“反戦パージ”と社会党の没落

高見圭司
70年4月

“反戦パージ”を弾劾する

 三月三日の社会党中央執行委員会は、中央本部書記局員六七名の整理を決定した。整理の対象となった者のうち、約六〇名近くは希望退職者であり、残る七名は指名解雇になった。いま、指名解雇をうけた七名は連名で、“反戦パージ”という政治的意図をもって首切りを押しきろうとする中央執行委員会(以下中執と略称する)に対し、憤りをこめた抗議と、全党員とすべての労働者人民に対する訴えと闘争宣言を発表した。
 私は、この訴えと闘争宣言を行なった被解雇者七名のなかの一人にはいっている。
 社会党中央本部における“反戦パージ”が社会党−総評ブロックを中心とする“戦後革新勢力”の流動のなかで画期的な意味をもってくるかどうかは、一にかかってわれわれの闘いにある。
 すでに、昨年から今年にかけて、全国の職場や、社会党県本部などで“反戦パージ”はすすめられており、社会党中央本部のそれは、これら全国的状況の一環にすぎないのである。“反戦パージ”は、国家権力や資本の権力によってすすめられているだけでなく“戦後革新勢力”としての労組幹部.社会党幹部そして日本共産党の連合によって、すすめられている。
 昨年はじめにひらかれた社会党全国大会では「反戦青年委員会を育成し強化する」という方針を満場一致で確認している。にもかわらず、この方針は、現中執指導部によって最初はおずおずと、最近は大胆そのものの態度で、この一カ年余のあいだに、一貫してふみにじられてきた。まず、咋年の四・二八沖縄集会において、日共・総評の要求に屈した中執は反戦青年委員会の排除を確認し、六月の伊東市におけるアスパツク粉砕闘争において、日共との共闘がくずれ、反戦青年委員会の参加を認めるかのごとき、認めないかのごとき暖昧な態度にたり、“一一・一六佐藤訪米抗議集会”では、その排除の上に社共・総評集会を行なったのであった。しかし、彼らがどう決めようとも、反戦青年委員会は、四・二八と一一・一六集会に対して、一部ではあったが、それぞれ約五〇〇〇名が積極的に介入した。それに対して民青・日共のゲバ棒部隊の挑発策動があったが、それを圧倒的な東京地評傘下の反戦派労働者の支持のもとではねのけたのであった。
 昨年の六・一五集会での約一〇万人の結集にショックを受けた江田書記長は、このベ平連をはじめとする多くの市民組織・反戦委・全共闘などの呼びかけで集まった一〇万人の行動を高く評価した。成田委員長は、昨年八月号の『月刊社会党』の巻頭論文で「党建設と青年戦線」と題し・今日の反戦青年委員会や全共闘の若者たちが、社会党はじめ既成指導部の怠慢なあり方を鋭く荒々しく告発していることを、積極的に受けとめ「『わが内なる社会党』を告発し克服する勇気と行動」をもたなければならないこと、さらに「私たちは“統制”をふりかざして組織的処置をいそぐ前に、かれらや、その支持層の内面にはいっていく感覚と能力をもつ必要があるのではたいでしょうか」とのべている。
 ところが、さきの三月二百の中執では反戦青年委員会の育成・強化の方針は誤謬であったとし、さらには、中執の党再建のための「中間報告」では「……旧三派、革マルなど運動の発展を阻害する勢力とは共闘しない……、これらの方向で党の行動を統一するために多少の痛手はあっても思い切った措置をとる……」と提案している。この提案は、青年対策部長である私はもちろん、担当局の青少年局の討論にかけることなく、雲の上の中執で唐突に決めてしまっているのである。このような書記局運営の非民主性は、こと反戦委問題ばかりでなく、今回の中央本部書記局員の大量整理の中でも貫徹されている。
 ここに私は、社会党がかつてもっていた大事なものが、失われていく思いがする。
 社会党は、共産党のような“トロツキストアしルギー”とドグマにその頭脳を侵されていなかったためか、六〇年六月一五日、樺美智子さんが虐殺されたとき、その非を学生に向けるのではなく、岸首相をはじめ国家権力に向けたことで、それなりの“反権力”性と、人間のぬくみを感じさせる“人間性”の存在を示した。その最も大事なものが、いま指導部の手によって、上から捨てられつつあるのだ。
 成田委員長も、江田書記長も、自己の発言や論文について主体的な総括を、何も示していないのに、きわめて唐突に“反戦排除”を中執の名で決定したのであった。しかし、実際は何も唐突なのではなく、隠されていた本質が、新たな階級情勢のなかで表面化したにすぎないのだが。彼らは“反戦育成は誤りであった”と居直りの態度をとっている。このことも、われわれにとって、ずでに予想されていた事態なのだ。
 “反戦パージ”が社会党中央本部という“戦後革新勢力”の頂点からはじまった。今後、このことを何もしないで受け入れられたら、おそらく、党の下部組織はもとより、労組機関と職場において、権力の手を借りるまでもなく、日共と手を組んだその指導部の手によって反戦パージは容赦なくすすめられるであろう。
 であるからこそ、われわれは、社会党中央本部における“反戦パージ”を根底的に批判し、弾劾しなければならないと決意している。

深部の右翼的再編成策動

 戦後二五年のあいだ、日本の重要な政治的転換点にあっては、社会党内ではその政治的舵取りをめぐって左右の理論闘争と熾烈な党内闘争がくりひろげられた。五一年の講和・安保論争と、その前の党綱領をめぐる森戸・稲村論争、六〇年の西尾一派の脱落、六一年からの構革論争などである。
 ところが、今回の再建論争では、党の綱領次元での論争は、一向におこらない。にもかかわらず、それは表面上のことであって、路線を右翼的に変質させるような策動ははげしくすすめられているのだ。たとえば、山本幸一前書記長などのグループが出した党再建案なるものは、民社党そこのけの右翼的路線転換を主張しているのである。しかし、これにかみついてみたところで、まともな論争にはならないのである。
 大会準備委員会中間報告として「総選挙総括と党再建の方向」と題するものが、下部討論に付す中執の再建のための考え方であるとして出されている。この案は、書いた者も、中執も、これで再建ができるなどとはさらさら思っていないようである。それは党内各派の妥協の産物であり、まったく無性格なしろものになりはてているからである。この案をもって中執は地方へ“下放”し、下部の意見を若干とり入れ、全国大会に提案することになっている。この案で、下からの噴き出るような論争がまきおこることはあるまいというのが、指導部の読みであろう。むしろ、彼らは大胆な問題提起によって、党内が割れるほどの論争を極力避けて通ろうとしている。論争に対して、彼らは、著しく臆病である。たとえば、さる三月一四日東京都本部の活動家に向けて行なわれた“下放”討論集会は、出席者が五〇席の会場でわずか十数人であり、出席予定の成田委員長は“よんどころない事情”とかで出席せず、曾我組織局長が説明に当った。要するに空気がはいらないのである。この風景からみると、もう党員は骨を入れて討論しようという気がなくなっているのではないかとさえ思われる。全国の討論が、こんな東京のような砂をかむような状況であったとしたら四月二〇日から行なわれる全国大会というのは、戦後最低の大会になりかねないだろう。
 佐藤・ニクソン会談後、今年の六月に日米安保条約は自動延長され、日米帝国主義同盟のもと、日本帝国主義はアジア・太平洋圏への進出の跳躍台に立ち、新たな七〇年代階級闘争の出発点に立っているというのに、中央指導部は、この情勢への真剣な対決の姿勢をまともな形ではみせていない。国会では、六月二三日の日米安保条約の期限が切れるまえに会期が終ることに、さして抵抗を感じない証拠には、さきの予算委員会討論は安保・沖縄問題など山ほどある政府のペテン政策を暴露することに身を入れず、公明党の“言論妨害”ということに基調をおいて、佐藤政府をいよいよ安泰な位置におし上げてしまっている。
 こんなふぬけな社会党指導部は、戦後二五年のあいだ一度もなかったのではないかと思う。労働者大衆は、ただでさえ、今日の社会党の何ともふがいたい有様にあいそをつかしているのに、これ以上無能無策な社会党(指導部)であれば、いよいよあきれはててそっぽを向いてしまうだろう。
 ところがである。このような表面の何事も波立てぬ指導部のなかの、その深い底流に、は、せっぱつまった策動がすすめられているのである。それは、二つの政治潮流の動きである。一つは、IMF・JC、同盟など右翼的労働戦線統一の急速で大きな流れに乗って、一山あてようと狙っている政治屋どもの動きである。彼らは、社会党がもう駄目だと踏んでおり、民社党を吸収して、イギリス労働党や西ドイツ社民党なみの、議会主義と改良主義そのものの“日本労働党”(宝樹全逓委員長提唱)をこ二、三年のうちに作ろうというのである。これが、山本幸一一派が呼びかけた“議員懇談会”なるものの狙いである。これには旧左派佐々木一派の一部を除いて、ほとんど集めようとしている。山本派の中に籍を置く楢崎弥之助氏などは「一○○○万の支持者をもつ国会議員は全国大会の代議員にするのが当然である」とさきの中央委員会で発言した。このことの意味するところは、今日の社会党の浮動家を基礎とする党体制と大会代議員体制を崩して、議員優先の“議員党”体質そのものの実体に適応させようとする考えなのである。ある意味では、この見解は、今日の党の“議員党体質”の実態をそのまま、組織形態のなかに表現しようという“正直”な発言でもある。
 本来ならば、活動家たちの猛然たる反対を受けるはずの楢崎提案は、あまり議論を呼ばない。ここには議員の異常なハッスルぶりがある反面、“活動家”たちの無力状態が示されている。いや、むしろ“活動家”といわれる部分は、党官僚となり、議員の下請け稼業に専念する者に変質してしまっており、本当の意味で、大衆運動のなかで活動する“活動家”は少なくなってしまっているのである。
 もう一つの底流を動く政治潮流は“社共統一戦線派”とも呼ぶべき人びとの動きである。この人びとは、労働戦線の右翼的再編成と“日本労働党”への流れの中で、へたをすると、それに巻き込まれるか、孤立させられるかもしれない伝統的民同左派(岩井総評事務局長に代表される)と社会党内佐々木派の中間派、社会主義協会派に属するのである。彼らは、その拠って立つ基盤が左(反戦派)と右に音を立てて分裂されつつある事態のなかでとり残される中洲に身を寄せ合いつつ、自己保身に血まなこになりはじめた。彼らは、すでに破産を宣告されつつある党の“基本方針”を正しいとして固執し、最近右寄りで“議会主義”路線に忠実な日共と統一して、左右に対決しようと考えている。いよいよ時が経つとともに足場が狭められているのだから、彼らは日共にすがる外に道はない。当然、彼らの命運は日共に“抱きしめ窒息させられる”ことにあるだろうに。彼らこそ最も党官僚層を代表している。
 当面、美濃部都知事選挙をはじめとする、日共お得意の“民族民主連合政府”の自治体づくりに、社共統一で行きましょう、というわけである。
 その際の彼らの日共への手土産は何か? それは“反戦排除”と“三派・革マル・ML排除”、これで、日共は社会党の“勇気”に讃辞をふりまさ、日共産“自警団”と“反革命ゲバ部隊”の牙を磨き、公然と反戦と新左翼、全共闘を“敵”と見立てて襲いかかるはずである。国家権力は、白ら手をくださずとも、日共によって、最も気になる反戦と全共闘を抑えてくれることで、今までの日共に対するまま子扱いをやめて、体制内の一員に遇する、という筋書きもできているはずである。
 ここで、社会党にあっては、旧左右ともども一致点ができたというわげだ。“鬼っ子反戦”を“生けにえ”にして、その後に“日本労働党”と“社共統一をめざす党”との体制内闘争は開始される予定なのだ。
 社会党のかつての“陽性”な、しかも大衆的な論争と対立は、今や、“陰性”な官僚的手法にとってかわられた。このような“陰性”な党にプロレタリア大衆は嫌悪こそすれ、希望をつなぐことはしないであろう。

議会闘争と大衆闘争の分裂の根拠

 昨年一一月一七日、佐藤訪米のさい、中執は、羽田への現地デモをやるのか、やらないのかの蚊路に立たされた。けっきょく、現地デモを中止するということが、中執の選択であった。一一・一七羽田にむけた現地闘争の方針は、当初、社会党東京都本部の下部の活動家たちによって実行委員会がつくられ、準備された。東京都本部と中央本部は、あとでそれに労せずして乗っかったのである。
 一一月一五日、東京九段会館には、全国の党員約三〇〇〇名が集まり、そこでは中執提案で“断固として一一・一七現地闘争を行なう”ということが確認された。ところが、この現地闘争に対して、またもや総評幹部からその中止が強く中執に申し入れられたのである。翌日、代々木公園の佐藤訪米抗議集会の最中、中執が羽田現地闘争をとりやめたという噂が流れ、その場で二、三人の中執が、そこに居あわせた党員につめ寄られる一幕があった。代々木集会とデモのあと、東京都本部と大阪や福井などの地方の活動家数十名が社会党中央本部におしかけ、江田書記長、下平総務局長、伊藤茂国民運動局長を、約五時間にわたって、かんづめにして追及した。しかし、江田書記長をはじめとする中執は、活動家の羽田現地闘争をやりぬけという要求を頑固に拒否した。その理由はただ一つである。それは“総選挙で勝つためには、現地闘争を止める”ということだった。
 ここでは、社会党が歴史の曲り角にあって画期的な政治的転回をとげつつあることを告げたのである。
 社会党の「日本における社会主義への道」(注1)(通称“道”)という綱領的方針には、大衆闘争と議会闘争との関係をつぎのように書いている。「……われわれはすでに一千万人を越す固定した支持票があり、国会内ですでに約三分の一を占める議席を獲得している。しかも内外の客観情勢はわれわれに有利であるが故に、われわれにおいて、大衆闘争と選挙闘争と議会闘争を密接不可分に結合して誤りなければ党の得票と議席を着実に増加させ、やがて自民党を打ち破って、社会党政権を樹立することは可能である」(注2)(傍点筆者)。
 このことで明瞭なことは、社会党の、いわゆる“平和革命路線”という革命路線の内容が「得票と議席」を増加させることを最終目的として「大衆闘争と選挙闘争と議会闘争」の「結合」がはかられる、ということである。すなわち、ここには“議会主義”路線そのものが語られているということだ。
 ところが、一一・一七羽田現地闘争を投げ捨てた執行部の“理由”からは、“道”の「大衆闘争と選挙闘争と議会闘争」の結合という“結合”の論理そのものが、分離の論理へと転換しているのである。この転換は、実は“道”そのものが成田委員長のいう、社会党の克服すべき体質的欠陥の一つである“議員党的体質”(注3)の根拠となっている“議会主義路線”ということを基本的性格としているが故に、かくのごとき帰結は、当然のことであるということができる。佐藤・ニクソン会談という戦後最大の政治的転換点に立って、国家権力側からの攻勢的恫喝を前にした党指導部は、膝を屈して“大衆闘争”としての羽田現地闘争を放棄し、選挙への道を選択したのであった。ここで、ぎりぎりの局面に追いつめられた指導部は“大衆闘争”と“選挙闘争”と“議会闘争”との結合という“道”の論理の破産を、暴露する破目になってしまったのである。
 佐藤訪米阻止闘争では、六五年日韓条約批准阻止、ヴェトナム反戦いらい、わが国の急速な政治的流動のなかで“平和と民主主義”という概念に象徴される戦後民主主義体制の分解が集中的な表現をとった。つまり、ヴェトナム革命を契機とする大衆意識の流動は、六〇年代の“高度経済成長”といわれる日本資本主義の産業再編成と合理化過程によって生みだされたプロレタリア大衆意識の流動と複合し、相互媒介的に累進増幅され、その意識の分解をはやめた。
 戦後民主主義体制のなかで、プロレタリア大衆は、総評−社会党ブロックといわれる政治勢力のなかに自己を表現した。がしかし六五年以降、急速な大衆の流動は、一方IMF・JC、同盟を中心とする右翼的労働戦線の結集と、他方、根底から戦後民主主義体制の欺瞞性を暴露するたたかいを展開しつつ登場している労働者反戦派へと、左右への分解をとげつつある。社会党−総評ブロックの中軸として機能してきた民同左派指導部は、このような左右の分解の波に洗われ、今日労組機関の官僚的保持と自己保存にしがみっかざるをえない窮地に追いこまれ、その結果、日共の“反革命的”援助を期待するほかはなくなった。民同左派と日共の共通する社会的基盤は、マイ・ホーム型労働者層である。しかし、この層は、左右への急進な分解を遂げつつあり、したがって、汲々たる自己保存の本能にかりたてられた民同左派は、当面している情勢の激動に何ら積極的な方策をもちあわせることができないのである。
 社会党の野党第一党、国会三分の一勢力の保持への願望、民同左派の勢力保存のための、消極的対応策は、大衆闘争を打ち捨て、選挙運動へ、票とり主義へ、果せぬ一抹の期待を抱いて、のめりこむほかにとる道のない、彼ら指導部のみじめな姿をさらけだした。
 その結果は何であったか? それは社会党の総選挙における大敗北であった。そして、総評民同は、昨年の佐藤訪米にむけたゼネスト取り止めの口実にされた“七〇年六月二三日ゼネスト”を、社会党の敗北ということをもっけの理由にあげて取り止めとすることで、彼らの経済主義を本質とする“日本的労働組合主義”の反階級性をいかんなく自己暴露したのである。
 社会党中央指導部の佐藤訪米における政治選択は、大衆闘争を放棄したことで、完全な“議員党体質”をさらけだし、同時に、総評指導部の恫喝に屈したということで、“労組機関依存の体質”を見事に証明することになった。
 それだけではない。このことは、平和と民主主義、戦後民主主義体制の終焉と、七〇年代階級闘争の始まりを劇的に告げたこと、そして社会党−総評ブロックの左右分解が不可避であることを証明した。戦後民主主義体制の自然発生的な反映として表現された“道”のテーゼが、その政治情勢で何ら有効性をもつものでなく、その破産が鮮明に暴露されたのである。

戦後民主主義体制の成立と崩壊

 三月二〇日、六〇名の社会党本部書紀の希望退職者に対して、退職金が支払われるこの日、三宅坂の社会党本部で江田書記長、下平総務局長のもと、書記局全体総会がひらかれた。その総会は非常に緊張感にみちていた。
 本部の玄関には“反戦パージ”弾劾の立看板が立てられ、館内の壁にはベタベタとステッカーが貼りめぐらされていた。
 前日の午後一時ごろから翌日午前四時ごろまでの約一七時間のあいだ書記局小委員会(注4)とわれわれ「反戦パージを意図する指名解雇粉砕闘争委員会」(注5)は、下平総務局長に対して、「指名解雇の理由は何か」ということを中心に追及した。彼のこれについての解答は「担当局長と相談し、私と書記長とが判断してきめた」の一点ばりで、その“判断”の内容については一切答えず、同じ解答を何百ペンもくりかえすだけであった。この交渉の緊張感は、全体総会へ引き継がれた。
 この全体総会では、下平総務局長の「財政的理由でのみ整理したのであって、政治的意図ではない」〈判断〉が、江田書記長の暴言のかずかずで、それが明確に“反戦パージ”を意図した政治的意志にもとづいていることが、全参加者の前に徹底的に暴露されてしまった。そして彼ら指導部のごう慢な態度が書記局員の多くの部分に、指導部不信感をいよいよつのらせる結果となった。その証拠に全体総会が一方的に閉会を宣せられたとき、どっと二〇名ほどの“闘争委員会”のメンバーが前面につめより、そして江田書記長を約二時間にわたってとり囲み追及しているあいだ、書記局員のだれ一人、江田書記長を支持しようとする者はなかった。下平総務局長などは、さっさと逃げ去った。
 このような指導部の一つ一つの言動と態度については数えあげればきりがないほどである。ここには、社会主義政党の指導者としての一片の“知的・道義的”優位性はなく、ひどい官僚性、欺瞞、頽廃といったブルジョア性の膿臭を発散させているとしか言いようのないものである。
 かかる“知的・道義的”指導性の喪失と、その頽廃の根源はどこにあるのか。それを問う手がかりとして、戦後民主主義体制の歴史的性格と、その歴史過程のなかで社会党−総評とは何であったかを考えてみる必要がある。
 戦後五年間におよぶわが国と全世界のプロレタリア大衆の攻勢的局面は、アメリカ帝国主義の圧倒的反革命力のもとにねじ伏せられプロレタリア大衆はその戦闘性を保持しつつも、一定の後退局面としての“半敗北”の過程にはいった。中国革命は台湾と香港解放の直前に押し止められ、朝鮮は三八度線で二分割され、ヨーロッパの人民戦線に結集された力は一定の後退を強いられた。
 全世界の資本主義諸国のプロレタリア大衆は、その“半敗北”の結果として、組合主義と議会制民主主義を内実とする戦後民主主義体制へはいるのである。わが国も例外ではありえない。
 わが国における戦後民主主義体制は、“労働組合主義”と、その政治的反映としての“議会制民主主義”の蜜月的結合を実体的に表現する“戦後革新勢力”を一方の支柱として成り立った体制なのである。
 “日本的労働組合主義”とは、総評のヘゲモニーをもつ“民主化同盟(民同)左派”の労働者大衆を指導する論理とそのあり方を指している。その論理とは、企業権力、経済権力に手をかけんとする労働者大衆の自然発生的戦闘性を、資本の秩序内に押え、物質的獲得物の量に換算する指導のあり方をいう。
 一方、民同左派は、労働者階級の戦闘性を、カンパニア主義的集会とデモの枠内に押しとどめ、その力を議会へのプレッシャーとして利用する民同指導部が、カンパニア街頭デモの際、下部労働者が戦闘的なジグサクデモに移るや必死になって合法秩序内に押し込めようとするのは、民同のこの本性にもとづいているのだ。議会においては、社会党が、この民同に指導された労働者大衆の生活者・市民としての共同利害を代行するブルジョアジーは、議会において、これら市民・生活者としての労働者大衆の利害、農民をはじめとする諦階層の利害を調整しつつその支配を貫徹する。このようなブルジョア独裁の支配形態は、幻想的形態としての議会政治を通じて貫徹されているのに対して、“戦後革新勢力”は、そのブルジョア民主主義の擬制としてとらえることができず、それが将来的にプロレタリア民主主義に保存され引継がれてゆくことを可能にしているという意味で、“議会制民主主義の擁護”を“平和革命路線”の重要な支柱に据えるわけである。
 戦後民主主義体制は、今日、日本帝国主義が新たたるアジプ・太平洋への、米帝と同盟した支配者として登場し、その過程で崩壊と再編成が、熾烈た階級闘争を媒介としつつ進行していることは、明瞭であろう。このことは、プロレタリア大衆の“半敗北”の結果として、ブルジョアジーとの一定の妥協をも意味していた戦後民主主義体制が、その非妥協的闘争としてブルジョア反革命とプロレタリア革命というむき出しの階級対決の過程にはいり、その入口に立ったことを示しているのだ。新たな時代への突入はわが国だけであるはずはなく、まさに全世界的ひろがりのなかの相互連鎖の過程としてあるのだ。ヴェトナム革命を契機とするアジア、南北アメリカ、ヨーロッパでの、プロレタリア大衆の攻勢的波動がそれである。戦後民主主義体制は経済の安定成長過程によって物質的に保障されていたことも、つけ加えておかねばならない。しかし、ヴェトナム革命を契機とするドル危機は、ついに、六八年三月のロンドンの自由金市場における取引きの停止という全世界資本主義の危機の始まりを告げた。
 このような世界史的過程を背景として、昨年の東大・日大闘争をはじめとする学園闘争があり、その思想的波及は労働者大衆のなかに輪をひろげ、その結果として反戦青年委員会の登場となっているのだ。
 そして、“戦後革新勢力”は、その存在の基盤そのものが左右へ引き裂かれつつあり、この過程で自らの存在そのものが、いや応、なく間われることになった。
 社会党−総評指導部の政治的対応における右往左往と、道義的腐敗の根源は、新たな時代への認識を、戦後民主主義体制の今や崩壊しつつある論理に依拠してとりつくろおうとしていることにある。
 われわれにとって危険なことは、これら指導部の誰れの目にも明らかな腐りきった姿を見て手を叩いて喜ぶといった小市民的思想性に陥ることである。この思想性は、観念で戦後民主主義体制を超えても、運動論として超える論理をもたないことの結果としてある。このことは、戦後民主主義体制への単純な反援であり、自然発生的な憤激であり、その限りでは、その体制を超えることはできない。われわれ反戦派の限界は、ここにある。まさに、われわれは、戦後民主主義体制の現象への反撥ではなく、その拠って立つ根拠との対決の思想・運動の論理を実践的につかみとらねばならない。表象とではなく、その“根拠”との対決は、自己の戦後民主主義性との対決を媒介することによって本物となり、プロレタリア大衆を獲得することを可能とするであろう。

“平和革命路線”を超克する思想を

 社会党の“平和革命路線”は戦後民主主義体制の補完物であり、その反映である。戦後民主主議体制は、さきにのべたようにプロレタリア大衆の“半敗北”によって規定されたものでもある
 プロレタリアそれ自体は、自己矛盾的存在である。大工業資本制社会は、その分業体制を精神労働と単純肉体労働への分裂を深化させ、プロレタリア大衆へその全体的組織性を付与してゆく。プロレタリア大衆は、与えられた全体的組織性と労働力商品所有者との自然発生的な解決形態として、労働組合という、労働者階級の団結形態を創出した。しかし、この自然発生的な自己矛盾の解決形態としての労働組合によっては、労働力商品所有者形態=生活者としての自己を表現するに止まり、その限りでブルジョア秩序の限界を突破する人間的普遍性を、その全体的組織性を実現する階級形成の道に立てることはできない。
 ここに労働組合運動の限界を超えてプロレタリア独裁のための大衆的主体の闘争機関としての“労働者評議会”と“革命党”の必然性がある。現代資本主義社会における革命形態は、プルジョア政治意志と対決し、断絶するところのプロレタリア政治意志の貫徹する現代の“二重権力”の基礎として、“労働者評議会”、“ソヴェト”を、現在的に追求することで獲得されるであろう。“革命党”と“労働者評議会”運動は、相互規定性をもった媒介関係によって、プロレタリア大衆の階級形成と国家権力への道を領導する。この過程は、自己矛盾的存在としてのプロレタリア大衆の不断の“自己否定”の過程なのであり、このことを“革命党”と“労働者評議会”運動は媒介する。
 では、いったい、日本社会党は、このような“革命党”でありえたのか。もとより、ありえないことははっきりしている。この党は、プロレタリア大衆の“自己否定”の過程に対して、総評の民同指導部との結合関係のなかで、それを階級形成と国家権カベ向けて不断に媒介することができないばかりでなく、それを組合主義と議会主義路線によって押えてきたのである。つまり、プロレタリア大衆の人間的普遍性と全体的組織性へ向げた戦闘的噴出の巨大なエネルギーを、企業内秩序と議会主義秩序へ集約し、労働力商品所有者としてのプロレタリア大衆の諸要求へ“換金”することをその役割りとして果たしてきたのであった。春闘における総評民同の指導の質とは、この“換金”政策そのものなのだ!
 この路線こそが、社会党の「綱領」と「日本における社会主義への道」を規定している“平和革命路線”なのである。ここに、“平和革命路線”の犯罪性と今日的破産の根拠がある。この“平和革命路線”の破産を、マルクスとレーニンの論文引用によって、“羊頭狗肉”の手品に懸命な社会主義協会向坂派の犯罪性は、徹底的に粉砕されつくさねばならない(注6)。プロレタリア大衆を帝国主義的労働運動と民社への流動を阻止し、その流れを大きく反帝労働運動とプロレタリア革命の方向へ転換させることに成功する過程は、不可避的に“平和革命路線”を主張する犯罪的部分の思想的・実践的粉砕をともなわずにはおかないであろう。
 そして、この過程では、つぎの諸点が明瞭に突き出されなければならない。
 その第一は、“平和共存路線”が現実にヴェトナム革命によって破産しており、真のプロレタリア国際主義が、ゲバラの「第二、第三のヴェトナムを!」という思想においてとらえられ、旧来のスターリン主義の“一国社会主義”路線の根底的な赦判が獲得されなげれぱならないことである。
 第二には“議会制民主主義”擁護のブルジョア思想性を暴きだし、プロレタリア民主主義の実現形態として“二重権力”と“プロレタリア独裁”の思想が獲得され、それが現代革命論としてとらえられることである。
 第三には、第二と直接関連して、労働者階級の実力闘争の思想が、民同のカンパニア主義と議会向けプレッシャー運動を否定するものとして出されることである。ここには、民同の企業秩序是認の上での圧力型労働運動に対して、権力基礎を構築するためには、不可避的に企業秩序としての賃金決定権、労働過程の自主管理、総じて経済権力に手をかけることを大胆になしうる思想性と運動論の確立である。この労働者主体が生産主体として企業内から外の結合へと向い、ブルジョア権力を下から脅かす過程では、経済権力は国家権力と一体となって暴力的支配を上から加えてくることは不可避である。プロレタリアートは、この国家権力の暴力的攻撃に対して、民同・社民の“非武装の平和スト・平和デモ”の破産は明らかとなる。すでに、わが国の六〇年の三池や、今日の沖縄全軍労の闘争などでは、労働者“武装”形態が萌芽的にではあれ、現実のものになっている。この内的論理を唯我主義へ短絡させることなく、プロレタリア闘争の思想性の実現形態として押し出すことである。
 第四の問題は、統一戦線についてである。帝国主義社民の国民戦線、民同左派と社会党中間派・社会主義協会派の社共統一戦線→民主民族統一戦線論を、プロレタリア革命の時代の“反帝プロレタリア統一戦線”によって粉砕し、その論理をうち立てることである。

“ロードス”へ!

 現在、私じしん、社会党の“平和革命路線”のなかで一五年生きてきた者として、現代のプロレタリア革命の入口に立って、まさに“ロードス”へ跳躍しなければならない関頭に立っている。
 その跳躍は“自己の内なる社会党”の告発と、その思想・運動・組織の論理を現実の闘いのなかで、感性的にも血肉化する過程との相互媒介的過程のなかでのみ果たすことができると考えている。それは、社会党内“反戦パージ”を受けた一人の人間として、現実に新しい翼として登場してきた労働者反戦派との大衆的結合の闘いのなかでそのプロレタリア的共同性の獲得の過程に自覚的にかかわりつつ、自己の過去の“ヘソの緒”を主観的にではなく、運動のただなかで断ち切ることで果たしていきたいと思う。


注1 「日本における社会主義への道」という社会党にとっての綱領的文書は「一九六四年の全国大会で採択された。

注2 “道”の「第四章、大衆闘争の意義」

注3 成田知己氏が書記長のとき、党の体質的三大欠陥として、@議員党的性格A労組機関依存B日常活動の不足を指摘し、その克服を訴えた。

注4 社会党中央本都で執行部に公認された書記局員の身分上の諸問題を中心にとりあつかう機関。

注5 「反戦パージを意図する指名解雇粉砕闘争委員会」とは、今回の社会党中央本部書記局の“反戦パージ”という政治的意図をもって指名解雇が行たわれていることに対して闘うため、本部書記局員によって結成された自主的闘争機関のことである。

注6 社会主義協会の機関誌の今年二月号は、徹底的に“道”を右翼的に擁護して、いる。これに対して筆者は、少し詳しく“根拠地”の今年四月号において、その日和見主義を“平和革命論”批判として書いたので参照されたい。


1970年12月刊
『われ一人のリープクネヒトにあらず』所収