社会党三四回大会に対する闘いの総括と当面する分派闘争の方針

革労協社会党委員会

 われわれは、一一月三〇日から三日間、東京の九段会館においてひらかれた日本社会党第三四回全国大会に向けて“除名処分”を受けた一三人委員会を前面に押し立てつつ、プロレタリア統一戦線の内実を突き出して闘いぬいた。
 この社会党全国大会に向けての、われわれの獲得目標は“大衆的実力をもって帝国主義社民、新中期路線、そして帝国主義社民に同伴する社会主義協会(向坂派)を弾劾し暴露する”ということであった。われわれは、この闘いによって、わがプロレタリア統一戦線のみが、他のいっさいの小ブル“革命”派をこえて、戦後二五年、社会党・総評に集約させられてきた日本プロレタリアートの歴史的継承を問題にしつつ前進する部隊であることを鮮明につき出したのである。
 三島由紀夫事件が予示したファッシズムに対して根底的に対決し抜くプロレタリア統一戦線は、同時的に帝国主義社民との同伴者小ブルどもを弾劾し暴露し解体する作業を断固として押し進めるものであることを宣言した。
 闘いは始っているのである。その火蓋は切って落されたのである。
 帝国主義工場制度の破壊的作用に抗して闘いぬいているすべての労働者階級・人民は、この大道に合流せよ! このコンミューン的共同性をもっての現在直下のたたかいに結集せよ!

(1)なぜ分派閥争を闘い抜くのか

 われわれは、社会党第三四回大会が、帝国主義社民へより強化をとげんとするものであることをくり返し明らかにしてきた。
 この大会は江田と成田の対立が左右のそれであるという外観をとりつつも、実は、七〇年安保の発動をもって帝国主義ブルジョア政府のヘゲモニーのもと怒涛の進撃を開始した帝国主義ナショナリズムに対して、それを左から補完する、牙を抜き去られた“反帝ナショナリズム”の合唱祭であった。
 この合唱の楽譜は“新中期路線”という社会党の七〇年代路線である。“新中期路線”とは「安保廃棄を“めざす”政府」という民社党・公明党の“安保の段階的解消論”と“自衛隊の段階的解消論”を基軸とする“反自民・反独占の国民戦線”というものである。
 この楽譜のおもな作曲者は、ブルジョア政府の政策補完者としての勝間田派であり、その指揮棒をめぐって江田と成田か争ったというわけである。
 われわれは“統制処分”を受けた一三人委員会のメンバーを前面に押し立てながら、過去一〇年にわたる社会党・社青同を貫く分派闘争を、この全国大会に凝縮してつきだした。この分派闘争は、昨秋の佐藤訪米阻止闘争から今年の六月安保決戦の過程においてつき出した“コンミューンとしてのソビエット運動”の萌芽に媒介されたものでなければならなかった。
 われわれの“分派闘争”とはこのようなものであり“社共総評を越えた”と観念の中で思いこむことはできても、現実の労働運動・政治運動のなかでは越えたはずの“社共総評”のぶ厚い壁の前に立ちすくむ小ブル諸党派の諸君にとっては多分理解の外にあるかもしれない。
 民間労組の指導部を中心とするIMF・JC、全民懇などの“帝国主義労働運動”に部分的に対立しつつも、それに引き寄せられつつ左から補完する“民同左派”は、社会党員協議会というフラクションで意志統一をはかりつつ、労組機関を操作し、下層プロレタリアートの“行動委員会運動”をもっての“二重権力的団結”を押しつぶす過程が過去も現在も進行していることは、運動に真面目にかかわっている者ならだれでも経験していることだ。
 民同右派の共同利害は帝国主義社民へ、民同左派のそれは反帝社民ヘ、それぞれ政治的表現をとる。
 戦後二十五年にわたる日本プロレタリアートの圧倒的多数は、これら民同左右両派と社会党の議会主義的・組合主義的な桎桔のもとに捕捉されてきたのである。
 今や、わが国のプロレタリアートは、帝国主義工場制度の改編とアジア・太平洋間のプロレタリア人民の抑圧のための同盟であり、反革命階級同盟としての七〇年安保発動のもと、ブルジョア反革命=ファッシズムに屈服するか、さもなくばプロレタリアの自立した政治・社会運動の相互媒介的同時的推進をもって帝国主義ブルジョア政府を打倒し、労働者政府を樹立するところの労働者革命を成しとげるかどうかということが問われるにいたった。
 帝国主義社民は急速にブルジョア反革命の伴奏者として登場し、フロレタリアートに対する公然たる敵対者として立ち現われるのである。
 このドラスチックな改編期は戦後第二の革命期でもある。
 われわれは、この戦後第二の革命期にあって帝国主義社民・反帝社民との分派闘争の最終局面に入ったのであり、まぎれもなく分裂期に突入したという観点に立っている。
 この分裂期における分派闘争では社会主義協会(向坂派)のような帝国主義社民に同伴し埋没する部分を解体止揚し、他方、小ブル諸党派の諸君のような帝国主義社民の登場に“無縁”と思いこんだり、利用できないからということで、一〇年にもおよぶ“加入戦術”を放棄して“飛び出す”路線のプロレタリア大衆に対する無責任さとその破産を暴露しなければならない。
 結局のところ、これら小ブル右翼も左翼も、ともにプロレタリアートの、総じて人間の歴史的社会的な現実性を問題にすることのできない観念左翼であることを自己暴露しているのである。
 われわれは、日本プロレタリアートの歴史的継承性をわれらの総路線の基軸に据えつけて闘いぬいてきている。ここにこそ、われわれを“社民”と呼ぼうとも、そのような小ブルの疎外されっぱなしの観念的批判を寄せつけない頑強さをもった歴史的正当性があるのだ。
 帝国主義社民と反帝社民の合唱祭に、それと根底から切り結ぶプロレタリア統一戦線の内実をもって突き出したわれわれの闘いは、この社会党全国大会における鮮明な三分解−帝国主義社民としての江田派・議員懇・河上派、反帝社民としての佐々木派の一部・協会向坂派・成田派などの“中央派=カウツキー派”、そして安保打破同志会・農民同志余・協会太田派などの“独立社民派”−を浮び上がらせた。とりわけ、特徴的なことは佐々木派を中心とする左派連合の分解過程で“独立社民派”を生み出しつつあるということだ。
 戦後第二の第命期、社会党の分裂期は、われわれの突きつけた鋭い刃の前にそのあらわな実体をもって激動しはじめたのだ。

(2)大会における鮮明な三分解

 この大会の最終日の役員選挙に現われた票の分析は、ほぼつぎのような三分解の傾向性を示している(この数字は大まかなものであり二、三票の誤差はありうる)。総数三八三票のうち“中央派”は成田が獲得した二〇七票である。その構成は佐々木派一三〇、勝間田派三O、成田派四〇の合計二〇〇に若干プラスされている。
 “帝国主義社民派”は江田が獲得した一四八票である。その構成は江田派一〇〇、河上派三〇、山本派一〇の合計一四〇に若干プラスされている。
 “独立社民派”は大会第二日目に、それまでの佐々木派との左派連合を割って独自の動きに転換した安保打破同志会=日中正統本部派二五、農民同志会一〇、協会太田派五の合計四〇票であろう。
 成田と江田のキャスティングボートを握ったのは勝間田派の三〇である。この三〇が江田に変れば江田と成田はほぼ同数で一、二票の差で勝敗が決るということになる。
 注目すべきは、石橋正嗣が獲得した二三二票の中には、江田派の約半数五〇が投入されており、他の半数が議員懇の松本七郎に投票されているということだ。このことは、石橋が佐々木派に支持されたと同時に江田派からも支持されていることを示しているということである。もとより、成田派四〇の中で最も多い協会(向坂派)もこの石橋を支持しているのである。
 ここに帝国主義社民に同伴する佐々木派・協会(向坂派)の転落ぶりを見ることかできる。
 石橋正嗣は、すでにこれまで明らかにしておいたように帝国主義社民そのものなのだ。石橋こそ自衛隊の段階的解消論の提唱者であり“新中期路線”の実質的な推進者である。石橋は勝間田派の中でも江田に最も近い関係にあり、成田を頂点とする“中央派”になりきれるものではない。今後、江田に引き寄せられつつ江田の路線を巧妙に推進するであろう。したがって“中央派”とは、石橋は部分的な対立をせざるをえない傾向を孕んでいるとも言える。
 同時に、この石橋は、来春の選挙時のイニシアティブを握り“中央派”をも包摂しつつ帝国主義社民へ総体として領導するうえで重要な役割りを果す可能性をもっているということもいえる。
 この大会後、江田、山本、河上の議員懇グループは来春の地方選・参院選の敗北を見越し、そのあと社会党の混乱と分裂を不可避と見て、大社民党構想の具体的な準備に入った。当面、若干の議員と下部との矛盾を孕んで進むであろうが、結局のところ議員と“革新”首長の強力なイニシアティブで急速な“野党連合”構想とヨーロッパ型の大社民党構想が二重化された形で進められるであろう。
 さし当り東京都知事選挙にむけて江田らは公明・民社との共闘を推進しようとし“中央派”は社共共闘を中軸に据えようとすることで対立をはらみつつ、結局のところ石橋=勝間田派の中間主義的集約で“野党連合”と“社共共闘”の同時的展開が進められてゆくであろう。このことは、今日の日共の右翼的転換の動きから見て成立する可能性が強い。
 帝国主義労働運動と同じように大社民党構想に対しては、帝国主義ブルジョアジーの強力なバックアップがあることははっきりしている。“中央派”をも含んだ社会党の右翼的再編=帝国主義社民化は、繊維、家電、自動車、鉄綱など日本資本主義の心臓部における危機が迫りつつある今日、日帝ブルジョア政府にとって死活の問題としてとらえられるに至っている。
 “中央派”基盤を狙わんとする協会(向坂派)は、江田らの大社民党構想に部分的に反撥しつつ“独自の党”を構想しつつある。前総評事務局長の岩井章などは、この構想のもと民同の下部を協会(向坂派)で打ち固めるべく以前にもまして全国オルグに余念がない。
 岩井の出身単産の国労はその拠点であるが、しかし国鉄十六万五千人首切り合理化に対しては“基本要求先行解決”という名の根底的には合理化に対決しない、いわば全逓の上の山大会で採択された合理化に実質的に協力しつつ物取り的に集約する方針で進められているのだ。したがって協会(向坂派)は民同の下部の打ち固めを、職場の反合闘争と政治闘争の結合ではなく“学習会”でしこしこやりながら闘わない組織づくりに余念がないという有様だ。そして、下から根底的に反合闘争・政治闘争を闘わんとして登場する部分に対してだけには、日共と手を結んでトロツキストキャンペーンを張りながら抑圧することには極めて敏感に対応している。
 “中央派”の反階級的本質とはこのようなものなのだ。

(3)醜悪な“中央派”と“向坂派”の連合を解体せよ

 “中央派”のなかでも協会(向坂派)系の執行委員は、二三名の中央執行委員会のうち六名であり今までと比較して飛躍的に増加していることに注目する必要がある。
 協会(向坂派)は代議員数からいえば約三〇前後の少数派にすぎない。しかし成田をかつぎ、佐々木派と勝間田派にまたがって加入戦術をとりながら“中央派”づくりで一定の役割を果たしているのだ。
 彼らは、今春の全国大会における“反戦・革労協”パージの推進者として“功名”をあげた。そして、同時に、彼らの“平和革命路線”という議会主義・組合主義において、その本質において変化はないにも拘らず、急速にその形態変化を遂げはじめたことに注意しなければならない。
 その第一は“平和革命路線”を擁護すると称して、宗派的打ち固めに全力をあげはじめたことである。とりあけ、宗派的な“武装”方針をとりはじめ、それなりの訓練を蓄積しはじめたということである。
 彼らの“武装”の性格は、国家権力とは対決しないというものだ。誰れにその鉾先は向けられるかと言えば、それはプロレタリアートの“コミューン的=二重権力的団結”に対してのみである。
 なぜならば、彼らが擁護すべきものは、議会主義と組合主義であり、より実体的に言うならば、社会党の議員団・首長と民同幹部の利害なのだからだ。さきに指摘したように、今日の帝国主義工場制度の破壊的作用に根底的に対決することを避けて生き延びようとする岩井章に代表される民同秩序、社民秩序はその基盤が音を立てて崩れつつあり、改編されつつある。この改編過程を学習会と現実の重たい状況を右翼的に利用しつつそれを突破せんとする部分を抑圧することをもって宗派的に打ち固め醜悪な組織拡大と自己保存をはかるのである。
 昨秋の佐藤訪米阻止闘争のさい一一・一七早朝の六郷土手結集とデモに白ヘル部隊約一五〇で参加した彼らは、その前夜指導部の間で参加の可否をめぐって対立があった。それというのむ民同R幹部の圧力があったためだといわれている。しかし、彼らはこの行動に参加することに落ち着いたのだがその行動形態は“絶対に機動隊と衝突しない”という条件つきであった。
 あの六郷土手の非合法となったデモのなかで、社会党系の反安保実行委の部隊、協会(太田派)の部隊までが機動隊との衝突を闘い抜いたにも拘らず。
 ところが、彼ら協会(向坂派)は、警察機動隊の攻撃を受けようとする際、白ヘルを投げ出し散を乱し逃げまどったのであった。さらに、逃げ遅れ逮捕された部分に対しては“黙秘”の指導をせず早く出るために口を開くように指導したのであった。この事実は、当時白ヘル部隊の中に彼らの物理力として参加していた若い活動家が、この協会(向坂派)の権力に対する態度に批判的となり、わがプロ統の陣列に参加したことによって明らかにされたのだ。
 第二に、彼らの“武装”の質とはどのような内実をもったものであろうか。彼らの“武装”は民同と社民の擁護ということから、不可避的に民同・社民の物理力としてのそれでしかないということである。
 したがって、彼らの“武装”は警察機動隊と同じ質の団結形態にほかならない。つまりプロレタリアートの自立した諸個人のコミューン的団結では絶対にあり得ず、指導部の大小官僚の恫喝によってようやく打ち固められた部隊でしかない。
 この全国大会で物理力として動員された彼らに対して、一三人委員会の数人が堂々と弾劾と暴露のアジテーションに対して彼らはまともな反論一つできない。弾劾の過程で白ヘルの一人一人に対して“君は新中期路線を支持するのか反対するのか!”と質問を浴びせれば、彼らはそれについて何も知らないため答えられないという有様であった。
 さらにまた、白ヘルの指導者である自治労の協会(向坂派)の一人に対して、君は入管についてどう闘っているのだ?”と問いつめたら、彼は入管の内容について、とりわけ自治体労働者との関連について何もやっていないし、知らないのである。入管の密告制度は自治体労働者に対しても直接的に抑圧的機能をもって立ち現われてくるというのに!
 第三に、彼らは、表面では“平和革命”ということで、きれいごとを並べたてるが、その裏では平気で嘘をでっち上げ、さらに大衆の道義性にもとづく“武装”ではなく、革マル派と同じような陰惨なテロ・リンチを行うのである。それも政治的判断をもたないものであるため、暴力団のヤクザと同じく個人的な感情をむき出しにして、無茶苦茶なテロ・リンチを行うことになる。
 大会第二日目の午前中、一三人委員会の代表五人は“除名処分粉砕”のタスキをかけて、前日と同じように“大会提訴”のとり扱いと内容について聞きただす一方、この大会を弾劾すべく大会場におもむいた、会場の道路に面した鉄柵にわれわれが着くや否や白ヘル部隊の指揮をとっていた三多摩のTは、われわれ五人を一五〇人の白ヘル部隊の中に連れこませ、約二〇分にわたって集団的なテロ・リンチを加えたのであった。
 われわれは、このテロ・リンチのあと警察の私服の“傷害事件として告訴せよ”という誘いに対して“お前らに関係ない!”と言ってはねのけた。そればかりではない。われわれのテロ・リンチを受ける様子を見ていた新聞記者に対しても、われわれの口からその内容を明らかにすることを差し控えたのである。なぜならこのテロ・リンチは、われわれの階級闘争の内部における、分派闘争の過程における問題なのであり、われわれの大衆的実力をもって粉砕しなければならない性質のものであるという判断があったからにほかならない。
 われわれは、かつて社青同東京地本大会における問題を協会(向坂派)の向坂逸郎その人が敵権力にわれわれを売り渡そうとした態度とはきっぱりと異った態度をとったのである。、
 このようなわれわれの態度を良いことにして、さらに翌第三日目、大会終了に向けて会場外から約二〇名の一三人委員会を先頭にした弾劾集会のあと、一五〇名白ヘルはパイプと長尺の棒をもって丸腰のわれわれに攻撃をしかけてきたわれわれは素手をもって彼らと渡り会い撃退したが、その後喫茶店にいた一三人委員会の同志Sをその店から暴力的に連れ出し、午後七時頃から九時半頃まで同志Sにテロ・リンチを加え、その結果肋骨一本と尾骨を骨折させ、肋骨一一本と足首骨にヒビを与え、脚のももに挫創の重傷を与えたのである。
 しかも、このようなテロ・リンチがマス・コミ紙上で報道されるに及び、驚いた彼らは『社会新報』紙上において厚顔にもこの事実を否定する内容を発表しているのである。その内容は「テロ・リンチの事実はなかった。新聞記者にテロ・リンチを加えられたとデッチ上げをやったのは彼らの策謀だ。マスコミの嘘の発表にだまされてはならない」という趣旨のものだ。
 この厚顔な事実の隠蔽は、現実にこのテロ・リンチを行った部分の良心を自ら偽り、大衆をもだまし通そうとするものだ。
 さらに指摘しておかねばならないことは、彼らの“武装”についてである。もし、われわれか彼らと同じ“武装”をしたら、警察機動隊は直ちに“凶器準備集合罪”をもって襲いかかるだろう。ところが、彼らは敵権力の見ている前で、公然と棍棒・鉄パイプを振りかざしたにも拘らず、権力は何ら手を下ろそうとしなかった。このことの中に彼らの権力との“なれ合い”が成立していることの事実が証明されているのだ。
 このような彼らの腐敗堕落ぶりは、われわれとプロレタリアートの大衆的実力をもって一大鉄槌を加えられ、解体されつくされなければならない。われわれは、そうせずにはおかないだろう。

(4)「青年のエネルギーを利用する」という成田

 われわれは、一三人委員会を先頭に押し立てつつ、全国大会の前段の二八日から最終日の十二月二日に至る過程に、わがプロレタリア統一戦線の凝縮された力をもって“帝国主義社民粉砕! 新中期路線粉砕! 帝国主義社民に同伴する社会主義協会(向坂派)解体!”を大衆的実力をもって暴露するたたかいをたたかい抜いたのである。
 まず十一月二八日の午後三時〜六時に、東京都下数寄屋橋交叉点において無届けの街頭演説会をひらき、同時に号外の立ち売りを行った。
 われわれは、これをもって公然たる大衆宣伝を開始したのであり今後もますますその量と範囲を拡げて登場するであろう。
 この街頭演説会は、入管法上提阻止の署名を行っていたビク卜リア氏ともののべなかおき氏などベ平連の諸君との連帯の行動となり最後にわれわれ一三人委員会メンバーと彼らとのスクラムを組んでの“インターナショナル”の合唱をやりとげたのであった。これに対して多数の聴衆が見守り賛意を表明していた。
 翌二九日は、一三人委員会とプロ統の革命的社会党員の約四〇名が、社会文化会館の三階で行われていた、「全国代表者会議」の会場に突入し、成田委員長を捕捉して一階ロビーの浅沼銅像前に立たしめ、午後一時五〇分から四時五分の間、徹底的な弾劾集会を実現したのである。
 この弾劾集会において、成田委員長は「諸君のような集団暴力に対しては何も答えない」と言いつつも「諸君は少数で孤立している。諸君こそ反革命分子だ」、反戦パージをやった理由は何か、という問いに対して「青年のエネルギーは利用できれば利用するが、そうでなければ連帯しない」といい出してしまったのである。
 この“中央派”の指導者、成田知巳の小ブル社会主義者としての「青年のエネルギーを利用し」プロレタリアートを利用するイデオロギーが、ここでいかんなく暴露されてしまったのであった。
 大会第一日目の一一月三〇日には一三人委を先頭に全国大会会場の前庭において白ヘル一五〇を前に徹底した弾劾と暴露を展開した。
 さらに夜、清水谷公園における“帝国主義社民粉砕総決起集会”と九段会館にむけた一千余の大衆的デモンストレーションをくりひろげた。
 大会第二日=一二月一日は、さきの白ヘル一五〇の一三人委代表五名に対するテロ・リンチが行われたが、その五人はテロ・リンチの過程と直後にあっても公然と弾劾の声を止めはしなかった。そしてテロ・リンチのあと大会運営委員長の米田東吾は、警備担当中執の高沢寅男と伊藤英治を伴って場外に押し出されていた一三人委代表のところにやって来、右手に持った紙切れに書き込まれた文章を読みあげるようにしつつつぎのように言った。「諸君の中央統制委員会の除名処分を不当とする大会提訴は、昨日午後七時半ごろ大会で却下されました」と。この「通告」に対して明確な説明を要求し追及したが、白ヘルに伴われた米田運営委員長は逃げるようにして立ち去った。さらに、われわれはテロ・リンチの責任を高沢中執に問うたが彼は一言も声を発することもなく白ヘルに伴われ逃げ去った。
 その夜、テロ・リンチに憤激した青ヘル約五〇名は緊急弾劾行動を起し、九段会館におもむいた。その時一五〇の白ヘルは会館内に居たにも拘らず一人も顔を出そうともしなかった。あとでわかったことだが、この時白ヘルは会場内の党員にテロ・リンチを加えていたのである。
 最終日の一二月二日、一三人委を先頭とする約二〇名の党員は、大会会場に行き、鉄柵をはさんで白ヘルと対峙した。そしてわれわれは白ヘルを対象に弾劾と暴露をくりひろげた。
 われわれの連日の弾劾行動におびえおののく党執行部は、かつての大会の慣例を破って夕刻六時頃には議事を済ませた。最終日は選挙をともなったものであるから、いつもなら夜一一時、一二時までかかるのであるが、この日は午後五時半頃には一切の議事を終らしてしまうほど、彼らはわれわれの出現に恐れおののいていたのだ。
 一三人委を先頭とする青ヘル部隊約四〇人、大会終了時に向けて会場柵近くで弾劾集会を開いた。この集会が終り、われわれが帰途につき会場を背にし横断歩道を渡ろうとしているとき、白ヘル一五〇はわれわれに攻撃をかけてきたのであった。そして彼らを撃退し終ったあと、わが同志Sに対するテロ・リンチが加えられたのである。

(5)革命的労働者党の建設へ邁進せよ

 一方、六時からは“都活”中心の集会をひらき、帝国主義社民化粉砕の意志確認を行った。
 われわれのこの全国大会における帝国主義社民化粉砕の闘いは、社会党の改編過程を急速に押しすすめた。
 われわれは、社会党の三分解をさらに二極分解へ押し進めなければならない。
 われわれのプロレタリア統一戦線の内実をもっての永続的な分派闘争は、帝国主義社民の密集をつくり出しつつ、中間派としての“中央派”の分解を促進することになろう。
 安保打破同志会を中心とする“独立社民”は、成田・佐々木の“日中大連合”に伴奏するか、それとも独自牲をもってプロレタリア統一戦線との共同闘争をもって進むかの重大な岐路に立たされるに至った。この“独立社民”派はまだ流動的である。
 われわれは、この流動的な“独立社民”派との共同闘争を大胆に推進しなけれげならない。
 われわれは、この全国大会にむけた一三人委を先頭とした闘いの総括と“革命的労働者党”へ向けた展望を突き出しつつ、都活の革命的再編を緊急にやり遂げねばならない。そのために断固とした活動を展開しなけれげならない。とりわけ、われわれはつぎのような緊急な当面の闘いをすすめよう。
 第一に、全国大会にむけた街頭宣伝の成果を生かし、今後さらに永続的に恒常的に広範にやり抜け。
 第二に、全国各地区で、各戦線において社会党全国大会の大衆的な総括討論をくりひろげつつ、成田−石橋の“新中期路線”を弾劾し暴露せよ。
 第三に、部活・全活を組織化しさらに“独立社民”派との共同闘争を大胆に押し進めよ。
 きらに都活については、地活と総支部・支部の連合組織として生み直しつつ“あたかも党であるかのごとく”闘い抜ける体制を確立せよ。
 第四に、二月の全国社青同再建にむけて全力をあげての準備をすすめつつ“中央派”を打ち固めんとする醜悪な協会(向坂派)を解体しつくせ。
 第五に、行動委員会運動の突撃的前進をもって、労働運動の帝国主義的再編を粉砕し、すべての労組活動家は“都労活・全労活”に結集せよ。
 さらに第六に、公害闘争をはじめとするすべての“地域闘争”にかかわりきり、プロレタリア統一戦線へ押し上げ、個別とローカルを越えた結合を実現せよ。
 そして最後に、以上の闘いと活動の集約的展開として、現在直下のコミューンとしてのソビエト運動を、沖縄人民解放闘争を基軸としつつ、入管、反軍、そして職場のゲリラ戦をもっての“行動委員会運動”を通して“革命的労働者党”の建設へ公然と前進せよ!
 七二年沖縄人民解放闘争の鉄火の中をくぐって、われわれは、戦後第二の革命期、社民・民同の分裂期の最終局面の闘いの過程のなかで“革命的労働者党”に手をかけることができるであろう。
 すべての革命的社会党々員・社青同々盟員・婦人会議会員そして労働者階級人民は“革命的労働者党”へむけて邁進せよ!


1970年12月15日付
『解放』64号2面より