相対的安定期に於るドイツ共産党とコミンテルン

志村 二郎


 目 次

   はじめに
(1)戦後ドイツ革命の終焉と「相対的安定」期
(2)運動の基本構造
(3)産業合理化反対闘争
(4)「政治闘争」の問題
(5)「労働組合統一の闘い」
(6)「社民化」の問題

 はじめに

 従来「相対的安定」期におけるドイツ共産党の運動については比較的に注目されることが少なく、関心はむしろ「第三期」以降に集中されているように思われる。たしかに「第三期」以降のドイツ共産党とコミンテルンは「社会ファシズム論=主要打撃論」や「経済闘争の独自的指導=赤色労働組合主義」等純化された思想と行動をもって全力疾走を行ない、その結果は、三三年のファシズム権力の成立とドイツ労働者階級の“闘わずしての潰滅”という事態に示されたように.当時のコミンテルン理論の破産が、目に見えるかたちでつきだされているという限りでは「第三期」以降が問題であるように思われる。
 だが、それを単にコミンテルンの「セクト主義」やスターリン主義の「裏切り」の結果とする不毛な「総括」を超えるためには、三〇年代における決戦でのドイツ労働者階級の決定的敗北は、まさに、二四年以降の「相対的安定」期の全過程で準備されていったのであり、さらにそれは「レーニン死後の第三インターナショナル」の“スターリン主義的変質”にとどまらず、根本的には初期コミンテルンそのものの問題でもあったことに注意しなければならない。問題は、ファシズムによる権力掌握に先立つ過程でドイツ労働者階級が反ファッショ=社会革命として闘い抜くだけの階級的。政治的成熟をどこまで獲得していたのか、そして「前衛」たるコミンテルンとドイツ共産党はその点において何を為しえたのかが問われなければならないのだ。
 たしかに二四年以降ドイツ労働者階級は戦後革命期とくらべれば眠り込んでいったように見える。例えばローゼンベルグは次のように書いている。
 「ドイツでは多数の共産党系労働者は一九二四年から二八年にかけては、根本的に社会民主党系労働者と全く同じく、合法性と安定化の気分に浸っていた。共産党系労働者も仕事についているときにはとくに、安泰を望み、革命を全く考えようともしなかった。急進的な演説や、ソ連の映画とても日常の娯楽に属していたわけで何ら彼らの行動を義務づけるものではなかった。」(『ワイマール共和国史』)だが三三年のファシズム権力の成立とは、戦後ドイツ資本主義の深刻を危機を基底に、ロシア革命によって強力な衝撃を受けたドイツ労働者階級の階級形成の新たな段階への突入に対する全資産階級の最後的対応だったのであり、ロシア革命以降のドイツ階級闘争は戦後革命期、「相対的安定」期、大恐慌以後の起伏はあったにせよ、「帝国かコンミューンか」を現実的な性格として学んでいたのだが、二九年恐慌はそれを一挙に顕在化していく。
 「安定」への契機となったドーズ案の成立自体戦後ドイツ革命の再度の本格的昂揚をつきつけられた諸国政府の反革命的連帯としての性格をも含んでいたのであり、その後の「国民的復興」のための産業合理化運動も又、労働者階級の社会的隷属を打ち固めていくものとしてあったのだが、シュトルムタールが指摘する社会民主党のみならずドイツ共産党の「プレッシャー・グループ化」のもとでドイツ労働者階級は支配階級に「反動化」を余儀なくさせる存在ではありえても、問題を根本的に解決していくには未成熟なまま激動期を迎えなければならなかったのである。
 以上の視点から、「相対的安定」期を中心としたドイツ共産党の活動の内容をいくつかの問題点に於いて検討してみたい。

 (1) 戦後ドイツ革命の終焉と「相対的安定」期

 全国的にレーテ権力を現出させた戦後ドイツ革命がその階級的未成熟の故に一九一八年「十一月革命」を頂点として社民のもとに収奪されていった直後十二月に創立された、ドイツ共産労働党スパルタクスブンドは翌年一月の「スパルタクス蜂起」の中でローザ、リープクネヒト等の優れた指導者を虐殺され、その後ドイツ共産労働党の分裂もあって、党員数は僅か五万前後と言われ、労働者階級本隊の中にはほとんど現実的な力を持ちえていなかったのであるが、二〇年十二月独立社会民主党左派三十万との合同によって一挙に四十万近くの党員数と、労働組合の中での強力な基盤を獲得した。二一年三月行動の敗北によって党員数は十八万に減少するが、うち続く戦後の経済危機を背景とする労働者大衆の左傾化を受けて二二年ドイツ労働組合総同盟ライプチヒ大会では代議員の八分の一を占め、二三年には全組織労働者の三十〜三十五%を掌握していた。
 空前のインフレとフランスによるルール占領は、十一月革命前後の既得権にたいする資本家階級の反撃と社民指導部の抑圧のもとにおかれていた労働者階級の革命化を大きく促進させ、二三年十月闘争の直前には、社会民主党と労働組合総同盟官僚からの大量の離反が相次ぎ、全国的に強力な工場委員会運動(経営協議会)が展開されていた。この工場委員会運動は資本家階級と社民指導部の激しい弾圧にもかかわらず全国で八百を数える生産管理を実施し、非組織労働者をも包括して、事実上の労働者権力の中枢としての性格をもっていたのであるが、そのヘゲモニーはほぼあったのである。
 だが、コミンテルンとドイツ共産定の「右翼的対応」によって「取り逃した革命的情勢の古典的実例」(トロツキー)と言われたこの十月闘争の敗北は、戦後ドイツ革命の終焉とドイツ資本主義の「安定」から急速な復活への決定的な契機となった。
 すでに「安定」の萌しのあらわれていた二四年九月のドイツ共産党フランクフルト大会で十月の敗北の責任を「統一戦線の右翼的理論」として官僚主義的に間われたブランドラー、タールハイマー等に代ってマスロフ、フィッシャー等の「左派指導部」が成立する。十月の敗北は、労働者大会の離党と八時間労働制の撤廃をも含む激烈な資本攻勢をよび起こしており、革命的経営協議会は弾圧の中で潰滅し、労働組合総同盟からの大量の労働者の脱退と、共産党系反対派の孤立化が進行していたのであるが、その中で「尚情勢は革命的である」とする左派指導部によって押し進められた「極左路線」の展開の結果は、二四年十二月共和国議会選挙での得票数の激減となってあらわれ、二五年の労働組合総同盟ブレスラウ大会では代議員三一一名中三名にまで後退し、全組織労働者の一割を掌握しているにすぎなかった。
 二五年三月、コミンテルン第五回プレナムはようやく情勢の「部分的・相対的・一時的安定」を確認したが、その強力な介入によって「左派指導部」は排除され、二五年十一月の党全国協議会でテールマン、ピーク等による「レーニン主義的中央委員会』(スターリン)が新たに成立する。
 コミンテルン第五回大会(二四年六〜九月)以降、官僚主義的に押し進められた「共産党のボリシェヴィキ化」と共に、以後ドイツ共産党は「相対的安定」期での活動に入っていくことになる。
 次にこの「相対的安定」期での社民の動向について簡単に見ておかなければならない。二三年当時、労働者大衆の左傾化の中で危機に瀕していたドイツ社民は、ドイツ資本主義の「安定」を基礎に、二四年、二五年の共産党の「極左路線」による大衆からの孤立化に助けられながら、ワイマール体制を積極的に承認することによって再び復活していったが、それは単に古い社民の「復活」ではなく、新たな社会的基礎の上に立った帝国主義的社民の形成、確立であった。
 レンテンマルクの発行によるインフレの終息とドーズ案の成立に伴なう巨額のアメリカ資本の導入によって二四年以降ドイツ資本主義は急速に帝国主義的復活を開始するが、シレジアの鉄とルールの石炭を奪われ、一切の植民地を失なっていたドイツ資本主義が、その復活の槓杆としたのは、十月の敗北の結果である八時間労働制の撤廃と、経営協議会の完全な労使協調機関化の上に立ってアメリカ資本を資金として行なわれた産業合理化運動であった。
 ドイツ資本家階級は、アメリカでのテイラー・システム、フォードのベルト・コンヴェヤー方式等の“国際的経験”を摂取しつつ、それを「国民運動」として展開していく。
 「“合理化”というスローガンが、第一次大戦後における資本主義の全般的危機の時期に、危機に瀕した資本主義経済を回生させるなにか新奇な万能薬楽、特効薬として宣伝された。そしてそれは“電気と化学の時期”、第二次産業革命における歴史的に不可避的な課題、超階級的な至上命題とされた。しかもこのような考え方が、社会民主主義者をもとらえ、労働者政党、労働組合のなかに大きな影響を及ぼすに至った。」(佐野稔『産業合理化と労働組合』)社会民主党と労働組合総同盟の「産業合理化への積極的支持」こそは歴史的に進行して来た古い「労働者党」の体制内化の完成であり、帝国主義への屈服の公然たる表現であった。
 二五年十二月ドイツ工業全国同盟がその「ドイツ経済綱領」の中で、敗戦からの「ドイツの復興」のために産業合理化の方針を打ち出し、労働者組織へも協力を要請したのに対し労働組合総同盟は「ドイツ経済政策の当面の任務」を発表してそれを容認していく。
 その理論的根拠となったのは、社会民主党ヒルファーディングの有名な「組織された資本主義」論であった。「カルテル、トラストは強力な刺戟を受けて成長し、自由競争の時期はいよいよ終りに近づいている。大規模な独占は経済の真の主人となりつつある。……それは自由競争の資本主義から組織された資本主義への移行を意味する。」
 そしてそのような「組織された経済」は「社会の意識的働きかけの可能性、換言すれば唯一の意識的なかつ強制力をもってするところの社会の組織化による働きかけ、即ち国家による働きかけが最高度に存在する。……それはわれわれの時代が国家の助けをかり、意識的な社会的統制のたすけをかりて、その資本家によって組織され、指導されている経済を民主的国家によって指導されるところの経済に転化せしめることに他ならない。
 このことからしてわれわれの時代に課せられた問題は、社会主義以外の何ものでもありえないという結論が生まれる。」
 すでに二四年に提起されたこの理論は、二七年の社会民主党キール大会で確認され、第二インターナショナルのブラッセル大会は、それを正式に採択する。
 二五年労働組合総同盟ブレスラウ大会で提唱され、二八年のハンブルク大会で確認された「経済民主主義」論こそこの「組織された資本主義から社会主義への漸次的移行」の生産点における実践的方策であり、その「経営の指導的機関への労資の同権的参加」の実体的、経営協議会の完全な変質を基礎とした徹底的な労使協調路線の確立を意味していた。
 労働組合のこのような変化は当然社会民主党にも及び、二五年九月の党大会は「ハイデルベルヒ綱領」を採択して、その体制内化を完成していく。
 「相対的安定」期におけるドイツ共産党はきわめて困難な状況に直面していたのである。ドイツ共産党が、この時期にどのように対応していったのかを内容的に検討するまえに、その運動の基本構造を見ておく必要がある。

 (2) 運動の基本構造

 ピークは次のように言っている。「この相対的安定の段階に於ける党の政策は主として労働運動の諸勢力を労働者の生活水準の向上と労働者の権利の拡大をめざす闘争のために動員しストライキを組織することによって企業家側に譲歩を余儀なくさせるという点に向けられていた。だが党はこれと同時にまたますます強化されつつあった帝国主義とますます脅威となりつつあった、新戦争の危険に反対する闘争のために諸勢力を強化しようとした。党はますます大胆になって来たナチ一味に対する労働者階級の統一戦線を打ち立てるために再三にわたって努力した。」(『ドイツ共産党史によせて』)
 「当面のもっとも重要な活動は労働組合を統一するための闘争である。そのためには、労働組合の統一をつくりあげる問題をこれまでにもまして、日常闘争と結びつけることが必要である。賃銀、労働時間その他いずれの問題に関する運動にせよ、共産党員が具体的な状態の助けを借りて労働組合統一の必要を指し示し、大衆が実際に労働組合の統一をつくりだすことを死活の問題とみなすようにすることの出来ない運動は一つとしてない」(二五年第十回党大会決議)
 これらの要約にもあらわれているように当時のドイツ共産党の運動の基本構造は後に見る産業合理化のもとでの労働者大衆の状態の悪化と社民の労使協調路線による闘いへの抑圧の中で、諸日常闘争を大衆ストライキ(社民は決して提起しない)等で闘いながら、社民を暴露しつつ、「労働組合を統一」していくこと。つまりプロフィンテルン系反対派の勢力を拡大していくことであり、同時に、反戦、反ファッショ等の「政治闘争」を組織していくというものであった。だが、この活動はほとんど成果を見ることができない。
 何故なら、日常的、部分的闘争に関しては、社民も行なっていたのであり、その構造は帝国主義の一般的容認と部分的否認、例えば産業合理化への協力の代償として、一定の賃上げその他の労働者階級の状態の改善が、経営協議会において、あるいは社会保障の拡充によって図られていったのであり、インフレ当時の苦しい記憶と、ドイツ共産党のジグザグに対して失望していた労働者大衆は、不満をもちながらもそれに従っていたからである。
 ドイツ共産党の社民に対する「独自性」は日常闘争での要求額の高さか「安定」下でも比較的高率であった失業者の諸闘争あるいは、二六年一月の皇室領没収デモに見られるような街頭カンパニアや反戦デモの組織化で示されていたのであり、労働運動において社民と質的に異なる闘いを組みえていたわけではなく、従って諸々の「政治闘争」にしても、小市民的内容を超えることはできなかったのである。(このことは「第三期」以降も基本的には同様であり、それがより純化されていったにすぎない。)
 ピークは「党は統一戦線のためにあらゆる努力を払ったにもかかわらず、言うべき成果を収めることができなかった。それは社会民主党と労働組合の幹部が、統一戦線の申し入れを拒否したばかりでなく、彼等によって共産党員に対する絶え間のない迫害が行なわれたからである。
 他面では党自身も又社会民主党傘下の労働者と統一戦線を結成しようとする努力を弱めた。ことに党はしばしば独占資本と企業家側の攻勢に対する具体的な焦眉の闘争スローガンをプロレタリア独裁と社会主義のための闘争という要求の背後に引っこませることによって労働組合員との統一戦線結成を弱めた。このようにして党は社会民主党の反動的政策がそのための大きな可能性を与えていたにもかかわらず、社会民主党傘下の労働者を共同行動の方へ押しやることができなかった。
 又、闘争の要求のために長い継続的なカンパニアが行なわれず、一つのカンパニアから他のカンパニアにうつり、又一つの期間は他の期間を追い、ついぞ要求の貫徹のために真剣な闘争が行なわれたことはなかった。」と言っている。
 だが、現在必要なことは、このような不毛な「総括」ではなくドイツ共産党が、「相対的安定」期での「日常闘争」の性格をどのようなものとしてとらえていたのか、そしてその反戦、反ファッショ闘争とは如何なる内容をもっていたのか、さらに「労働組合の統一」つまり社民の止揚をいかに推進したのかということが検討されなければならない。

(3) 産業合理化反対闘争

 「相対的安定」期でのドイツ労働者階級の運命に決定的な意義をもったのは、産業合理化の問題であった。
 ドイツ共産党はこの産業合理化にどう対応していったのか。
 社民の「積極的支持」のもとに「ドイツ復興のための国民運動」として大規槙に推進されていく合理化運動という新たな現象に直面したコミンテルンとドイツ共産党は、当初合理化の把握において現実の労働者階級の状態から出発しつつも理論的混乱を免れなかった。たしかにドイツ共産党は、それを一定程度まで「労働者階級の立場」から見ることができたが、その把握は産業合理化の進行に伴なって目に見えるかたちで現われて来る労働者階級の直接的な状態の悪化に局限されており、従って反合理化闘争もその独自的内容は明らかにされないまま日常諸闘争の中に位置づけられでいたにすぎない。例えばヴァルガは二八年段階においで尚「合理化というのは古い現象に対する新しい言葉である。資本は利潤を高めるために技術を改善し、搾取の方法を巧妙にして生産費を引き上げることにつねに努力して来た。だがこのことが最近数年間により組織的に急速に行なわれているにすぎない。」「全部の合理化方策はそのままそっくりマルクス主義のこれらの範疇(資本の搾取と収奪に関する)に編入されることとわれは信ずる。しかし現在の合理化の進行を同志諸君が資本主義の発展におけるなにか新たなもの、いまだかつて存在せざりしものと考えるのは、まったく誤まりであると信ずる」と書いでいるが、これは社民の容認と美化に対しては抵抗要素とはなりえても、合理化と社民に対する消極的「批判」でしかない。コミンテルンで合理化の問題が主に討議されたのは一九二六年十一〜十二月の第七回プレナムにおいてであったか、そこでのテーマの一つ「労働運動の諸問題」に関するブバーリン報告は次のように言っている。「階級意識をもつ労働者は機械の使用、技術的改善等々に反対することはできない。しかしながら、資本主義社会内における諸改良のために尽力することは、かれらの仕事ではない。階級意識をもつ労働者にとって{唯一}可能な問題の出し方は、合理化過程の労働者階級に及ぼすあらゆる随伴現象、あらゆる方面にたいするプロレタリア全勢力を動員することである。革命的労働者は機械やベルト・コンヴェヤー等々に賛成か反対かという問を出すことはできない。これはかれらには絶対に無関係な問題の出し方である。かれらには労働者階級の状態を劣悪にし、生活水準を低下させ、かれらの力を分裂させ、かつかれらの地位を弱めるところの一切のものに対する容赦なき闘争の問題があるのみなのだ。」コミンテルンは社民の合理化容認にたいして「組織された資本主義の理論は、戦後資本主義のブルジョア的弁護論をプロレタリアートに注入しようとする直接のこころみとして形成された」などと社会ファシズム諭的批判を行ないながら、自らも合理化そのものの批判には躊躇したのである。
 だが合理化そのものには「中立」的態度をとるということでは、現実の闘争においては「容赦なき闘争」の強調にもかかわらず、たちまち混乱をひき起していかざるを得ないし、又社会の「公共性」論や「経済民主主義」論をイデオロギー的にも粉砕していくことはできない。
 コミンテルンが、ドイツを中心とする現実の闘いからの要請と社民理論への対応の中で、従来の合理化の把握の欠陥をそれなりに整理し、その「克服」を目指したのは、二八年のコミンテルン第六回大会をへて「第三期」論が鮮明に打ち出された二九年七月の第十回プレナムに於いてであった。
 それは次のように言われる。「相対的安定期の合理化の評価について労働運動のマルクス主義的指導理論のなかにも混乱と欠陥が見られた。それは相対的安定期での合理化が一般的に技術的改新を件なったことにもとづいている。そしてその理論的欠陥は、合黒化に伴なう技術的改新が技術的発展一般と同一視混同されたこと、なお資本主義的合理化について技術的側面と社会的側面との二側面の相互不離の関係を指摘し、前者に超歴史、超階級的性格を付与し“進歩的モメント”とすることによって後者と機械的に分離する生産力説的偏向を示したことである。
 それは技術的改善は生産力の向上であり、経済的進歩である。従って合理化そのものには社会民主々義者のように積極的支持もしないが、反対もしないという“中立”的態度をとり、合理化が労働者階級に有害な結果をもたらす社会的側面にたいして闘うべきであるという理論にみちびいた。……クーシネンは一九二九年七月に開かれたコミンテルン執行委員会第十回総会において、これらの理論的欠陥を克服するための報告を行なった。」(佐野稔『産業合理化と労働組合』)
 その「克服」の内容は簡単に言って次のようなものであった。
 ブハーリンそしてヴァルガの規定にも示される従来の合理化の把握の欠陥はそれが資本主義の「全般的危機」の時代という具体的な段階との関連で、把握されていないことである。
 この「全般的危機」の時代には独占に固有の停滞と腐朽化の中で、技術的進歩そのものが人為的に阻止されていく傾向がある。
 産業合理化としての技術的改善はなによりも「できるだけ人間の労働力を搾取するという一定の目的をもった一定のシステムにしたがっておこなわれるところの{労働過程}の再組織」の一環として労働の強度化を目的とする一つの手段としてあり、それは、自由主義段階での技術の発展とは区別されなければならない。従来も労働強度の増大が一般的な技術的改善の随伴現象としてあらわれたが、合理化の場合には、それが直接労働手段の技術的改善の主要目的となっている。この点において理論的には、両者の技術的改善の区別がなされなければならない。
 従って合理化とは労働強化をその基本的内容としてあり、「中立」的態度は否定されなければならない。.……
 このクーシネン報告で展開された合理化規定には、資本主義的生産様式の敵対的性絡を剰余労働の搾取においてのみとらえ、労働の資本への包摂、労働者の生産手段への合体の問題として見ることのできないコミンテルン理論の客観主義的性格の一面をよくあらわしている。
 マルクスはすでに「自由主義段階」において「客観的な有機体に人間材料がいかに合体されるか」を刻明に分析し、それを労働者の資本家への絶望的隷属の問題として描きだしていたのであるが。
 この合理化への「中立」的態度の否定と合理化=労働強化規定の確立は、従来の把握にくらべてたしかに「一歩前進」をしめしたと言えよう。
 だが、ドイツ労働者階級が、資本のもとへ包摂され、社民による強固な官僚的支配のもとに組織化されていったのは、まさに「相対的」安定」においてであり、「第三期」以降のドイツ共産党の活動もついにそれを突破できなかったという時間的問題にとどまらず、この合理化=労働強化規定自体が重大な欠陥を含んでいたことに注意しなければならない。「相対的安定」期におけるドイツ共産党のとくに反合理化闘争における理論的、実践的混乱にもかかわらず、労働者大衆は、激烈な合理化攻勢の中で、闘いに立ち上らざるを得ない。「資本主義的合理化によってコンツェルンの生産機構は著しく近代化された。労働組織を変更し、職工監督方法を厳格にし、酷使のテンポを増すことによって労働の強度がひき上げられ、それと共に労働者の搾取が決定的に強められた。災害の数が増加した。ドイツのコンツェルンにとって合理化は何十億マルクという利潤をもたらした。
 これをコンツェルンはファシズムへの金融と最新式軍需工業の建設に利用したのである。同時に資本の集積と集中がさらに進んだ。
 たとえば一九二五年には、I・G・ファルベン・コンツェルンが生まれ、ドイツの化学生産の大部分を支配した。資本と労働の対立は一段と激しくなった。労働者階級にとって相対的安定の時期は、一部の層にだけその状態の見せかけの改善を意味した。しかし全体としては、この時期にも実質賃銀は低下し、失業予備軍はやはり残っており、八時間労働制は清算され、廃疾年金や養老年金は縮小された。労働組合の任務は、搾取の強化に反対し、労働時間の延長に反対し、酷使その他に反対する倦むことのない日常闘争に労働者を動員することであるべきだった。ところがドイツ労働組合総同盟の日和見主義的指導部が行なったことはまさにその逆であった。……」(ワルンケ『ドイツ労働組合運動小史』)
 「合理化――それは資本主義の相対的安定期における決定的な社会的、経済的要素である。その目的は世界市場における競争能力を引き上げることである。世界市場における闘争ということが、一切の国々における合理化の原因である。そしてこの合理化の基本的内容は主として人間労働の恐るべき強化として特徴づけられる。……それ故に労働力の急速な磨滅と消耗、それが合理化の第一の結果である。労働者の激烈な肉体的消耗にともなう工場災害の増大、職業病の増加、一時的廃疾、労働婦人の肉体的・精神的荒廃の一層の進行、これが合理化の第二の帰結である。青年労働者の駆逐、婦人児童労働の一層広汎な導入と成年労働者との代置、休憩時間の短縮、休暇時間の削減.及びこれと結びついた罰則の強化、労働監視機構の拡大、労働立法に対する攻撃、それが合理化の第三の帰結である。事実、労働者階級の状態は合理化によって急速に悪化しはじめた。合理化に対する闘争はまず最大の生産力としての労働力の防衛の闘争であり、それは労働時間の短縮と賃銀値上げのための闘争を必然的に要求する。そのためには合理化を“組織された資本主義から社会主義へ”と到る必要な措置であるといいくるめた社会民主力義の政策理論、工場内の暴力的スキャップ党であるファシズムとの闘争が前提とされることは勿論である。」(吉村励『ドイツ革命運動史』)
 これら二つの引用の文章は、前に見た「第三期」以降の視点から、「相対的安定」期での合理化と労働著階級の関係をとらえかえして書かれていることに注意しなければならないが、これらに特徴的なことは、合理化の諸結果、労働者階級に対するその「第一次的影響」のみが問題とされており、合理化への「中立」的態度が否定されながらも、そのことが反合理化闘争の内容と方向において持つ決定的な意義は何ら明らかにされず、さらに反合理化闘争は「労働時間短縮」と「賃銀値上げ」を基調とする闘いと規定されていることである。
 合理化そのものを批判するということは反資本主義の一般的な「態度」や「理念」の表明なのではなく、現実の反合理化闘争の内容と方向に決定的にかかわって来る問題なのである。
 そのことを次に見なければならない。合理化の「目的は世界市場における競争能力を増大させるために生産費を引き下げることである。世界市場における闘争ということが、いっさいの国々における合理化の原因である。そして基本的内容は主として人間労働の恐るべき強化として特徴づけられる」という二八年プロフィンテルン第四回大会での決議は、その限りでは間違いではない。
 だが問題は、産業合理化運動が、階級支配との関係でいかなる意味をもっていたのかということである。アメリカに於けるテイラー・システム、フォードのベルト・コンヴェヤー方式、フーヴァーの無駄排除運動等の摂取による合理化運動は、国際競争力を強化するために国内での生産費を引き下げるということと同時に、第一次大戦後とくにヨーロッパ諸国の戦後革命期における労働者階級の巨大な革命的昂揚を目のあたりにつきつけられた譜国資本家階級の労働者支配の再編強化ということを意識的にも含んで押し進められたのである。
 このことを見なくては「相対的安定」期におけるドイツ労働者運動の完全な停滞という事実を説明できない。
 合理化とは労働の技術的社会的諸条件の一方ないし両方の変革を通じて最大限の剰余価値を生産していく運動であるが、同時に機械装置の更新は、主体である労働者が客体としての機械の付属物、手段であるという「転倒」を極限まで押し進めるものであり、それに伴なう労働組織の再編は、資本家の機能を代行する上層労働者によるぶ厚い“奴隷支配”の壁を生みだしていくものであるから、合理化運動は又、労働者の生産手段への合体の構造の再編成の運動なのであり、労働者階級の社会的隷属を飛躍的に強固にしていくものとしてあるのだ。
 合理化は「牢獄の中での強制労働」としてある直接的生産過程の敵対的性格を際立たせていくが、その進行と共に形成されていく巨大な独占は、従って労働者階級にとっては文字通り巨大な牢獄の形成を意味している。
 「それでは、このような産業合理化と企業の集中がもたらしたものは何であったか? それはいうまでもなく資本一般、とくに巨大資本の社会的威信と政治的優位の確立であった。」(山口定『アドルフ・ヒトラー』)
 ということは、まさに「相対的安定」と共に進行していった労働者階級の社会的隷属との関係でとらえられなければならない。社民の復活ということも、単に古典的社民の「復活」ということではなく、産業合理化の進行の中で発生して来る尨大な上層労働者層という社会的基礎の上に立つ帝国主義的社民の形成―確立だったのであり、「相対的安定」期にドイツの社会学が「新中間層」論を問題にしたことは偶然ではない。「組織された資本主義」論、「経済民主主義」論は、この「新中尉層」に擬制した大量の上層労働者層という現実的背景をもっていたのである。
 合理化の総体的把握に失敗したコミンテルンとドイツ共産党は、反合理化闘争をその直接的な諸結果に対する闘いにきりつめ、さらにそれを「労働時間短縮」と「賃銀億上げ」の闘いと規定することによって、あらかじめ闘争の発展の途を閉ざしてしまっていた。「最大限の労働と最小限の賃銀」を不可避的にもたらす産業合理化に対する労働者階級の闘いが、直接的苦痛(単に生理的苦痛ではない)から出発することは問題ないし、労働組合の闘いは常に直接的現実性を起点としている。だが労働者階級の闘いの発展とは諸々の「結果」に対する闘いの中で進行する主体の実践的変化をテコに「原因」に対するより普遍的な社会・政治闘争につき進むことである。反合理化闘争は、その構造の性格そのものから闘争の直接的現実性から出発しつつ、労働者階級に自らの社会的隷属との根底的対決を強いていく闘いなのであり、その過程で形成されていく団結による労働者階級の自立こそ労働官僚の社会的基礎を収奪し、社民を粉砕していく根源的な力なのである。「産業合理化は労働者の労働時間短縮要求を必然的に生みだす。労働者の信頼を一応確保するためには改良主義的幹部は、彼等の闘争を支持しなければならない。だが資本との共同を確保するためにはこれを中道に打ちきらねばならない。そこから改良主義の全哲学が生まれる。ストライキの裏切りがこれである。」(吉村励)という。
 ドイツ共産党は社民より要求額が高いだけの闘争をともかく大衆ストライキで闘おうとする。だがそのように枠をはめられた闘いはいかに激しく闘われようとも、形成される団結は部分的性格しか持ち得ず、したがって社民の「裏切り」に屈服するしかない、ということになる。以上の反合理化闘争の内容に示されるコミンテルン理論の限界つまり、社会運動での社民路線は、当然その「政治闘争」の内容をも規定していかざるを得ない。それは外見的な「極左性」にもかかわらず、きわめて脆弱な内容しか持ち得ていなかったのである。

 (4) 「政治闘争」の問題

 ここで我々は反ファッショ闘争に集約されるドイツ共産党とコミンテルンの「政治闘争」について見なければならないが、それが顕在化していった「第三期」以降については別の機会に詳細に検討されなければならない。
 ドイツにおける反ファッショ闘争の潰滅の翌年一九三四年に開かれたコミンテルン第七回大会以降の反ファッショ人民戦線路線の内容が反ファッショ=民主々義擁護とされたのは、ブンドの諸君が言うように単に「位置づけ」の誤まりといった問題てはなく、まえに見た反合理化闘争を中心とする社会運動での社民路線の結果として、ファシズムによる権力掌握という危機に直面したとき、それを反ファッショ=社会革命として止揚していくだけの労働者階級の政治的成熟が獲得されていず、だから持ち出された「民主主義」は、それなりの社会性をもっていたことに注意しなければならない。
 三三年のファシズム権力の成立に至るまでのドイツ共産党の反ファッショ闘争は街頭で共産党員とナチスの激突が頻発するというような「極左的」内容を含む一方、社会ファシズム論の極としてナチスとの共同闘争が数度にわたって組まれるというように極めて混乱しており、又「ヒトラーの勝利はその崩壊の第一歩である」「第三期の次には第四期はありえない」などファシズムの把握自体が、階級形成=政治過程の中に明確に位置づけられていないものであった。
 「相対的安定」期でのドイツ共産党の「政治闘争」は二三年十月の敗北直後のヒトラーによるミュンヘン一揆後の一時的な「反ファッショ闘争」そして「左派指導部」のもとに行なわれたドーズ案反対闘争等以後は党内分派闘争に追われ系統的な闘いは組織されていないが、テールマンのもとに党内体制が一応確立された後二六年二月の皇室領没収のための大規模なデモンストレーションをはじめヴェルサイユ体制の中でのワイマール共和制とその「反動化」に対する諸闘争が組織されていく。
 例えば二六年十一〜十二月のコミンテルン第七回プレナムは「資本主義世界の内部矛盾および資本主義世界とソ連邦とのあいだの深まりゆく対立」によって新たな戦争の危険が成熟しつつあることが強調されたが、二七年八月にはドイツ共産党指導下にベルリンで十二万人の反戦デモか展開されている。だが、まえに見た反合理化闘争の欠陥に代表される社会運動における社民路線の上に立って行なわれたそれらの諸「政治闘争」は、当然街頭カンパニア的、小市民的性格を超える内容は持ち得ず、従って労働組合内のプロフィンテルン系反対派労働者の動員と社民系労働者への共同行動のよびかけも、社民官僚を粉砕していく力はもち得なかったのである。
 労働者階級の階級運動とは「階級支配の政治的頂点を攻撃すると共にその経済的基礎を脅かす」(マルクス)という構造をもった闘争なのであるが、政治権力の奪取を頂点とするプロレタリア的政治闘争の内容は、構造としては、自らの社会的隷属に対して闘いぬく闘争の普遍的な結合闘争なのである。このことは、まず社会運動を、次に政治運動をという機械的関係を意味するものでは決してないが、「同時に社会運動でない政治迦動」はいかに激しく闘われようと、小市民的政治主義を超えることは決して出来ないのである。さらに又、ドイツ共産党の合理化運動の把握の失敗は、彼等の強調した「ファシズム」「戦争」の把握そのものを、きわめて混乱したものにしたことを付け加えなければならない。

 (5) 「労働組合統一のための闘い」

 「相対的安定」期の全過程を通じて、ドイツ共産党の「労働組合統一のための闘い」つまり社民のもとに強固に包摂されていった労働者階級本隊のうちに不抜の根拠地を形成していく闘いが、ほとんど見るべき成果がないままに激動期を迎えなければならなかったのは何故か。(三〇年代での共産党の急速な伸長にしても、それは社民の解体によるものではなく、主として大恐慌のもとでの大量の失業者からの入党によるものであり、例えば三〇年の党員構成は経営労働者三十%に対して失業者三十%である。)
 戦後革命期とくに二三年当時のように、労働者大衆の自然発生的左傾化の中で、ドイツ共産党が、労働者階級の中に強大な勢力を獲得していったのとは異なり、労働組合総同盟は社民の強固な支配下にあり、経営協議会は完全に労資協調機関化していたこの時期での「労働組合の統一」の闘いではコミンテルンとドイツ共産党の思想と行動の内容そのものが問われていたのである。
 「一九二三年前後何年間かのドイツ労働組合総同盟指導部の公然たる裏切りは、多くの労働者をして労働組合に背を向けさせた。組合員のほぼ半数が脱退した。一九二六年には労働組合員教はもはや四百万にも達しなかった。日和見主義政策は、このように数の上でも労働組合運動全体を決定的に弱めた。それにもかかわらず、組合員大衆は積極的な労働組合闘争から離れなかった。一九二八年までの何年かにおける経営内の闘争はとくに賃銀引上げ、一日八時間労働制の維持、出来高払い最低賃銀、災害防護の改善などをめぐって行なわれた。“出来高払い労働は死である”というスローガンは資本主義的合理化の時期に各経営でもっとも人気のあるスローガンの一つとなった。ドイツ労働組合総同盟大会や組合大会では、つねに反対派があらわれて指導部に対する組合員の不満と、労働者のための労働組合政策に対する要望を明らかにした。
 労働組合指導部は、ますます強くなる労働組合機関の権力と労働組合内民主主義の常習的な侵害とに対するもっとも広範な大衆の抗議を除名の手段で処理できると信じていたのである。」(ワルンケ)
 我々はすでにこの「反対派」の闘いの内容自体の致命的な限界を反合闘争の把握の失敗の問題として見てきた。次にこの「反対派」の「労働組合統一のための闘い」について検討してみよう。
 コミンテルンによって「労働組合内における活動のサボタージュとその無能は、自由労働組合に組織されている労働著大衆に対する誤まれる関係の表現であり、その結果であり、又大衆指導に対する不信とペシミズムの表現であり、またその結果である」と批判されたマスロフ等の「左派指導部」に代ったテールマンのもとでのドイツ共産党は、「共産党のボリシェヴィキ化とは、労働組合活動を全党の政治的活動の中心におかなければならないことを理論的かつ実践的に認識することである」として労働組合活動に重点を移していくのだが、コミンテルンとドイツ共産党の「労働組合統一のための闘い」が、いかなる内容のものであったかを知るためには、簡単にその歴史的経過をふりかえることが必要である。
 戦後革命期を通じてドイツの労働組合は社民指導部による官僚支配のもとにあり、彼等が常に労働者大衆の闘いに敵対して来たことは、その全過程で示されていたが、一九一九年六月の自由労働組合第十回大会でのドイツ労働組合総同盟の結成は、その官僚主義的中央集権化を一層押し進めたものであった。
 労働者大衆の闘いは十一月革命,一九年の大経済スト、二〇年のカップ暴動に対するゼネスト、二三年のクノー政府打倒ゼネスト等すべてにわたって労働官僚たちの抑圧に抗して闘われたのであり、その牽引力となったのは十一月革命での革命的オプロイテ、それ以降の経営協議会(工場委員会)を基盤とする反対派であったが、その闘いも、ついに労働組合官僚の強大な壁を最終的に粉砕していくことはできなかったのである。
 このような労働組合指導部の反動的性格は共産主義的翼の中に労働組合否定の傾向を生みだし、一八年十二月のドイツ共産労働党スパルタクスブンドの創立大会ではローザ、リープクネヒト等の勧告にもかかわらず、既成労働組合内での活動は多数決で否決されている。「スパルタクス蜂起」とローザ、リープクネヒト等の虐殺の後、一九年十二月に「ブルジョア議会や反動的な労働組合やシャイデマン派とカウツキー派によって不具にされた経営協議会法やを利用する問題、この種の機関に参加するか、それとも、それをボイコットするかという問題」をめぐってスパルタクスブンドから分裂したドイツ共産労働党の「共産党の指導下に革命的闘争に出撃すべきプロレタリアートの極めて広汎な範囲と層とを結集するためには最も広い基礎に立つところの最も範囲の大きい組織形態がつくりだされなければならない。すべての革命的分子のこの集合地は工場組織の基礎の上に立てられた労働者同盟である。“労働組合を去れ”とのスローガンのあとに続くすべての労働者がここに結集される。ここに戦闘的プロレタリアートの最も広汎な戦列がつくられる。階級闘争ソヴェト制度並びに独裁の承認だけで労働者同盟加入の条件としては充分である」という主張はその典型であり、レーニンはそのような傾向を二〇年『共産主義における“左翼”小児病』等の中で批判していくが、このことは単にドイツ共産労働党の「左翼小児病」に限られるものではなく、当時のヨーロッパ共産党に共通する問題であり、それは例えば「プロレタリアート独裁」の観念的傾向としてあらわれていた。かつてレーニンは「ロシアでは革命的=社会民主主義的なプロレタリア的分子が小ブルジョア的=日和見主義的分子から完全に分離していく過程は、{労働運動の歴史全体}によって準備された。」と述べたが、ロシア革命にひきつづく戦後の革命的昂揚の中で、文字通り世界革命の前夜であるという情勢把握のもとに行なわれた第二インターからのヨーロッパ共産党の分離は、それに先立つ時期において社民の大衆的、実践的暴露を通じての解体の過程=新たな労働者党の建設の過程をくぐっていたわけては必ずしもなく、いわば「前衛的分離」であった。
 たしかにこの分離は、ロシア革命以降の労働者階級の階級形成の新たな段階への突入を背景としており、又、第一次大戦と戦後革命での社民の文字通りの裏切りは革命的翼の独立を不可欠としていたことは、社民からの決定的な分離を曖昧にした独立社民指導部が、戦後革命の運命を握りながら、客観的には、その絞殺者としての役割を果していったことにも示されている。そして「プロレタリアート独裁」「ソヴェト」のスローガンも、労働者大衆の自然発生的革命化の中では、一定程度その現実の活動の生きた内容と方向を凝縮して表現しているものとしてあり、それはあらゆる中間派の隠然たる改良主義を一挙に暴露していく力を持ち得ていたと言えよう。
 だが、新たな労働者党の建設の過程とは、あくまで古い党の実践的解体の過程なのであり、「思想が党をつくる」という外観にもかかわらず、現実の労働者階級の生きた階級形成をその内容としており、「プロ独」や「ソヴェト」も、理念や立場の問題ではなく、労働者階級の現実の活動の中で形成されていく二重権力的団結が獲得していく内容なのである。だから状況に強いられる中で「前衛的分離」が行なわれた後の「労働者階級の統一」の闘いとは、共同闘争の推進による大衆の実践的変化の中で形成されていく真のプロレタリア統一戦線から、巨大な労働者党を建設していく問題であり、共産主義的前衛とは、その「実践的に最も断呼とした、常に推進的な部分」なのである。
 初期ドイツ共産党が、労働者階級本隊の中にほとんど基盤をもたない「前衛党」であったことも関連して.その「プロレタリアート独裁」のスローガンは、観念的なものになっていかざるを得ず、ドイツ共産労働党の労働組合否定と、プロ独の承認を条件とする「労働者同盟」論は、その極を示したものであった。
 レーニンの批判とコミンテルン第二回大会の労働組合、工場委員会に関する『テーゼ』は、そのことを鋭くついていたが、にもかかわらず、それは、共産主義者がいかに大衆に接近するかという問題、あるいは共産主義者と大衆の相互浸透の問題として立てられており、労働者階級が自らの社会的、政治的隷属に対決して闘いぬく中での革命的団結の形成、それと共産主義的前衛との関係の問題としては必ずしも押えられていない。
 だが二〇年三月のカップ暴動にたいするゼネストに見られるようにひきつづく革命的昂揚は、コミンテルンの全政策の正しさが立証されたかのように独立社民下部労働者を左傾化させていき、二〇年十月コミンテルン参加問題をめぐって開かれたハレ臨時大会において独立社会民主党は分裂し、コミンテルンの強力な働きかけのもとに左派三十万の党員は一二月五万のスパルタクスブンドと合同し、ドイツ統一共産党が結成される。ここにドイツ共産党は、労働組合の中に強力な基盤をもつことになったのである。
 翌二一年三月「革命的攻勢の理論」のもとに行なわれた統一共産党の蜂起は「ブルジョアジーの抵抗に対してではなく、労働者階級自身の五分の四ないしは三分の二の抵抗に対して自分自らを打ち砕く危険を招いた」ものとして粉砕され党員数は四十万から十八万に減少したと言われる。二一年の三月行動の敗北とクロンシュタットの反乱を受けて開かれたコミンテルン第三回大会は、「共産党インターナショナルが今日当面するもっとも重要な問題は、労働者階級の多数に対する支配的影響力を獲得し、彼らのうちの決定的な層を闘争の中へ持ちきたすことである」として「大衆の中へ」「大衆的共産党を」のスローガンを打ち出し、従来の共産主義的前衛性の保持の継承の上に立っての「転換」が確認された大会であったが、つづく十二月プレナムで統一戦線に関する『指針』を採択していく。この大会は「ヨーロッパにおける革命的情勢の後退の萌し」への新たな対応ということにとどまらず、まえに見たヨーロッパ共産党の「分離」の過程にあった問題点を、克服していく上で極めて重要な大会であったが、そのことの理論的・実践的解明はなされないまま、それ以後「共産主義着による多数者獲得」のための統一戦線戦術が確立されていく。それは、大衆運動と大衆組織を手段として「前衛党」のもとに従属させていくものとしてあり(『解放』bW参照)その限界は戦後革命期には隠されているが、のちの「相対的安定」期以降顕在化していくことになる。
 第三回大会は「どの共産党であれ、その力を測る最もよい指標は、それが、労働組合に入っている労働者大衆の上に現実にもっている影響力である。」として、労働組合内での活動が一層強調されていくが、コミンテルンは労働組合「獲得」の問題をいかに立てていたのであろうか。
 ここでは、それを、工場委員会に対する態度とプロフィンテルン=赤色労働組合インターナショナルの問題に絞って見る。
 戦後革命期にドイツのみならずイギリスその他のヨーロッパ諸国で労働者大衆が社民指導部による労働組合の中央集権的官僚主義支配に抗して闘いぬいた武器は工場委員会運動であった。
 コミンテルンと各国共産党が、この工場委員会に注目したのは当然である。すでにコミンテルン第二回大会の『テーゼ』は「工場組織のあるところでは、それらがたとえ組合の一部を構成しているか、あるいは組合外にある場合を問わず、たとえば職場世話役、あるいは工場委員会のように、その目的が労働組合官僚の反革命的傾向と闘い、プロレタリアートの自然発生的直接行動の支持にある場合には共産主義者は、言うまでもなく、これら組織を全面的に支持すべきである」とされていたが、さらに「労働組合ボスの裏切り政策に対するこの闘いは工場委員会の方式によって行なわれなげればならぬ。これらの委員会が獲得され、共産主義者と革命政党の勢力下に引き入れられねばならぬ」(二〇年八月プロフィンテルン創立のための決議)と言われている。二二年の第四回大会は「統一戦線政策を断行する上で特に重要な二点は、煽動効果のみならず、{組織的な}成果もあげるということである。労働者大衆そのものの間に組織的な足場を固められるような機会は一度といえども見逃してはならない。(工場評議会、各党員労働者および無所属労働者から成る管理委員会、行動委員会など。)」といい「各工場に一層強固な足場を設けること、工場委員会運動を支持すること、あるいはこの運動の確立に指導権を握ることが、各国共産党の主な任務の一つである。」(「戦術に関するテーゼ』)と強調している。
 労働組合運動と外見的に区別される工場委員会運動の特徴は、幾つもの職能別に分れている一工場のあらゆる分野の労働者を非組織労働者を含めて包括し、一定の時期には、生産管理を行なっていくこと等であるが、この工場委員会を労働者階級の階級形成の中に位置づけて見れば、それはただ機能上の形態あるいは激動期での経済的混乱への労働者階級の対応ということにとどまらず、その本質的な性格は、労働官僚に対する大衆の不信、訣別、自立の組織的表現であり、内容的には、労働組合の「第一の資格」である「結果」に対する制限の闘いから,より普遍的な社会運動、政治運動をも闘っていくことを可能とする大衆的行動組織であった。
 それは又、労働組合を総体として変革することによってその「第二の資格」(普遍的な社会、政治運動を闘いぬいていく)を獲得させていく推進力としての性格をもち労働者階級の現在的な権力基礎の形成を意味していた。
 コミンテルンが、労働組合官僚打倒と労働組合の「獲得」のために工場委員会を強調するとき、それが以上のような、階級形成との関係でとらえられていたかは検討されなければならない。
 だがコミンテルンの「統一戦線戦術」が、多分に「共産主義者による多数者獲得」の手段とされ方策とされていた限り、この工場委員会も「前衛党」のいわば「物理的補足」として、そのもとに従属させていく傾向は不可避であった。
 二一年七月に創立されたプロフィンテルン=赤色労働組合インターナショナルの活動を見るときそのことは一層鮮明になる。
 プロフィンテルンについては普通その「政治主義的偏向」すなわち大衆組織である労働組合がプロレタリアートの独裁のスローガンを掲げたこと、そして、とくに「第三期」以降、「経済ストの政治闘争化」という戦術のもとに「並行的組合」路線によって労働組合の分裂を強行していったいわゆる赤色労働組合主義が批判される。
 ドイツにおけるプロフィンテルン系反対派は,「安定」期には、ほとんど現実的な力を持ち得ず、「第三期」以降は、その赤色労働組合主義の展開の中で、労働者大衆から「浮き上り」急速に先細りになっていくのであるが、我々はここでその「アムステルダム・インターナショナル打倒」の闘いの内容を見なければならない。
 労働組合が「プロ独」を掲げたこと自体に問題があったのではない。たしかに大衆組織は、つねに直接的現実性から出発するが、そのことは又、革命が直接的現実佳になった場合には、労働組合が革命を問題にすることを可能にすることを意味するし、又問題にしなければならない。
 戦後革命の昂揚期に結成されたプロフィンテルンにとって当初は、その「プロ独」のスローガンは生きた現実的内容を一定程度持ぢ得ていたにせよ、「プロ独」とは単に思想的スローガンではなく、大衆の二重権力的団結が獲得していく内容であること、「アムステルダム打倒」もそのような団結をテコに労働組合を労働者大衆の手に奪還していく闘いであることを理解していなかったが故に、革命的情勢の後退と共に、「プロ独」と「アムステルダム打倒」はますます宗派的なものになっていかざるを得なかったのである。
 ピークが「党はしばしば独占資本と企業家側の攻勢に対する具体的な焦眉の闘争スローガンをプロレタリア独裁と社会主義のための闘争という要求の背後に引っこませることによって労働組合員との統一戦線結成を弱めた」というとき、それをすでにみた反合闘争での混乱に重ねて見れば事態は明瞭である。
 「相対的安定」期でのプロフィンテルン系反対派の実体は、反合理化闘争での社民路線と宗派的囲い込みの合成であったのであり、それは、一定の左翼的労働者を結集しながらも、社民を大衆的に粉砕していく力はついに持ち得なかったのである。

 (6) 「社民化」の問題

 注目すべきことは、ドイツ共産党が、マスロフ、フィッシャー等の“極左派”を排除しつつ二六年前後から労働組合に重点を移していく中で再び「ブランドラー主義」が一つの路線として台頭し、党内反主流派が形成されていったことである。公認共産党史では二三年十月の敗北の責任者「ブランドラー主義」の再版として片づけられているこの路が、コミンテルンとドイツ共産党中央の路線とのいかなる関わりの中から発生して来たのかを検討しなければならない。
 二八年には、ドイツ共産党労働組合フラク会議での多数派であり、プロフィンテルン第四回大会で「右翼的偏向」として激しく批批判された後にもテールマン解職運動を組織し、コミンテルンの介入によってブランドラー等が除名された後も尚「調停派」と言われる反主流派が存在していたことから、「安定」期後半でのドイツ共産党の労働組合運動の中で一定の力をもちえていたと思われる。
 すでに、見たように「相対的安定」期でのドイツ共産党の労働(組合)運動は、内容的には社民と同様の運動をより「左翼的」に展開しつつ、労働著大衆を宗派的に囲い込んでいこうとするものであったが、実際には、全コミンテルン規模での分派闘争による混乱もあってピークも認めているように、一貫した運動は行なわれていなかった。
 このような労働組合運動でのテールマン主流派の無能さと社民に対する唯一の「独自性」である街頭カンパニア的活動は、当然、合理化の真只中にある労働者党員、共産党系労働者の不満をひき起していかざるを得ない。コミンテルンの「極左路線」への転換の萌しの中で、そのような気運を社民的方向に組織していったのが、この「ブランドラー主義」、のちのドイツ共産党反対派であった。
 対立はすでに二七年のエッセン大会であらわれ、二八年以降顕在化していく。社会ファシズム=主要打撃論と赤色労働組合路線が表面化したプロフィンテルン第四回大会での大きな争点の一つであった「労働組合の獲得とは、労働組合の機関の獲得を意味するのか、それとも労働者や労働組合員の獲得を意味するのか」という問題を提起したのは彼等であり、これまで「労働者はあらゆる手段をもって改良主義的指導者に闘争を強いる」という方針のもとに運動を組織して来たことから、前者を主張するが、それはロゾフスキーによって「右翼的誤謬」として激しく弾劾され、以後プロフィンテルンは赤色労働組合主義の全面的開花の時期に入っていく。
 だが、「第三期」での路線が自己批判された三四年のコミンテルン第七回大会以降、彼等の主張は、内容的にほぼ受け入れられていったのであり、その後のヨーロッパ共産党の「社民化」の原型であったと言えよう。
 労働組合内共産党フラクションに関して「革命的階級闘争にとって大衆を獲得するためには、それは必要でなく、逆に大衆獲得のための阻害的要因をなす」と批判し、赤色労働組合路線に対しては「それは組織労働者と非組織労働者との分裂へ、労働組合の分裂へ、共産党の労働組合に及ぼしている影響の解体へ、党を労働者からの完全なる孤立化へ導く」とする彼等の主張は、階級闘争に敵対するドイツ共産党の宗派主義には気づきながらも、階級闘争の前進、社民の止揚とは、単に「共産主義者による大衆獲得」ということではなく、労働者階級が、自らの社会的、政治的隷属に根底から対決する闘いを組む中で、二重権力的団結を形成していく問題なのであるということを把握していないが故に、テールマン主流派に対する批判も、「大衆獲得」に有害な「セクト主義」というものでしかなく、自らは「社民化」することによって「大衆獲得」を行なおうとしたにすぎない。
 さらに、彼等の強調した「労働者管理」「生産管理」にしても、コミンテルンが批判したように、「革命的情勢にないときに提起したから」ということのみならず、根本的には、労働者階級の権力基礎の現在的形成の問題ときり離されて提起される限り、社民の経営協議会路線を突破する力を持ち得ないどころか、逆にそれを美化していくことになってしまうのである。
 二四年のコミンテルン第五回大会とプロフィンテルン第三回大会が、社民との厳格な区別を言い、工場委員会の建設とストライキ戦術が強調されたにもかかわらず、ひとたび、労働組合運動に介入するや不可避的に発生するこの「社民化」は、まさにコミンテルン理論そのものの別の表現であると見なければならない。「共産主義者による多数者獲得」の「共産主義」そのものに無批判である限り、労働者運動に対して無方針なままでの宗派的敵対か、それなりに一貫した方針をもとうとすれば、主観的にはどうあろうと自らが「社民化」せざるを得ないのである。


1967年2月
日本社会主義青年同盟全国学生班協議会解放派
理論機関誌『解放』No.10に発表された
発表時の題名と目次は以下の通り

プロレタリア階級闘争論の確立のために〔上〕
 ――相対的安定期に於るドイツ共産党とコミンテルンの批判――
          社青同学生斑協議会解放派理論部

目次

はじめに
I 「相対的安定」期におけるドイツ共産党
(1)運動の基本構造
(2)産業合理化反対闘争
(3)「政治闘争」の問題
(4)「労働組合統一の闘い」
(5)「社民化」の問題
U トロツキズム――「過渡的綱領」について(下)

(下)は掲載されず、bP1には(中の1)が掲載された。