統一地方選・参院選闘争の諸結果と我々の任務
革労協社会党委員会

一、我々はいかなる情勢の中から、革命的労働者の公然たる議会進出を開始したのか
−−統一地方選・参院選をめぐる階級状勢−−

 参院選後に聞かれた公明党第四回中央委員会は、社公民協力の成果なるものの上に立って「衆議院における野党協力を決定」した。かつて四月統一地方選の総括にあたって「今、社共共闘に協力することは破局的な事態をひきおこす」(矢野絢也公明党書記長)と言明していたのを想起すると、そのテンポの早さに鳥肌の立つ思いがする。
 中日接近を通して「左派ポーズ」をとっている公明党は、自民党の〈自己完結的政府党としての衰退〉を見てとり、同時に社公民協力の下でさえ社会党が美濃部の足もと東京でついに議席を失なう状況から、その制御可能を確認しファシストとしての本格的登場の時期を見ていると把えられねばならない。
 公明党が〈社会主義中国〉との「国交正常化」を促進させようというのは、「国際社会の責任ある一翼とすることで、他国の内政干渉をストップさせる」ための〈不可侵協定〉を結ぶということだとして、だから彼らの狙いは、支配階級の「無能と腐敗を糾弾」し、無力な社会党からその警戒心を奪いとって政権への〈幻想〉を肥大させ、その不安定な政治状況の背後から踊り出ようと自ら出番作りを押しすすめているのにほかならないが、このことはまたとりも直さず、独占ブルジョアジーの政策に呻吟する小ブルジョアジーの危機を、日中貿易によって突破したいという欲求の組織化にほかならない。
 これはさらに、自民党の一部と社会党および公明、民社をふくめての〈中道左派〉的な権力構想によって、共産党の躍進という仮象の背後にプロレタリアートの抬頭を感じ、これに恐怖する帝国主義ブルジョアジーの危機感とも一致した内容を持っている。
 しかも、ここで特記すべきことは、こうした動きに対して、公明、民社、新江田派の〈二党一派〉体制が、さらに成田、石橋の社民中央派=中間主義派=を包摂し、帝国主義社民総体がこれにくりこまれようとすることであるが、独自の路線を持たない中間主義が中央派として生き残るためには反対派を左右に切り捨てなければならないが、方針においては結局、切り捨てたはずの路線を剽窃せねばならないものとして当然の帰結であり、こうした意味で結局のところ右翼路線を選択したものとして、われわれが社会党第三四回大会において指摘したことが一歩一歩現実化されつつあるのだ。
 七月一日開催された総評拡大評議員会は、政党支持をめぐってこれまでの社会党一本支持をあらため、「政党と労働組合の関係については、社会党を中心とする革新勢力を強化する展望に立って、政策を中心として協力関係のあり方について検討を開始する」として社公民協力の一翼としての社会党支持に変更した。また同時に行われた全民懇の幹事会は「社公民協力が定着した」とし、三党の書記長を招き、三党協力を中心とする「大胆な政権構想を提示する」としているのである。そして減税、土地行政、賃金問題など労働界に共通する諸問題で共闘を進めるとしているが、総評は大会に提出する原案を修正して、賃金、定年制延長、週休二日制など労働条件の“横断化傾向”があり、高齢者、医療、住宅、税制、公害など生活面での要求は一層深刻になっており、労働側の幅広い団結による政治行動力の高まりが必要であるとしている。そして運動方針の第一番目に、「生活闘争を定着させ、市民組織との結びつきを強め、国が地方自治体の政策を転換させる」を挙げている。ここに組合主義的政治の完成形態を見るのである。
 まず第一に、産業合理化による資本のイニシアの確立と、他方、〈若年労働力不足〉による労働条件の〈企業を越えた標準化〉(闘いの成果としての底上げ的平準化に非ず)を基礎に労働戦線の統一の条件ができたとし、第二、ナショナルセンターの再編による交渉力の回復、第三、これを議会内で支える社公民協力と、革新首長の増大を条件とする、議会と行政での条件の好転を挙げている。
 産業別、国家的規模における労資協議制と、野党連合とビュルゲルマイスター・フラクツィオン(革新首長派)による革新政党への改良主義の圧力の増大、こうして労働官僚とりわけ根っからの官僚主義である官公労を中心とする総評民同は、これにしがみつかざるを得ないのである。
 一九六九年日米共同声明を受けて、沖縄返還をテコとする国民統合が開始された十二日総選挙で社会党は大敗北し、その再建論争の過程から始まった〈七〇年安保闘争〉からの逃亡と闘う部分に対する敵対は、労働戦線の帝国主義的再編の伸展に見合う、野党再編に向けた“議員懇”を公然と登場させた。この帝国主義社民の旗ふり人たちは、反戦派パージ、革労協解体、日中友好運動の「正常化」、救援会からの召還等に奔走し「組織局通達第三号」による“魔女狩り”がこうして開始されたのである。“左派”のこれへの屈服は、“左派”みずからがその手を染めつつ自からの武装解除をすすめたものであった。
 佐々木派の「石橋擁立と日中大連合」は巻きかえしの政略として成功したかに見え、あたかも中央派による[右派」の封じ込めは効を奏したかに見えた。
 しかし、この日中大連合の下で〈プロ文革左派〉的なエネルギーは、国交回復運動の下に包摂されたのである。革命勢力の結集を欠落させた“政治協商会議”は「第一次国共合作」よりも悲惨である。そこにあるのは党および闘う人民の連帯ではなく、国家権力レベルの交流に利用される物理力に他ならないのである。
 即ち、実際上のナショナル・センターとしてのIMF・JCによる日本労働運動の帝国主義的再編を受けて、反戦派排撃、日中友好運動の「正常化」によって危機をとりのぞいてから“左派”を包摂するという点に、社公民協力(彼らはその延長に資本救済政権を見る)が成立する条件は満たされたのである。
 分裂期の分派闘争、社会党・総評を貫く「左派」の解体に抗する闘いは、小ブル戒厳令を突破する労働者階級の革命的階級としての独立と階級形成の闘いであり、除名されあるいは脱党をよぎなくされたものの単なる〈復権〉運動では断じてない。この点で労農党の社会党からの分離・統一とは明かに次元を異にしているのである。
 四月統一地方選挙は、メガロポリス(巨大都市)に革新首長を多数進出させた。だが空前の大勝利と謳われた美濃部の東京を見ても〈革新党〉が議席の過半数を越えたのは中野区ほか数地区で、川崎市の如きは、保守三派の反撃の前に公害局の設置が流産した。かつて刷新都議会→革新都政実現のコースが副知事選任の行き詰りを契機に「多数派工作」と称する反労働者的都政への転落を産んだ。このことは、人民戦線の遺産と戦後復興への労働者階級の動員のためにとられたフランス、イタリー等の共産党の〈閣内協力〉という反労働者政治の踏襲であった。
 このような安定した議会勢力プラス革新側の行政責任というメガロポリスにおける支配階級の安定装置を、われわれは革新自治体=反独占の管制高地とする幻想を断じて容認するわけにはいかない。
 秦野登場の内容を暴露し抜きながらも美濃部への批判を原則的に展開して闘ったわれわれが、しかしながら一歩でも「対話の都政から都民参加の都政へ」というものが「革新」の名による反労働者的都政への合意の強要であることをつき出すや否や「それならば秦野でもいいのか」との開き直りによる「利敵論」の戒厳令を突破し抜くことは極めて困難であった。
 しかし、この闘いの中で社会党反戦派が結成され、社会党東京都活動家党員会議(都活)が再度頑強に登場する条件を引き出し、多数の県で協力関係を確立した良心的な地方議員などの支持者を地区的に「七〇年代戦線」に結集させる方向も確立した。
 この都知事選の美濃部の圧勝、区議選における社会党の現状維持および共産党の伸長は、反佐藤ムードによる〈市民の勝利〉と称されたが、これは文字通り「ストップ・ザ・サトウ」にとどまり、労働者階級の独自の利害は消し去られ、美濃部、黒田を始めとする革新首長の進出とは、国民戦線の旗振り人・日共の新たな社民への転落と、反帝社民=社民中央派の帝国主義社民への包摂をものがたるものであった。
 いいかえれば〈市民の勝利〉とは文字通り〈人民の勝利〉ではなく、これと対立するものであり、そのことは参院選東京地方区で共産党の最下位当選、社会党および無所属革新の落選という事実を通して「都民党」の支柱の大きな後退といわれていることが、実は後退でも何でもなく、公害防止協定を住民排除のもとに行政ペースで締結した東京電力の美濃部=木島支持に象徴されるのにつながっている。
 「都民党」の名のもとに労働者と「都民」とをバランスにかけ、東交や東水の合理化をすすめてきた「革新都政」が、いままた放射三五・三六号線の問題においてもその建設を前提とした上で対話集会を持とうとする姿勢にも見るように「都民参加の都政」がマヌーバーでしかないことはあきらかであるが、にもかかわらず、〈市民の勝利〉なり、〈ストップ・ザ・サトウ〉なりが、社公民にせよ、社共にせよ、議会にしがみつくかぎりでの政治選択として国政に較べて一定程度リアルに写るかぎりは、これにすがりつこうとする衝動はきわめて大きく、それが結局のところブルジョアジーの許容する範囲であろうとも一定の反政府的な言葉を用いるならば、安心して「革新首長」だと思いこむこともできる。こうして、いまやビュルゲルマイステル・フラクツィオンは、社民内の一分派だけではなく「(革命ではない)革新党」総体を席捲するにいたった。
 日共の「この力を民主連合へ」との叫びに象徴されるこのフラクツィオンは、一方では闘う部分に対する圧殺攻撃をともなうが、これは帝国主義のノーマルな支配構造にほかならないことを見ておかねばならない。
 選挙に集中して行なわれる攻撃は、政治権力の直接的発動としてよりも、むしろその社会的権力、および安定装置の発動であって、抗争しているかに見える諸政党がどのような安定装置としての構造を形成しているかを、それぞれの支持勢力の政治的動員、すなわち「どの層が、どう動くか」を通して明らかにするのである。
 ブルジョア選挙の本質は、第一に、国民統合に対する各階層の自主調整運動であり、第二に、それを通して現行政府に対する〈不満を解消〉し、これに反対する部分を最大限孤立させる攻撃である。要約すれば一切の反政府的な闘いを議会内に封じこめるための調整弁を発動させる点にある。
 六月一七日の夜を想起せよ! 直接には合法的手続によって集合した沖縄返還協定調印阻止の隊列は公園を一歩外に出るや否や「全員逮捕!」の号令の下、催涙ガス弾の直撃が、あたかも血の色をもっと鮮明に飾るための綿雪のようにおびただしくあわせかけられたのである。
 議会内政党は実力闘争に参加するどころか、これに対する抗議声明すら発しなかったのである。六九年の日米共同声明(国会選挙)七一年返還協定(参議院選挙)と二度にわたって選挙は国民的合意の仮装として利用され、これを踏み絵として社共をますます体制内化させる攻撃として、活用されたのである。
 選挙の結果、議会内調整事項として三つの緊急な国民的課題が提出されたといわれる。その第一は公害の〈無過失責任制〉による解決、その第二は独占の〈管理価格を前提とする〉物価対策であり、第三に〈日米安保を前提とする〉即ち台湾承認を前提とする中国との国交回復であるというものである。しかもこれを押し進めるための前提としての参議院正常化であるといわれている。即ち「国民の勝利」の美酒に酔わせてブルジョアジーの緊急課題を与野党=国民的合意により解決させることを狙っており、自からの失政を、一層の支配の安定に逆用しようとするものである。こうして今や、参議院における「反佐藤の勝利」は、一方では自己完結的な政府党としての後退によって自民党個々人の危機感をもたらしながらも、「飼育された政府党育成」を条件づけ、消費過程の分配率の変更をめぐって労働戦線の帝国主義的再編を一層押し進めるものになろうとしている。

二、我々は選挙闘争を、如何に推進したのか
 −−その過程と諸結果

 さて、かかる参議院をめぐる情況の中で、われわれの登場の意義は何んであったか?
 統一地方選闘争は、都民党戒厳令の東京にはじまり、分派闘争の現段階に規定されるさまざまの登場の仕方をとりながらも、同盟系の職場においてさえ、工場からの決起を引き出すテコとして、闘い抜かれたが、参議院闘争においても、全逓、国労等における一部の中高年層の立ち上がり、鹿島、小島、新居浜等における公然たる登場、特に、神奈川における50%台の棄権にもかかわらず獲得されたプロレタリアートの怒りの票を−−それを、まるで降ってわいたようにしか見ることの出来ない民同官僚を狼狽せしめつつ−−引き出したのである。
 “マル生運動”の吹きあれる高崎操作場、安中における公害工場のまっただ中に、当局と労働官僚を弾劾して登場したわれわれを、労働者達は歓声をもって迎えた。
 千代田地区のいくつかの拠点では、職場内で大胆に工場叛乱と選挙進出の意義が討論され、妨害をはねのけてビラが、ポスターが、はりめぐらされた。全逓三多摩地区で、六名にのぼる青年部員が組合支持候補をボイコットして公然と70年代戦線を推進したということで、統制に問われ、同じように全電通の内部では、仲間が組合権停止の攻撃をかけられようとしている。
 これは、一例に過ぎず、総体としてわれわれは選挙闘争をそのように闘ったのであるが、プロレタリアの工場内における政治活動の自由は、民間組合官僚のせまい小ブル的労働者エゴイズムの打ち固めとしての統制と、そ労働者階級の独自のまま、工場叛乱の陣形構築と結びつくのである。「フランスの五月」が学生運動を起爆剤とする自然発生的闘いであると言われながら、南部フランスのいくつかの工場の自主的なストライキ委員会の勝利的前進を基礎条件としていたことを想起するなら、労働者反戦派によって継続されてきた行動委員会運動が〈世代的外皮〉を突き破る闘いの第一歩がそこに秘められておることを示している。労務管理の変更に伴う国労等に見られる戦闘化の基礎は青年労働者と中高年齢の下層労働者の急速な結びつきを条件としているのだ。
 それだけに自治労(大田都職における本部派によるクーデター)、全逓、全電通に見られる統制問題は、かつての社会党反戦派排除が直接的には六九年のストライキ実行委員会運動に対する民同の恐怖であった点を考慮すると、単なる恫喝として看過してはならないことを教訓的に示している。
 しかし、これらの闘いが労働戦線の帝国主義的再編に対する「労組活動者会議」=(労活)全体の闘いとなし得ず、工場での反レ・パ闘争として反戦派総体を動かし得なかったことは、力量の厳然たる限界として見ておかなくてはならない。
 資本と労働官僚、「新左翼」内部での反ソヴィエト運動派との分派闘争は今後ともますます熾烈にならざるをえないのであるから、この限界を「沖縄をめぐる党派闘争の激化」に求めることは、無益な泣き事であろう。
 “ソヴェト運動”は非ソヴェト的限界を持っていてもプロレタリア運動たらんとして闘っている広範な反帝派との大胆な共同闘争を押し進めなければならず、またその自覚的独自勢力を文字通り、労働者の行動委員会(闘争時はスト実)を通してプロレタリア統一戦線へと打ち固めなくてはならない。選挙は最も有効なカンパニアであり、「結果と展望」のイメージ化である。直接の解決能力よりもその背後で「量を結果させる質が問われる」。その意味で、十三万五千数百票の得票にとどまったことが、たとえ従来結集し得なかった部分との交通形態確立の手がかりが少なからず生み出されたとはいえ潜在能力の顕在化にとどまって〈新しい波及〉を作り得なかったことは敗北と認めなくてはならない。
 選挙は有効なカンパニアでありそれは味方に対して闘いの拡がりを確認させる手段として作用するのであるが、その結集はつづくべき闘いの〈予備的組織化〉であって、それは新たな闘いを通しての〈闘いの結合〉を条件づけル。だからこそ五月のフランスの青年労働者とともに〈闘いは始まったばかりである!〉と叫ぶものである。
 〈飛躍の条件〉は、その結集が何を目指し、それを如何に発展させるべきかを見出し得ないなら〈離反と絶望の条件〉となる。
 今回の選挙は、70年の共通認識の下に告発と叛乱が労働者革命に向けて反帝共同戦線に結集するべき「必要性と必然性」を明かにする点にあった。それは議会内政党の政権の維持あるいは資本の救済者政権構想に対して、「すべての権力を労働者・人民へ!」とするものであった。この点でもフランス五月と共通するのであるが、実体の圧倒的な未成熟の故に、社共の“政局転換幻想”によりましな悪を見る〈現実主義者〉や〈反選挙主義者〉(=反議会主義者とすら呼び得ない)の厖大な棄権という左右の逃避に対して、われわれは「事実をもって突きつける」ことに成功しなかった。
 プロレタリアートにとって選挙は「質を量に還元する」ことによって即物的に宣伝することにあるのであって、結果はシャイロックのように迫ってくる。それはシャイロックのような狭隘なエゴイズムをも含んでそうなのである。もとよりそれはかの「革命的議会主義」のように議会主義者の常套手段である〈数字の魔術〉に逃げ込むことは断じて許さない原則的な闘争展開によって始めて、自からの闘争と主権の〈説得力と波及力〉を客観的事実として測定し、何を強め、何を克服するかを明かにするものである。

三、選挙総括の中から引き出すべき我々の教訓

 今回の参議院選挙闘争は、われわれの主体的な未成熟にもかかわらず「三里塚、沖縄を闘う70年代戦線」を結実させ、期せずして、沖縄返還が日程にのぼる状況の中で、「返・奪還派の破産を突破する反帝戦線の再編」を条件づけた。
 ここであらためて、反帝共同戦線の成立の〈結合要因〉が働いていたことが確認されるに至ったのである。ヘゲモニー主義者・革共同全国委員会が、わが革労協のみならず「七〇年代戦線」への攻撃を仕かけたのは当然のことであったかも知れない。もとよりそれは「利巧ぶった魚は丘にあがる」である。残念ながら「七〇年代戦線」は独立した発展の論理を内在して〈状況の子〉として産み出されたのであった。
 強さも弱さも革命的労働者党の不在によって刻印された「行動委員会の時代」にあって、直線を描いて発展してきた個別の叛乱が、横断的な、とりわけ全面的、全階層的な連携を求めていることこそその「結合の要因」である。「七〇年代戦線」に未結集の部分を含めて、三里塚を始めとする反帝地域闘争、ベ平連をセンターとする課題的行動委員会、ノンセクト全共闘は(勿論それは革労協をも例外としていないであろうが)政治党派から独立し、全体像として新左翼との連携の上に、対抗権力としての全国結合を図ろうとしており昨年立川で行われた地域闘争シムポジウム、三里塚を軸とした共闘や、叛軍、入管、反産軍、叛法連の軸としてのベ平連の「静かなる変容」、ノンセクト系大学全共闘の反帝潮流との接近(六月十七日以降とくに顕著である)を見れば、その「統一の模索」は「統一の解体者」に鉾先を向けるものに発展しつつある。
 ともあれ「七〇年代戦線」の性格はいまだ「呼びかけ人会議」、従って共闘推進委員会であって、実現された反帝共同戦線ではないがそれへの発展は可能性から現実性へと転化しつつある。
 統一戦線抜きの共同戦線は成り立たず、共同戦線の試練を経ぬ骨化された統一戦線を自から「統一者」として成熟させることは出来ない。対人関係においても組織の共闘にしても、相互の発展にならないような協力関係は恒常化し得ない。共同闘争は共闘しなければならない緊急課題をつぎつぎ追い回すことによって別潮流の間にこれを求めて継続しようとすることによってではなく、協力関係の背後で闘うべき敵に向ってますます統一の論理が働いて行くような関係でなくてはならない。
 緊急な共闘と共同闘争と統一戦線のかかる関係、とりわけ反帝共同戦線とプロレタリアソヴエト運動の相互の発展と統一こそ「政権をめぐって政治戦線が抗争する七〇年代」にとって極めて重要な課題である。一九七一年六月は、沖縄闘争をめぐる共闘関係と70年代の国民的レベルの戦線に一つの決定的な方向の選択を課した。これは選挙のもたらした〈主体バネの発動〉と見ることができるがそれにもまして、それ以上に六〇年代末から開始された自然な流れと見ることはそれにもまして有益であろう。
 これを意識的に加速させることこそ、革命的労働者党への成熟をもたらす。問題の核心、従ってわれわれの課題の核心は、告発−叛乱をいかに労働者革命へと発展させるか、即ち「革命の現実性」=「革命者の組織化」が問われているのである。
 フランスの五月は叛乱行動委員会を、工場委員会ないしは組合既成の闘争委員会から自主的なストライキ実行委員会に高め、ナントに見られる地区コミューンを全国的なプロレタリア統一戦線に高める「党の不在」によって敗北し「マテニヨン協定」によるCGTの経済主義的集約と、フランス共産党による議会による秩序回復を裏切りとして弾劾する事実経過としては妥当な、だが「事実どまり」の総括に直面している(トニー・クリフなどによって)。
 それはまた、日本における戦後革命期の工大会議および生産管理等との関連から、これまた明確な限界を指摘し、短絡的に〈革命党建設〉を革マル派を先頭にさまざまな偏差を持ちながらも「党の時代」を召還的に語る部分が増大し、他方、消耗した大群と「ゲバルトとしての国家解体」にますます単純にしがみつく「武闘派」を産み出している状況の中にあって「行動委員会からの党」「分派闘争からの党」はその路線的な正しさが証明されつつある。
 フランスの五月でCGT・共産党のみならず、トロツキストと毛沢東主義も問われたのである。むしろテクノクラートの党と軽視されてきた「統一社会党」がマンデス・フランスとの分派闘争に勝ち抜いたミッシェル・ロカール派によってもっとも有効な結合者となったことを教訓としなければならない。
 革命党はマルクスひきうつしの〈革命綱領〉を持つことにもまして、革命的労働者の現実の闘争との結合を深める能力を問われるのである。「次は何か?」ではなく「今は何か?」である。
 すでに日々の闘いが明かにしているように、大衆運動の方針にならないような、党の方針はあり得ない。どのようなすぐれた党と言えども、「洞察された必然性の実践者」にほかならないのである。洞察された必然性とは、現実の展開されている闘争の背後に〈革命への発展〉をあくまでも内在者として引き出すことにあるのだ。
 われわれは現状況を〈行動委員会の時代〉と見るからこそ、統一戦線と党を、なかんずくプロレタリア・ソビエト運動の展開の条件としての「革命的労働者党」を強調し、自からその自覚的独自勢力として闘い抜いているのである。
 ブルジョア議会が最後的な調整段階に突入し、その爛熟した議会制独裁の背後に、「国民の勝利」の幻想の下に既成左派の「飼育された反政府党」としての包摂過程を見るとき、〈ワイマールなきファッシズム〉を予兆するわれわれの総評=社会党分裂期の対応は、ますます対抗勢力としての形成、即ち、戦闘的労働組合の全国連合と反帝共同戦線の先頭に立って突き進んで行く革命的労働者党の創設を現実の日程に乗せて行くべき時期に突入している。
 六月二六日、新宿での七〇戦線の旗のもとに結集した七千の大衆の七〇年代労働者革命への熱情は、公明党二千はもとより五千の日共スターリニスト官僚の物理力としてかり集められた“温和”な大衆を圧倒してしまった。自共対決の時代などということは、ここでは大衆自身によって事実上のり越えられたばかりではなく、社会党、民社、そしてタレント候補などこの密集した対立のあいだにわり込む隙さえ見出すことができなかった−−という情況の中にこそ、七〇年代階級攻防のあり様を目に見えるように指し示したのであった。
 われわれが獲得した十三万五千余の質は、したがって、社民、日共のぶよぶよのそれとは本質を異にしている。まさに、われわれのそれは、新宿の七〇戦線の熱気をはらんだ密集せる労働者人民の結合の意志を表現しているのだ! だからこそ、この十三万五千余の量は、このような“第二第三の三里塚を! 議会ヘゲリラを!”という質をもった量なのであり、それ故にこそ、巨大な革命的意昧をもっているのだ!


1971年8月1日・8月15日付
『解放』79号5面より