1970年12月

五五年入党から六七年にいたる歩み

高見圭司

 (1)はじめに

 この章では、私が社会党に入党した一九五五年から、六〇年安保、六五年日韓闘争を経てのちの一九六八年のあいだの経過を簡単にふり返って書いてみることにする。
 六八年以降については、反戦青年委員会と社会党の帝国主義社民への転化に反対する立場からペンをとったものがあるので、それに代えたいと思う。
 この五五年から六八年に至る過程は、青年運動に直接かかわっていたことから、一つ一つの大衆闘争の中で自分自身が感性的にたえず、より“戦闘的”なもの、より“ラジカル”なものに引きつけられていった過程であった。しかし、この長い間にわたって、私は、自己のかかわった運動の一つ一つの節についてそれなりに文書をもって総括するということをほとんどやっていないのである。つまりそのことはどういうことを意味しているかと言えば、一つ一つの運動についてそれにかかわった自己の思想性そのものを対象化しきって深化させつつ次の段階進むという“けじめ”をもっていないということである。
 ただ一九六二〜六三年の社青同中央本部の書記長という立場から、また社会党中央本部の青年対策部長の立場から組織の総括、方針は数多く出したということはある。しかし、これらの組織として私が執筆したものを出しても、どうかと思われるので、ここには収録されていない。
 いずれにしても、私が、私のかかわった運動のそれぞれについて総括し、展望らしきものを書きはじめたのは六八年の反戦闘争の高揚から、今日の社会党間題に集中している。またこの時期が、一番、私の私なりの発展があったときではないかと思う。
 とりわけ、第二期反戦に入った六七年からは、私は一つ一つの闘争で自分でも目を見張るように過去の自己から脱皮していきつつある自覚があった。なかでも、六八年のはじめから七〇年のはじめまで、反戦闘争の高揚のなかで「資本論」の学習会や月刊雑誌「根拠地」の編集の過程で“マルクス主義研究会”や「根拠地」の仲間たちから支えられ教えられたことに今もなお感謝している。
 「根拠地」誌の一部の諸君とは“社文闘争”について見解を異にし袂を分つことになってしまったが、今もなお感謝の念は消え去らないのである。
 以上のようなわけだから、私が私の歩み来った十数年を述べるとすれば、六七年以前のことは私の今ある記憶の糸をたぐるほかはない。だから、いきおい大ざっぱなことになりかねないのである。
 それでも、一応過去の記憶を想い起し、現在からの光を当てることで、私個人の総括にもなるし今後、情況が異ってはいるが若い戦士たちの参考にでもなればと思い、ペンを進めてみることにする。

 (2)書記、秘書、青年部活動

 一九五五年四月、早稲田を五年かかってようやく“卒業”した私は、浅沼稲次郎・当時社会党(右派)書記長の選挙区の文京支都の書記に採用された。当時文京支部の書記長は現民社党代議士の麻生良方氏であった。私は当時の給料六、○○○円を支給されたが、それでも食ってゆけず、学生時代の友人宅を転々としながら運動をした。その給料も、文京支部の党員(現在中央本部の書記)の高田誠氏の家の自転車を借りて、党員からの党費と機関紙代を集金しなければ手に入らないのである。。
 私の惨状を見るに見かねたのであろう麻生良方氏は、私を彼の家に数ヶ月、下宿代無しで住まわせてくれたのである。
 この麻生宅の“居候”は私にとって快適であった。麻生夫人が快活な明るい人であり、今は亡き麻生氏の母堂が眼が悪い人であったが心やさしいかたであった。
 この当時、私がかかわった運動らしい運動は“砂川基地拡張反対闘争”であった。
 このころは、五三年ごろから妙義、浅間の基地闘争、内灘の村民を先頭にした実力阻止のすわり込み闘争が高揚していた。砂川闘争は数多く起った全国各地の安保条約にもとづく基地反対闘争のなかで天目山のたたかいであった。
 五五年九月二二日砂川町で強制測量が開始され、警察機動隊と地元反対同盟、東京地評傘下の労働者、ブンドの指導する全学連が激突し闘った。私は、この日警察機動隊の前に坐り込み、ゴボウ抜きされ、ズボンは引きちぎられ、そのご数日間足を引きずって歩かねばならないほど機動隊に蹴られたのである。その後も何回か現地闘争に参加した。
 この年の一〇月二二日、分裂していた社会党は左右統一をとげた。そして私は社会党中央青年部の中央常任委員となった。当時の社会党青年部は左派社会党青年部の、党中央とは自立した大幅な運動の分野を確保する伝統を引き継いで、きわめて“戦闘的”でかつ“自由”な雰囲気に満ちていた。当時の青年部長は左派出身の西風勲氏で、彼の自由闊達な性格はそのまま当時の青年部の気風となっていた。何よりも左派出身の諸君は、かつて安保条約をめぐって右派と訣別し、その左翼バネとして右派を凌ぐ勢力にまでのし上げてきたという実績に裏打ちされ意気けんこうたるものがあり、私にとって魅力あるものであった。
 この年の二月、私の郷里熊本県選出の松前代議士の国会の秘書に採用された。しかし五七年春、党青年部の専従役員としての副部長に青年部全国大会(当時の青年部は代議員制で中央とは自立した二重組織形態をとっており、役員は青年部大会の選挙で選ばれた。そして三〇歳以下の青年党員は全国で一万二千名を数えた)で選出される間、私は全くのところ秘書という仕事は落第であった。
 私にとっては、青年部とか農民組合関係とか運動と関連のある仕事には全力をもって当る情熱が湧くのだが、秘書本来の仕事は全くなじまないものであった。そのため「君が秘書か僕が秘書なのか!」と代議士に一喝をくらうことは再三におよんだほどであった。
 この秘書の間の五六年に、国会では鳩山内閣によって出されたゲリマンダーの小選挙区制が闘われ、国会は連日の実力阻止闘争で肉弾戦が闘われた。当時、その翌年の勤評反対闘争、さらに五八年の警職法反対闘争でも、社会党の国会議員は、今のような「絶対反対はしない」などというような腰抜けでなく、とくに戦前の運動経験をもつ御老体が先頭に立って院内で身体を張って“実力阻止”をしばしばくりひろげたのである。私は、このような雰囲気のなかで、二五歳という若さもあって、社会党秘書団の先頭に立って身体をぶっつけて闘った。そして私はこの実力闘争で目立つようになり、一時は自民党の代議士を殴ったという理由で、自民党の田村元という若い代議士が私を告訴しようとしたこともあった。
 この当時、実力戦の小休止の時間には、社会党の控室でじゅうたんの上に白墨で円を書き、秘書団のわれと思わん者たちが相撲をとったものである。この相撲のまわりには代議士や秘書団が群がり熱のこもった声援が飛んだ。
 そして、当時の社会党秘書団といえば団結カの強いことで有名であり、国会内の衛士は秘書団一〇名に対して三〇名の衛士で対決しても散を乱して逃げることがしばしばであった。
 自民党の日当で雇われた浅草あたりの暴力団などは社会党の秘書団の前では団結力がないため絶えず蹴ちらされていた。
 このような戦闘性を含んだ社会党は六〇年安保に至るまで強烈な“セックス・アッピール”があったのである。

 (3) 六・一五救援本部、訪中、社青同結成

 五九年カストロのキューバ革命が勝利した。浅沼稲次郎社会党書記長は中国をはじめて訪間し「米帝国主義は日中共同の敵」と言明し、社会党内の左右の対立の激化を促進した。三月になって“日米安保条約改定阻止国民会議”が結成された。同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が社会党青年部・民青、総評青対部、全日農青年部、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。
 そして、八月二九日、三井三池鉱山で四、五八〇人の希望退職企業整備案を会社側は組合に提示、三池大闘争がはじまる。
 六〇年の安保と三池闘争は、この前年に火を噴きはじめたのである。
 六〇年に入り、一月の社会党全国大会では安保闘争の足を引っぱる西尾派追い落しが焦点となった。西尾派は二三人の代議士を引きつれて一月二四日民社党を結成した。西尾追い落しの急先鋒は青年部であった。党全国大会の前に開かれた青年部大会では、西尾除名の決議案が多数で採択されていた。当時、佐々木派の江田三郎氏は青年部の部屋にやってきて、断固西尾を叩かねばならぬと言ったものである。その江田氏が今や民社党との連合を考えるとは。五九年から六〇年の間、当時社会党中央執行委員であった西風勲氏と青年部長の仲井富氏らが指導して日本社会主義青年同盟(=社青同)結成の精力的な準傭を推し進めていた。この組織化の理論的指導は、多分に清水慎三氏に負うていたのである。社青同の綱領に記されている路線としての“反独占、社会主義”というのは清水氏に負うところが強いと思う。清水氏と西風氏との当時の関係は師弟の間柄と云っても良いくらいであろう。六〇年安保闘争の大衆の波の中には、社青同は未だ結成されていなかったけれども、その真新しい旗だけはいつも走りつづけていた。
 私は、正直言って、この社青同結成のイニシャティブをとった西風、仲井氏らの後からついていくといった立場にあった。
 社青同が結成されていく契機となっていたのは五五年以降六〇年に至る基地闘争や小選挙区制反対、勤評反対、警職法反対等、“平和と民主主義を守る”大衆運動、さらには五五年の日本生産性本部設立と見合った日本資本主義の産業再編成と合理化に対する労働者階級の反合闘争の過程で、大量の無党派群が輩出されており、それらの青年労働者の組織化は、社会党に対する大衆的不信と切り離したところで組織化されねばならないということにあった。このことから、社青同の性格も規定されたのである。つまり、社青同は社会党とは区別された青年労働者、学生の大衆的な青年政治同盟としたのである。このことは、もとより、社会党も総評民同も許容していたのである。それは、日共支配下の民青が急速に拡大されていくのに対抗するものとして社会党、総評民同は社青同の育成を掲げたといういきさつがあった。
 ともあれ、社青同は、安保闘争と三井三池の反合闘争の中からつくりあげられた。その意味では、さまざまの限界を伴ったものであれ、日本プロレタリアートの闘争の過程で生まれ、日本プロレタリアートのまぎれもない申し子であった。とりわけ、民青の安保闘争における組織拡大主義、三池闘争における無対応というあり方に対して、社青同は安保ブンドとともに闘争を突き出し、三池の反合闘争に全力をあげてかかわり抜いたのであった。
 樺美智子さんが虐殺された六月一五日夜、私は衆議院の議員面会所の中に臨時救援所を島田久君(党本部書記)など仲間といっしょに設け、当時のブンド系の医学連の諸君と一緒に夜の明けるのも知らず働いた。この日、江田三郎氏など社会党の国会議員団約六〇名は機動隊の放水を浴びせられながら警察機動隊に抗議し、議員面会所地下に臨時留置場として設置された中にいる多くの重傷を負った労働者、学生の即時釈放を要求して闘ったのであった。江田三郎氏の白髪を振り乱して闘う姿は、今もなお私の記憶に生々しい。
 この日、第一次の弾圧に抗議して集まった大学の教授、助教授、講師、研究生たちはさらに第二次の弾圧をくらい、おびただしい重軽傷者を出したのであった。なかには、青山学院大の助教授が、自分の知っている学生が負傷したのではないかと心配して社会党本部のある三宅坂に来たところ五〇名の機動隊にリンチを加えられ重傷を負ったということもあった。
 六・一五の翌日、医学連、全学連の当時の書記長北小路敏君らと六・一五救援本部を社会党本部内に一室もらって設け、その委員長には坂本参議院議員(現高知市長)、私が事務局長ということで活動を開始した。
 全国にカンパを呼びかけ、一五〇万円近い病院の支払いなどは、殆んとこのカンパの中から支払ったのである。そしてほぼ約一ヶ年のあいだ六・一五救援本部は活動した。この救援運動の総括として、われわれは党が中心となって、新たな救援組織を結成すべく準備をはじめた。それというのも、共産党系の“国民救援会”が中国から送られてきた六・一五闘争の犠牲者に対する一万元(日本円で一五〇万円)を遂に私有してしまったことと、彼らの救援運動が“トロツキストの面倒は見ない”という方針で目の前に重傷者がいても日共系の“民医連”系の医師は知らん顔をしているといった度し難いセクト主義に対抗するということと、さらにはいよいよ七〇年にむけてファッショ的な権力の弾圧が予想されることに対して構えなければならないという意味から、作業ははじめられたのである。
 それは“人権を守る会”と称して、小柳勇参議院議員が責任者となって準備がすすめられ、六一年の社会党大会で決議までなされたのであった。
 この作業は、結局のところ、社会党そのものの中途半端さの故に失敗に帰した。六〇年安保の高揚が終った九月末、十月一日の中国の国慶節に向け戸叶武社会党参議院議員など安保国民会議代表団一三名は、羽田を発った。その中に私は青学共闘の代表として参加していた。その代表団員の中で私は最年少の二七歳であった。
 私は、中国の南の玄関である広東市の夜のレセプションのとき、そこの平和委員会の秘書長と激論を闘わしてしまった。そこの秘書長は歓迎の挨拶の中で「貴方がた日本人民の安保闘争は反米愛国の英雄的闘いでした」と言ったのである。彼の演説が終り、私と同じ円卓に彼が坐ったとき、私は彼に「貴方の安保闘争についての見解に疑義がある」と切り出し、「日本人民の安保闘争は反独占、反帝国主義の闘争であったのであって、反米愛国の闘争ではありえない」という主旨のことを展開した。
 その翌日、飛行場から北京に向う時、飛行機のタラップに乗っていくのに私は最年少で最後であった。前日の秘書長は、私の前まで笑顔で握手を交していたが、私の番になるとプイと横を向いて握手をしようとしない。私は、急いでいたので、その秘書長の右手を強引に握り“有難とう”と言って飛行機に乗りこんだのであった。
 その後、中国から帰ってみたら、民青の書記長の前田君が(この人は、それから数ヶ月後構革派寄りであるとの理由で、表向きは女性問題ということで中国に洗脳のためひそかに飛ばされたということを聞いた)私の留守中青学共闘会議なんかで私が中国に行って悪い役割りをしていると批判をしていたそうである。
 日本社会主義青年同盟は、十月一二日、浅沼社会党委員長が右翼青年の凶刃に倒れた直後に約四千名の同盟員を基礎に結成された。この結成大会の模様は中国で“人民日報”紙上に報道されたのを中国で感激しながら読んだ記憶がある。そして、帰国してから私は中央執行委員で共闘部長を担当した。
 この六〇年の一一月、モスクワでは“世界八一ヶ国共産党、労働者党代表者会議”がひらかれ「平和共存と反帝国主義」ということで中ソ対立を折衷したのである。
 そして国際的には“平和共存”体制で米ソ協調体制として進み、わが国では“国際的な平和共存”体制を受けて“ソフト・ムード”の池田政治体制と徹底的な産業再編成、合理化が進められる。いわゆる“高度成長政策”の突進がはじまるのである。

 (4) 社青同構革派の敗北

 私の手もとに「世界の友と未来のために 第八回世界青年学生平和友好祭友情の記録」というパンフレットがある。このパンフの二頁に「エルベの誓い」と題して平和友好祭の由来が書いてあり、その一節に「いま世界は資本主義国と社会主義国の二つに大きく分かれています。そして、この対立している二つのグループの中心はアメリカとソ連です。チャンピオン同志で手を握りあえば世界の平和は生まれてくるでしょう。お互いに信じあえば相手をおどす必要はなくなります。これは決して夢ではありません」と書いている。これはヘルシンキで行なわれた一九六二年八月の第八回世界青年学生平和友好祭(フェスティバル)に参加した日本代表団二〇〇名の報告書なのである。私はこの代表団の団長として行ったのである。
 この平和友好祭は、その内容からいって、まぎれもなくソ連の“平和共存”路線の一環として催された国際的なショウなのである。
 六〇年一一月の八一ヶ国「モスクワ声明」は“反帝国主義”をうたったけれども基調は“エルベの誓い”の解説の文句にあるように“米ソが手を握る”という米ソの“平和共存”路線が中国、アルバニアなどを除くほとんどの世界の各国共産党の方針となっていたのである。
 当時、日共・民青はどちらかというと中国寄りの“反植民地、反米帝国主義”の基調をもっていた。
 一方、社青同、総評青対部は、ほとんどソ連よりの“平和共存”路線が基調となって貫かれていた。
 それは、六〇年安保闘争の高揚ののちの第二〇回社会党全国大会で“構造改革路線”と“平和共存”路線が決定され、江田三郎氏がそれらの路線の人格的象徴として書記長になったことに基礎づけられていたのであった。
 “構造改革路線”は、日共の二段階革命戦略に対しては“反独占、社会主義革命”という画期的な“一段階革命戦略”を対峙させ、社会党にあっては、労農派的な一種の“恐慌待望論”の待期主義に対して“恒常的攻勢の戦略論”といったイメージを押し出すことによって“新鮮な”装いをもって登場した。この“構造改革論”は三池闘争のような敗北的闘争を否定し、もっとスマートな“政策転換”を政府に迫ることで解決する方向に流れていった。この目新しい路線には、総評民同が飛びつき、そしてまた社青同中央指導部の大勢もこの流れに足をさらわれていくことに無自覚であった。
 六二年末の第三回社青同大会では、西風勲委員長指導のもと“平和共存路線”と“構造改革路線”が基礎づけられ、民青ばりの“大衆化路線”なるものが提起された。この大会では東京、仙台、愛知、福岡などから、これらの右翼的な路線が弾劾された。静岡の大場君が“憲法擁護というのは反動的だ”と発言したのに対して西風委員長らはテーブルを叩いて激怒したのであった。
 この第三回大会で、西浦書記長が委員長に、私が書記長に選ばれた。そして、この執行部は一ヶ年しかもたなかった。この一ヶ年は、社会党の江田体制とその構革路線に即応した社青同中央の指導が蓄積され、下部活動家の反撥が強くなっていった。この一ヶ年の間では大衆運動では、広島原水禁大会で、日共が「社会主義国の核実験を承認」し社会党、総評が「あらゆる核実験に反対」を主張し分裂したということが最大のできごとであった。
 翌六三年の第四回社青同全国大会では、われわれ構革派指導部は、東京地本の山崎、樋口提案の“基調”についての修正提案の採択で敗北し、執行部を全員退いた。代わって社会主義協会中心の指導体制ができあがる。
 “構革路線”はその後の社会党全国大会でも全国的な批判を集中的に浴びて江田執行部は後退したのである。“構革路線”の敗北は、池田首相下の第二次合理化としての“高度経済成長政策”のもと労働者階級、人民の資本に対する下からの反逆のエネルギーが噴き上げ、民同と社会党の右翼的体質と結合した“構革路線”に対する集中的批判となって現われたことを意味している。そして“米ソ平和共存”路線が、現実の米ソの原水爆実験の競争、キューバに設置されたソ連のミサイルをめぐる米ソ対立と緊張、アルジェリア革命、中ソ論争の激化などによって、その破産が予感されはじめていたことも、“構革路線”の敗北につながっていた。
 その後、党中央の青対部にかえった私は、苦渋に満ちた日々の連続であった。それは“構革路線”の破産の根拠を掴むことができなかったからである。

 (5) 反戦青年委員会運動へ

 六五年二月七日、米軍機が北ベトナムのドンホイを爆撃、北爆が開始される。
 六・七月は参議院選挙があり、社共総評は選挙にいっさいを注ぎ込み、ベトナム反戦闘争も、日韓条約批准阻止闘争も大衆闘争としてとりくまず、七月参議院選挙が終って、社会文化会館で党青少年局の諮間機関である青年対策委員会をひらく。当時の青少年局長は楢崎弥之助氏であり、青年対策委員長は前川参議院議員であった。この青年対策委員会は青少年局の書記局員、社青同の中執、総評青対部、全日農青年部などの党員で構成していた。
 この初の会議で、社会党、共産党、総評が日韓条約批准阻止にむけて何ら具体的なとりくみを行なっていないことに、それぞれの立場から強い批判の声があがった。この討論の結果“ベトナム戦争に反対し、日韓条約批准を阻止するための青年委員会”(略称、反戦青年委員会)をあらゆる“民主的青年諸組織”に呼びかげてつくり、全国各地に組織することが確認された。
 私は、社青同中央敗北いらい久方ぶりの大衆闘争に取り組むことができることに強い意慾を燃やした。ここで第一期反戦ははじまり八月三〇日に“全国反戦青年委員会”は結成された。その指導を担う事務局は総評の山下勝君、社青同の立山学君それに私の三人であった。この三事務局員は運動の飛躍的前進のなかで感動にふるえながらチームワーク良く活動した。全逓中央本部の結成当初からの下部青年労働者の弾圧、日共・民青の反トロキャンペーンなどは、一一月日韓闘争の全体的退潮とみじめったらしい敗北のなかで全国反戦に結集する青年労働者、学生の戦闘的エネルギーの日ごとの高揚の前に問題ではなかった。
 その後の全国反戦の退潮と、六七年二月二六日の砂川基地拡張阻止闘争にはじまる第二期反戦の波は、私じしんを日一日と新たに生み直していった。
 第二期反戦の高揚を前にして社青同中央は全体の闘争の足を引っぱりはじめた。民同、日共の反トロキャンベーンに合唱しはじめた。
 それは、六六年九月三日、社会文化会館でひらかれた社青同東京地本大会において、当時の社青同中央指導部を握っていた社会主義協会(この当時は太田派と向坂派は統一していた)は社青同解放派の強力な東京地本の指導権を一挙に奪還せんとして陰謀を実行したのに起因している。それは、まず、この大会の壇上を棍棒などをもった協会派同盟員が占拠したことに対して、憤激した労働者、学生が鉄槌を加え、叩き出したことである。その時多くの負傷者を出したということで、社青同中央は、こともあろうに九州の三池で中央委員会を開き社青同東京地本の解散を決定することで、協会派の陰謀を貫徹したのであった。
 このこと以降、社青同東京地本の第一地本(樋口圭之助委員長)は中央本部で認知されないなかで歯をくいしばって反戦青年委員会と東交反合闘争の先頭に立って闘い抜いてきた。それに対して協会派指導部の中央と東京第二地本は、反戦青年委員会は“団体共闘でなければならぬ”という第一期反戦への後退を主張しつつ、新たな自立した地区反戦を中心とした第二期反戦に敵対しつづけてきた。その結果、大衆運動の分野で第一地本の質量ともの前進、第二地本の後退をもたらしたのである。
 このような過程を経て、全国反戦の第二期は社青同が抜けた中で、そして各県、各地区反戦の下からの登場で改編を経過していったのである。

 (6)構革路線からの飛躍

 社青同の東京地本分裂問題は党中央と全国大会ごとに追及のネタになっていた。
 楢崎青少年局長は青年対策委員会における私の反対を押し切って、社青同中央の協会派の方針にもとづいた決定を下してしまったのである。私は、この社青同の分裂問題の根源は〈1〉最初に協会派が壇上を占拠し挑発し、陰謀によって東京地本を解散にもち込んだことが明白である、〈2〉社青同の規約から言って、組織解散、すなわち全同盟員の資格ハク奪はありえないこと、という二点から頑強に反対したのであった。私と同じ趣旨で、青少年局の書記であった小野政武君も反対した。
 しかし、われわれは少数で、協会派ぺ−スの決定が下されてしまったのであった。
 この協会派の反階級的陰謀は、いずれ白日のもとに曝さなければならない。労働者階級の前進にとって断じてこのような陰謀と非論理をまかり通してはならない。
 この東京地本間題と反戦青年委員会について楢崎氏のあとの青少年局長の藤田高敏氏は積極的な提言を論文として社会新報紙上に発表した。
 とりわけ、この藤田論文は、社青同中央が反戦青年委員会運動に取りくまず、さっぱり組織化の実績もあげることのできない“改憲阻止青年会議”なる方針を“個人加盟の戦略的な改憲阻止と反独占、社会主義を目ざす組織が改憲阻止会議というのは、尾上屋を重ねる方針で疑義がある。個人加盟で戦略方針をもつ組織なら社青同そのものではないか”と指摘しつつ、“大衆的な反戦青年委員会運動にこそ社青同は指導性をもってかかわるべきだ”と批判した。これは至極当然の指摘であったにも拘らず、社青同中央の協会派はいよいよ反戦青年委員会運動から遠ざかり、青少年局とこの問題についてたえず対立するに至った。
 六八年一二月、神奈川県下の金沢八景で行なわれた全国青年党員会議は、一五〇名の青年党員が集まり、一泊二日の激論をくりひろげた。
 そのとき、社青同中央派の諸君は約一五名ほど出席していたが、反戦青年委員会と七〇年闘争論をめぐって討論となり、圧倒的多数が中央の方針を支持し、協会派は完全に浮き上ってしまった。
 このとき提案した“七〇年闘争と青年労働者の任務”というのは、私が書いたものであった。この“討議資料”は中央執行委員会で本部の方針と著しく違っているということで批判が集中した。とりわけ“七〇年闘争は六〇年闘争の幅広統一戦線を追憶するものではない。平和と民主主義の破産。一国社会主義路線としての平和共存路線の誤り。政府危機ではなく政治危機をつくり出さねばならぬ、等々”という項目と内容が、党の国民運動の“平和と民主主義を守る”路線とちがうということであった。
 中央執行委員会では「こんなむずかしいことは分らない」(鈴木労働局長)と言い出す者もいて、専従中執を中心に討論し直すことになった。専従中執の伊藤国民運動局長、森永企画担当中執、高沢教宣局長、伊藤英治青少年局長のほか国際局の藤牧部長などが出席して、けんけんがくがくの討論を、私が一人で全員を相手にする形で展開した。とくに、この“討議資料”の問題点だとして批判の声を中執であげた伊藤茂国民運動局長の“平和と民主主義論”は、私によって完膚なきまでに論破しつくされ、あまり、ここでは批判の声をあげることができなかったほどである。
 この討論で一字一句修正しなかったというわけではない。たとえば“政府危機ではなく政治危機を”という−−今からいえば政治社会運動の相互媒介的関連が抜けているという点で限界をもっていたが−−ところを“政府危機から政治危機へ”という小野君の提案を容れるなど二、三のどうでも良いところは修正した。しかし、私の書いた方針は大どころ貫徹したのである。
 この“討議資料”を書いたとき、すでは私は公式の青少年局の機関を使っての活動が日ごとに狭められている状況にあり、そして新たな労働者反戦派の小ブル左翼と区別された運動を推進する決意をもって月刊雑誌“根拠地”を発刊し、その運動を進めはじめていた。
 そして、この“討議資料”の内容がそうであったように“根拠地”誌の発刊は、私の長い間の“構造改革路線”の桎梏からの飛躍を意味していた。この飛躍は、第一期反戦、第二期反戦を経て、一枚一枚古い衣を引きはがすような、自己の闘いであり、労働者反戦派との共同の闘いの中で遂げられていったのであった。


高見圭司『われ一人のリープクネヒトにあらず』第1章
発行  高見出版
発行日 1970年12月25日

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