日本社会党分裂期に突入
今こそ、二極分裂を通して、三傾向を止揚せよ!

 「統一地方選挙と参院選の勝利」のみが遮眼のドライバーたちのスローガンであり、沖縄、入管、叛軍、公害・労災については論議さえもろくろくなされなかったのが、帝国主義社民がその同伴者を物理力とし国家権力に庇護されながら終了した第三四回社会党大会であった。左右激突・左派の勝利と喧伝されながら、革命的党員と労働者階級に対するいかなる敵対者として再編されようとしているのか? 今こそ注目し弾劾し労働者自身による労働者の党へ! 巨大な前進の時が告示された。

一、帝国主義社民の完成=三分派への凝縮過程の開始

 一一月三〇日から東京九段で開催された第34回社会党大会は、新中期路線を歩む成田=石橋ラインの成立をもって、即ち中間派によって醜悪にまとめあげられた“改良主義の戦闘化”をもって衰退からの出口をもとめて、逆に一層の分解への泥沼にはまりこむ“死出の旅路”を歩むものとなった。ブルジョア議会制独裁の爛熟と劇的転落の過程−革命かファシズムかが問われる時期への突入を前にして、日本のワイマール時代を夢想する社会主義協会向坂派は全盛期(左社の再生)を迎えつつあるとして、その時期にこそ歴史的使命を完全に終らせてしまうほどの限界を露呈するであろうことにまったく無自覚に勝利を謳歌し、わが革労協のみならず全党から革命的党員を締め出して、自からを「左派」として居直り、党官僚の戒厳令をもって政治過程にその歪小な頭角を現わさんとしている。即ち党規律のお説教的かきたてと革命的党員に対する宗派的敵対、かくして「左派のポール」を傷だらけの栄光として打ちたてんとしているのだ! 佐々木派の分解・凋落と共に、勝間田派の再建懇からの離脱は、一方で右派四派の合体化を推進し、他方、安打同、労農同志会(内実は協会太田派)の独立社民化を一層深化させるものとして進行するであろう、結局佐々木派の分解は、旧左社勢力の二分解に対する対応力の喪失、即ち石橋書記長の実現をもって左右激突を引伸ばそうとする中間主義的対応が、逆に本命中間主義勝間田派の集約によって破産せしめられたのだ。まさしく自からの筋書によって、左右の「両極」に引寄せようとする力に引きちぎられる過程に入ったことを示すものである。
 沖縄返還協定をめぐる階級決戦を間にはさんで労働四団体(総評中立労連、新産別、同盟)の協議体発足、すでに予測される社会党の参院選の大敗北後の71年七月以降の戦後革新勢力と革新諸組織の本格的再編完成期に向って、第34回社会党大会は、鋭く情勢を反映しつつ弛緩した動きのうちに、諸派閥を三つの分派へと凝固させつつある。

二、進行する労働運動の二極化と分派闘争の現局面

 われわれはすでに四月の第33回大会にあたって〈社会党の二極分裂を通して三傾向を革命的に止揚せよ〉のスローガンを掲げた。IMFJCを基軸とした帝国主義労働運動の統一と反戦派の歴史的登場はまさしく総評民同を含めた社会党的政治勢力を右から分解せしめるものとして進行したが「少数過激派」に対する密集した敵対をあえて出現せしめることを通して密集した筈の敵対者の内部に亀裂を進行させてきたのである。敵対者をして敵対者たらしめることを通してしか、即ち「革命的戦術を通してしか、多数者を獲得し得ない」ことをこの間の過程は如実に示している。
 一九六九年九月一日わが革労協の登場は、「沖縄返還交渉のための訪米を実力で阻止することは選挙に悪影響する」として帝国主義ナショナリズムに包摂されて行く社会党の革命的解体再編の公然たる進撃を意味していたのである。行動委員会運動の発展を通して一歩一歩階級として自立しつつある労働者階級が、スト実連合を軸とするスト実共闘を産み出し工場からの反乱を爆発的推進力とするラジカルな労働者政治闘争として10・11月闘争を敵権力と民同社民の闘争圧殺に抗し、その推進力を死を賭した肉体に決意主義的主体に切りつめる小ブル諸党派の脱走兵的反乱と区別された巨人の如く結合された団結の発展を力として血みどろの前進を開始したのであった。党中央は、自らデモコースを申請した羽田現地闘争の圧殺と同時に「反戦排除」を最終的に決意した。また、スト実運動に恐怖する東京地評のIMFJCグル−プと協会向坂派は実にわが革労協結成から句日を待たず東京都本部に理論委員会を発足させた。一二月総選挙に敗北するや、協会向坂派は右からの東京社研の分裂を策して、根岸事務局長(革同派)を引きおろし、こうして六日会と東京活動者党員会議への底流が重たく流出し、四月党大会において爆発するのである。第33回党大会を前にして強行された東京都本部大会はついに我々の実力弾劾の前に流会し「プロレタリア六団体声明」はまさに敵対者をして密集した敵対者たらしめた。東京におけるIMFJCグループと六日会(向坂派)のブロック化−一切の幻想をはぎ取られた「反労働者党」への下への反帝社民の敗走としての新中期路線の推進者成田=石橋ラインへと向わしめたのである。まさしく方針の対立が解消せしめられて人事のみ激突する(運動方針に満場一致で採択)社会党ならではの野合は、実に「挙党一致」の完成に見えながら、総体を帝国主義社民へと引きずって行こうとすればするほど相対的にはそれと対決をする「左派」を産み出さざるを得ず、他方「左派」もまた対抗関係から産み落されたに過ぎない社民内左派の限界を突破し得ないが故に、極少数派になることを躊躇せざるを得ず「踏みとどまりつつ鋭く対立する」分裂期の第二段階への突入を示している。こうした状況を背景に協会向坂派は「マルクス主義中央派」をめざし党内では成田派として登場し、諸派内に分散寄生していた分子を含めて中執の実に四割を占めるに至った。

三、帝国主義社民の最後の傭兵(=協会向坂派)を反革命突撃隊として完成せしめ、プロレタリア統一戦線の巨大な構築を持って粉砕せよ!

 第34回党大会は、革命的党員に対する醜悪な宗派的敵対によって「防衛」され、まさしく中間派ブロックの中執制圧をもって終了した。それは帝国主義社民の完成にふさわしい光景としてあったのである。一三人委員会の正常な議事手続によってなされた除名撤回の大会提訴は、分裂期の端緒を鋭く突きつけまさに全代議員の政治的態度をリトマス試験紙のように映し出すものであったが故に、大会で審議されることすらなく議運で却下されたのである。
 大会第二日目、大会提訴に伴う諸確認の行動に向った代表団五名に対し「除名の確認と過激派の抗議」なるものを浮き彫りにせんとする醜悪な白色テロをもって応えた向坂派の宗派自警団は、その直接の行為自体の反労働者性のみならず、その後彼らがその正当化のためにあえて行った狂気の蛮行によってはっきりと反革命への泥沼に自から一歩一歩はまり込んで行くことを予示するところとなった。
 大会終了時点における「永続弾劾宣言」に対して自からの道義的自壊からの出口を、報復主義と、「大会破壊分子に対する大衆的自己批判要求の仮装」で演出すべく前日のリンチですでに尾蹄骨骨折という傷を受けているS同志を、泥棒呼ばわりで喫茶点からボーイの手をかりて外に出し、デモ隊で運びさる過程で目かくししさらなるリンチを加えた。わがプロレタリア統一戦線の断乎たる部分であることを熟知しつつ「人質」として取扱うなど、悪質極まりない挑戦をあえて行うに至ったのである。即ちますます分裂状況への底流が深化していることを特徴づける中央派の登場とその親衛隊による敵対は、逃亡者による全国社青同の居直り=単独大会ヘの準備、全戦線での宗派的武装敵対の開始を示すものとして、一片の自己批判にとって免罪され得るものではない。われわれは彼等が大会警備団であると居直り「社青同」の行動と強弁しようとも、労働官僚に寄生する吸血鬼、帝国主義社民の醜悪な手先である、宗派向坂派の組織的解体へと容赦なく発展させて行くだろう。
 労働者がその階級的自立のために汲みつくし、止揚すベき労働者政治組織としての社会主義協会はすでに新中期路線を推進する成田=石橋ラインの成立に手を貸すことによって〈死に至る病〉に落ち込んだのである。
 鉄槌は打ちおろされねばならぬ武装敵対を恒常的に撃退せよ! 労働者の自立への宿敵との激烈な闘争が開始された。直接には宗派が襲ってくるという外観をとりながら社民・民同の総体の重圧をかさにきた親衛隊の突撃であるだけに、その撃退の基本構造はプロレタリア自立運動の自衛と発展を通した革命的労働者党に向っての前進と不可分に結びついている。
 都活の革命的純化と全活の再生、全国社青同からの協会派の放遂と第三期社青同への革命的建設を両軸として都労活、全労活の推進をもって、勝利の陣形を構築せよ!


1970年11月15日・12月1日付
『解放』63号1面より