学生運動民主化協議会の結成趣意書

 全学連第八回中央委員会に先だつ学生運動は主として、次の二つの特徴を持つものであった。一面では学生の中に存在する分散的な経済要求に対する分散的なサーヴィス運動であり、他面では学生のありふれた平和意識と享楽感覚とを無批判に政治的基盤と錯覚して、それに安住した歌声カンパニア運動であった。
 こうした路線から学生の政治的経済的要求を反政府運動という新たな路線に移し変える方向を明示した点で、全学連八中委に代表される決定と方針は学生運動の担わねばならない一つの側面を正しく指摘したものとして評価されるものである。それは資本主義制度の社会的圧迫を他の諸階層の人々と共にのがれる事のできない学生が、文化思想政治経済のあらゆる生活の中でこの圧迫をはねのけ、教育と研究の開かれた場をかちとる為に政治闘争を学園の中に導き入れた事を意味する。
が、この八中委決定がさし示した学生運動の方向はその後必ずしも望ましい合理的なそれ故に強力な方向には発展しなかった。
経済闘争という名で呼ばれた授業料値上げ反対闘争や国鉄運賃値上げ反対闘争は政府の経済政策と真正面からぶつかり合う闘いであったにもかかわらず、忍耐強い永続的な組織活動の無いままに思いつき的な一揆的な街頭デモで瞬時に終ってしまった。同様な事は教育二法改悪反対闘争についてもいえるのである。運動の成果は止むを得ずデモに参加した学生員数、行進の中で行われたジグザグデモのはげしさに求めざるを得なかったのである。こうして学生運動は学生生活の経済的政治的既得権を奪われるがままにそれに反抗し、食い止める事すら出来なかったのである。そして学生運動が求めた政治主義を比較的長い期間にわたってつらぬき得るただ一つの場は、平和運動だったのである。当時全国をおおいつくしていた原水爆禁止運動の一翼として闘いながらも学生運動の果した役割は当時この全国民的運動の持った穏和な非政治性を装う性格に叛旗をひるがえしたものであり、原水爆禁止の実現が全国民の政治的行動にかかっている事を指摘して、日本の平和運動が政治闘争として歩むべき道を明らかにしたものであった。ところでこうした重要な成果を持ちながらも、学生運動はこの瞬間から危機に入りこんだのである。
 学連の運動方針が政治主義に一元化されるに至ると、学生大衆は学生自治会に対して彼等が学園内で具体的に直面する経済要求や文化要求などの解決を求めなくなった。その結果学生大衆は文部省から学校当局に至るまでの教育権力者が加える学園生活における経済的政治的権利への攻撃に自己を武装解除したのである。我々は今、こう断言する勇気を持たねばならない。『現在学生大衆は彼等自身の教育権防衛の為の組織すら持っていない』と。学生大衆はすでに自治会組織を自らのものと考えてはいない。それにもかかわらず学連が自治会構成員全員の言葉をもって(しばしば全学連三〇万≠叫ぶ)語る時彼等は形式的に自治会大衆の支持を略奪する。反対者やおくれた人々に対する誠実な謙虚な説得の態度など微塵もない。彼等はただ現実を観念と形式によって飛躍しようとする。勿論現実の比重はこうした観念や形式のそれよりも何百倍となく重いのである。こうして学生大衆が政治にかかわり合う最低の形式ですらある民主主義が公然と否認される。『バカ民主主義は愚劣である。政治的ロマンチシズムはやめたまえ』冷笑的にこううそぶきながら指導者は二〇世紀のマキアベリ、を装うのである。
 更に、運動の獲得物が学生大衆の動員数と街頭行動にしか求められない以上、学連指導部から学生大衆が求められたのは他ならずはげしい闘争に相応する高度な政治意識ととりわけ危機意識の承認であった。そして危機の存在が間違いないものであったとしてもその事を学生大衆が理解して一致した組織力を持って闘いをくりひろげてゆく為の指導部と学生大衆との連結環はどこにも見出されなかったのである。こうして学生自治会を構成する学生大衆のうちに、学連指導部の政治意識と危機意識とそれにふさわしい行動形態とを承認する少数部分と承認しないあるいは少くとも無関心な多数部分とが分かれて生み出されたのであった。
 和歌山のはげしい闘いを経てゆれ動く勤評闘争の中で開催された全学連第十二回大会はいわゆる十一回大会の転換≠フ発展的確認と擁護をほこらかに宣言した。この転換の思想は次の様にまとめる事が出来る。『学生が持つ固有などの様な要求も労働者階級の政治闘争と結びつく学生運動によらなければ決して解決され得ないであろう。更に学生が一つの社会層として社会解放闘争に有効に入りこんでゆく為には労働者階級の政治的解放闘争と結びつかねばならないだろう』こうして例の学生運動は労働者の同盟軍である≠ニいうテーゼが生まれおちたのである。この思想と方針はそれを一般的に繰り返えすかぎりでは疑問の余地無く正しいものであった。それにもかかわらず我々が一度このテーゼにのっとって学連指導部によって組まれた様々の運動をしらべてみる時、むしろこのテーゼそのものの中に学生運動のつきあたっている壁へのかたくなな盲目を見出すのである。
 ところで学生運動が労働運動と結びつくという事は現学連指導者にとって何を意味するのだろうか。彼等は学生層を称して一般的にプチブルジョアと呼ぶが、こうした本質的に保守的な社会層に位するにもかかわらず学生の特質は思想的理論的先駆性にある。ここに学生運動が政治闘争として大衆的に組織される現実的基盤があるのだと。
 我々は学生が持つこうした特質を認めるものである。これは学生が他の諸階層よりもより有利なエネルギーを闘いの中にもたらすものである。我々が批判するのは現学連指導部がこうした理論的前提を持って次の様に語る時である。『学生の闘いはプチブルジョア的意識とプチブルジョア的要求のわく内に宿命的にとざされねばならぬであろう。彼等は政治闘争以外には他のいかなる闘争を組み立てる等質的な要求を持っていない。したがって学生は直接的政治闘争によってだけ労働者と共に闘う事が出来る。それは中間階級に政治的な電撃を与え、彼等を少しでも労働者の側にひきよせる任務を持っている。』こうした結論から生まれ出て来る実践的方向は様々な形で学園生活へ直接間接に加えられて来る敵の攻撃への体の良い武装解除なのである。
 十一回大会の転換の示した労働者との同盟も如何なる結び目によって日本の学生大衆が労働者階級の解放闘争と結びつくのかを明かにしはしなかった。彼等のいう労働運動との結合はただ次の事を意味するにすぎない。学生はプチブルジョアジーである。それは決して労働者階級のあらゆる要求を完全に自分達のものと考えはしないだろう。労働者階級の闘争がプチブルジョアジーを含み得る政治的要求で闘う時のみ学生はこの闘いに共に参加するだろう。こうして彼等の労働者階級の同盟軍としての自負はあまりに気まぐれなものとなるのである。何故なら労働者がプチブルジョアジーを含み得る闘争を闘う時のみ学生は大衆的に層としてこれと同盟することができるのであるから。そしてこの気まぐれな同盟軍はこうして意気揚々と名のり出た途端にこの名前の重みにはしなくもおしつぶされたのである。春闘と学生運動の結合≠フ茶番劇一場がこれを物語ってくれる。春闘における労働者階級の経済的政治的要求にどの様に学生大衆の闘いを結びつけるかは一言も語られなかった。華やかだったのは同盟すべき労働者階級への罵言だけではなかったか。裏切り的日和見幹部を暴露せよ。彼等が春闘に見られる労働者のエネルギーを窒息させようとしているのだ!
 我々は第十一回大会の転換を否定しはしない。我々はそれを心から歓迎する。ただし我々が現学連指導部からゆずり受けるものは彼等の語る一般的に正しい形式的テーゼだけだ。我々はこの形式的テーゼに本当の意味で肉と血をそして骨を与えようと思う。それは他ならず労働者と学生の闘いは奴何なる点で何をもって真の永続的な強固な結び目を見出すかにある。

 我々の考えによれば学生運動と労働運動の最も普遍的な結合点―最も必然的な結合点は、学生運動が働く国民の教育権拡大の為に積極的な闘いを組む事である。すでに教育は一にぎりの社会層の特権ではなくなっている。大学教育も例外ではない。我々が働く国民と共に直面している重要な問題の一つは労働者と農民をはじめとする勤労者の教育の権利と機会を拡大する事にある。我々学園に学ぶものの多くは決して日本の特権的社会層に入りこんで行くものではない。我々学ぶ者は社会的労働の指導的勤労者としての将来を定められているものである。したがって我々自身の教育権の拡大は働く国民の教育権の拡大と同じものである。我々が学園で闘う教育権拡大の為の闘いは働く国民の教育権拡大の方向で闘われる時にはじめて国民的解放闘争の中にくみこまれる。我々が学園の教育条件改善の為に闘いをよびかける時、それはプチブルジョアジーの叫び声ではない。我々が経済闘争をかかげる時、それは常に勤労人民により大きな教育の機会と権利とを約束するという視点から組織されるだろう。こうしてすでに与えられている教育の権利が権力者によっておびやかされる時、これを働く国民の教育権侵害としてはねかえしてゆくだろう。更に闘いはこうした守勢的なそれにとどまる事なく我々の側から教育権拡大―経済的にも政治的にも思想的にも―の国民的要求をかかげて進むであろう。働く国民の教育権拡大は抽象的な自然法学者の理解から主張されるものではない。働く国民の教育水準の向上が彼等に彼等自身の解放の力と勇気を与えるものだからだ。働く国民が社会の主人公となる時教育の権力は働く国民の手にゆだねられるだろう。しかもそれ故に現在の教育権力者からの教育権の奪還は日本の解放闘争の重要な一環にくみこまれるものである。この闘いが今まさに教育を受け日本の知識階級の母体となっている学生に主として課せられなくて誰に課せられるというのであろうか。この闘いこそ工場で農村で日毎苦しい労働生活を送りつつ勉学への大きな希望を持ちながらもその機会を与えられない何百万の勤労人民を我々と共に社会的進歩の闘いにくみこんで行く果たさなければならぬ闘いではないだろうか。
 我々は以上のべて来た働く国民の教育権の拡大と確保の為にという視点にたって今後の学生運動を組まねばならないと思う。もしそうであるならば、学園に様々な形で加えられて来る教育の既得権侵害に対して自治会組織は無関心ではいられないだろう。教育権侵害に対する防衛闘争は一時の街頭デモや学長つるしあげなどだけの気勢上げで闘われようはずがない。そこにはあらゆる面にわたる闘いの準備と学生大衆の誠実な説得と本当の意味での大衆動員が必要とされよう。何故ならそうでなかったら攻撃をはねかえす事は出来ないからだ。更に又我々が教育の権利を拡大し、教育権力者が独占する権利を奪い取る事を目的として闘いをくむ時、この事は一層必要となろう。学連がかつて闘った闘争の形や方法は闘いの内容の変化に応じて又闘いの担い手の変化に応じて変って行くだろう。
 我々が守らねばならぬ必須の原則は闘いの新たな担い手である大衆が闘いに参加する道すじの内、最もプリミティブな形式―民主主義を守る事である。この民主主義は組織指導郡の深い討論と配慮が与える政策と思想の誠実な宣伝の場とならねばならない。闘いの形態は指導郡のイニシアティブで討論に附せられる事は勿論である。がそれにもかかわらずこれを最後にきめるものは大衆の意志である事を忘れてはならない。我々は今後の闘いが恐らく広汎な学生の街頭行動に発展するだろう事を否定するものではない。我々はそこまで闘いを導かねばならぬだろう。それに至るまでには主として学園内部での忍耐づよい永続的な闘いの準備がなされねばならないと考える。我々にとって闘いの成果の基準は街頭行動に参加した学生員数ではない。我々の闘いは『敵の加えた攻撃をどこまではねかえしたか。我々が教育権力者につきつけた要求のどれだけをかちえたか。その闘いにどれだけ多くの大衆の支持と理解と参加とを得たか』によってはかられるだろう。この時、学連と自治会は学生大衆によって思想と研究と創造の組織的武器とし再生させられるだろう。
 以上我々学生運動が他の諸階層の解放闘争と有機的に結びついて果して行かなければならぬ学生運動という特殊な領域の闘いの基本的な立脚点を明らかにして来た。それは一個の社会層としての学生が資本主義体制の中で結びながら、しかもそれと対立する関係を闘いの場とする事であった。学園の中で結ばれる権力者と学生大衆との関係が含む矛盾に最も重要な運動の環を見出したものであった。
ところで我々は次の様な反問が当然課せられる事を知っている。『かつて学連がなしとげて来た平和と民主主義の為の全人民的闘争における政治的な先駆性はどうするのか。』
これに対して次の様に答えよう。
 まず我々が今後組織する闘いは決して分散的な経済政治闘争ではない。それは生命あるアトムとしての自治会単位組織の独立した能動性を基盤とする地域的全国的闘争として進められるものである。それは地方自治体権力への攻撃と日本政府への攻撃とによって国を支配する体制そのものにくさびを打ち込んで行くものである。その意味で我々の闘いは政治性を投げうつものであるどころか逆にそれへのはるかに有効な接近を不断にもたらすものである。
 第二に全学連が守り続けて来た平和と民主主義の為の闘いについては、我々はこの成果をそのままうけつぐものである。今後くり広げられる反戦平和闘争、反帝国主義闘争、民主主義擁護闘争はこうしたすべての成果をふみ台とするだろう。これ等の闘争は国民的な政治的既得権への攻撃と戦争とによって仕組まれる反動的な独占資本、政府の政策を封じこんで行くという意味ばかりでなく宿命として反動と戦争の道しか進めない独占資本政府そのものの打倒をかちとって行く為の闘いとなるだろう。今後ともこれ等の闘いを力強くおし進めて行く戦闘的な活動家が必要とされるだろうし、こうした人々の任務と能力を一般学生大衆のそれと同一視する事は出来ない。けれども学生大衆の血液と呼吸に再生された将来の全学連はこれ等の人々を本当の意味で全学連の機関車として迎えるだろうし彼等を孤立させないだろう。反戦、平和、反帝国主義、民主主義擁護の闘いは恐らく早くはないだろうが底力のある氷河の様な歩みを進めるにちがいない。
 我々の闘いの方向はすぐれて政治的である。何故ならば我々の闘いは権力者に政策の修正と後退を余儀なくさせるからである。我々は学連がつちかって来た反戦平和闘争、民主主義擁護闘争をうけつぐだろう。それは我々がこれまでのべて来た方針でなしとげられる再生した、即ち大衆自身の手にとりもどされた自治会と全学連の組織によってしっかりとおし進められるだろう。我々の力の方向は権力者に実質的な後退を強制する事である。

 以上の基本的な綱領的原則にもとづいて、我々はここに学生運動民主化協議会の結成を宣言し、これに自治会活動家が積極的に参加することを呼びかける。我々は全学連組織内部で我々の思想と方針を主張しひろめてゆくだろう。

○東京学芸大学小金井分校自治会有志
○東京学芸大学世田谷分校自治会有志
○東京大学教養学部自治会有志
○東京大学文学部自治会有志
○東京大学農学部自治会有志
○東京大学医学部自治会有志
○東京大学経済学部自治会有志
○早稲田大学文学部自治会有志
○国際キリスト教大学有志
○東京外国語大学自治会有志
○中央大学自治会有志
○明治大学自治会有志
○社会党東京都連青年部

一九五九年五月

 この結成趣意書は、カットで出されたものと、後に『学生運動』bPに掲載されたものとで細かな点でいくらか異なっている。初出を基本にしながら、明らかに修正されたと思われる点を取り入れた。