1997年3月

一点突破、全面展開を呼びかけ続けた宮林君
−−政治活動は、道義と仁義と度胸だ

内田雅敏

 宮林君の一周忌の追悼の集まりがあったとき、佐々木慶明氏が農業者としての宮林君について話しながら、日韓闘争と宮林君の関係にも触れ、“同じ学生運動でも日韓闘争前と後では大きな違いがある。日韓闘争には労学共闘があった。宮林君はまさにその日韓闘争を闘って来た世代である”と語った。この話を聞きながら三〇年前を想い出していた。日韓闘争の最終局面でのことだった。当時の早稲田の学生運動を領導していた社青同解放派のK氏が、私達の前に「一点突破、全面展開」という戦略を提起した。それは学生の闘いに呼応して、まず労働者部隊の先進的な部分がストライキに入る。そしてそれに触発され、他の労働者も次々とストライキに突入する。このようにして、一点突破の闘いがやがて全面展開し、ゼネスト状況を作り出し、南の朴独裁政権を支え、朝鮮半島の南北分断を固定化することを目論む日韓条約を粉砕することができる。これがK氏の提起した戦略であった。
 当時の私達の日韓条約反対闘争については、植民地支配に対する謝罪の視点が欠けているなど歴史認識の欠如という不十分性があったのだが、そのことについて触れることが本稿の目的ではない。とにかくK氏の提起を受けて、当時宮林君と同じく大学二年生で何も判っていなかった私は、“はあー、素晴らしい戦略だ”と想った。そしてもしかすると、本当に日韓条約反対闘争が全面展開するかもしれないと想った。
 というのは、一緒にK氏の提起を聞いていた宮林君がいかにも自信ありげに、“どうだ、内田、これしか方法はないだろう”と話しかけて来たからであった。その後K氏の予言がどうなったのかについて書く紙幅はないし、また書こうとも思わない。
 後年になって秩父困民党に関する本を読んだとき、天皇制中央集権国家に対して武器を取って蜂起した秩父の農民らが交わした合言葉が、“秩父が起てば、これに呼応して佐久が、上州が起つ”ということであったという箇所を目にして、はたと気付いた。“まてよ、これはどこかで聞いた言葉だ”と。そして思い出した。日韓闘争のときの「一点突破、全面展開」を。つまり「一点突破、全面展開」というスローガンは、徒手空拳の民衆が権力に対時するに際しての民衆連帯の永遠の呼びかけであった。
 宮林君は学生運動を経て、社会に出てからも、職場で地域でずっと運動を続ける中で、彼は常にこの「一点突破、全面展開」という民衆連帯の言葉を、とりわけ後半生は彼白身がその一員である農民に対し呼びかけ続けた。私達は、彼のこの呼びかけをよく受け止めたであろうか。
 冷戦構造の崩壊、日米安保の重圧にあえぐ沖縄の闘いなど、そしてこれを正面から受け止めることのできない社会党改め社民党の変質を見るとき、政治運動には道義という高い志と、闘う仲間に対する連帯、すなわち仁義と、そして度胸が不可欠であると思われる。宮林君はまさにこの道義と仁義、そしてとりわけ度胸をもって闘いを継続し人生を駆け抜けたと思う。しかしそれは、あまりにも早い駆け抜けてあった。
 今、五〇代に突入した我ら全共闘の頭世代、大学では勉強こそしなかったが、「権力との距離感」だけは学んだと思う。今そんな我らがそれぞれの所で地道な活動をしていることが確認されている。農業の分野における宮林君の活動もそうである。それは必ずしも「反帝、反スタ」でなく、かつてであったならば、せせら笑っていたかのようなゆるやかなものであるかもしれない。このような同世代の存在を見ることは心強い。冷戦構造が崩壊し、東西対立が解消した今、地球上の紛争の主要原因としての南北問題の解消こそ急務である。南北問題の解消、地球上から飢えをなくすためには、何よりもまず、各国がそれぐれの食を自ら供給することであると思う。その意味では、宮林君が活動領域としていた農の分野こそ、すぐれて根源的(ラディカル)なものであったと思う。
 宮林君が終生呼びかけ続けた「一点突破、全面展開」、すなわち民衆連帯の永遠の思想、これを私達はもう一度自らのものにしようではないか。そして各自の地道な活動を、道義と仁義と度胸をもってさらに進めようではないか。


『労働による自己実現を!−−宮林光之君追悼集』所収
編集・発行 宮林光之君追悼集刊行委員会
発行日   1997年3月15日

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