革命的プロレタリアートの公然たる議会進出にあたって

議会制独裁と労使共同決定方式→ファシズムに抗し、コンミューンとしてのソヴエトを!−−議会制独裁の現段階とブロレタリアート

 全国の闘う同志諸君!
 現状を廃絶せんとするすべての反帝闘争と断固連帯し、自からその最先頭で闘い抜いてきたわれわれは、ブルジョア社会の〈最終的調整機関〉たるブルジョア議会にもっとも大胆不敵な戦士を送り出そうとしている。
 いまだ実現されざる「革命的労働者党」の先遣隊が断固たる活動を展開するための条件は、その歴史的形成段階による分断と対立を越えて、革命的プロレタリア運動が、ブルジョア社会を根底から転覆し、プロレタリア独裁に向ってその統一の威力を示し得るか否かにかかりている。ブルジョアジーがその搾取と抑圧を合法化し、プロレタリアの代表であると潜称する既成指導部が、その妥協の口実に〈労働者階級の現状〉という、固定的現状規定を行い、あまつさえ革命的労働者を抑えつけてくる状況を、一日たりとも許すことはできない。
 労働者階級の解放は労働者自身による崇高な義務である。勤労諸階層のみならず物神崇拝の獣人になりさがったブルショアジーの人間的解放も含めた全社会の諸矛盾を類の勝利に向って解決し抜く、革命的階級として今こそ労働者階級は〈政治的解決能力〉を発揮しなければならない。戦争と公害と絶対的窮乏化は、即ちこの社会の悲惨と非人間化はブルジョアジーの手によっては宿命のように引伸ばされて行くに過ぎないのだ! 見えざる牢獄と緩慢なる死に変って鉄鎖を断ち切るためになら血を流す闘いにも微笑しつつわれわれは立ち向うであろう。
 ブルジョア代議制=議会制独裁に代るソビエトを日本の地において実現せんとするわれわれの闘いは寄生的官僚の吸血鬼の如き物理力主義をきっぱりと拒否し血と肉をもった諸個人の、階級共同の事業として、兵営的工場制度のまっただ中に反乱者の行動委員会として根拠地を建設し、地区ソビエトの基礎を打ち固めんとしている。かかる戦闘的共同体=生きた共同性は、全人民の総反乱の血路を押し広げるものでなくてはならない。
 自己の生活資料を得ようとすれば資本の増殖を許さざるを得ない賃金奴隷としての現実と、それ故にこの社会の私有財産秩序を転覆しないではおかない革命性との、即ち、プロレタリアートの〈受苦〉と〈激情〉の二重性とは、根底から変革せんとする革命的プロレタリアートの闘いによって内乱死闘を不可避とするであろう。その故、『選挙戦におけるプロレタリアートおよび人民の威力は、決して〈投票の多数によっては決定しない〉、決定的に重要なことは大衆の全体的行動およびその力の成長である。
 プロレタリアートおよび人民はこの機会に自己の力を集中し、全体的行動を通して、とくにブルジョアおよび議会(制ブルジョア独裁)の補完物の勢揃いに対抗し、自己自身の力を発揚して敵を圧迫せねばならない』(赤旗創刊号)のであり、『大衆的闘争は武力的内乱にまで発展すべき必然性を有するものであり、ブルジョア政権の執行機関(警察、軍)に対するプロレタリア階級の直接的な肉迫戦である。ブルジョア政権は〈議会〉にあるのではなく、〈議会の背後〉にある』(同)のであって、議会から労働者人民に関する実質的な改良の履行を期待する社共の幻想とは徹底的に戦わねばならぬ。プロレタリアートによる政権の奪取の道を助けるものとしての議会闘争はあくまでも内乱にまで発展する大衆的政治闘争に従属するものでなければならない。われわれは、かつて日本共産党が第一回普通選挙に掲げた諸原則をプロレタリア的に復活させるであろう。

 世界の先進資本主義(帝国主義)は、構造的停滞を信用膨張をもって突破せんとして、SDRの創設に見られる破局を進んできたが、今や軒並にスタグフレーションに見舞われている。スペンディング政策も所得政策もすでに不等式の答の範囲を狭ばめている。徹底した労働者人民の抑圧とソ連圏、中国圏を世界市場に包摂しつくし資本主義の国家として変容しつくせ!と。
 六〇年代後期すでにイギリスの労働党政権からイタリア中道左派政権西ドイツの社民政権とヨーロッパの社民時代が出現したが「所得政策−労使共同決定方式型国家」はフランス、イタリアを頂点としてプ口レタリアの内乱への前に、より一層「暴力的階級としての国家」へとその本質に向って純化されつつある。スペンディングを基調としてきたアメリカにおいて限られた部門であれ保護主義が台頭しつつあり「人種差別反対」の仮象をとった有色人下層プロレタリアの反乱は、かつてのシカゴの歌声のように、全世界をますます一つの旗、共産主義=世界永続革命とりわけ先進国同時革命に向ってにつめつつある。日本はこの六〇年代中期のヨーロッパと似た様相を呈し始めており、日本と西ドイツは再び同じ運命をたどろうとするかに見える。この点で新左翼と社民左派は決定的に立ち遅れている。一九七〇年という年は決定的な年になった。社会党第33回大会、共産党第一一回大会で議会から反対党は一掃された。そして労資協調をもくろむ労働四団体の合体と野党再編成が打ち出されている。しかもこの野党再編なるものは社共の中・ソ圏外交を基礎とする反帝社民、反帝民民ブロックのイニシアではなく公明、民社、新江田派の「革新再編成協議会」のイニシアの下で「中道連合」を作り出すものとして展開されようとしており、ブルジョア社会の動揺はボナパルティストの〈寛容〉の前に隠蔽されて、ファシズムをその衣の下にかくして、議会制ブルジョア独裁をその爛熟の頂点に押し上げるものとなるであろう。
 社会党、総評の分裂期への突入は、ブルジョア社会の防衛運動が巨大な反革命の城壁をめぐらせる時代をも意味しているのだ! 中道連合の背後から全有産階級の武装せる護民官として登場せんとする公明党の反政府党への偽装こそその危険な兆候である。 日本に嵐の前の静けさが、戦後第二の革命期など主観的な情勢分析だ!と言っておとずれようとしている。「美濃部に反対するものは反動だ!」と言うロシナンテの寝ごとをつぶやきつつ。だが、肝じんなことは、議会制独裁の完成が「国民的合意機関(議会)の調整をへてのブルジョア政治委員会(内閣)の執行」即ち決定と執行の形式的分離の完成が、実体としてのユ着の完成によって始めて可能となるのであり、より積極的には、労働者による生産的労働従って剰余価値の生産によってしか、地代すらが物象化され得ないブルジョアジーの寄生性と労働者の生産主体性の矛盾を国家転覆のプロレタリアートの威力を公然と登場せしめることによって極限まで押し広げなくてはならぬことにほかならない。
 一度ゼネストを起して見よ! ブルジョアジーは暴力に圧殺するか、労働者をだまし込むエサをまくかしなければその主人公面を維持することはできない。
 しかも、現在事態は労働四団合体→革新再編協議会→議会制独裁の爛熟として〈安定支配の最終段階〉を迎えている「これがだめならファシズムだ!」と、この事態への革命的介入(分派開争、ソヴエト運動、議会進出=最後的調整機能の解体)=を抜きにして労働者はコミューンとしてのソヴエトを実現する政治支配能力=ソヴエトを執行する能力を獲得できない。
 従ってプロレタリアの解決能力とは、プロレタリアートを階級として形成し、ブルジョアジーを打倒する諸力を引き出し(要求)発展させる(ソヴエト運動を通して)能力であって、切実な要求を改良として代行的に与えてやる能力では断じてない。
 全要求の完全な獲得、人間の全面的解放に向けて、プロレタリアートは〈長い行軍〉に耐え得る強靭な組織された階級へと成長しなくてはならない。〈同志諸君! 反権威主義者諸君! 人間よ、もはやあまりにもときはない〉今こそ行動の進路を、闘う者自身の革命化を達成しようではないか! マルクスはすでにわれわれに警告を発しているのだ。「彼らが、科学を求め、体系のみを作りあげている限り、つまり、戦いのはじまりの段階にとどまっている限り、悲惨の中に悲惨だけしかみず、古い社会をくつがえす革命的側面に目をとめることがない」と。だからこそわれわは次のスローガンで闘い抜くのだ!

革命的プロレタリアートの選挙スローガン(第一次草案)

(略)


1971年3月1日付
『解放』69号3面より