戦後ドイツ革命と労働者階級

志村 二郎


 目 次

一、総括の視点
二、ドイツ十一月革命
 (1)労兵評議会運動と革命的オプロイテ
 (2)スパルタクス・ブント
 (補)社会運動と政治運動の関連についてのマルクスの規定


 「プロレタリア階級闘争論の確立のために(上)」において我々は六〇年代後半から七〇年代の日本階級闘争を闘いぬくプロレタリア社会政治運動の構築と革命的労働者党の建設という我々の現代的課題の一環として、国際共産主義運動の総括を「相対的安定」期でのコミンテルンとドイツ共産党の運動に焦点をあてて検討してきた。
 三〇年代の決戦での潰滅的敗北を準備していったこの時期でのドイツ共産党の運動の基本構造は、その産業合理化に対する態度にはっきりと示されていたように、労働者階級が、自らの社会的、政治的隷属を根底的に闘いぬいてゆく階級運動としてのプロレタリア社会、政治運動ではなく、社会運動での社民路線とその上に立った小市民的政治闘争との相互規定的な内容だったのであり、掲げられていた「プロレタリアートの独裁」は、すでにその生きた内容を喪失した宗派スローガンでしかなかったのである。我々はその際、「相対的安定」期から「第三期」にかけてのドイツ共産党とコミンテルンの運動の限界は、実は初期コミンテルン自体の問題だったのであること、つまり、戦後革命期には、労働者大衆の自然発生的左傾化の中で隠されていた初期コミンテルンの運動の本質的には宗派的な性格が、「相対的安定」期以降顕在化していったものに他ならないことに触れておいた。
 たしかに「レーニン死後のコミンテルンのスターリン主義的変質」は、相対的に独自性をもった問題として検討される必要がある。それは例えば社民論の問題をとりあげてみても、レーニンの社民批判と、その延長上にあるかにみえる「社会ファシズム論」的社民批判とが、現実の階級闘争の中では、全く異質のものとして立ちあらわれるというように。
 にもかかわらず、スターリン主義の根底的な止揚は本質的にはボリシェヴィズムの止揚の問題なのである。
 スターリン主義の反労働者的性格は、労働者階級の現実の階級形成への宗派的、官僚主義的敵対という点から押えられてゆかなければならないのだが、それへの批判の貫徹は初期コミンテルンをも問題にせざるを得ない。それを我々は戦後ドイツ革命へのコミンテルンの関わりを検討することによって明らかにしなければならない。
 それは又二四年以降の「スターリン主義的変質には声高く「批判」しながらも、「プロレタリア的戦略、戦術の宝庫」初期コミンテルンには、無批判であるばかりか、その系譜上に自らをおいている現在の「新左翼」諸派の運動が、矮小な宗派運動に他ならないことを明らかにするであろう。

一、総括の視点

 一九二一年レーニンは「ドイツ共産主義者への手紙」の中で「……ドイツの国際的地位は一九一八年以来、ドイツ国内の革命的危機がプロレタリアートの前衛を権力の即時獲得へと押しやったので、異常に急速にかつ激しく緊迫した。同時にりっぱに武装し、組織され「ロシアの経験」を教えられたドイツのブルジョアジーも全国際ブルジョアジーも気違いじみた憎悪でドイツの革命的プロレタリアートに襲いかかってきた。……分裂がおくれた結果、資本の下僕の買収のきく徒党(シャイデマン、レギーエン、ダヴィッドの一派)や無節操な徒党(カウツキー、ヒルファーディングらの一派)との「統一」という忌わしい「伝統」の重圧の結果として、この危機の時期までにドイツの労働者のもとには真に革命的な党はあらわれなかった。……」と述べたが、戦後ドイツ革命の「弱さ」の原因を「前衛党の欠如」に求めるこの視点は初期コミンテルンの全活勤につらぬかれており、二〇年七月の第二回大会は「(真に革命的階級の前衛である)党に指導されるときだけ、プロレタリアートはその革命的攻撃力をあますところなく発揮し、資本主義によって腐敗させられたわずかな少数者である労働貴族、労働組合や協同組合の古い指導者たちのもっている不可避的な冷淡さや、いくぶんはその反抗を打破することが出来るし又、資本主義社会の経済組織そのもののせいで、人口中に占めるその割合よりもはるかに大きい自己の力をあますところなく発揮することができる」(レーニン)としてジノヴィエフ起草による「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」を採択する。そしてそのような「前衛党」の建設に向けてのコミンテルンの努力が執拗に続けられてゆくが、それは戦後革命の中で促進されつつあった労働者階級の階級形成にとっていかなる関係にあったのだろうか。党とは、労働者階級のいかなる団結の表現であり、その団結の形成に向けていかなる運動を構築してゆかなければならないのかという問題を欠落した「前衛党」の建設は、二四年以降スターリンのヘゲモニーが確立されつつあったコミンテルンのもとで押し進められた各国共産党の「ボリシェヴィキ化」が、ドイツにおいては、それまでの数々の誤謬にもかかわらずなお存在していた革命的労働者と共産党の絆をこなごなにし、ついには労働者階級の階級運動に宗派的に敵対する「前衛党」を生みだしていったというような事態を不可避的にもたらす。
 たしかにレーニンの場合、スターリン主義者による形骸化された「前衛党」の強調とは区別されて論じなければならない。
 彼は『共産主義における“左翼”小児病』の中でこの問題にふれて次のように言っている。「……ロシアにおけるプロレタリアートの独裁の勝利の経験はプロレタリアートの無条件の中央集権ともっとも厳格な規律がブルジョアジーに勝利する基本条件であるということを、この問題について考えることのできない人々あるいは深く考えてみる折のなかった人々に明瞭にしめしたのである。このことは、しばしば論じられている。しかし、それはなにを意味しているのか、それはどんな条件のもとで可能なのかということについてはきわめて不充分にしか考えられていない。
 ……なによりも問題なのは、プロレタリアートの革命党の規律はなにによって支えられ、なにによって点検され、なにによって補強されるのかということである。第一にプロレタリア前衛の自覚によってであり、革命にたいする彼らの献身、彼らの忍耐、自己犠牲、英雄精神によってである。第二にもっとも広範な勤労大衆、なによりもまずプロレタリア的な勤労大衆と、しかしまた非プロレタリア的な勤労大衆とも結びつきをたもち、彼らと接近し、そう言ってよければ、ある程度まで彼らと溶けあう能力によってである。
 第三に、この前衛の政治指導の正しさによってであり、この前衛の政治上の戦略と戦術の正しさによってである。ただしそれはもっとも広範な民衆が彼ら自身の経験によって、この正しさを納得するということを条件にする。これらの条件がないとブルジョアジーを打倒して全社会を改造するべき先進的な階級の党の実をそなえた革命党内の規律は実現できない。これらの条件がなければ規律をつくりだそうとする試みはかならず、つまらぬもの、空文句、もったぶったしぐさになる。他方、これらの条件は一度に生じるわけにはいかない。それは長期にわたる苦しい労苦とくるしい経験によってはじめてつくりあげられる。これらの条件をつくりあげるのを容易にするものは正しい革命理論である。そして革命理論のほうは教条ではなく、ほんとうに大衆的なほんとうに革命的な運動の実践と緊密に結びついてはじめて最終的にできあがるものである。」
 一九年十二月ドイツ共産党から分裂したドイツ共産主義労働党のプロレタリアート独裁の観念的把握に代表される「左翼小児病」にたいして「ボリシェヴィズムが存在して来た全期間の歴史」をふまえて語られているこの文章の強い説得力にもかかわらず、その前提にあるのは依然として階級形成と党の関係の外在的把握であり、問題はやはり「共産主義者が大衆といかに結合するか」ということであり、共産主義者の「大衆への影響」「共産主義者による多数者獲得」路線である。初期コミンテルンを検討するまえに、戦後ドイツ革命でのドイツ労働者階級の階級形成過程を見ておかなければならない。

二、ドイツ十一月革命

 最初に戦後ドイツの十一月革命をめぐる経過について見ておこう。全国的なショービニズムの波を背景に社会民主党の戦時予算の支持という「裏切り」と自由労働組合の「産業平和」のもとで第一次大戦に入ったドイツの労働者大衆は、帝国主義戦争のもたらす社会指導部を超えて闘いに立ち上ってゆき、軍需産業労働者を中心に多くの山猫ストや反戦ストライキが闘われるが、一八年一月には、ロシア革命の衝撃を受けて大戦下三度目の大規模な政治ストライキが行なわれている。このような労働者大衆の闘いは他方で党と労働組合の中にスパルタクス・ブント、独立社民と革命的オプロイテを先頭とする反対派を生みだしてゆく原動力となる。
 ドイツ帝国主義軍隊の軍事的敗北は兵士の中に反戦の意織を生みだしていたが一八年十一月三日のキール水兵の反乱は、闘いを革命へと成熟させ、十一月四日キールは労兵評議会によって掌握される。
 労兵評議会は、たちまちケルン、ミュンヘン等に波及してゆき、八日には、ミュンヘンで独立社民アイスナーのもとにバイエルン共和国が成立する。運動は九日ついに首都ベルリンをとらえ帝制は崩壊する。十日ベルリン労兵評議会大会は、政治権力は労兵評議会に属するとしつつも、他方で、社民と独立社民からなる人民委員会を臨時政府として承認している。十一日「中央指導部」を結成したスパルタクス・ブントは「あらゆる権力を労兵評議会へ」のスローガンのもとに活動を開姶する。
 人民委員政府の成立は、労働者階級の社会的隷属には少しも手をかけることなく、労働者大衆の不満は次第に深刻な経済ストライキ運動に発展してゆくが、人民委員政府と労兵評議会の二重権力的状況は、政府の要請のもとに旧帝国主義軍隊の将校を中心とする反革命的行動を生み出し、人民委員政府と独立社民左派、スパルタクス・ブントの対立を激化させてゆき、独立社民は十二月人民委員政府から脱退する。だが、十二月開かれた全ドイツ労兵評議会は、人民委員政府とその国民議会の召集とを支持することを決定した。
 十二月三〇日スパルタクス・ブントは独立社民から出てドイツ共産党を創立する。一九年一月、人民委員政府による独立社民アイヒホルンのベルリン警視総監からの罷免は一月闘争の契機となり、革命的オプロイテ、独立社民ベルリン支部、スパルタクス・ブントから成る「革命委員会」のもとに闘われた一月闘争はノスケのフライコールには打ち破られ、ローザとリープクネヒトが虐殺される。それは又、労兵評議会への公然たる抑圧の開始となったのである。

(1)労兵評議会運動と革命的オプロイテ

 一八年十一月ドイツに革命的情勢が生みだされたとき、大戦下では「城内平和」のもとに労働者大衆を封じ込め、さらにバーデン公マックスの「挙国一致内閣」に閣僚を送り込でいた社会民主党と自由労働組合の社民指導部は革命の回避を企てるが、労働者大衆はドイツ全土にわたる労兵評議会(レーテ)運動を展開してゆき、バイエルンではレーテ共和国が樹立され、それは首都ベルリンに波及する。
 ローザはのちに「……革命の出発点は十一月九日だった。十一月九日の革命は欠陥だらけ、弱点だらけのものであったが、そのことは不思議ではない。
 この革命は四年間の戦争のあとに訪れたのであって、この四年間のあいだにドイツプロレタリアートは社会民主党および自由労働組合の教育のおかげで、ほかの国にはほとんど類例を見ないほど公然と自らの社会主義的な任務をさげすみ、否認するにいたっているのだ。……われわれが、十一月九日に経験したものは新しい原理の勝利というよりは、むしろ四分の三まで、現行の帝国主義の崩壊である。そのあとにきた運動にしても多かれ少なかれ混屯とした、無計画なほとんど意識的なところのないものであって、もしその運動に労兵評議会をつくれというスローガンに要約される持続的な原理がなかったとしたら、運動には何の集中点もなく救われようもなかったろう。労兵評議会をつくれという声が革命の合言葉となったためにこの革命はただちに――最初の時点の幾多の欠陥や弱点にもかかわらず――社会主義的プロレタリア革命の特徴的な相貌を帯びたのである……」と述べたが、しかし労兵評議会は、その階級的政治的な未成熟のゆえに自己権力にまでつき進むことが出来ず、革命の翌十日開かれたベルリン労兵評議会大会は、政治権力は労兵評議会に属するとしつつも、他方では、社民政権である「人民委員会政府」をも承認するという曖昧さを残し、さら十二月の全ドイツ労兵評議会大会は「全政治権力を代表する全ドイツ労兵評義会は、国民議会による他の決定方法が行なれれるまで、立法権および執行権を人民委員政府に委託する」という決定を行ない、監督権の放棄と、人民委員政府による国民議会の召集を支持したのである。
 その後一九年一月の「スパルタクス蜂起」の敗北は、社民指導部と資本家階級による労兵評議会運動への公然たる抑圧の契機となり、その権力は次第にワイマール共和国政府と自由労働組合指導部によって収奪されてゆくのだが、我々はこのドイツにおける労兵評議会運動の経験から何を学びとってゆかなければならないのか。
 第一次大戦後ドイツのみならずヨーロッパ全土で闘われていった工場委員会運動については、その「意義」が評価されながらも、同時に政治権力の問題での「限界」が指摘され、それは「前衛党」の指導のもとでのみ意義をもちうるとされる。党という組織的支持点をもたない工場委員会運動が「限界」をもつのはたしかである。注意しなければならないことは、その関係は決して外在的なものではないということである。工場委員会運動は古い秩序の急激な崩壊の中で「自然発生的」に生まれるが、それは決して形態上の問題や機能上の問題としてのみ「意義」があるのではなく、古い団結の積極的意義の喪失の中で、労働者大衆の新たた結合の形成を意味しており、それは職場末端からの労働者の権力基礎としての性格をもっている。「党の指導」という場合あくまでこの工場委員会運動を根源的な力としつつ階級形成にとって桎梏となっている古い党と労働組合の変革による新たな階級的秩序づけの形成の問題である。この問題を欠落した「党の指導」は工場委員会運動の「限界」を自ら固定化し、それを物理力としてゆくことをさけられない。
 ここでは戦後ドイツ革命の運命を担っていた首都ベルリンの労兵評議会とくにその労働者評議会について検討してみよう。
 ドイツ帝国主義軍隊の軍事的敗北を背景に、下級兵士たちの平和への希求と将校層への即自的反抗を契機として結成されていった兵士評議会が、その出身層(多くは農民の子弟)にも規定されて、その政治的成熟度においては、多くは社民党支持であったことに見られるように、なお未分化な要素を含んでおり、さらにその場合と異なって一八年十一月十一日の休戦によってその左傾化が押しとどめられてゆく傾向があったのにくらべ、労働者評議会は、すでに大戦下で、党と労働組合の社民指導部の抑圧に抗して闘われたストライキ運動の過程で「革命的オプロイテ」に代表される自らの指導部隊を生みだしていた労働者大衆によって一定の意識性をもって結成されていったのだが。
 それは「ロシアにおけるソヴエトという概念が、専ら政治的機能を営む組織について使用されたのに対し、ドイツにおける評議会という概念は元来、ソヴエトと工場委員会という二つの組織を包括するところのものであった」(篠原一『ドイツ革命史序説』)と言われるように、その基底には経営単位の労働者評議会(工場委員会)が活動していた。大戦下での「産業平和」のもとで、職場末端の労働者大衆の労働監獄への反抗を労使協調的に解決してゆく(「共同委員会」の設置、調停制度、賃金協約等)という大枠の中で、労働大衆の一定の自主性を容認した「労働者委員会」が存在していたが、それは労働者大衆によって直接選出され、日常的に接触しているという性格の故に、敗戦による資本家の支配力の弱化と共に職場末端からの労働者権力の基礎としての性格を顕在化させてゆき、革命的情勢のもとでは一層包括的な労働者評議会として発展してゆく一つの母体となったのである。注意しなければならないことは、労働者評議会(工場委員会)が、その自然発生的外観の内部に孕んでいた本質的な性格は、それが、労働者大衆が資本に対して闘いぬいてゆく組織であると共に、社民指導部のもとから自立してゆく労働者大衆の組織的表現でもあったということである。
 その牽引力となったのが「革命的オプロイテ」であった。
 社民指導部の強力な官僚統制にもかかわらず、極限的な労働監獄のもとにたたき込まれていた軍需産業労働者を中心とするベルリンの労働者大衆は多くの山猫ストや大規模な反戦ストライキに立ち上がったがそれらの闘いを背景に一六年春ベルリンの大経営の中に強力な組織網を確立していた金属工業労働者連合(自由労働組合傘下)の内部に対立が生まれR・ミューラー等を中心とする反対派は「革命的オプロイテ」を結成する。他方社会民主党内部の対立も激化し、一七年四月独立社会民主党が結成されるが、オプロイテはおおむねこの独立社民左派の影響下にあったのである。
 さて十一月革命に直面してオプロイテはベルリン労兵評議会の指導権を掌握すべく努力するが、それは社民の大量加入による水増戦術と兵士評議会の社民支持の傾向によって成功せず、十一月十日のベルリン労兵評議会で選出された執行評議会の構成はオプロイテ六名、社民六名、兵士評議員一二名である。
 だが、この執行評議会の構成比率は、そのまま社民の指導権がベルリン労兵評議会で確立されたことを意味せず、なお実質的指導権はオプロイテのもとにあった。
 十一日執行評議会は「告示」を発表して「大ベルリン市の住民および兵士に告ぐ。大ベルリン市の労兵評議会により選出された労兵評議会執行評議会は活動を開始した。すべての地方自治体、地方・国家・軍事機構はその活動をつづける。ただしこれらの行政機構は労兵評議会からの委託により指令を発するものとする」と述べたが、他方ではまえに見たように十日の大会では「人民委員会政府」をも臨時政府として承認するという限界をもっていたのである。だが、労働者評議会(工場委員会)運動は依然として強力な力を持っていた。「政府は社会主義的プログラムを実施することをその任務とする」と述べた人民委員政府が、実際には、労働者階級の社会約隷属を根底釣に打破してゆく活動を完全にサボタージュしてゆく過程で、労働者階級の下からの「社会化」要求を含む経済ストライキが発生してゆくが、労働者評議会はその組織者となる。
 それに対し自由労働組合執行委員会は「ドイツは恐ろしい絶壁に立っている。
 このような事態をもたらしたのは遺憾ながら、われわれ国民の現実を理解しない狂信的労働大衆である。彼らは全国民の生存が労働の継続にかかっているときにストライキにつぎストライキを宣言した。彼らは組合が何らの責任を負わない要求を貫徹するための、石炭、生活必需品の供給、物資の輸送をマヒさせた」と「国民」の名において「狂信的労働者大衆」に敵対する姿勢を鮮明にしてゆき、さらにすでに戦時中に存在していた「共同委員会」方式を国家的規模で確立するため「ドイツの産業および職業に関するすべての経済的・社会的問題とこれに関する立法、行政事項の共同の解決」を目的する「中央共同体」協定を資本家団体との間にとり結び人民委員政府はそれを承認する。十一月半ば執行評議会はオプロイテの指導下に「生産過程から生ずるすべての問題についての管理および共同決定権は労働者委員会に属する」という決定を行なったが、これに対し自由労働組合執行委員会は激しく抗議し、十二月三日「組合連合執行委員会代表者会議は、個々の労働者評議会が賃銀、その他の労働関係の規制について、組合を排除せんとしていることは、ドイツ労働者階級ならびに、国民経済全体にとって重大な危険性を有するものと考える。革命の政治機関としての労働者評議会は経済的任務の遂行については、労働組合を尊重すべきである」という決議を採択する。
 だが、このことは自由労働組合執行委が、評議会を「政治機関」として承認したわけでは決してなく、彼らは、人民委員政府による国民議会の召集を強く支持していたのであり、労働者評議会に公然と敵対し、抑圧してゆく力を喪失していた彼らは、組合員とりわけ役員層の大量の評議会への加入をおしすすめることによって、その牙をぬきさろうとするが成功せず、評議会への公然たる抑圧が可能になってゆくのは、一九年一月の「スパルタクス蜂起」の敗北以降であった。
 問題はこのような労働者評議会運動を徹底して発展させる中から、政治権力の奪取の必要性を、労働者大衆の意識に鮮明にもたらしてゆくことであった。労働者評議会による「階級支配の社会的基礎を脅かす」闘いは、支配階級の暴力的抑圧を不可避的に生みだしてゆくが、それに対決し粉砕してゆく力は、労働者大衆が自らの根底的な社会矛盾を闘いぬく過程で、形成された団結をもって「階級支配の政治的頂点を攻撃する」プロレタリア政治闘争である。そのような闘いは、又労働組合自体を変革し、労働官僚の基盤を収奪してゆく。
 事実、オプロイテのもとに、評議会運動をもって闘いぬいた金属工業労働組合の労働者たちは、社民指導部に代って独立社民左派をその指導部に押し上げていく。
 だがオプロイテは「レーテ共和国」を主張しつつも、労働者評議会運動を基底にした独自な政治闘争を、組織してゆくことはできず、政治権力の問題に関しては、独立社民の枠を超えることができなかったのである。それをはっきり示しているのは一九年一月闘争と三月ゼネストでのオプロイテ、独立社民左派の態度であった。

(2)スパルタクス・ブント

 次に我々は、唯一「あらゆる権力を労兵評議会へ!」のスローガンを掲げていたスパルタクス・ブントは、さきに見た労兵評議会運動の立ちおくれによる二重権力的状態を突破してゆくために、いかなる運動を行なっていたのか見てみよう。
 戦後ドイツ革命でのスパルタクス・ブントについては、その「おそすぎた分裂」の結果である「党的指導力の欠如」が、一七年二月から十月に至るボリシェヴィキの活動との対比で指摘され、その原因として、ローザの「自然発生性へ拝跪と党の役割の軽視」が言われる。
 このこと自体はローザの社民論の含んでいた問題と関連して間違いではないだろう。
 だが問題は最初にふれたように、「党的指導力」あるいは「党的規律」の内容である。
 この問題を欠落したローザ「批判」が、現在の「新左翼」の「スパルタクスは一六年にいや一四年に分裂すべきであった」というつまらぬ「総括」や、スターリン主義者の形骸化した「党の役割」の強調しかもたらさないのは当然である。
 それは「あたらしい型の党をドイツに樹立するためのエルンスト・テールマンの闘争は、マルクス・レーニン主義のための闘いであり、ドイツ労働運動の社会民主主義にたいする闘争であった。そしてその闘争はまたローザ・ルクセンブルグ主義の残りかすにたいする闘争でもあった。なぜならルクセンブルグ主義は、社会民主主義の一変種以外のものではないからである。」(エルスナー『ローザ・ルクセンブルグ』)とされるテールマンのもとでのドイツ共産党の「相対的安定期」から「第三期」の全過程を通ずる活動を見れば明らかである。
 十一月十八日の『ローテ・ファーネ』で、ローザは「革命がはじまった。これまでの成果に歓声をあげたり、敵の屈服に凱歌をあげたりするときではない。はじまったばかりの仕事をつづけてゆくためにきびしい自己批判と緊密なエネルギーの結集が必要なのだ。実際これまでの成果はわずかであり、敵はまだ完全に屈服していない。これまでに何が為し遂げられたであろうか? 専制君主制は一掃された。政治の最高権力は労働者、兵士代表の手に移った。しかし、この専制君主制は、決して本来の敵ではなかったのである……。人民殺戮の責任を問われるべき真の犯罪者は帝国主義ブルジョアジーであり、資本主義的支配階級である。現在における革命の歴史的テーマは、資本の支配を廃絶することであり、社会主義の、社会秩序を実現することであり、それ以下のものでは断じてありえない……。革命の道は、革命の目標から、自然にくっきりと浮び上ってくる。方法は課題のなかから、おのずから生まれる。権力のすべてを働く人民大衆の手に、労働者・兵士評議会の手に! たえず、すきをうかがっている敵に対して革命の成果を守れ! 革命政府がとらねばならぬすべての施策の基本線はこの二つである。……」を書いたが、十一月十一日、十三名から成る「中央指導部」を結成して、活動を開始したスパルタクス・ブントは、「人民委員会政府」と労兵評議会の二重権力的状態の中で「すべての権力を労兵評議会へ!」という課題の実現に向けていかなる運動を展開していったのか。
 すでに一八年十月末、スパルタクス・ブントは蜂起の日程をめぐって革命的オプロイテと接触しているが、大戦下でのその闘争組織路線の結果として工場労働者の内にほとんど基盤をもたず、十一月十日のベルリン労兵評議会執行評議会には一人も送り込めていない。
 十一月から十二月にかけて、労働者大衆の人民委員政府への不満が蓄積され、その左傾化が進行する中で、スパルタクス・ブントは徐々に伸長してゆくが、その活動は、大衆集会でのアジテーションや、街頭行動の組織化に力点がおかれ、急進的インテリや失業者を結集しえても、労働者評議会の内部に基盤を確立してゆくことはできず、十二月十二日から開かれた全ドイツ労兵評議会大会では、総評議員四八八名中十名である。当時のスパルタクス・ブントが、ロシア革命での七月事件以後のボリシェヴィキと同様に、労働者革命を恐怖する一切の勢力による「反スパルタクス」キャンペーンの真只中におかれていたことは、その活動をきわめて困難なものとしていたが、他方ではとくに工場労働者との関係においてスパルタクス自身の問題が存在していたのである(このことを明らかにするためには、大戦下でのスパルタクス結成以降の社会民主党内部での分派闘争の構造と、その背後にあったローザの社民論が検討されなければならないが、ここでは、戦後革命の中でのスパルタクスの動向に絞る)。
 その一例として、革命的オプロイテとの関係がある。
 十二月、人民委員政府に参加している独立社民指導部から左派をきり離し、独立した党の結成を意図した独立社民全国大会開催の要求が封じられた後、スパルタクスは単独で、党の結成に進むが、その過程でオプロイテとの間に党的結合のための本格的な交渉が行なわれる。左派の強い独立社民ベルリン支部の大会で、両者は幹部批判と党全国大会の開催要求において全く一致していたのである。
 オプロイテは、合同の条件として(1)国民議会選挙不参加の決議を撤廃すること。(2)党幹部会、新聞委員会等の構成は、両者によって平等になされること。(3)街頭戦術を詳細に規定し、街頭闘争を行なうときは、オプロイテの同意を得ること。(4)新聞およびビラの内容にたいするオプロイテの発言権を認めること。(5)スパルタクス・ブントという名称を削除すること。以上の五つを主張するが、スパルタクスはそれを拒否して、十二月三十日から党創立大会を行なった。
 このオプロイテの主張は、たしかに、その自己過信と政治闘争の問題での限界を示していたが、他方では当時のスパルタクス・ブントへの工場労働者の間違ってはいない反撥と不信をもあらわしている。人民委員政府と労兵評議会の二重権力的状態は、根本的には労働者大衆の階級的、政治的未成熟によって生みだされたものであり、その政治的表現が労働者大衆の社民ないし独立社民への支持というかたちをとっている限り、労兵評議会への権力集中による二重権力状態の止揚は、圧倒的多数の「大衆自身の政治的経験」によってのみ、実現されてゆくことができるが、問題はそのような状況の中での、革命的左翼の主体的任務は何か、いかなる活動を基軸にして、その全活動が組織されてゆかなければならないかということであり、この点からスパルタクスの活動が検討されねぱならない。
 この時期でのスパルタクスの運動の基本構造は、人民委員政府とその国民議会召集路線の反労働者的性格の暴露を通しての「すべての権力を労兵評議会へ!」の宣伝と、街頭行動の組織化であった(ローザ自身は、この時期徐々に発生しつつあった深刻な経済ストライキ運動を「革命の根源的な力」として強く注目していた)。
 スパルタクスが先頭に立って闘った多くの街頭行動は、たしかに、人民委員政府への大衆の不満と、その左傾化を表現しており「大衆自身の政治的経験」の一端を成していたが、他方ではオプロイテをはじめとする工場労働者が、それに批判的であったことも事実であり、スパルタクスは、オプロイテと独立社民を「彼らは革命約行動の初歩的な規則さえ無視している」と批判する。だが、このオプロイテや、労働者評議会に結集している工場労働者たちは、「階級支配の社会的基礎」である生産点では、資本家と自由労働組合指導部の抑圧に抗して、労働者評議会(工場委員会)運動を闘っていたのであり、労働者大衆のこの根源的な闘いを発射点とし、その徹底的な発展の上に、政治権力の奪取を頂点とするプロレタリア政治闘争を闘いぬいてゆくことが要請されていたのだが、スパルタクスの街頭行動は、必ずしもそのような関連の中に位置づけられていたわけではない。
 有産階級のいっさいの努力は、この労働者評議会運動に向けられており、そのためには手段を選ばないこと、そのような反革命的行動を粉砕してゆくのは、労働者大衆が、自らの根源的な社会矛盾を闘いぬく闘争での団結をもって、街頭行動もその一環とし政治権力の奪取を頂点とする階級的政治闘争を押し上げていくことであることを、労働者評議会運動の推進の中から、労働者大衆の意識に鮮明にもたらすことによってのみ、社民の国民議会路線を実践的にも、イデオロギー的にも、突破してゆくことが可能なのであるということを、スパルタクスは、自らの闘争組織路線として確立していたわけではなかったのである。(一七年のロシア二月革命によって生みだされた「臨時政府」と労兵ソヴエトの二重権力状態を分析して、レーニンは次のように書いた。「現在の時期における戦術の特異性」は「批判の仕事、エス・エルや社会民主主義者の小ブルジョア諸党の誤まりを説明すること、意識的=プロレタリア的共産党の構成分子を訓練し、結束させること、「全般的な」小ブルジョア的陶酔からプロレタリアートを解放すること、これがそうである。これは宣伝活動に『すぎない』ように見える。実際には、これはもっとも実践的な革命的活動である。なぜなら外部的な障害のためにではなく、ブルジョアジーが暴力を行使しているからではなく、大衆の軽信的な無自覚性のために停止してしまい、空文句におぼれ『足踏み』をしているような革命を前進させることはできないからである。この軽信的な無自覚性とたたかうことによってのみ――ところで、これとたたかうことはもっぱら思想的に、同志的な説得によって生活の経験をしめすことによってのみおこなうことができるし、又おこなわなければならない――われわれは横行している革命的空文句から脱けだし、プロレタリア的意識をも、大衆の意識をも、各地における大衆の大胆な、断乎たる創意をも真に押し進め、自由と民主主義とすべての土地の全人民的所有の原則とを自分の裁量で実現し発展させ、強化させる仕事を真に押しすすめることができる。」ロシアにおいて、この戦術が一定の有効性をもち得たのは、「大衆の軽信約な無自覚性」が強固な社会約基盤をもたなかったからであろう。だが、ドイツのように、労働者大衆の人民委員政府と、国民議会召集への支持は、ロシアのメンシェヴィキよりは、はるかに強力な社会的基盤をもったドイツ社民に支えられていたのであり、それとの闘いは「もっぱら思想的な」説得では突破しえない。だが、レーニンのこの戦術は、コミンテルン第一回大会で採択された『ブルジョア民主主義とプロレタリアートの独裁に関するテーゼ』の構造につらぬかれている。一方でのブルジョア民主主義と社民へのイデオロギー的批判、他方での共産主義者による大衆への影響の拡大。労働者大衆の階級的自立による社民ないしブルジョア民主主義の実践的、イデオロギー的突破という視点の欠落。この視点がつらぬかれない限り、社民「批判」の構造は、社民官僚の打倒と社民イデオロギーの払拭に代る別の宗派の官僚とイデオロギーの労働者支配という構造の再現をさける保証はないのだ。)
 ローザ等スパルタクス・ブントの指導部が、自らの運動の欠陥を把握していなかったわけではない。
 ローザは、党創立大会での『われわれの綱領と政治情勢について』という報告の中で、革命の現段階とスパルタクス・ブントの任務について、次のように述べている。「……最近の各種の事件をもって、ドイツ革命の初期の段階は終結し、われわれはいまや次の発展段階、第二段階に入っているのだ。だからこのときにあたって自己批判を行なうことは、われわれすべての義務であると同時に、われわれが未来に至るために認識をふかめ、認識をあらためる方途である。われわれは批判的な眼をもって、これまでのわれわれの行為や、創造や怠慢を考察し、吟味してみなければ、今後の活動の手がかりを得ることはできぬ。……革命の出発点は十一月九日だった。十一月九日の革命は欠陥だらけ、弱点だらけのものだったが、そのことは不思議ではない。この革命は四年間の戦争のあとに訪れたのであって、この四年間のあいだに、ドイツ・プロレタリアートは、社会民主党および自由労働組合の教育のおかけで、ほかの国にはほとんど類例を見ないほど、公然とみずからの社会主義的な任務をさげすみ、否認するにいたっていたのだ。……われわれが、十一月九日に経験したものは、新しい原理の勝利というよりは、むしろ四分の三まで、現行の帝国崩壊である! そのあとにきた運動にしても多かれ少なかれ混沌とした、無計画な、ほとんど意識的なところのないものであって、もしその運動に労兵協議会をつくれというスローガンに要約される持続的な原理がなかったとしたら、運動にはなんの集中点もなく、救われようもなかったろう。労兵協議会をつくれという声が革命の合言糞となったために、この革命はただちに――最初の時点の幾多の欠陥・弱点にもかかわらず――社会主義的プロレタリア革命の特徴灼な相貌を帯びたのである……。」
 「まさに、この事実のなかに、われわれの行動をインターナショナルに結ぶきずながある。労働者・兵士協議会の形成こそ、われわれの革命を過去のあらゆるブルジョア革命から完全に区別する指標なのだ。どの革命のばあいでも、およそ革命は弁証法的矛盾のなかを運動してゆくものだが、こんどの場合、その弁証法的矛盾の性格をくっきりと浮び上らせているのは、革命が十一月九日に最初の叫びを、いわば呱々の声をあげたときすでに、われわれを社会主義にまでみちびいてゆくことば、その周囲にあらゆるものが群れつどうことば、労働者・兵士協議会ということばを本能的に見いだしていることである。じっさい革命は、その内にはまだ欠陥だらけ、弱点だらけであって、革命自体のイニシアチブに欠け、また自己の課題についての明確な認識にも欠けていたから、奪取した権力手段の半ばを翌日にはもうかるく手離してしまう始末だった。以上の事実に照して明らかなことは、第一にこんにちの革命が抗がいがたい歴史的必然の法則のもとにあること、従ってわれわれがありとあらゆる困難や錯綜や、内部的欠陥をもつにもかかわらず、一歩一歩われわれの目標に到達してゆくのは歴史的必然によって保証されていることであり、しかし第二に――協議会をという明確なスローガンと、それにつづいた不充分な実践とを対比してみれば、われわれはこう言わざるを得ない――革命がやっと立って歩きはじめた幼児の段階にあったこと、そして最初にかかげたスローガンを完全に実現しうるまで生長するには、まだなすべき莫大な仕事があり、行くべき長途の行程があったことである。」
 だが、徐々にエーベルト=シャイデマン政権への労働者大衆のみならず、兵士大衆の小市民的幻想は、事態の中で打ち破られつつある。「革命と反革命とのあいだに幻想をもたぬ真正面からの闘争が展開される」第二段階に現在入ったのだ。「理由はほかにもある。なぜなら新しい火が新しい焔が底のほうから、しだいに燃えさかってきているからだ。それは経済闘争の火である。同志たち、わたしの述べた革命第一期、いいかえれば十二月二十四日までの時期の特徴をよくあらわしている事実――これは、はっきり把握しておかなければならない――は、その時期には革命が、まだ政治革命以外のなにものでもなかったことだ。革命が初歩約で不十分で、半端でぼやけていたのはそのせいである。革命はまだ第一段階だった。経済的な領域にある革命の主要な課題――経済的諸関係の変革には、まだ手が届かなかった。……最近の数週間に至ってようやく、まったく自然発生的にストライキが、その姿をあらわしはじめたが、ここで次のことをはっきり言っておきたい。ストライキはますます大きく生長して、しだいに革命の中心となり、革命の重点とならねばならない。そのことはまさにこの革命の本質にかなうのだ。革命はそれによって経済革命となり、それによって社会主義革命となる。社会主義実現のための闘争は、大衆によって直接に資本主義と真向うから向かいあって、闘いぬかれるほかはない。あらゆるプロレタリアによって、あらゆる企業のなかで、それぞれの企業家にたいして闘いぬかねばならぬ。そのときにのみ革命は社会主義革命となるだろう。」(ここには、プロレタリア革命が社会=政治革命であることへの正しい把握がある。少なくとも、スターリン主義者の「このストライキの解釈には、革命の課題に関する不明確さがあらわれている。何故なら政治革命がまえもって社会の社会的基礎へおそいかからなかったことが弱点なのではなく、政治革命が徹底的に行なわれなかったこと、政治権力の問題が解決されなかったこと、ブルジョア革命の社会主義革命への移行について、何の具体的プログラムも、具体的プランもなかったこと、これが弱点だったからである。だからこの点でもまた一八年のドイツには、革命的大衆に政治権力奪取への具体的方法を指示できる党のなかったことが、革命の主要な弱さをあらわしたのである。……」(エルスナー)などという「批判」に見られるプロレタリア革命の政治主義的な把握は超えられている。ここに特徴的に示されているのは、政治権力の奪取を頂点とするプロレタリア政治闘争は、労働者階級が自らの根源的な社会矛盾を闘いぬく闘いの、その過程で形成される団結をテコとする普遍的な結合闘争であることの完全な欠落であり、いっさいを政治権力奪取のための「戦闘司令部」たる「前衛党」の問題としていく発想である。)
 「同志たち、われわれが上述のような情勢をまもなく迎えるとすれば、その情勢に対処すべき、われわれの戦術の一般的な基本線はどう帰結されるのか? なによりたやすく帰結されるのは、いまにも、エーベルト=シャイデマン政権は打倒されよう、そしてそれに代るのは、文句なく社会主義的・プロレタリア的・革命的な政権だろうといった期待であるかも知れぬ。しかし、あなたがたは頂上や上辺ではなく、底辺へこそ眼をそそいでほしい。われわれは、資本主義政権を打倒してそれを別のもので、置きかえれば社会主義革命は片づくといった幻想を、つまり第一段階の幻想、十一月九日の幻想をいまさらくりかえして育ててなどはいられない。プロレタリア革命を勝利にみちびこうとするかぎり、われわれは逆に底辺から始めねばならぬ。すなわちプロレタリアートの社会的・革命的大衆闘争をいたるところにまき起し、それによってエーベルト=シャイデマン政権のよって立つ基盤をこそまずゆるがさねばならないのだ。……」
 「以上から革命の成功の前提条件が確保されるためには、われわれは何を為すべきか、明らかだろう……。すなわちわれわれは何を措いても労兵協議会の、将来は労働者協議会のシステムをあらゆる方面にわたって押し広げてゆかなければならない。……われわれはさらに、農業労働者たち、雰細農たちをも、この協議会システムのなかへ組み込んでゆかねばならない。」そして、この協議会活動の徹底的な展開によって、ブルショア国家を土台から掘りくずしつつ、権力を獲得してゆかなければならない。
 ここでは、ローザ理論の全面的検討が目的ではないので、ローザの国家論、その他の問題には触れぬが、プロレタリア社会=政治革命に向けての現在的な運動の構築という我々の課題から見れば、以上の引用に見られる把握は、初期コミンテルンの限界を突破してゆく可能性を含んでいたと云わなければならない。
 だが、一九年十二月の創立大会では、ローザの主張が組織的に確認されたわけではなく、国民議会選挙への参加は六二:二三で否決され、又、既成の労働組合内での活動を否定してゆく傾向が強くあったように「プロレタリアート独裁」の観念的把握と、社会運動を欠落した街頭行動主義的傾向は根強く存在していたのであり、それは十九年一月闘争の中で顕在化しでゆくことになる。

(補)社会運動、大衆組織と党の関連に関するマルクスの規定

 四八年三月革命の中で、初めて自らの全国組織(「労働者親睦団体」)を結成して闘ったドイツの労働者運動は、革命の敗北後のすさまじい弾圧の時期には、後退を余儀なくされ、自由主義左派系のシェルツェ・デリッチュの指導する「労働者教育団体」のみが存在していたが、その後五〇年代のドイツ資本主義の発展に伴なう労働者階級の勢力の拡大を背景として、団結禁止法が緩和されると共に六〇年代に入って復活してゆく。
 六三年九月ラッサールによって「ドイツ労働者総同盟」が、「労働者教育団体」内の先進的労働者を結集して結成されるが、これはドイツにおける「労働者党の復活」(マルクス)の気運をあらわしていた。ラッサールは、デリッチュ等「進歩党」系労働運動の「自助」(労働者の貯蓄活動や消費協同組合)は勿論、労働組合の賃金闘争一般も資本と賃労働の内に“賃銀鉄則”が貫徹している限り(それはマルサスの「人口論」とリカードの賃銀論を証拠としていた)、無益であり、「自由な人民国家による労働者の協同生産の組織化」のみが労働者階級の状態を改善できるとして当面の課題を、その「自由な人民国家」実現のための普通、平等、直接選挙権の獲得に設定していた。
 その後の労働者大衆の労働組合活動の発展を無視できなくなったラッサール派が六八年に自らの組合組識として結成した「ドイツ労働者団体総同盟」も、全くの物理的補足でしかなかったのである。
 他方、マルクス、エンゲルスの影響下にベーベル、リープクネヒト等が、ラッサール派とは別に「労働者教育団体」の内部で活動を開始していたが、六八年その第五回大会では六四年に結成されていた第一インターナショナルの綱領の承認を実現し、さらに六九年に「社会民主労働党」を結成している(アイゼナッハ派)。
 マルクスは「ラッサールの同盟についていえば、それは反動の時期に創立されたものである。一五年間のまどろみののち、ラッサールはドイツの労働運動を再びよびさました。――このことは彼の不滅の功績としてのこっている」と評価しつつも、ラッサール派の「自由な人民国家による協同生産の組織化」が、現実にはプロシア国家への「国家補助」の要求であり、従って普通選挙権の獲得を中心とするその「政治活動」も、それに規定されて小市民的性格しかもち得ず、労働者はその物理力とされていること、ラッサール派の運動は、一言でいって「特殊の一宗派に従属せよという要求を階級運動に提出している」ものであると批判しているが、マルクスが、労働者階級の経済運動と政治運動の構造との関連について述べていることは、現在の我々に多くの示唆を与えている。
 「政治権力の獲得を最終目標」とし「八時間労働制などの法律をもぎとろうとする」闘いも含む労働者階級のあらゆる「政治運動」は、あくまで労働者階級の経済的社会的解放の「手段」であるが、それは「たとえば個々の工場で、または個々の職業でストライキなどをやって個々の資本家から労働時間の短縮をもぎとろうとする純経済的な運動」とは区別されて「労働者階級が階級として支配階級に立ち向い、外部からの圧力によって彼等に強要しようとする運動」であり、「普遍的な社会的強制力をもつ形で自己の利益を貫徹するための階級の運動」である。そのためには、「労働者階級の予備的組織化がある点まで発達していることが、必要だが、それは彼等の経済闘争自体のなかから生まれて来る」のであり、そのような政治運動は又、この「組織化を発展させる手段」ともなるという相互作用の関連にある。「いたるところで労働者のばらばらの経済運動から成長して来る労働者階級の予備的組織化をテコとした政治運動」こそが、真に小市民的政治運動を超えたプロレタリア社会・政治闘争なのであり、「同時に社会運動でない政治運動は決して存在しないのである。」
 そして、この階級運動を闘いぬく団結の形態こそが、労働者党である。
 「土地の貴族と資本の貴族はつねにその政治的特権を彼等の経済的独占を擁護し、永続させるためにもちいるであろう。彼らは労働の解放を促進するどころか、労働の解放のゆくてにありとあらゆる障害をおくであろう。……それ故政治権力の獲得が労働者階級の偉大な義務となった。」
 「労働者が、その経済闘争を通じてすでにつくりだした個々の力の統一が、その搾取者の政治的強力に対する闘争の槓杆として役立つ」ためには「労働者階級は、有産階級の以前からの全政党組織に対立してみずからを、特別の政党に組織することによって有産階級の全暴力にたいして階級として行動しうる」のであるが、階級運動に宗派的に敵対するいっさいの「政党」と区別される「特別の政党」としての「真の労働者党」は、決して「思想が党をつくる」のではなく、現実の階級闘争の中でつくられる階級としての団結をその内容としていることに注意しなければならない。マルクスはそれを「政党は、それがどんなものであろうとも、どんなものになろうとも、すべて例外なく労働者大衆をほんのしばらく一時的に鼓舞するだけであるに反して、労働組合は労働者大衆を長いあいだひきつける。ただ、労働組合だけが、真の労働者党を代表し、資本の力に対して一つの防波堤をきずくことができる」と表現しているが、そのような党を形成してゆくためにも、「労働者が資本の直接の侵害に対抗することとは別に、今後労働組合は、労働者階級の完全な解放という偉大な利益のために、労働者階級の組織化の焦点として意識的に行動することを学ばなければならない。
 労働組合はこの目標に向って進むあらゆる社会的・政治的運動を支持し、自分を全階級の行動的闘士かつ代表者とみなさなければならない。……」そして誤解のないようにつけ加えておけば、労働組合と労働者党の関係は労働者党は労働組合を階級的・政治的に秩序づけてゆくのである。だが以上のような把握が、当時のアイゼナッハ派自身にも正しく受けとめられていたわけではなく、七五年ラッサール派とアイゼナッハ派は合同して「ドイツ社会労働者党」を結成し「ゴータ綱領」を採択するが、それはおおむねラッサール派の従来の主張が、つらぬかれており、マルクスは「原則の取引」であるとしてアイゼナッハ派を激しく批判するが、しかし当時のベーベル、リープクネヒト等自身にもそれを受け入れてゆく素地があったのである。

(次号につづく)


1967年7月
日本社会主義青年同盟全国学生班協議会解放派
理論機関誌『解放』No.11に次のような題名と目次で掲載された

戦後ドイツ革命とコミンテルン(1)
  プロレタリア階級闘争論の確立のために(中の1)

 目 次

一、総括の視点
二、ドイツ十一月革命
 (1)労兵評議会運動と革命的オプロイテ
 (2)スパルタクス・ブント
 (補)社会運動と政治運動の関連についてのマルクスの規定
三、戦後ドイツ革命とコミンテルン(次号)

三、の(中の2)に当る部分は、bP2には掲載されていない。

「狂信的労働大衆」「気違いじみた」という表記がありますが、引用文中でもあり、そのままにしました。