『朝日ジャーナル』1970年12月6日号

社会党変革を模索する活動家集団

編集部

 ここ数年、社会党大会は、再建をめぐる基本的には三つの考え方の対立の場であったといえよう。ひとつは再建懇談会(山中吾郎世話人代表)を中心とした議員政党的行き方(西欧型社民路線)、二つは佐々木派を中心とした三井三池闘争以来の旧「左派社会党」の伝統を守る路線、そして最後に、反戦グループの活動のエネルギーを汲みあげて新しい社会党の核を模索して行こうという動きである。
 春の大会では、第一と第二の勢力が手を結び、反戦青年委員会、救援センターなどの反戦運動と絶縁することによって、第三の道を否認した。“共同の敵”を追払った社会党は、今度の大会を前に再び第一と第二の道、江田「再編」路線と「佐々木大連合」路線に分極化しつつある。そうした党中央の派閥抗争とは別なところで、反戦運動とのかかわりあいの中から、新しい社会党の論理を築き上げていこうと、第三の路線を模索している党員グループがある。東京都活動家党員会議(都活)がそれだ。

党内ゲリラ活動

 話は四月の再建大会に戻る。機動隊と社会主義協会向坂派の手によって防衛されたこの大会で、反戦運動切捨て方針に反対したため“破壊分子”として会場から締出され先グループがあった。都活はそうしたグループのひとつだった。この大会を契機に、反戦運動を闘ってきた多くの青年たちが、社会党を離れていった。一方、一八○度の路線転換の矛盾を、危機意識と痛覚の中で受けとめざるを得なかったのは、従来の党の方針に従って反戦青年委を育成、指導してきた第一線党員だった。党か反戦かの板バサミに悩んだこれら活動家(かれらはガードル層といわれる)の多くがその後都活に結集していったのである。
 都活はそうした成立の事情から、党の「右傾化」への危惧を共通項に昨年一〇月の都本部臨時大会、今春の全国、都本部の大会を経ていくなかで、なしくずし的に形成された党内“新左派”的活動家党員の集りであった。四月の大会前は、都本部の代議員の約四分の一を占める勢力を持っていたが、現在そのメンバーは都内で約二百五、六十人とみられている。
 都活には現在に至るまで綱領や規約というものはない。加入についても、別段資格を設けておらず、原則として党員であり、都活の行き方に同調出来る者なら参加を歓迎するというタテマエをとっている。その「行き方」についても、成員の間に厳密な意味での合意があるわけではない。都活を右派に対する新しい左派フラクションの形成と位置づける者もあれば、前衛組織として構想しているものも多い。そうした意見の違いよりも、「反=右派社民路線」「反=派閥」「党内分派闘争」「反戦運動の積極的評価」といった原則的な認識、立場を共有することによって成員間の合意が成立っている、と考えてよいだろう。
 最大公約数的な言い方をすれば、都活の運動は「反戦運動の周囲に新しい党の質を作り出して行くと同時に、党内において分派闘争を推し進め、社会党を変革して行く運動」と定義することが出来るかも知れない。非合法化された反戦派の党内ゲリラ活動だ。
 彼らは、党の反戦青年委運動の切捨て方針を、社会党の大いなる「矛盾」ととらえる。反戦切捨ての方針は「党勢力の後退の中で、党内主流派として中執権力を保持してきた佐々木派が、江田派の批判をかわすため反戦に責任を転嫁した。同時に反戦を育成利用してきた佐々木派の曽我組織局長(前都本部委員長)が春の全国大会で不信任される危険性を少なくするため、反戦切捨てを江田派への手みやげとした」とみたのである。
 むしろさらに、そうした派閥争いよりも現在の社会党が、反戦青年委運動の突出した運動の質を把握出来ないところに本質的な問題があると彼らは考える。綱領、規約のない中で、都活の唯一の綱領的文書ともいうべき「全国の活動家党員へのアッピール」は次のように社会党の衰退を分析する。
「六〇年代後半の反戦闘争は、何よりも、多大の犠牲を代償として手に入れた『平和』を守り続けようとする、戦後長い間日本の政治闘争の根源をなしていた平和擁護運動の破産を実践的に明らかにした。何故なら、日本帝国主義は六五年日韓条約を契機として明確に独自の対外政策(海外資本と市場の防衛の必要から)をもち、べトナム戦争への協力、加担という形の戦争政策を開始したのであり、六七年砂川闘争に始まる数多くの反戦闘争は、全てその具体的な現われに対する闘いとして発展してきたからである」

真空状態の中で

 そうした状況の把握や、問題の提起の仕方は、新左翼の発想によく似ている。ある意味で、都活は社会党内における「戦後民主主義」、具体的には戦後民主主義と憲法擁護をスローガンにしてきた社民=民同路線の総検証を要求する中堅党員による造反運動といえるだろう。四月大会の機動隊導入に端的に表れた、“造反”に対する執行部の拒絶反応の中で、彼らの運動はその後どのように展開されて行ったか。その軌跡をたどることは、現在の社会党を浮彫りにするという意味を持っている。
 結論から先に言えば、都活は政治的な空白状態の中で方向を見失っているようだ。大会後、反戦切捨ての中執方針という錦の御旗を楯に、都本部の江田派−佐々木派連合執行部は、都活を中軸とする反対派の封じ込めを策した。全国大会と同じパターンをたどった都本部大会の“破壊分子”として、都活系の書記、オルグ七人の解任、一二人の党員の除名、そして都活の拠点であった目黒総支都の解体命令が出された。「反戦パージ」が一段落したいまも、ある党員が「昔は執行部批判も自由だったが、下手なことを言えばすぐ統制処分でやられる」と嘆く“官僚的ファッショ体制”が党内にしかれている。
 一方、これまで実際に社会党を支えてきたのは、都活のメンバーなどによる地道な日常活動だった。ところが執行都は、都活メンバーによる日常活動を禁じる一方で、それに代る活動方針を提起し得なかった。その結果、組織の末端は、いま政治的な真空状態におかれているという。
 ある総支部の一オルグは、「これまで活動家たちは個人的犠牲もかえりみず、反戦運動の組織づくりに取組んできた。ところが、ある日突然、方針が一八○度転換され、それに従わないと反党分子の烙印を押される。彼らは社会党に幻滅を感じ、活動の意欲を喪失する。ところが彼らの力を借りないと、現実に社会党は成立って行かない。一方で執行部は、反戦排除に代る新しい運動方針を何ら提起し得ない。そうした事態にどう対処すればいいのか……」と悩みをもらす。
 中には都活のメンバーによる活動が、三里塚や入管との取組みの中で、半ば公然とおこなわれて、執行部方針が事実上空洞化されている総支部もないわけではない。しかしその場合でも、「党員」としての肩書ではなく、「個人」として、従来の運動の延長のうえで、たとえば地区反戦とかかわり合うことを余儀なくされているようだ。そうした立場のあいまいさより、都活が新しい運動の質を持ち得ているかどうかが問題になる。
 都活の論理と組織のワク組みはあいまいである。総体としての都活の運動をほとんど提起していない一方で、都活のメンバーが日常活動をしているという実態がある。だから都活は現在のところ組織というよりは、個々の成員による活動の総和としての運動体ととらえた方が正しい。そしてそれらの運動が、都活の運動と呼ばれ得るのは、それが従来の社民=民同的限界を乗越え、どこまで新しい質を獲得しているかにかかっている。

江戸川での実験

 その課題の取組みを江戸川における入管闘争に見てみよう。
 江戸川総支都は現都本部渋沢利久副委員長(都議)の地元で、長い間党内における江田構革派の最大の拠点であった。それがここ数年、社青同解放派が勢力を扶植し、現在都活と構革の力関係は互角といわれている。ここで都活が精力的に取組んでいるのが、「江戸川地区入管粉砕実行委員会」による入管闘争だ。この.江戸川地区実は区内の南葛地区反戦、江戸川反戦、江戸川地区反戦、江戸川べ平連など八つの団体の連合体で、各団体から代表一人が出、それに都活のメンバーが加わって事務局が構成されている。この地区実は単なる「団体間共闘」ではなく「大衆的共同闘争機関」と自己規定し、地区実を基軸に入管闘争を都段階、中央へと押上げ、下から上へと組織的再編成を進めて行くものとして、自分たちの運動を位置づけている。
「大衆的共同闘争機関」は、「統一方針、統一実践、統一総括」を原則とし、団体間共闘の限界を克服するために、個人(労働者、学生、市民)の積極的参加を促進すること、事務局を含めて地区実全体を専門部や委員会に編成して機能分担をはかるという方策を講じている。ここで表わされている「大衆的共同闘争機関」(=地区実)なる新概念は、反戦青年委員会を“吸収”した形での新しい運動を作り出そうという都活の方向を先取り、あるいは具体化したものといえる。
 その意味で新左翼八派の団体共闘である「東京入管闘争」にくらべて、ユニークな組織論によった運動ということが出来る。江戸川地区実は、これまでに四万枚のビラを配り、国籍書換え要求闘争を区内で推し進め、また三里塚支援闘争にメンバーを派遣するなど、精力的な活動をしているという。
 しかし、その内実は、依然として団体間共闘というワクを乗越えてはいないようだ。都活自身も各派の仲介者的立場に留まり、新しい運動の質を提起し得てはいない。
 事務局長の渡辺乾介さんは、「地区実の現状は、そこに結集した各党派の動きを調整するのが精一杯で、新しい運動の実体を形成するところまでは行っていない。それは、ひとつには労組への取組みが弱く、依然として優勢な社民=民同系の労組に対置し得る労働者部隊を、創り出し得ていないことにもよるだろう」とそのむずかしさを語っている。
 それは、新左翼全体を含めた根本的な問題であり、都活自身、その問いに対する答えをほとんど出し得ていない。

「変革」と「革労協」

 都活自身が、まだみずからの運動を展開し切っていない現状では、五月二九日に都活が呼びかけた「全国活動家党員会議」が、その後いまだに呼びかけのままに終っているのも無理はない。その手詰り状態は、一時的というよりむしろ都活に内在的な矛盾のあらわれと見てよい。党が育成、強化してきた反戦青年委運動を、何の総括もなしに切捨てた、その党の矛盾の中から生れた都活は、それ自身さまざまな矛盾を抱えた存在であった。
 その矛盾は、現在いろいろな形で顕在化している。その一は、党の右傾化に対する、左派フラクションとして出発した都活が、現在、内部分裂の危険におびやかされているということである。都活を形成している人脈は、変革派(日本社会党革命同志会)と昨年九月結成された反帝学評の上部団体である革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)であり、その中でも変革派が絶対多数を占めている。「革同」と「革労協」は、もとは同じ社青同解放派を形づくってきた仲間だが、党の活動家(カードル層)が多い「変革」と、反戦労働者の結集している「革労協」とでは、考え方にかなりのちがいが見られる。
 たとえば、社会党に対する考え方では「帝国主義社民」と規定づける革労協に対し、革同は「帝国主義社民に近づきつつある」という見解を取る。また都活と労組とのかかわり方についても、前者が「行動委員会」という下からの党作りに力点をおけば、後者は「職場支部づくり」という、どちらかといえば政党の指導の方にアクセントを置いている。
 執行部の「反戦パージ」が主として「反党的」な「革労協」をおもな目標にしてきた事情もあり、「革同」の間では「革労協」と同一視されることは不利だ、という意見もあって、両者は離反しつつあるといわれている。
 矛盾の第二は、「党内分派闘争」という規定そのものにある。派闘の解消を目指す都活は、現実の行動においては「派閥的」であることを免れていない。都活の人脈の母体になっているのは、昨年一一月、東京社研(社会主義研究会)が、佐々木多数派、社会主義協会と佐々衣少数派、解放派に分裂したときの後者だが、党の締め付けの中で、再び前者に接近していこうという動きが最近出ている。
 たとえば品川総支部では、都本部活動方針をめぐり、執行部系と都活が対立。四回も総支部大会を重ねるという変則的な事態の結果、反戦排除の活動方針は執行部に一任された。そして江田派二人、都活系三人、中間派(佐々木多数派、社会主義協会)という執行部構成の中で、都活系は中問派の抱込みを策しつつあるようだ。
 それは右派に対する左派フラクション作りを、どう進めるかという問題でもある。
 しかし、より本質的な矛盾は都活であることと、党員であることの落差である。社会党へ基本路線.(具体的には中期路線=政権構想)と派閥そのものの破産を宣言し、「今や労働者革命を志向する活動家党員諸兄が、これらいかなる派閥にも自己の幻想をつなぎとめようとすることは、日本革命運動にとって犯罪的である」(「全活へのアッピール」)とまで都活が言いきる時、都活のメンバーでありかつ社会党員である、ということはそれ自体矛盾といえよう。
 この問題に対して革同のリーダーであり、前都本部組織指導部長の根岸敏文さんは、次のように答える。
「社会党に見切りをつけて、“飛出し派”になることはやさしい。われわれは現在の社会党に幻想は持たないが、しかし内部分派闘争を徹底的にやり抜くという立場に立っている。つまり、われわれの運動の質はいまの社会党を超えたものでなければならないが、党内に留まって闘う以上、党内事情を踏まえて行動しなければならない。分派活動をどこまでやり切るか、という問題は、党内事情と見合わせながら、ケースバイケースでやって行くより仕方がないだろう」
 結局、体制内変革運動は、体制の秩序に対し、変革の論理をどこまでかぶせて行くことが出来るか、という主体の意思にかかわってくるだろう。問題は、都活の活動を「党員」のワクの中で、どれだけ貫徹出来るか、といい替えてもよい。先に、都活の矛盾が内在的だ、といったのはその意味である。

体制内変革の課題

 反戦青年委や新左翼が、既成左翼につきつけた問題は、戦後民主主義が空洞化して行く中で、それをバネとしてきた反体制運動の限界をいかに克服し、新しい運動を再組織していくか、ということだった。その問いに、社会党の中から答えようとした都活は、結局何ら有効な運動を展開し得ないままに、野党再編への大きな潮流の中にのみこまれつつあるようだ。現在都活には(少なくとも革同メンバーの間では)、野党再編への見通しの中で、自分たちの運動を再構築して行こうという現実論が強い。ある都活の幹部は、「社会党は近い将来、親帝派(江田派)と中間派(佐々木派)に割れる可能件が強い。その場合、反帝派としての部活は、中間派とともに反帝戦線をいかに形成して行くか、ということが課題になるだろう」と見通しを述べている。
 都活が挫折しつつある理由は、新左翼全体が停滞しつつある状況と無関係ではないが、都活そのものの行き方にも問題があるだろう。
 第一に、彼らの運動を、新左翼、社会党、労働戦線の中で、どう位置づけて行くか、という座標を明確にし得ない戦術論の不在がある。都活は「党内分派闘争」と自らを規定するが、実際的には党内で理論闘争を進め、勢力を扶植して行く一方、新左翼との提携、新しい労組作りを含めた総体的な「新左派」作りを考えているようだ。しかし、野党再編、労働戦線統一の動きに見られるように、状況が流動的で、まさに明確な戦略、戦術、情勢分析を必要とされるいま、それらが欠落した心情的な運動は、容易に党内秩序に巻込まれて行くという危険性を持っている。
 そうした安易な行き方は、都活が否定している従来の社会党の運動パターンと実は同一であり、そこに、党の「右傾化」への即自的な忌避反応の中から生れた都活の限界が見られるようだ。
 第二に、都活の内部で社会党とは、社会党員であるとは何かという議論が、どこまで仕切れているか、という問題だろう。都活はこれまでの、社会党を「社民=民同路線」の破産の過程としてとらえているが、基本的には現象分析に終り、「労組依存」「議員政党的体質」「日常活動不足」という“性格規定”の域を抜け出ていないように思われる。
 現在の社会党に真に求められているのは、「反=右派社民路線」というスローガンよりも、「日本型社民党」あるいは労農マルクス主義の日本における有効性の検証――これまでの社会党のトータルな総括である。都活が抱えている最大の矛盾、「党員であるべきか否か」は、その総括の上に立って始めて問われるべき性質のもの。だろう。
 都活に対して、四月大会を機に党と「決別」し、除名された立川市議の島田清作さんは次のように評している。
「現在の社会党に残っていることは、活動家としての堕落、退廃につながる。それ以上に、都活のメンバーによる真面目な活動を通じ、社会党への一般の幻想をつなぎ止めるという現実の機能によって、逆に社会革命における障害になっている面がある」
 その限界を承知したうえでなお社会党に留まり、ドジカルにシコシコと活動して行こうというところに、都活の意義が,ある、と言うことも出来るだろう。
 新左翼の提起した問題を、いかに大衆運動の中に組込んで行くか――その課題を共有するものにとって、都活の挫折と可能性は、ひとり都活だけのものではない。

《本誌・笠原盈夫》