社会党34回大会を大衆的実力をもって弾劾せよ!
ブルジョアとの連合政府を準備する大社民党構想を労働者の階級的自立の運動をもって突破せよ!

 すべての革命的社会党員・社会主義青年同盟員そして労働者、農民・学生諸君!
 さる四月の社会党全国大会、その前後にひらかれた社会党東京都本部大会は、反戦・社青同・救援運動と革労協のパージ、さらに日中正統本部と日本婦人会議の右翼的改編をもって、いっさいの大衆運動とそれにかかわる革命的社会党党員に封ずる抑圧・排除を決定しつつ、公然たる帝国主義社民化の第一歩を踏み出した。
 きたる一一月三〇日から三日間の社会党第三四回全国大会は、帝国主義工場制度の改編期に対応するアジア・太平洋圏反革命階級同盟としての七〇年安保の発動をもって、全日本列島を覆って流れる帝国主義ナショナリズムに対して、それに根底的に抗することのできない反帝ナショナリズムの合唱祭として開かれようとしている。そしてこのことは、プロレタリア統一戦線を消さんとする“反独占、反自民の国民戦線”という大社民党をめざした路線を内実とする“新中期路線”のもとに集約されんとするものである
 わがプロレタリア統一戦線は、戦後第二の革命期としての七〇年代階級闘争を、ブルジョアジーが彼らの最後の醜悪な私有財産擁護のファッシズム権力をめざす運動と労働者政府をプロレタリアートの根底的人間解放への衝動を孕んだ二重権力的団結形成=現在的コンミューンとしてのソビエット運動との生死を賭けた闘争として突き出す。この政治社会の相互媒介的運動をもって資本のもとへの労働者階級諸階層の鉄鎖を断ち切りファシズムに勝利する道程は、同時に帝国主義社民を粉粋し、反帝社民・反帝民民(日共)そして小ブル新左翼諸党派のの解体的止揚のそれでもある。
 われわれは、第三四回社会党大会にむけて第一に、労働戦線の帝国主義的再編に対応する近代的大社民党をめざす帝国主義的社民の強化を粉砕し、第二にプロレタリアの二重権力的団結を消しさらんとする点において帝国主義的社民と反帝社民の“統一と団結”を新旧中間層の特殊利害の一致として集約される“新中期路線”を粉砕し、そして第三には、反帝社民の深化に手を貸し同伴する社会主義協会(向坂派)を解体することを、行動をもって、すべての労働者階級人民の前に暴露し、貫徹しきらねばならない!

 [1]

 一一月一五日の沖縄の国政参加選挙は、衆議員五人中三人が“革新”、参議員は“革新”が一位、得票率においても“革新”が自民党を凌駕したとして、社会党・日共・民社で“勝利”の祝杯をあげたが、一方自民党も“勝利”を宣言したのであった。どちらの“勝利”が、一体ほんものなのか?
 この判定の正しきは社共の“沖縄の即時全面返還”路線の本質を見ることではっきりする。なかでも“革新”の屋良主席についてみればより鮮明になる。
 六九年の沖縄全軍労を柱とする沖縄労働者階級派人民の“基地撤去・安保破棄・佐藤内閣打倒”へむけた二・四ゼネストは、米軍民政府・佐藤政府そして総評・同盟の右翼幹部の圧力に屈した屋良主席と当時の亀甲県評議長を中心とする労組指導部の手によって下部労働者の戦闘的エネルギーを抑圧することによって圧殺せしめられたのであった。
 また中城湾域の三ヶ村の労働者農漁民、学生のコンビナート建設反対闘争に対して、屋良主席は、飛鳥田横浜市政の企業との公害協定”を沖縄に持ち込み、コンビナート建設そのものを“平和経済政策”の一環として許容することをもって、反対運動の火を消そうと図った。三ヶ村の人々が屋良主席への陳情におもむき、沖縄行政庁舍に坐り込んだとき、屋良主席は警察機動隊をもって排除したのだ。
 かくのごとく屋良主席に象徴される社共総評などの“返還路線”なるものが実は民族主義的“返還路線”を突破して突き進まんとする労働者階級の独立した運動を押し殺し、また農漁民の資本の破壊的作用に抗するたたかいを抑圧するという本質がはっきりする。
 たしかに“革新”の自民を凌駕する得票率は沖縄県民の米帝と佐藤政府に対する反撥を表現している。
 しかし、佐藤政府は沖縄県民の彼らへの反撥をも計算し、その民族主義的エネルギーをも帝国主義ナショナリズムの流れに呑み込みつつあることに自信をもってのぞんでいる。つまり、昨秋の日米共同声明にもとづく本土・沖縄の一体化は、すでに国政参加の第一歩としての衆参選挙によって軌道に乗ったのであり、その範囲の中ですなわち佐藤政府の手の平の中で部分的反対を唱えようとも、それはむしろ帝国主義ナショナリズム大合唱を左から補完する歌手にすぎないのだ。すでに敷かれた一体化レールのもとで、教育委員会の官選化をはじめとする自衛隊の進駐などの一体化について佐藤政府は自信をもってのぞむことができるとして選挙の“勝利”に祝杯をあげたのである。
 社共の“返還論”はもとより小ブル諸党派の“奪還”論も帝国主義ナショナリズムに対して“基地撒去”“安保破棄”“日帝打倒”など部分的対立点を帝国主義ブルジョア政府に対して反帝ナショナリズムとして押し出すが、しかし結局のところ彼ら“民族主義者”は本土・沖縄を貫くプロレタリアの“沖縄人民解放”への独立した運動によって解体止揚されるか、または帝国主義ナショナリズムに包摂されるかのいづれかの運命に引き裂かれざるをえないであろう。
 日共の“屋良政権”が“民主連合政府”の原型であり、江田論文にいう“革新首長”が社会主義の基礎という小ブルナショナリストの社会的基盤そのものを、本土、沖縄を貫くプロレタリアのコンミューン的団結をもって解体止揚しなければならない。“革新勝利”という幻想を打ち砕かねばならない。社会党大会にむけてこのことを強烈に突き出さねばならない。

 [2]

 この大会で、“新中期路線”という七〇年代闘争に対する社会党の方向が決定されようとしている。
 この“新中期路線”の性格とはまず第一にプロレクリアートの独立した運動、二重権力的団結をもっての運動を消し去らんとする“反独占・反自民の国民戦線”ということであり、第二に、旧“中期路線”において立てられていた「安保廃棄を通告する政府」から「安保廃棄を目ざす政府」へという路線上の大転換を、こともなげにこっそりとやりとげており、このことは旧“中期路線”の中に含まれた社共を中軸にした政権構想から“新中期路線”では、民社党の“段階的な安保の解消”という路線への転換でもあるのである。第三には、以上のことから「新中期路線」を支持する反帝社民として佐々木派・協会(向坂派)は、部分的に江田・議員懇など右派に反撥するのであるが、しかしそれも牙を削り落され、ともに帝国主義社民へ屈服しつつあることを示しているといえよう。
 社会党総体は“新中期路線”の帝国主義社民化への道を開いたものとして染めあげられていることに示されているように、第三四回全国大会は人事においても、そのようなものとして決着づけがなされようとしている。
 このことは、成田と江田の対立は帝国主義社民と牙を抜き去られんとする反帝社民の部分的対立を表現するものだが、根本においては勝間田派の石橋正嗣が書記長に擬せられることについて江田・佐々木ともども反対はしないということのなかに帝国主義社民化の基磯が据えられるということである。石橋正嗣の政治的位置は、かつて葬られたにも拘わらず“新中期路線”において採用された“自衛隊の段階的解消論”の提案者であり、勝間田派が帝国主義社民と反帝社民の中間主義的統合者としての位置があるなかで、その中でも本質的には帝国主義社民化の推進者であろうことをかくすことはできない。
 勝間田派という派閥は、活動家に足をもたない議員グループである。それも東京大学労農派学者人脈(=ブルジョア官僚とパイプをもつ)を協会(向坂派)と共有することから、ブルジョア政府の左からの政策補完者という性格を特徴としている。
 この間のソ連・朝鮮・中国歴訪の成田代表団の舞台まわしは、この石橋正嗣によってなされた。この歴訪の最大の狙いは“社会主義諸国”との交流・パイプをつなぎ太くすることをもって、“国民外交”の指導性を押し出す一方、帝国主義工場制度の破壊的作用に抗するプロレタリアの突撃の牙をたわめ抑圧するところにあった。この“社会主義圏”訪問は、すでに威信を喪失しつつあの社会党の“現実外交”を誇示することを当面の狙いとしつつも、その役割りは、日本ブルジョアジーの資本主義経済のせっぱつまった市場開拓の対象としてのソ連、中国を“国民外交をもって補完するものであった。
 このこととの関連で指摘しておかねばならないことは反帝社民の指導者佐々木更三氏が主唱する“日中国交回復運動への“大連合”についてである。社会党内における“日中大連合”構想そのものは日本ブルジョアジーによって許容された範囲をはみ出るものではない。しかし、中国が中国・朝鮮・南ベトナム解放戦線、カンプチア民族統一戦線の“反米帝・反日本軍国主義連合戦線”の当面の政策として、日本における“日中大連合”を強くつきつけ、それをうけて、日中正統本部の再統一・社会党内左派の“日中大連合”のもとへの総結集として佐々木派、黒田派(安保打破同窓会)、八百板派(農民同志会)の連合が急速に進められている。この動きは単純に党内問題として片づけられない運動として重視しておかねばならない。この反帝ナショナリズムの性格を超えることのない“日中大連合”による運動の限界を止揚しプロレタリアの統一戦線の旗のもとに領導しぬく任務こそ革命的社会党員・社青同同盟員の当面する任務である。

 [3]

 全国の労働者階級人民諸君!
 “新中期路線”の“国民戦線”をもって、社会党は帝国主義社民へのいっそうの深化をとげんとしている。社会党は没落し自己崩壊をとげるのではない。戦後第二の革命期の過程で社会党は全日本の労働者階級、諸階層人民のプロレタリア統一戦線と、それに敵対する帝国主義社民へと二極分解し新たに産み直され改編されるのだ。
 われわれはプロレタリア統一戦線の旗のもと帝国主義社民への転化を許さない永続的分派闘争を闘い抜く。
 われわれは七二年“沖縄返還”への帝国主義ナショナリズムに抗する沖縄・本土を貫くプロレタリア人民の二重権力的団結をもって帝国主義社民を粉粋し、反帝社民を止揚する闘争の過程をくぐることをもって社青同の全国的再建をかちとり、革命的労働者党への萌芽を突き出すであろう。
 当面する第三四回全国大会に対して、すべての労働者階級人民の運動を突き出し、帝国主義社民化を許さぬ決意をもって、総結集しようではないか!


プロレタリアの戦闘宣言

 革労協社会党委員会

 今、一つの共同性に死が宣告され、その革命的解体再編の闘いが窒息させられんとする危機にひんしている。亡霊による生きて発展する新たな団結への戒厳的敵対が反戦、革労協排除「鉄前衛団ヘの協会派社青同の育成の姿を取って「疎外された改良の党]の官僚的完成に向おうとしている。
 昨秋の佐藤訪米、日米共同声明路線の発動に手をかすことによって帝国の支柱になりあがった帝国主義社民は、右翼解党主義的恫喝をもって、大会代議員の多数派である「左派党官僚]をして組織排除の「政治判断]を断行せしめたが、これに公然と敵対した十二名の革命的党員に対する〈除名〉を決定し、日本社会党東京都活動家党員会議(都活)世話人、都活代議員代表比留間長一氏への一年間の党員権停止、目黒総支部の組織解散を決定、東京都本部の七名の書記局員の解雇を三カ月の党員権停止をもって正当化せんとしている。これに抗する革命的党員の闘いは六カ月に及ぶ、都本部書記局占拠の闘い、十一総支部六十支部におよび公然たる右傾化阻止、機関正常化の闘いによって、機動隊導入によってしか断行され得なかった都本部大会によって選出されたと称する自称執行委員会は、三度にわたって書記局を移転し、ついに今日に至るも規約上の合法的手続による議決機閥を開催し得ない状況にある。
 かかる二重権力的状況の暴力的解決形態たる総支部解体はその第一弾において阻まれ遂行し得ずにいる。
 われわれは、一一月一一日、規約上の最終的手続である“除名無効”の大会提訴を行った。もとより除名を恐れてプロレタリア自立運動を党官僚に売り渡すものではないが、「社民からの革命的脱出(ノラの家出)」をもって、ますます帝国主義社民へと完成されつつある社会党の革命的解体再編を放棄するものではない! あくまでも排除、分離、敵対的打ち固めを許すものではない! 社会党が社会主義の党、労働者の党を僭称する限りいかなる困難に直面しようとも解体再編されつくされねばならない。
 確かにプロレタリア階級の独立の党の形成のために闘っているわれわれの運動は、現在直下に「党を創出したい」と言う衝動を孕んで前進しているが、分裂期の、従って社民内分派闘争の最終局面にあってなおも分離即立党の安易な道を拒否するものである。歴史的に存在するすべての事実は産み出されるべくして産み出されなくてはならない。プロレタリア自立運動の第二期の課題は革命的労働者党の創設とソヴエト建設を社青同の革命的再建、都活、全活の革命的強化を、文字通りプロレタリアの開かれた事業として貫徹し抜き、文字通り闘う労働者、人民によって大衆的に産み出そうとするが故に一切の小ブル諸党派の革命的解体、即ち社民内分派闘争を通しての、日本共産党の内部に生み出されては消されて行く真の反スタ集団の包摂、小ブル諸党派に対する非妥協的な党派闘争を貫徹し抜くであろう。
 帝国主義社民の排除攻撃に公然と手を貸す社会主義協会および隠然とこれに手を貸し、プロレタリア自立運動に恐怖して醜悪なブロックを構成しつつある社民内中間主義諸集団(自称新左翼のいずれかとブロックを組んでいる)および自称他称のトロツキスト諸潮流の寄ってたかっての敵対の前に、プロレタリアートの鉄槌を打ちおろさずにはいないであろう。
 孤立無縁の闘いとさえ見える闘いのうちにプロレタリアートは真の戦力を見い出し結合させずにはおかないであろう。
 帝国主義社民粉砕!
 新中期路線粉砕!
 帝国主義社民に同伴する社会主義協会(向坂派)解体!


1970年11月26日付
『解放』号外1面より