1992年10月

座談会・六十年代の激動のなかで
さらば、熱き友 牛越公成よ!

秋山順一
石井昭男
牛越伸也
小林哲也
下山保
矢沢賢

六〇年安保闘争下の学生時代

石井(竃セ石書店社長) 今日お集まりの皆さんの中で、僕が最初に牛越君と出会ったと思います。僕も彼も生まれた年が一緒で、ともに安保闘争が非常に高揚している一九六〇年四月に早稲田大学に入学し、学部も一緒でした。当時、早稲田に社会党を支持する学生サークルで建設者同盟というのがあり、私の入部直後にキャンパスで新入生募集の立て春とその横に机を置いて新人勧誘をやった。僕もそこに立って、早く誰か仲間が入ってこないかと待っていたところに、牛越君が現われた訳です。彼は新品の学生服をパリッと着て、まっさらな帽子をかぶっていて、最初は体育会系の男かと思ったら、建設者同盟に入りたいと……、それが最初の出会いでした。
 当時の建設者同盟は蛯名さんがリーダーで、海野さん、藤原さん、奈良さん、上本さん、神谷さん達がいました。あの頃はまだ我々のクループは学生運動にそれほど積極的に参加してなくて、文連傘下でデモに行ってました。で、大学に入って、連日のようにデモに行ってたんですが、そういう中で牛越君が僕らに「俺のオヤジが社会党本都にいたんで、俺は社会党に非常に関心を持っているんだ」と話していたのが記憶にあります。その後、金ヶ江君とか北村君なんかが建設者同盟に入ってきたんですね。
 建設者同盟の仲間に及川さんという岩手県出身の人がいて、一度岩手県に行こうということで、牛越君らと一緒に仙台から釜石の方に出かけたことがありました。当時、釜石市長は鈴木東民さんという革新市長で、釜石では地域の労働運動が活発でした。僕らも社会主義運動に乗り出した訳だから、地域で労働運動やっている人たちと交流しようというのが目的の一つだったんです。
 そういうような中で、僕は牛越君と比較的親しくつきあうようになっていったんです。次に社青同についてですが、社会党青年部の社青同結成をという提起をうけて、早稲田では六〇年の六・一五闘争以降に社青同を結成しようじゃないかということで、建設者同盟も積極的に社青同に加わっていくことになり、建設者同盟の八割位の人が参加した。いつも大学の近くの長岡屋というそば屋の二階で、だいたい蜷名氏が中心に座って、社会党左派=労農派、山川均の本で一所懸命に学習会をしていた。当然、牛越君も社青同の早稲田大学班ということで、僕と一緒に活動していた訳です。
 そのうちに東大をはじめとする他大学の社青同の人たちとの交流が始まって、社青同学生班協議会を結成しようということで、六一年三月に東大と早稲田が中心になって、伊豆の東大戸田寮で合宿をしたんですね。そうこうしているうちに、東大の佐々木慶明さんの影響を、無理矢理受けさせられる……(笑い)。
 僕が学生運動ばかりやってあまり勉強せんということで、親父から送金ストッブをくらい、生活が大変だということで牛越君に相談したら、俺の家の離れが空いてるから来いということで、六一年の秋口から牛越君の離れに居候することになった訳です。当時牛越家は両親の離婚問題を抱えていて大変だったんですが、牛越兄弟姉妹はそれなりに明るく、そういう中で僕は非常に牛越君に世話になりました。
 そういえば居候する前だったと思うんですが、牛越君が一度恋人を紹介するというので、当時フランク永井の「有楽町で会いましょう」という歌が非常に流行していた時だったので、思い出のために有楽町で会わせろと言って、夕方、恵子さんを有楽町で紹介してもらったなんてこともありましたね。
 社青同活動の中ではその後、一九六三年頃に僕は社青同の中でも構造改革理論を支持して活動するようになり牛越君とはお互いに距離を置く関係になっていきました。そしてその後のつきあいというのは、主として年に一回、年末の建設者同盟の集いで顔を合わせる程度だったんですが、実は一一年前に僕が会社を倒産させて、会社の残務整理その他のことで一ヶ所に定住するのが不可能な時期があって、牛越君の所で三日ほど泊めてもらったことがあります。彼は、多くの理屈は言わん、頼ってくる人問は誰でも受け入れるという気持のいい性格の人で、僕は彼のそういう性格に甘えて三日間お世話になりました。本当に彼は質素な生活をしていて、どっから見てもお金に縁のない生活だったと思う。そういう中で、牛越君は「石井よ、俺がお前に出来るのはこれだけだ」と、焼酎とスルメをポンと机において僕を歓待してくれた。今でも僕は非常に感謝しています。うちの息子たちも当時僕が牛越君に世話になったことをよく憶えていて、牛越君の話が出ると、その当時の話になります。
牛越(牛越公成・弟) 兄貴のそういう性格は、子供の頃に家が食えなくて長野県や東京中野区の親戚に預けられて育って、地域の子供たちにいじめられた“弱者”の体験が影響していますね。ただ、他人の面倒見がいいとしても、例えば家で誰かをもてなしていて、酒がなくなると、金がなくても恵子さんに「オイッ、酒買ってこい」と無理強いすることが多く、これは大きな欠点だった。
 親父もまったく同じ性格で、僕らの子供時代にはいつも誰かしら運動の関係者が家に来ていて、金がなくて家族が困っていても酒を出してもてなしていた。子供心にも頭にきましたね。
 石井さんが調布に来た頃は親父はすでに家にいなくて、収入がなくなって、母親は働きに出る、兄貴も私も、すぐ下の妹もアルバイトして稼がないとどうしようもない頃だった。それで兄貴は勝間田清一さんに相談に行き、六一年四月から社会党本部でアルバイトすることになったんです。だから稼いだ金も一家の生活費にまわってしまい、結局学費が払えなくなるし、また活動の方も忙しくなって大学も中退せざるをえなかったんです。

早稲田社青同と建設者同盟

小林(日本スカッシュ販売且ミ長) 私が早稲田に入ったのが一九五八年ですが、その頃の学生運動はブント、つまり共産主義者同盟が圧倒的な力を持っていた。彼らは全学連の共産党細胞を中心とした共産党批判派というか脱党派で、五六、七年頃から社・共を乗り越えた革命運動というのを展開し始めていた。一言でいえば、ブントにあらずば人にあらずという勢いだった。そのブントが六〇年安保闘争を指導していく訳だが、下山君は安保の時はブントで全学連の中執をやってたよね。
 その当時、社会党青年都にかかわっていた学生は数えるほどで、全国的な影響なんて話にもならない。早稲田では建設者同盟のグループだね。だから、学生運動全体の流れからすれば、建設者同盟は右派的な潮流に見られていた。
 それで六〇年安保が終わったら、信じられないことにブントが一気にいなくなった。俺はずっとブントに楯ついてたけど、正直言って、今は学生運動中心だが将来の日本の労働運動、社会運動はブントが成長して中心的に担っていくと思っていた。それが不思議なことにあっと言う間になくなっちゃった。
 その頃に、牛越や石井君たちが学生運動に登場してくる訳だ。
秋山(ライフ・インターコーディエ主宰) 安保前後の学生運動の流れを若干補足しておくと、一九五八年六月に全学連共産党細胞の連中が代々木の共産党本部にデモかけて、いわゆる六・一事件で共産党を除名された後、一二月に彼らが中心になってブントを結成する。その前から革共同と第四インターはあって、彼らも一度ブントに入るんだけどすぐに追い出された。そうした中で五八年に全学連の指導部がブントの香山健一から革共同の塩川喜信に移る。それをブントが五九年にひっくり返して唐牛健太郎になる。
 一方、社会党青年部が中心になって五九年に学生運動民主化協議会、学民協というのを作ったけど、ほとんど影響力は無かった。僕が学生運動を始めた頃は、学民協は第四インターの小島達に乗っ取られていたから、五九年に東大と早稲田と外語大で東京社会主義学生会議、社学会というのを作った。その社学会を中心にして六〇年の二月二九日に、社青同全国学生班協議会をでっち上げちゃった。勿論その前に、高木郁朗氏が社青同準備会と社会党青年部の了解を取ってきた訳だけど。
 だから、六〇年安保闘争の時には社青同の旗は出てるんだよ。六〇年四月二六日のチャペルセンター前の全学連集会、あのバリケードを越えた集会ね、あれに僕は東大本郷班の旗を持って参加した。当時僕は本郷で、本郷班は高木郁朗、江畑騏十郎、増野潔の三氏に六〇年の四月には佐々木慶明氏と僕が加わり、五人になった。駒場の方は三人で班にして、早稲田の方も建設者同盟と社学会を中心に一〇名位でとりあえず社青同の班にした。実態は準備会なんだけど、各大学で班を作って全国学生班協議会と名乗っちゃったんだ。これは学生だけじゃなく、地方でも、例えば奈良社青同とか勝手にそれぞれ作っていたし、それで構わなかったんだ、当時は。社青同の正式な結成は、浅沼さんの殺された直後の一〇月一五日だけどね。
小林 早稲田では建設者同盟が社青同の原点だよね。建同の部室が社青同の部室みたいになっていた。
石井 建設者同盟というのは戦前、大正デモクラシーの時に東大新人会なんかと同じ頃に、早稲田で浅沼稲次郎、三宅正一さん達が作った社会運動の学生サークルで、戦時下では大政翼賛会に入っていたとか批判されている人もいますが、まあまあ反骨の人生を生きながら、戦後においては浅沼稲次郎、三宅正一、稲村隆一、田原春次とか社会党の中枢を担った代議士としてそれなりに民衆の立場にたって社会をリードする人が多い、そういう人達が出たサークルなんです。そうした歴史があるものだから、やがては社会党を基盤に政治家になりたいといった人が比較的集まっていました。いわば雄弁会左派的イメージだった訳です。
 それで僕や牛越君が入る二、三年前から、加古さんとか長谷部さんという方を中心に学生自治会運動に積極的にかかわろうということで、そこに海老な蛯名氏、神谷氏なんかがちょうど入って来るという形でいろいろ動いていた訳です。そして建設者同盟を中心に社青同早大班が結成されるんですが、あまりに建設者同盟が早稲田社青同の母体になり過ぎたものだから、同盟に入らない人間は建設者同盟を辞めちゃうということで、だいたい僕や牛越君を最後に建設者同盟は事実上社青同になって、自然消滅した形になったというのが建設者同盟の歴史です。
 理論的には、五九年前後から労農派の山川理論でやっていたんですが、それを母体に活動しているところに六一年六月頃に佐々木慶明氏の理論、いわゆる『解放六号』が出され、それを受け入れる時に内部分裂が起こって、僕は構造造改革派に行く、ある人は社会主義協会に行く、多くの人は解放派に行く、そして牛越君は就職上の都合もあるから社会党勝間田派(当時は和田派)という形になったんです。
秋山 解放派というのは、革共同、マル学同が『解放六号』の理論をとらえて機関紙で名付けたもので、各派もそう呼んだが、実態的にあったわけではない。後から、それじゃあ解放派というのをつくろうかとなった訳です。
下山(首都圏コープ事業連合理事長) 社青同が学生運動に登場するのは六一年の三派連合からだね。各派が会場内外に集まった、最後の全学連大会である第一七回大会の時につる屋という旅館で会議をしたので「つる屋連合」と言われた。社青同と、関西ブント、それからブント革通派。俺はブント革通派を引き連れて行ったんだ。
 ところで牛越君の運動の場は、社会党と社青同東京地本、それに調布ということで、あまり学生運動では登場してなかったね。まず病院闘争あたりからかな。
小林 学生運動では、行動隊長的立場だな。
石井 牛越君は家庭の経済的事情で六一年から社会党本都にアルバイトに行ってたから、社会党の運動というか職場を軸にしながらやってたんで、クラス委員やったり自治会の執行委員やったりというスタイルの自治会活動ではそれほどの活躍はできなかったんです。だから、彼には学生運動だけでなく、いわゆる普通の学生生活みたいなものもあまり無かったように思いますね。
 たしか六三年頃のメーデーの前夜に大隈銅像前で「暁の決闘」なんていうのがあったけど、牛越君は働きながら、そういう党派と党派の激突なんかがあると、彼は腕に自信があったし馬力もあるから、よし俺が行ってやると、そういう形での学生運動への関わりだったように記憶していますね。

社会党的貧乏と正義感の継承者

小林 あの六〇年安保闘争に前後して、社会的な矛盾もいろんな所で噴出してきて、中小零細企業では労働争議が続発した。それは、どこが指導したというより、かなり自然発生的なものだった。事実、我々が争議の応援に行っても、共産党や社会党が組織的に指導したという状態じゃなく、今までブスブスしてた連中がみんな手を組んでワイワイ騒ぎだすというものだった。そういう中で非常に特徴的だったのが、看護婦を中心にした病院闘争だった。病院の中では、医者に比べて看護婦は非常に差別的な抑圧をされてきて、その矛盾が一気に火を吹いた訳です。看護婦が病院の庭でデモやると、二階、三階の窓から泥水や雑巾水を医者がぶっかけたり、病院側対看護婦が本当に暴力的なぶつかり合いを繰り返したりという状況だった。
 そこに我々みんなが応援に行ったんだけど、牛越がそれにえらく感じ入って、当時建設者同盟に連絡ノートというのがあって、そこに牛越が切々と、労働者がいかに弾圧されているか、もう勘弁できない、許せないという気持を書いているんだよ。みんな知ってるように、牛越の文章は決してうまくない、何書いてるのか分らないとこもあるよ、正直言って。だけど、あいつの切々たる気持が伝わってきて、俺はそのことが一番印象に残っている。あいつの一生というのは、権力の不正に対して感覚的に本質的に許せないということだよね。あれは学生の時から一貫してあった。
 さっき学生運動にちょっと触れたけど、我々はブントの批判をずっとしてきた訳だ。ブントは、社・共ナンセンス、民同ナンセンスと言う。それは、ごもっともだ。Lかし、それをいくら言葉で言っても駄目なんで、そういうものを具体化する戦略が必要だということで、我々はブントの小ブル急進主義的な学生運動を批判してきた。それで、六〇年から六五年にかけて、矢沢君等を中心とする東水労や東交、全逓その他の労働者部隊とのジョイント、労学連帯をかなり意識的に進めてきた。
 そういう中で、牛越は親父が和田派の幹部だったこともあって社会党本都に入って、それ以来今日まで社会党とその外の運動、あるいは労働運動や社会運動の中心と外の糸を結ぶ重要な役割を果たしてきた。いわば、権力の不正や抑圧を許さないという我々の正義感を労働運動や社会運動の中に根づかせ、展開し、拡大していこうとする点では、他に例を見ない人間だったし、非常に貴重な人問だった。
秋山 六〇年安保闘争とその後の病院闘争の頃というのは、無茶苦茶な生活をしていた時代だね。毎日病院闘争で、昨日は東京女子医大、今日は順天堂、明日は東邦医大にいく。とにかくどっかの病院に行っては争議をしていた。それでいつも佐々木さん、下山さん、後藤さん、石黒さん、玉川さんとか五、六人がいつも順天堂で一緒に寝泊まりして、二ヶ月位ほとんど泊まっていた。夜になればあそこに行くと飯が食えてね、バターと醤油だけで飯食ってさ。百円あれば一日五、六人は飯が食えたな。
小林 そうそう、あの頃はひどい生活してたよな。パン屋に行ってサンドイッチの耳くれというと一袋くれるわけだよ。それで一円払うんだよ、十円じゃないぞ。そして食べながら、オッこれはジャムが横にくっついてるなんて喜んでたもんだ。
 六〇年安保の時に我々うれしかったのは、差し入れがものすごいんだ。社会党本部に行くとアンパンだ握り飯だとガンガン入ってくる。だからあの頃は飯食うのに全然苦労しなかった。
 俺なんか、かあちゃんと一緒になった後、デモに行く時にだいたい今日はパクられるかどうか判るだろう。それで歯ブラシとタオル持って出かけていって、予定通りパクられる。すると家のかあちゃんはほっとするって言ってたよ。ムショ行けば殺されないし、絶対三食の飯は食わせてもらえる。家にいたんじや、五十円で百円でも銭かかる。あの頃は入ると下着位差し入れしてくれる。それで出てくる時は丸首シャツとサルマタ持って出てこれる。そういう時代なんだよ。
 社会党でも、党人派の代議士は清貧に甘んじながら運動をやってたよ。浅沼稲次郎でも三宅正一でも、あるいは戸叶武でも、昔の政治家に共通してたのは、反権力の強烈な姿勢と貧乏だ。戸叶と一緒に飯食った時に、たまには贅沢しようかと言って、オイ、ギョウザ三人前取れと、そんな調子だよ。夫婦で国会議員やっていてだよ。
石井 三宅正一もそうだった。早稲田の先輩である三宅さんの長岡の家にいったら、“ヨーッ”て三宅さんの息子さん(彼も早稲田の出身ですが)が出てきたんだけど、見ると靴下に穴があいてて、麦飯ばっかり食ってる。電話代払えなくてしょっちゅう電話は止められてるし、もう火の車。
 その点では、小林さんの言ったような、社会党のいい意味での貧乏と正義感を牛越君は引き継いでましたね。
下山 あいつも本当に最後まで、とことん貧乏してたようだな。そういう中で、全国に点在して貧乏しながら苦労してる仲間の面倒を本当によくみていたよ。

皮ジャンと黒ヘルメットの登場

小林 社青同が結成された当初の労働組合部隊は、民青に対抗させるために、社会党系各単産青年部がそっくり社青同に移行する形で作られたし、地域ではそこの社会党の青年党員が社青同を作るというのが一般的な形だった、全国的に。いわば第一期社青同は、労働組合の青年部、社会党青年部の地域組織だ。
 それがいくらか変化してきたのは、学生が社青同の地域支部に入って運動を始めた頃からだ。俺も大学院に入った頃、新宿に真っ先に出ていった。その頃、牛越も調布で地域支部を作っていた。わりあい左翼的な支都になった所は、学生が入っていった所か、東水分や東交、全逓のように反合闘争を一所懸命やった所で、それが社青同の東京地本派みたいな傾向を作っていく。社青同の第二期だな。
牛越 調布の社青同について少し言っておくと、最初六〇年頃に日本針布労組青年部を中心に社会党や労組が上から作ったんですが、開店休業立ち消え状態になってしまって、これじゃいかんというので六二年に兄貴なんかが中心になって、全逓、航空計器、東京重機、栄太楼、島田理化工業等を集めて再建するんです。その後、日本針布班が組織された。近所に山花秀雄さんが住んでいて、家を開放してくれて、よく酒を飲みながら話し合いをしたものです。
 地域班としては、六五年初頭に高校生中心に「上の原闘争委員会」を作って日韓闘争を闘う訳ですが、六四年頃から佐藤悠さんがうちに下宿してたから、彼が講師になって、兄貴、俺、熊沢、竹田、石井さんもきてたかな。あとは家の近くに住んでる高校生や全逓の若いの集めて。理論の学習会だけじゃなく、学校の勉強なんかも教えてね。兄貴も時々、国語なんか教えてたな。それで日韓闘争では調布で一四〇から一五〇位の部隊を出した。
矢沢(東京都労働組合違合会委員長) 俺が牛越と伸良くなったのは日韓条約反対闘争の頃だから、一九六四、五年だな。まあ、ガキみたいな付き合い方でね、五〇歳になってもそういう付き合い方だった。お互いに会うと、アーとウーしか言ったことがないんだ。牛越と一五分以上話し合ったことないよ。いつもお互いにアー、ウーって言うだけで、喋る時は相手の悪態ばかりついて、こんな関係だけで二七、八年付き合ってきた。
 俺も強い方だけど、あいつは喧嘩が強かったな。俺は一回、かなり危ない時に助けられたことがある。あの時牛越に助けられていなかったら、顔半分位ひしゃげていただろうな。だから、あの野郎にはでかい借りがあったよ。
 だいたいどんな奴でも会議や集会で一回位演説やってるもんだけど、牛越の演説やってるのは見たことが無い。ただ、社青同東京地本で全逓班協や調布の組織を作るのを見ていると、組織化はうまかった。他と対抗関係作りながら調布を固めてさ。オートバイとか皮ジャン着て黒ヘルメットかぶるというのを流行らしたのは、調布や三多摩が最初だったよな。どうも牛越のタイプは、共産主義者というよりアナーキストだな。
牛越 あれは三多摩の第四インターが最初ですね。三多摩は広い上に、中央線、京王線、西武線沿線の、東京に向かって縦の線以外は横の交通網があまり無くて不便だから、オルグや会議、集会参加等の関係で車がどうしても必要になる。それでインター主流の社青同三多摩分室がオートバイを使いだした。対抗上、調布の我々もということで、当時はバイクも高いし、みんな若くて給料も安いからアルバイトして買ったんです。そのうち、バイクに乗るのが楽しくなっちゃって、暴走族みたいのが出てきちゃってね。ただ、兄貴はあまり運転はうまくなかったな。
 昔の親父たちの左派社会党の時代は、皆自転車ですね。それで八王子だろうとどこだろうと、オルグに走り回っていた。夜遅くなると電車がなくなっちゃうから……。
 デモに皮ジャンとヘルメットで登場したのは六六年九月の横須賀で、原潜入港阻止闘争の時に社青同三多摩分室の部隊ですね。調布の突撃隊は五〇名で、学生がゲート前に座り込んでいる横を機動隊に突っ込み、向うも初めてだからビックリして後退、三〇〇の部隊はゲートを突破して米軍基地へ入った。そこは外と違って静かで、正面にカービン銃を持った米兵が二〇名位整列していた。撃たれる!皆がそう思った。
矢沢 調布の社青同はよくパクられていた。みんな牛越に続いてパクられて……。牛越がパクられると大変なんだよ。あいっはかなりひどい喘息だから、留置場の中で発作を起こすと相当ヤバイんだ。それで牛越の子分ともが、これが本当に子分という名にふさわしい連中だったけど、警察に押しかけて薬を入れさせろといって騒いでいた。

過去の運動と現在との断層を埋めるもの

下山 病院闘争の前後にいろんな人が登場し、あの辺で社青同のいわゆる解放派の方向性が、その後の社青同東京地本の体制なんかも含めて、ほぼ固まったんですよ。そして東交が頑張ったり東水が頑張ったりいろいろあり、学生運動の方も三派連合(つるや連合)を契機に登場してと、そういった背景の中で、七〇年に社会党から排除されるところまで行く訳だ。
 牛越を語る場合に、社会党と社青同、あるいは社青同解放派との関係抜きに牛越なんて無い訳だよ。
秋山 七〇年の反戦バージでみんなが社会党から除名されたり、社会党から離れていった時に、牛越も党本部を辞めようかとものすごく本人悩んでいたようだね。悩み抜いた末に残るという結論をだした訳だけど、多分それでふっ切れてから、本当に社会党の運動を、国民運動を徹底的にやるようになったんじゃないかな。だから基地闘争でも何でも社会党として、何派がどうこうということじゃなくて、俺は社会党なんだということでそういう運動を全部作っていく、本当に割りきって飛び回っていたんだと思う。
矢沢 牛越はともかく大衆運動主義者だったな。とにかく大衆運動で全国を騒がしていれぱやがてなんとかなるかもしれないという感じで、北富士でも沖縄でもどこでもやっていた。いつも彼の喋るのは大衆運動のことだったよ。大衆を組織する、大衆の判断を組織すれば世の中の役に立つ、世の中のためになっていくということだったんだろう。
 いい時代の社会党というのは、ああいう大衆運動家をどんどん育てたし、彼を生かしたんだと思うけども、今、もし大衆運動ができなくなる社会党に変わるとしたなら、牛越は社会党を誰よりも愛していたから、ある意味ではいい時に死んだと思っている。彼の葬儀の時にも言ったんだけれど、牛越は牛越を必要とする歴史の中で登場して、あいつらしくさわやかに、精一杯やるだけのことはやって消えたという感じだな。
小林 要するに、我々もそうだけど、昔、牛越にも社青同解放派の時代があったということだよ。あったけど、じゃー今、我々が解放派であるなんて言われたら困っちゃうよ。別にそんな組織は今存在していないんだから。
 そういう時代があって、それが彼の人生を大きく規定したことは間違いないけど、それだけで牛越は語れない。一方には、社会党的な大衆運動の責任者として運動を展開してきた、いわば社会党の中での一つの良識の代表でもあった訳だ。とりわけ七〇年以降の彼は、そうした貴重な存在だったと思うな。
 建設者同盟の先輩で社会党本部に瀬尾さんていただろう、俺は彼は建同出身の心を持った人だと思っているんだけど、彼は牛越とすごく仲良くて、無二の親友と言うか、俺も一緒に三人で二、三度呑んだことあるけども、その時には牛越が我々に見せないような非常に楽しそうな雰囲気で呑んでるんだよ。我々に見せるのとはまた違った人間的な交流というのを大切にしているというか、真底大事にしてるんだな。
 人問というのは断片的なものじゃないわけだから、人生のある一時期の断片的なものだけで一つにくくろうとするのは、牛越の本意ではないと思う。
下山 小林が言うように、我々にそういう歴史的な一時期があったということなんであって、問題はそれをどうやって自分なりに消化し生かしていけるかということだよ。
 社会党には、共産党だけじゃなく、革マルや中核とか、その他あれこれいろんな政治的過去を持った人がかなりいる訳だ、社会党というのは、過去にどんな党派であったにせよ、そういう人達が入って活動できる政党だったけれど、本当はそういう人達のエネルギーをうまく消化して生かす政党であってほしいんだけど、下手というか生かせないままにきてしまっていることが社会党の限界かなと思うね。
小林 昔の社会主義運動は、ともかく社会的な不正を許さないという正義感が前提だった。個々の人間は、政治的過去だけじゃなく、酒好きであったり、女好きであったり、あるいはバクチ好きだったりと、いろんなのがいたけど、ともかく世の中の不正は許せないという人間の良心といったものが原点だったけど、今の社会党にはそれが徹底的に欠けている。
下山 社会の悪に対して闘うというのは、これからもずっと大切なんだけれども、今は自ら社会の主人公になってどうするかという時代なんだよ。我々は反権力を言い、反権力闘争もやったけれども、それ以上ではなかった。社会に対する批判者として、それを組織したり、社会党を変えようとしたことを含めて、かなり優秀な批判者だったと思うけど、結局それが党派闘争の領域に収れんされていってしまったことが大問題なんだよ。
小林 政治的な既成の権力、制度、組織、人に対する批判者であったけれども、それが結局は一般的に社会党は駄目とか労働組合は駄目となってしまった訳だ。
秋山 比喩的に言うと、建設者ではなかったということですね。
 しかし、社会党も七〇年安保闘争前後の世代の多数を除外したことは大きなマイナスになっており、今になってその世代のさまざまな考えの人達を結集しようとしている。
 そういう意味では、牛越は今いちばん総合的な政治力を発揮できる時代になったときに、去ってしまった。
下山 昔、我々が、青春やら生活やら、あるいは時として命もかけた運動があり、今またそれぞれの生活と活動がある訳だけど、相当多くの人々にとって、私もそうだが、その間の断層を埋めるものがない。なぜなら、過去の運動は刃物で断ち切ったように中断して終わった。
 ほうり出されたたくさんの人々は、発想もよりどころもという意味で、無一文から生活手段や運動やらに取り組み、はい上がって来て今の何らかのことを築いて来た訳だから、昔の仲間をもう一度新たな発想でネットワークしていくことも、あるいはなぜ過去は一緒にやっていたが、今バラバラになっているのをつないでみようとするかということも、誰かそう思った人がいろいろやってみるしかない。そういう点で、牛越は適任者だった。
 六〇年安保世代でも唐牛がそんな発想で、仲間を集めては飲み食いをやり、お互いの今のあるいはこれからの仕事に役立つことがあれば利用し合おうとした訳だが、ある程度それはそれなりの意味があった。しかし唐牛が死んで中途半端になってしまっている。
 解放派の場合も、牛越が途中までやって何か出来るかなという所で死んでしまった。彼の意図と彼がやった役割はまだ大いに価値があるのだから、それを生かすことは必要だ。ただ、誰がやるか、秋山君あたりがやるしかないのじゃないか。
小林 人は、そして人の歴史は、人の持つ善と悪なるもの、正義なるものと不義なるもの、道徳的なものと非道徳的なものといった二極の間をさまよいながら歩みつづける。
 人が曲がりなりにも今日まで存在し得たのは、少なくとも人の良識が、人の間違いや歴史の歪みを少しでも正そうとするささやかな努力があったからだろう。
 牛越君は、まぎれもなく二〇世紀の一つの時代を前向きに、真摯に生きようとした男だったと思う。人が生き続ける限り、牛越君の魂も永遠に生き続けるだろう。
 さらば、熱き友 年越公成よ!
 一九九二年一〇月二日


『牛越公成−−人とその時代』所収
編集・発行 牛越公成追悼集刊行委員会
発行日 一九九二年一二月一五日