的排除による社青同の向坂派独占体制の確立であり、それを成田・石橋執行部が公然と認知したことであった。
二 太田派との分裂と協会テーゼ
日韓条約反対とベトナム反戦の高まりのなかで、社会党、総評、社青同の団体共闘として発足した反戦青年委員会は、下部における青年活動家の広汎な参加をえて、次第にその力をふやしつつあった。このなかで、まだ一本化していた社青同は、彼らがもっていたセクト主義、学習主義、サロン主義のなかで頭うちの状況が生まれ、これが全国社青同中央(深田委員長、立山書記長)の主導権を握っていた当時の太田派幹部に焦燥感を生みだし、協会の理論、学習団体からの脱皮、実践と行動を主体とする政治党派への転化が図られたのである。そのときの協会内勢力は、明らかに協会派社青同を主力とする、いわゆる太田・水原派が優位を占めており、彼らは向坂氏を中心とする学者グループの思想、理論、学習重視の風潮に反撥し、その結果、向坂氏を事実上、協会内部から浮きあがらせる方向をとったのである。事実、反戦青年委員会が、新左翼各セクト及びそれに指導される学生運動と共に、嵐のような運動の高揚期をむかえ、各組合の青年労働者もこれに呼応する状況下にあっては、向坂氏指導の三池を原典とする長期低抗総学習路線では、青年労働者や学生のはやる気持ちをとりこむことが出来なかったのは当然のことであった。社青同協会派が、協会規約第二条のうち「理論的、実践的な研究・調査・討議を行ない」という項を削除して、協会を、より一層明確な党派集団として登場させようと思考したのは、当時の条件のなかではあたり前のことであった。もちろん、こういう要素以外に、、学者グループ対活動家グループの対立、人脈、感情など俗人的関係のあったことは言うまでもない。一九六七年六月の協会第八回大会は、規約第二条の修正をめぐって、太田派と向坂派に分裂するのであるが、当時多数派は明らかに太田派であった。大会は、少数派としての向坂派の戦術−向坂、大内両代表の辞任によって、休会となり、事実上分裂した。
ただ、ここで留意しておかなければならないことは、この時点で、統一されていた協会自体、一九六一年八月の協会第三回支局・支部代表者会議(現在はこれを第三回全国総会といっている)を一つの転期として、組織的には、雑誌『社会主義』の同人制組織から会員の同志組織へと発展がはかられ、全国オルグをかねた組織部長(水原輝雄氏、その後事務局長に就任)がおかれ、その性格もこれまでの理論研究団体からマルクス主義の理論だけでなく「理論と実践の統一」を具体化する政治集団化が図られてきたのである。その後、協会は反構造改革闘争をたたかうなかで、組織方針をもち、大会、中央委員会、中央常任委員会をもつにいたった。
従って、向坂派、太田派の分裂は、前者が協会の理論集団化への回帰をはかり、後者が完全な政治集団化への転化をはかったというものではなく、太田派、とくに当時の社青同協会派が、より完全な党派化をめざし、その主導権を向坂派はじめ学者グループから活動家グループヘ奪還しようとしたところにあったと正確に理解することが必要である。
分裂した向坂派は、労農派系学者グループの再結集をはかるとともに、当時社会党内の主流派であった鈴木・佐々木派に協力と援助をもとめ、また総評民同のなかでは、太田氏と対立していた岩井章氏の全面的協力を得て再建をはかったのである。社研(佐々木派)は、その前身である五月会以来社会党内左派の統一的政治派閥として、協会との間に、歴史的に不分律としての分業体制が確立していた。それは、社会党内においては、社研が具体的な政治指導の任務を果し、協会は理論団体として、理論、学習の任務を果すというものであった。六一年以降、実際には、青年運動の指導や労働組合に対する指導は、協会の手に握られつつあったが、しかし、あらたに誕生した反戦青年委員会に結集する左派青年勢力をも社研はとりこんで、一定のバランスをとっていたのである。社研が協会分裂にあたって、完全な政治党派として登場しようとする太田派を排し、理論集団指向の向坂派に支援をおくったのは、左派の政治指導をあずかるという自負心からであった。もっとも、この段階で、すでに協会(両派を含め)が、政治集団化し、党派化していることを認識して、協会との分業体制をやめ、理論的にも、組織的にも、運動的にも自立していくべきであると主張した左派の活動家もいたが、当時にあってはその意見は採用されなかったのである。
この分裂さわぎによって、向坂派の「協会テーゼ」の決定は遅れたのであるが、六七年十一月に再建第一回大会をひらき、翌年九月の第二回大会でテーゼを決定した。ここで、早くも向坂派の党派的再建と登場が出現したのである。
ここでテーゼ決定にいたる向坂氏と同派の考え方め基本について、ひとことふれておきたい。それは平和革命必然論の立場にたつ向坂氏が、一九六〇年のモスクワ宣言によって、平和移行(平和革命)、平和共存、平和競争のフルシチョフ路線が一つの戦略方針として国際共産主義運動のなかで公認されたことに由来する。向坂氏と同派は、これに涙を流し、彼らの長年の主張が酬われたと考えた。以後、向坂派は、「わが祖国ソ連」にたいする絶対服従の方向をとることになる。彼らは、レーニン主義とは似て非なる宗派主義組織論のうえに、カウツキー主義とスターリン主義を同居、混在させ、自らソ連共産党の下僕とたりはてたのである。
三 社青同の占拠と党への介入
七〇年安保闘争の終幕と一九六九年十二月の第三二回総選挙における敗北は、再建向坂派に自己の野望と前進をはかる絶好の条件を与えた。社会党は、総評と共に六〇年代後半の大衆闘争をささえてきた反戦青年委員会を誕生させ、その育成強化をとなえ、一時は全学連との同盟関係までうち出したのであるが、反戦青年委員会が新左翼諸党派の介入と一定の主導をゆるし、一部に左翼日和見主義が生まれるや、これを政治的に領導するのではなく、逆に敵前できりすてるという裏切りをあえて行ったのである。裏切りのなかでは、とうてい正しい総括は導きだすことはできない。“総括なき反戦闘争の終焉”というべきであろう。
このチャンスを最大限に戦術的に利用したのが、社青同向坂派である。自らもまたおっかなびっくり反戦青年委の後陣に加わりながら(太田派は入らなかった)掌を返すように革労協排除、その延長としての際限なき反戦派パージの先頭にたったのである。もっとも協会の宗派的セクト性は、これ以前のすでに一九六六年九月の社青同東京地本第七回大会分裂のなかではっきりあらわれてくるのである。それは手短にいえば、社青同の中央を握った協会派にとって、お膝元の東京地本が、反協会派で握られていて、彼らにとっては目の上のコブであった。東京地本第七回大会を破壊すべく企図した協会派は、全国動員をかけて、大会壇上占拠をおこない、これに抗議して一部に暴力事件が発生したのである。これをきっかけに、社青同中央を握る協会派は、社青同の東京地本の解体決定を強行し、党の指導に耳をかさず、これを進めた結果、首都東京に二つの社青同が分立した。反戦青年委にたいする社青同の指導性の低下は、ここからはじまるのである。
この自派のみが正しいとするやり方は、社青同東京地本分裂後五年たった七一年の二月、社青同第一〇回全国大会のなかにも引きつがれた。このときは既に二派にわかれていた協会は、向坂派の秘かにくんだ計画のもとに、かつての盟友であった太田派と反戦派の生き残りの部分を完全にボイコットし、規約を無視して、一夜のうちに会場を東京から千葉に移動し、向坂派社青同だけの大会を開催したのである。しかも、成田・石橋体制による社会党の中央は、十分な指導や調査もないままに、この第一〇回大会を認め、以後今日にいたるまで、向坂派社青同のみを唯一の党と支持関係をもつ青年政治同盟として認知し、その育成を図ってきたのである。七〇年代の社会党の長期低落傾向、とりわけ青年にたいする影響力の低下はここから始るのである、
社青同の占拠に成功した向坂派は、ひき続き、左派の統一指導部として名実ともに強力な位置を占めていた東京社研の本拠地、社会党東京都本部の権力を奪取すべく全力をあげて介入した。彼らは、革労協排除、反戦バージを名目にして、社会党内の右派勢力、総評、東京地評の労働組合勢力をまきこんで、党の都本部大会を事実上占拠し、東京社研を分裂(向坂派支持の分派は、その後「六日会」となり、「三月会」結成の導火線となる)させて、その主導権を獲保した。
向坂派による社青同の一派支配と社会党東京都本部の占拠は、向坂派の党支配にたいする二つの大きな成果であった。彼らは、この成果をもとに、労組内における社共の対立抗争をたくみに利用して、対日共との論争資料、理論学習活動として、まなぶ、労大を全面的に活用し、社会党、総評、主要単産の庇護のもとに急速に高成長をとげ、彼らの組織方針である「まなぶ−労大−社青同−向坂派協会−党」というシステムで、社会党内の約半数を占める勢力にのしあがった。
事実、向坂派第一〇回大会(本年二月開催)に提案された補足議案「党強化のたたかい」には、「七一年〜七四年にかけて、比較的党建設、活動がスムーズに進行した時期には、党決定を真面目に実行する活動には(向坂派)攻撃がかかっていない」という記述があり、また機関誌『社会主義』の部数拡大は「一九七三年をピークにして、拡大率がその後しだいに鈍化する傾向を克服できず、一九七六年度は、拡大の絶対数においても、率においても再建以来の最低を記録した」(一九七六年度活動総括より)にあるとおり、この数年間が、向坂派勢力が党内に順調に伸びてきた時期なのである。
この向坂派の党支配に、まったがかかった第一のおおきな出来事は、一昨年の社会党千葉県本部の分裂事件である。千葉県は、党中央の妥協により、県段階では一応統一の形はとっているものの、総支部段階ではいまだに一総支部を除き分裂のままである。また首都東京では、都本部改革委員会(反向坂派連合)が、その勢力を挽回し、向坂派と対決して、事実上、党一本化の機能は停止している。また県本部を完全に向坂派によって占有された八百板氏のグループが、本年に入り県評など県下の労組とともに「新しい社会をつくる福島県民会議」を正式に結成し、分党の方向を示している。そして、最大の問題として、第四〇回社会党全国大会の結果に失望した江田三郎氏が、向坂派との決別にふみきり、党を離れて「社会・市民連合」を結成したのである。われわれの社会党四〇回大会にたいする評価は、江田氏とは根本的にちがい、むしろ向坂派対反向坂派という党を二分する勢力の配置ができたことを高く評価し、党内改革をすすめる体制を強化すべきだという点を『しんろ』誌三月号(社会党四〇回大会の歴史的意義、西村論文参照)で明らかにしている。
四 結語
社会主義協会の歴史を三つの時代にわけて、かけ足でその足跡をみてきたのであるが、彼らの歴史をかえりみると、第一期は労農派マルクス主義のサロン期、つまり幼年期であり、第二期は三池闘争の成果をうけて党派集団に転化する青年期であり、第三期は太田派と二分する分裂事態が起きたのであるが、向坂派は急速に成長し、労働組合、社青同、党に組織的に介入、支配する党派として存在する壮年期といえる。
また協会の理論は、戦前の系譜を引く労農派マルクス主義から、カウツキー主義とスターリニズムを混在する世にも不思議な向坂流マルクス・レーニン主義に転化し、ソ連、東独を模範とする不思議な党派として存在しているのである。しかもその党派は、自ら党派性をもつようになった後も、一貫して社会党に寄生し、独特の秘密主義、宗派的排他性、虚弱体質を身につけている。コミュニズムにたいするきびしい批判のうえに成立し、その独自性と多様性を貴重な存在価値としてもっていた戦前の労農派マルクス主義の正統派を任じているにもかかわらず、現在の向坂派は、ソ連のチェコ侵入を正しいと評価し、ソ連の千島列島の軍事占領を合法だとする希少な政治党派である。
世界の共産党、労働者党の多くがソ連社会主義の変質を批判し、その制限主権論(プロレタリア国際主義の名による)に反対し、自主性と多様性を主張しているなかで、向坂派のマルクス・レーニン主義をかかげる一つの党派として、ソ連に全く追随している姿は、なんともこっけいなドンキホーテという以外にない。彼らは、国内では社会党に寄生し、国際的にはソ連共産党に盲目的にすがりついている。そこには、もはや戦前の労農派マルクス主義のおもかげはない。
向坂派は、年一回定期大会を開く。会期は三日間で、まったくの秘密主義である。彼らは、中央常任委員会、中央委員会、大会の機関をもち、その基本組織は、中央本部、支局(いくつかの県支部を統括する)、県支部、支部、班にわかれており、基本組織の機能を補強し、協会活動を強化するために、グループ組織がある。現在は四つのグループ組織があり、社会党を指導する政治グループ、労働組合を指導する労組グループ、社青同を指導する社青同(青年運動)グループ、婦人会議を指導する婦人グループ等である。そして、この党派は、社会党を自らの思想と理論で純化したときには解散するということをテーゼの中で規定している。つまり向坂派は社会党を完全にのっとることを考えているのである。
いま社会党は、その再生をかけて、党改革委員会を設置し、その作業をすすめている。そして、参院選挙後には、その再生をかけて激しい党内闘争が展開されようとしている。党改革委員会の奮闘と全国左派活動家の総決起を心から期待する。
『しんろ 臨時増刊 社会主義協会向坂派批判論文集』所収
発行元 現代研究社
発行日 1977年6月15日