追悼 今野求 島成郎 野村豊秋 さらぎ徳二 原之夫 


目 次

原之夫さん 追悼

「声なき声の会」小林さんの遺稿集出版

「第二次共産主義者同盟議長さらざ徳二さんを偲ぶ会」

さらぎ徳二さんを悼む 小田原紀雄 救援2003年5月10日

「島成郎と60年安保の時代」2
多田靖の稿(「60年安保とブントを読む」所収)の補足


夢を追ったリアリスト 今野求 追悼文集

ブント書記長・島成郎追悼記念文書が完成しました!

「島成郎と60年安保の時代」1ブント書記長 島成郎を読む 目次紹介

「島成郎と60年安保の時代」2 60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む 目次紹介

ドンドコドン 野村豊秋 遺稿・追悼集

「火花」のころ  三浦  暉

本郷の立て看 「火花」同人 笠原多嘉子


原之夫さん 追悼
弔 辞

 原さんの訃報に接して、あらためて残された時間の使い方を考えています。陰ながらご冥福を祈っています。
 2004年2月3日
    今井 公雄 (作家)

 原さんの追悼会の案内、ありがとうございます。行きたいと思ったのですが、当日(2/13)は別の会の予定がかなり前から入っていて、しかも僕がレポーターなので、欠席するわけに行きません。というわけで残念ですが「偲ぶ会」にはでれません。世田谷反戦関係の人たちが来ていたら、よろしくお伝えください。
    大瀬 振

原之夫さんを偲ぶ会へのお誘い

私たちの友人、原之夫さんが亡くなってから早一ヶ月が過ぎようとしています。
長崎での闘病生活から二年、昨年の十二月十四日の午前四時三十分に彼は旅立ちました。食道ガン治療時における糖尿病、ALS、長年の肝硬変の悪化が原因とのことです。
原さんは、小学生の時の被爆を受け止め、「被爆の底で」生きた市井の芸術家でした。自らの生を絵や版画、小説という形式を通して表現しました。彼の反戦の意志も、またそうでした。
昨年は『原之夫銅版画作品集』を出版することができました。彼の旅たちへの手向けになったと思います。
当日は、気張らない友人たちのささやかな会にしたいと思っています。長崎放送が放映した、七、八分のビデオも上映します。絵の仲間、文学の友人、仕事仲間等集まって、原之夫さんの思い出を語り合い飲みたいと思います。酒類、食べ物の持ち込みも自由ですので、大いに歓迎します。
どうぞ、ご都合をつけてご参集してください。



日時  2月13日(金)  開場18:30  19:00〜22:00
場所  砧区民会館(小田急線 成城学園前徒歩5分)
会費  3,500円
(参加される方は、2月6日までにお知らせ下さい)

連絡先 三浦 暉
      電話 03-5429-7702  FAX 03-5429-7710
      Eメール  ru-tokik@s2.ocv.ne.jp

『原之夫銅版画作品集』



「声なき声の会」小林さんの遺稿集出版

1992年の「6・15集会」。(東京・池袋の豊島勤労福祉会館で。石山貴美子氏撮影)


 ことし1月、72歳で他界した反戦市民グループ「声なき声の会」の代表世話人だった小林トミさんの遺稿集「『声なき声』をきけ 反戦市民運動の原点」(同時代社)が出版された。
 書きためていた1240枚(1枚400字)の原稿を、長く親交のあったジャーナリストの岩垂弘さん(68)が、まとめた。91年、湾岸戦争が始まったさい、「戦争には正義の戦争とか聖戦はない」としるし、「海外派兵を論じる人は、誰かに命令することを考えている人で、戦争で犠牲になるのはいつも弱い立場の人である」などとも記している。
 60年の安保闘争のさいに生まれた「声なき声の会」は、この闘争で犠牲になった東大生・樺美智子さんの死を悼んで、命日に当たる6月15日に国会前に花束をささげてきた。ことしも同じ15日夕、献花が行われる。

朝日新聞 2003年6月13日 金曜日 朝刊 第2社会面 (13版)
書評

同時代社のホームページ


「第二次共産主義者同盟議長さらざ徳二さんを偲ぶ会」

2003年6月28日 偲ぶ会会場

 4月13日、第二次ブント議長であり破防法被告であった、さらぎ徳二さんが肝硬変で永眠されました。
 1969年、あの「7・6事件」で重傷を負ったさらぎさんは、そのまま破防法40条煽動罪で逮捕されましたが、当局による「治療」の過程でC型肝炎ウイルスに侵され、長い長い闘病生活の末、ついに帰らぬ人となってしまいました。享年73歳でした。
 我々にとってさらぎさんは、第二次ブントの議長であり破防法被告でありました。激烈な階級闘争を闘いぬいた安保ブントの崩壊後、1966年に再建された「第二次ブント」は、いいも悪いもブント主義の「党」であったと思います。さらぎさんはその中枢にありました。その第二次ブントも、67年10・8羽田闘争から69年4・28闘争までで実質上その生命力を燃焼し尽くしたのではないでしょうか。
 しかし、病魔に侵されながら破防法被告となったさらぎさんの闘いはそれからだったのだろうと思えてなりません。「結社の自由」をめぐって争った「さらぎ破防法裁判」は、2002年6月最高裁で無念にも有罪が確定しました。
 戦後まもなく共産党所感派として出発したさらぎさんの一生は、最後まで革命家そのものでした。
 そして、さらぎさんを最後まで中心的に支えてくれたのは、奥さんの利枝さんと、最高裁判決を待つようにして亡くなられた戦友の有泉亨治さんでした。心より敬意を表します。
 かつて共に闘った仲間が集い、さらぎさんのことを語り合いたいと思います。左記のように日時を設定しましたので、多くの方々のご参集をお待ちしております。

   2003年5月18日
呼びかけ人
岩崎 司郎
        記

6月28日(土)15時30分受付 16時〜18時30分まで
ワイズ(パーティハウス)新宿区西新宿1−24−1
Y'sエステック情報ビル四階 電話03−5322−3545
一〇〇〇〇円

連絡先 「第二次共産主義者同盟議長さらぎ徳二さんを偲ぶ会」
事務局
前澤 奈津子
若山 宏
大下 敦史
米田 隆介
東京都千代田区神田神保町1−42 エム企画印刷内
電話 03−3291−8191
FAX. 03−3294−8777

*追伸 準備の都合上同封の用戟にて6月15日頃までにご連絡いただければ幸いです。


さらぎ徳二さんを悼む
小田原紀雄 救援 2003年5月10日
 第409号
 破防法被告であり、裁判の途中で新たな任務があったのであろう地下潜行をされた後に、再度登場された時には既に病身でいらした。もうここ二、三年は外出もままならないようなご様子であり、わたしも時折集会場でかすれた独特の声での発言を伺った程度のお付き合いであった。
 ただ、裁判を再開始された後に、支援する会の形式的な事務局長をお引き受けしたという縁で、後にはバラバラになってしまった第二次ブント最後の議長であったさらぎさんという人を知る機会が与えられたことは、今、真に幸いなことであったと思っている。考え方には随分な距離があったし、お体の具合で共に闘ったこともないのだが、そのお人柄と革命家であるという矜持については、学ばせていただいた。
 今の時代にあれほどまで革命家としての自らの生き方に誇りを抱いておられる人がいようとは考えもしなかったが、これはさらぎさん自身の時代錯誤だけに要因があるのではなく、時代の変革に賭ける意気込みにおいてこちら側にも問題があるのであろうと、お目にかかるたびに思った。遠く外国にいる人、少し時代を遡った人を革命家として遇するのには躊躇がないにもかかわらず、ごく身近な人物がそれを自負すると揶揄してしまう、今の我々の運動はどんなものであろうか。
 ブントの現在についてあれこれと言挙げすることはしないが、それにしても、場が救援連絡センターの通信であるにしても、先の有泉享治さんに続きさらぎさんの追悼文まで、まったく立場を異にしているわたしが書かなければならないというのはどういうことなのか。追悼文を書くのが嫌なのではもちろんない。こういう機会にさらぎさんとの出会いと、さらぎさんご自身の闘って生きた人生について考えさせていただくのはありがたいことだと思っている。しかし、かつての、そして今もブントであると自認しておられる諸氏よ、救援連絡センターが遙か遠い存在になっている今のブントをどう考えておられるのか。さらぎさんの葬儀にご参集であったブントの諸氏よ。
 さらぎさんの闘いをそのままに継承すべきだとはわたしも思わない。わたしなどより身近であった分、余計に批判も鋭かろう。それは理解できるのだが、少し寂し過ぎはしないか。
 さらぎさん、同志有泉さんを失った後、あなたも力がお尽きになったのでしょうね。でも、葬儀の最後に、ご子息が「父右田は、さらぎとしても生き、そして死にました」と話しておられました。ご子息はあなたの生き方を十分ご理解になっていたのだと感じました。もって瞑すべしですよ、我々のような生き方をしている者としては。
 さようなら。そう遠くないうちにわたしども六〇年代後半世代の者もお目にかかることになるでしょう。その折には、また大言壮語をして楽しみましょう。
 二〇〇三年四月二十五日
 日本基督教団羽生伝道所
    牧師 小田原紀雄


「島成郎と60年安保の時代」2
多田靖の稿(「60年安保とブントを読む」所収)の補足

順序不順だがいくつか補足的に書く。


2、次に処分と停学とについてまとめておきたい
3、高安国世氏のこと
4、島成郎の南部労対時代
5、「島成郎を読む」出版後、過誤の指摘
6、
補足の補足

1、

 島とほぼ20年ぶりに再会したのは1988の菱沢を偲ぶ会の場である。
 この席には菱沢の人徳を反映して、彼に連なる人脈が59年卒、64年卒組(東大 医)を中心に幅広く結集した。運営は島、森山、高橋、塙正男(菊坂セツル)が中心になったが、提唱者は64年卒の朱文竜だったと聞いた。60年安保勢力と医学部に始まる東大闘争を支えた人々のおそらく最初にして最後の結集の場となった。私も自ら禁を解いて参加したものである。
 64年組では、朱、金村元、菱沢の主治医であった相沢力等が参加していたが、この席上最近死んだ今井澄が、本来は64年組であったと本人から聞いた。その他、中佳一、新聞記者相手に事件を起こした三吉譲等多士済々であった。
 島が体調を崩し陽和病院長を退くにいたった話を聞いたのはこのときである。診断確定までに中野総合病院、石心会狭山病院と手間取ったらしいが、それらの事情を島はいっさい触れていない。吐血を中心とした胃症状で虎ノ門に入院し、胃潰瘍の診断を得、治癒したというのが彼の説明であり、疑問の余地はなかった。彼が私にデタラメを云うわけはないし、私の関心も主に診断に向けられていた。文脈もそのようになっている筈である(95ページ上段)。この件については、後日、虎ノ門の島の主治医から確認をとっている。
 辞任について折からの自民党の後継争いを意識してか、後継など気にせずまずやめることだなどと力説していた。ただそのころ、彼の近親者が肺癌で亡くなったことに触れ、その人がたまたまタバコをやらなかったことから、自らの無頼を合理化しようとするのには抵抗を感じた。
 当時、田中清玄が回想的に60年安保に触れて発言するのが目につき、私はその切り抜きを当日持参したのだが、島は「皆勝手なことを云うものだ」と云っていた。
「それではスタンダードを作らねばダメではないか」と私が云うと、島は古賀に高沢は今どうしているのか等と問いかけていた。その後しばらくして「ブントの思想」構想が登場してくることになる。
 この日は塙がスポンサーになり、東京駅近傍で盛大な二次会が延々と続いた。偲ぶ会で私は菱沢の思い出を経時的にしゃべり、そのなかで菱沢が島、生田に指導された東大細胞に所属していたことに触れたが、島は「菱沢は共産党にはいっていたのか」とびっくりしたように語っていた。
 散会になり、島一人帰る方向がちがい、去りかけたがまた戻ってきて私に握手を求め(なにしろ20年ぶりだ)てきたのは忘れがたい思い出となった。


2、次に処分と停学とについてまとめておきたいと思う。

 東大当局にはおそらく50年レッドパージ闘争処分に原型をもつ処分の一般方針がある。ストライキの提案者、採択者(議長)、執行者を退学処分とするというものである。医学部でも58年以後、この処分の壁をめぐるきわどい攻防が展開された。
 最初は、58年秋の警職法闘争である。石井保男の発案で処分を最小限に絞るために、執行部の中から一人を選びそのひとが議長と提案者とを兼任する。その一人に4年の高橋国太郎がなった。当時3年の野々村によると、なかなかの出来栄えであったという。見事スト可決。退学処分、ただし1年で救済された。
 ここにひとつのエピソードがある。当時の学部長の吉田富三に石井が「真の責任者は自分だ」と迫ったことである。これには吉田も困惑した。もともと不承不承にした処分である。だか掟は曲げられない。1年とは板挟みの中での救済たったのだろう。
 卒業の寸前石井はプラーグに出発している。もちろん国際学連副委員長就任のためである。石井としてみたら、島の要請もさることながら、高橋処分をはためにノホホンと卒業することは人として許されないことだとの思いもあったようだ。
 出発間際に石井は吉田を訪ねている。席上吉田は自らの秘話を話している。第一高等学校時代、寮の同室者に尾崎秀実がいたこと、自分もかなり左にゆれたこと、など。
 吉田は1928年東大医卒だが、その前に国崎定洞(1919年卒)小宮義孝(1926年卒)曽田長栄(1927年卒)の系譜が並ぶ。国崎(衛生学助教授)は1926年渡独、1927年KPD(ドイツ共産党日本人組織の責任者)、スターリン粛清。小宮(衛生学助手)は全協の4人の指導者の一人。治安維持法で逮捕。曽田は社医研の中心で卒業後労働科学研究所で逮捕。
 この会談は石井が革命運動にかける自らの決意を述べ、吉田もそれを激励するという感激の場面となった。石井と吉田の親密な関係は吉田の死まで続く。吉田は1968年定年退職しているが、その少し前、プラーグに石井を訪ねている(学会の機会を利用したか)。しかしこのとき復学の話はまったく出ていないという。国際舞台に活躍する石井の姿を見届けたかったのだろう。
 1960年高橋の処分が解けるが、その数ヶ月後彼は事務の志村氏に呼び出しを受けている。石井と島が退学手続きをとってないが、医学部の在学上限は8年であり、このままの状態が続けば入学8年後に除籍になり復学の可能性は消えるというのだ。自己都合退学の手続きをとりさえすればその時点で時間はストップするというのである。結局高橋が二人の手続きを代行したような気がするといっている。その際、島にも処分されているわけではないのだからこの手続きをとってあればいつでも復学できると説明したという。この志村氏の配慮が彼の個人的意志によるものかどうかはわからない。
 安保闘争では60年卒の野々村禎昭(彼は都立西高時代から著名な活動家で高校1年でメーデー事件に参加している。医学部でも組織には属さなかったが全学連主流派の立場で同級生をまとめていた)も、4年のとき高橋国太郎と同様(4年生、一人3役)でスト提案を行い、必ずスト採択の票読みだったが、級友が彼の処分回避のため反対に回ったため実現できなかったという際どい闘いがあった。このときの学部長も吉田。
 62年大管法闘争では2年の今井澄が医学部自治委員長として一人3役をこなし、ストを実現させ、退学処分を受けた。当時の医学部長は薬理の熊谷洋教授。吉田以上の学生運動の理解者。今井の身柄を当時大学院生の野々村に預け、1年で処分を解いている。ちなみに時計台前集会で野々村は大学院自治会代表で連帯の演説をおこない、譴責処分を受けている。東大の大学院生として最初にして最後の処分だと誇りにしている。
 このようななかで島の復学問題がおきている。吉田は自らの定年を前に島の状況を見極めようという心配りがあったのだろう。なにしろ学部長の時代の出来事だから。島本人がその気になれば学則からなんら障害はないのだから、本人の判断が焦点になったはずだ。塾で生計を立てるやり方は一時的には有効てもそれがためには旧同志の献身が要求されるし、到底抜本的解決にはなりえないものだ。私は結局島自身の判断でこの吉田による「いきな計らい」の場を利用し復学の意志を伝えたものと思っている。学部長は熊谷である。スムースに運んだに違いない。矢内原の学則の壁は厚く、吉田自身が高橋処分で自ら味わったところであり、定年間近の一介の教授でしかなかったのだから。「超法規的処置」など問題外である。またその必要もなかった。
 石井保男の復学はさらに遅れて73年になる。当時の学部長は解剖の中井準之助教授。復学の意志を伝える石井に、中井はひとこと「ああいいよ」で終わったという。
 「超法規的処置」が唯一なされたのは東大闘争である。
 68年1月登録医制度反対自主カリキュラムを要求する青医連と医学部学生の運動に対し、「上田内科春見医局長糾弾」を言いがかりに学生退学4人、停学2人、譴責6人、研修医5人追放の、医学部史上例を見ない大量処分の攻撃をかけてきた。これが1年有余に及ぶ東大医学部さらに全学闘争の発端てある。68年卒と69年卒の卒業を賭けた闘いになった。とくに69年卒の示した団結は感動的なものがある。68年3月には卒業試験ボイコットについてこれなかった学生57人(1学年略100人)が卒業している。69年3月にはスト破り日共系17名が卒業。闘争の本体は69年9月に45名が卒業している。安田砦の攻防には、今井澄が行動隊長に、69年組のまとめ人として人望を集めていた無党派の外山攻他1名が衛生班として参加している。外山攻他1名は執行猶予がつき、今井のみ実刑となる。当時今井は64年組→69年組になっていたが、卒業はさらに遅れて70年になる。
 外山によると、当局は、以前は卒業試験を受けさせるか否かを切り崩しの武器に使っていたのに、闘争後は卒業試験免除、はやく出ていってくれ、卒業証書も交付するという態度にでてきている。春見闘争の処分は完全にふっとび、闘争突入後は一切処分なし。「超法規」の言葉もふさわしくない。完全にマケマシタ、早く出ていってくださいのギブアップぶりとなった。外山は「卒業証書をとりにいった者はひとりもいないだろう。それでも国家試験は支障なく受験できた」と語っている。
 東大医学部同窓会の鉄門クラブが数年前東大史上の重大事件のアンケート調査を行った結果をみたことがあるが、68−69年の東大医学部闘争が堂々第一位となっている。


3、高安国世氏のこと

 島の母系の叔父さんに高安国世氏がいる。同氏は京大独文教授、京大を中心としたアララギ「塔」の主宰者として知られているが、川西政明の昭和文学史(中)野間宏の項で「暗い絵」の時代に野間と連なる人脈にいたとの記載をみた。「暗い絵」の時代は京大ケルンの時代である。6人のケルン(永島孝雄、布施杜生、小野義彦等)が100人に近い活動かを有し、数多くのサークルも影響下においていたという。ブリューゲルの絵をもっていた下村正夫(美学)を通じて、その友人の内田義彦、高安国世とつながり、永島孝雄を通じて梯明秀と、下村正夫を通じて中井正一ともつながりをもったとある。
 この記述から結論をひきだすには無理があるが、三回忌のときに島の姉上の美喜子さんに尋ねたところ、信州に国世さんの別荘があり、そこで3回ばかり野間氏と会ったことがあるという。「成郎は知らないだろう」とのことだった。三回忌に同席した由井格(中大卒)は、つてがあるので調べてみたいといっていた。なお、この時代の京大医学部関係者は松田道雄が岩波新書等で書いている。


4、島成郎の南部労対時代

 ブントの労働運動について書いた佐藤正之の一文はきわめて貴重なものであり、私も原稿の段階で目を通させてもらったが、「田母神さんが労働者工作に従事した島を覚えていると云っていた」という重要な部分が削除されている。この部分は島が品川地区で活動したことを推定させるきわめて重要な記録であるために残しておいてほしかった。
 安保最盛期ブント労働者部分のデモは、全国一般城南労組なしには成立しえなかった。なにしろ隊列の半数近くを占めていたから。その中心に田母神さんが居た。島の活動の姿が田母神さんに深い印象を残したこと、それが田母神さんを共産党に対決するデモの組織化に駆り立てた要因をなしたことは想像できる。田母神さんを中心とした活動家は明電舎を含め区内の労組にオルグにはいり、デモに参加させている。そのエネルギーは港地区に劣らない。
 後日談がある。安保後、構造的改良派の渡辺勉が城南合同に接近し、その活動を出版化しようとした。田母神さんは大島芳夫とほぼ同時期に死去し、奥さんも昨年亡くなったという。夫妻は渡辺の企画にOKを与えず、不発に終わった。


5、「島成郎を読む」出版後、過誤の指摘が二人から寄せられた

 ひとつは荒木俊夫夫人からである。107ページ下段に荒木敏夫とあるのは俊夫の誤りであり、佐々木勇一は雄一に訂正されねばならない。電話による取材の欠陥が露呈した。ファクスでやるべきであった。お詫びして訂正したい。
 もうひとつは島博子さんからである。仲人の名前が間違っている。野田弥三郎夫妻であったという。これは私の失敗である。当時、共産党都委員会委員長をやっていた芝寛がセレモニーの冒頭長広舌をふるったのでその印象強く誤認したものである。私自身陶山とともに野田氏宅を訪れ脳梗塞で倒れた愛妻の面倒をみておられた氏の姿をつぶさに拝見したこともあるだけに、関係者にお詫びしたい気持ちで一杯である。
 博子さんからは他に何点か指摘がある(三回忌のとき渡された!)。この文章で、1と2は陽和病院辞任前後の体調不良と復学の話しであるが、重要なので丁寧に書いた。他の点を簡潔に書くことにする。
 生田が島の身代わりに逮捕された(羽田闘争の項)部分は事実問題もあるが、当時生田と片山は政治局派遣の形で扱うということで了解されていた。羽田の教訓から4.26以後の闘争は政治局から陶山・生田・常木等が島に指名され参加している。
 126ページ上段の「北海道から沖縄へ」の項。博子さんがお母さんの面倒をみておられるとの情報が入っていたので「沖縄へ」が自然なのではないかと思ったものであり、他意はない。間違っていたらごめんなさい。
 131ページ下段沖縄選択の項で、唐牛云々を書き込んだことについて、島は若いころから(全学連中執時代沖縄担当)沖縄に変わらぬ強い関心を持ち続けており、正式に赴任する前にも二度三度出かけていることが挙げられている。重要な記述であり、ここに特記しておく。
 もちろん賛同を頂いた部分もある。五回大会の背景、島−生田の長い友情の歴史の記述など。


6、

 私の文章中、指摘されているわけではないが反戦学同(社学同)の重要な支部中もれている部分があるのではないかという点である。
 福島大、立命大、東京学大、東京工大、鹿児島大、教育大、大阪市大、横国大、茨城大、宇大等についてはいずれも主流がブントに結果しなかったので省いた。他にブントへの移行が確認できなかったものには、東洋大、都立大、農工大、学習院大等がある。これらは取り上げないことにした。
 取材中、多くの人の協力を得た。灰谷を中心にした北海道の人々、関西の小川の協力は大きい。灰谷は脳血管障害で倒れ、小川は重大疾患を抱えての協力であった。灰谷は奇跡的回復ぶりを三回忌に示したが、小川は闘病の最中である。小川は本の出版にも運転資金を準備し関西の三回忌を主導した。6.15四十周年集会も小川の発案である。
 このように鬼気迫る活動ぶりに異議を挟むのは大いに気が引けるが、小川の文中に陶山が家を一軒貰ったとある。このような事実は全くない。兄弟で貰ったと云われた人がいたが、人違いではないか。陶山康子さんは現金の不足を塾で苦闘しながら子育てを成し遂げている。このようなタッチで書かれているのは残酷ではないかと、他の用件のついでに小川に電話したら、すまなかったと素直に云っていた。小川から毒気がなくなったのはいささか気になるところである。
 三回忌では多くの人に会った。唐牛についていろいろ書いたので真喜子さんにはぜひ会う必要があると思っていた。彼女は「取り上げられるだけで嬉しい」「いささか褒めすぎ」と云っていた。北大のコーナーで榊原は私が元に戻りふっくらしてきたので別人かと思ったと云っていた。今井の文章に出てくるトラさんにも会った。トラさんは近く今井に会いに行くという。第四インターの塩川も来ていたが、顔の形がかなり変わっていた。舌癌の手術をしたという。それでも血色もよく元気そうだった。私の文章に第四インターとしては気になるところもあっただろうが、何も云っていなかった。握手をして別れた。
 その他、佐藤粂吉(東北大)、大戸信江、前原和彦、浦屋保子(明大)、加藤宏(法大)等、世話になった人々に会えた。中大の由井とは中大自治委員長時代の話から港地区労協へと及び、労対部長のヨッチャンの下で副部長として活動、常木とも旧知で常木からオルグの手がのびていた事情を初めて知った。
 早大関係では加藤昇と久しぶりに会ったし、小泉とはほとんど40年ぶりの会話となった。彼との会話で佐伯(山口一理)と片山(佐久間元)と小泉は県立希望ヶ丘高校以来の同窓であったという忘れていた話を思い出せた。重要なポイントなので特記する。
 三回忌は星山(中大)の指揮の下、早大グループの努力(江田、奥田夫妻等)それに唐牛、篠田夫人の協力によって博子さんの希望通り酒を飲みかわすよき場となった。関係者の努力に感謝したい。


補足の補足

 「島成郎を読む」「60安保とブントを読む」を見て、長船問題が抜けているのに気がついた。古賀によると西村卓司が原稿を寄せるという話だったので、当然扱われると思って私の文章では書かなかったのである。
 電話して聞いてみると、西村は気が変わって古賀との約束をフイにしたのだという。
 かいつまんで書いておく。西村は60年2月共産党を除名になっている。以後社研の結成準備にはいるが(5月結成)、先行して港地区委員会との共同声明、ブント4回大会への代表派遣(2名)がある。おりから革共同全国委からの若手へのオルグもあり、ブントかNCかほぼ拮抗する情況で、西村がブント参加を決断したという。5月社研結成時にはブント参加を決定しており、島にも連絡してあったという。しかし不思議なことにブント5回大会には欠席している。
 電話取材中、神奈川県立横浜一中(のちの前記・希望ヶ丘高校)時代、西村は佐伯・片山の2年先輩で、いずれも天文部に所属していたという。島の葬儀には佐伯はたまたま在日中だったが弔文を寄せただけで出席しなかった。出席した片山とは旧交を暖めたという。



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夢を追ったリアリスト 今野求 追悼文集


目次

はじめに
 前田裕晤

お別れの言葉

通夜の挨拶
 渡辺 勉
 酒井与七
 遠藤一郎
 福富節男

弔辞
 吉川勇一
 西村卓司
 井邑義一

追悼文
 初七日に贈られた俳句五首
 石川靖彦
 兄・求
 今野 稔

宮城県角田高等学校第七回生
 今野の高校時代
 高橋 亨
 歩き続ける男
 渡辺研目
 私の生き方に示唆を
 斎藤禎量
 小学五年生の出会いから
 松野 隆

運動をともにした方々から
 今野さんの死を悼む
 朝日健太郎
 今野さんの語録
 足立 実
 今の時代こそ必要な人だった
 石森 健
 あるエピソード
 上坂喜美
 今野さんとの三十三年
 江藤正修
 今野の思い出
 遠藤一郎
 今野氏とのこと──剛直にして柔軟
 大川正雄
 今野さんとの思い出
 小島文彦
 早すぎる旅立ちを悼む
 織田 進
 今野求とわれわれの運動
 酒井与七
 好漢! 今はすでに帰らず
  ──今野君を偲ぶ
 塩川喜信
 今野求さんのこと
 柴 寛志
 今野さんの想い出
 白川真澄
 今野さんのご逝去に、
  心より哀悼の意を表します
 立山 学
 今野さんとの活動の想い出
 中澤 透
 人生を決めた一言
 名原克己
 追悼 今野求同志と統一戦線
 樋口篤三
 種を実らせずに君は逝った
 前田裕晤
 『反戦』掲げ闘った同志の死
 村上明夫
 摩天楼裂く銀翼の報の朝
  世界革命追いし君逝く
 横山好夫

四十九日の席で

今野求さんを偲ぶ仙台の集い──報告集

遺稿から
 十月東京集会への提言
 今日の労働運動の課題と
  階級的労働運動構築の戦略
 労働情報の十八年
 労働運動とは何だったのか
 反戦青年委員会運動の
  批判的検証と継承

 長谷川浩さんを追悼する

今野求略歴

闘病記録

編集後期

(お問い合せは、「怒りをうたえ」上映実行委員会へ)



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ブント書記長・島成郎追悼記念文書が完成しました!

1960年夏
安保闘争は終焉し
ブントは崩壊した。
以来40年
「悲痛な沈黙」を
貫いてきた
書記長 島成郎は
そのとき
何を考えていたのか。
没後発見された
当時の日記を初
公開する。

6月15日、2冊同時発売! 刊行会特別割引で予約募集中!

申し込み締め切り5月15日限定発売につきお早めに!

島成郎と60年安保の時代1
ブント書記長 島成郎を読む
島成郎記念文集刊行会・編  発売/情況出版
ISBN4−915252−64−7 【定価】本体2600円+税 A5判 304ページ
1960年夏、安保闘争は終焉しブントはあっけなく崩壊した。以来40年、「悲痛な沈黙」を貫いてきた書記長・島成郎は、そのとき何を考えていたのか。没後発見された当時の日記をはじめ、敗戦時やレッドパージ闘争時を振り返った遺稿を初公開。また吉本隆明、中村光男、星宮喚生、北小路敏らが描く島成郎像やエピソード、さらに精神科医・島成郎の業績を正確に振り返る原稿などを満載。

島成郎と60年安保の時代2
60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む島成郎記念文集刊行会・編  発売/情況出版
ISBN4−915252−65−5 【定価】本体2600円+税 A5判 320ページ
1960年6月15日、全学連とブント労働者は国会へ突入し、樺美智子が死んだ。しかし、後に岸信介が述懐したように、このときもくろまれていた憲法改正の野望は阻止された。
レッドパージ反対闘争、砂川闘争から安保闘争にいたる戦後学生運動の軌跡を、全国大学活動家の実名を明記しながら展望、さらに日本共産党との闘いの中から誕生したブントの闘いと、その崩壊までの全過程を明らかにする。

限定発売! セット予約募集中!
  島成郎記念文集刊行会予約特別定価
[1・2巻セット]5000円(税・送料込み)
●申し込み第一回締め切り 5月15日(この日までの申し込みは確保します)
なお第2回締め切りは6月15日に設定しますが、この分は発送が遅れるかもしれません。
●申し込み先
島成郎記念文集刊行会事務局
〒167−0053 東京都杉並区西荻南1−7−15 古賀康正方
Tel.03−5346−7269 Fax.03−5346−7289
e−maiI:ykoga@mrh.biglobe.ne.jp
●代金振込先 東京三菱銀行・西荻窪支店
          普通 0916735
      名義 島成郎記念文集刊行会




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「島成郎と60年安保の時代」1ブント書記長 島成郎を読む 目次紹介

島成郎とその戦友たちに
第1章 島成郎「未完の自伝」
 島 成郎 「未完の自伝」幻の目次
      1 小学生時代
      2 1945年 敗戦
      3 1950年 反レッドパージ駒場
        の試験ボイコット
      4 1955年のノート
      5 1960年秋のノート
      6 1961年冬のノート
      7 1961年夏のノート
島 成郎 1988年の休日メモ
島 成郎 樺美智子追悼/青春の生命
       を燃やした時代

第2章 われらの書記長・島成郎
島美喜子 弟・島成郎 少年時代の思い出
吉本隆明 「将たる器」の人
大野明男 猛鳥の雛鳥時代
中村光男 総括は、各自、自分でやれ!
小泉修吉 政治家としての敗北と精神科医
       としての人生
由井 格 中央大、安保紀元前のこと
北小路敏 私の源流の中の島成郎さん
西村卓司 再会する日を楽しみに
岡部通弘 悲痛な沈黙
石井暎禧 やはり現場の人だった
河辺岸三 「進歩的文化人」がいた頃
青木昌彦 ブントが目指したもの
倉石 庸  「いまがおもしろい」
長崎 浩  島さんの金時計
山平松生  死んでもいいやと思った
林 道義  「きれいな色だね」
仲尾 宏  「劇薬」をありがとう
廣瀬 昭  私たちの時代の終わり
西井一夫  「20世紀の記憶 60年安保」
五島徳雄 日本革命への教訓
東  顕  面白きこともなき世を…
大内良子 あなたの死にあたって…
千葉喬之 ダンプで乗りつけ借金
平井吉夫 『理論戦線』熊谷論文
灰谷慶三 権力と無縁の生き方
佐野茂樹 追悼京都集会での弔辞
司波 寛  安保の島さんと苫小牧の島さん
加藤尚武 島さんとのたった1回の話し合い
榊原勝昭 ブントの憂鬱・島さんの眼力

第3章 追悼 島成郎
 われらが友・島成郎を送る
 渓さゆり  島成郎永眠を知り嘆き悲しみ
        歌廿首
 山中 明  初心を燃やし続けた一生
 小島 弘  金助町の闘士たち
 今泉正臣  時代を共に生きた喜び
広田伊蘇夫 早すぎる追悼の記
小長井良浩 駒場寮で生田の後継ぎ
 佐伯秀光 なにがより理性的なのか
 星宮煥生 天下に道なきときは
 斎藤省吾 薄暗い経友会の部屋で
 柴垣和夫 遠景の島成郎
 田中一行 学習塾の頃の島さん
 柳田 健  さすがは島さん
 高橋 公  島さんへ出した手紙
加藤登紀子 二人でお酒を
 堂園晴彦 志は絶えることことなし
及部十寸保 疾風怒涛の時代
 黒岩秩子 沖縄から届いたカンパ
 伊東秀子 北の地で育つ島さんの花
長谷百合子 優しい包容力
 小林 東   釧路のジャズ喫茶から

第4草 稿神科医・島成邸の軌跡
島 成郎 精神衛生法「改正」 に思う
泉 康子 沖縄発、最初にして最後のブント
       への意見書
輿石 正 沖縄精神医療の実態を話そう
宮田洋三 歌い続けろ、あの島歌を
大賀達雄 沖縄で医師・島成郎がしたこと
森山公夫 誠実に人を愛した
浜田 晋 島よ、赤い旗を立てよ!
松崎俊久 話したかった沖縄の問題
青地久恵 鶴居村で出会った人
望月和代 苫小牧こぶしクリニック
望月 紘 キイワードは「人の輪」
高石利博 瞬間よ止まれ
蔵田計成 精神科医こそ総括だった

第5章 われらの時代
池田信一 昭和30年代の世相と学生たち
司波 寛  島成郎と60年安保年表
蔵田計成  60年安保闘争事典



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「島成郎と60年安保の時代」2 60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む 目次紹介

第1章ブント始末記「異議あり!」
常木 守
「不可視の核」私にとっての島成郎とブント
東原吉伸
追想の中の「二人の改革者」
清水丈夫
悼辞 島さんの思い出によせて
大瀬 振
さよなら島、さよならブント
佐藤粂吉
政治的死からの出発 ブント後の島成郎
前田裕晤
前衛は崩壊したのか
星宮換生
全学連・60年安保・そして島成郎
今井泰子
ブントのフェミニズム
香村正雄
リベラシオン。革命への熱情
山本庄平
「戦旗」印刷所顛末記
林 紘義
島成郎はブントそのものだった

多田 靖
多田靖版「ブント盛衰記」
 ブント書記長・島成郎と仲間たち
 第1部 ブント前史
 第2部 ブント結成〜崩壊
 第3部 ブント以降
蔵田計成 
蔵田計成版「ブント綺譚」
 秘話/ブント「草通派」結成の謎
 第1部 「革通派」誕生
第2部 ブント主義の終焉
福地茂樹 SECT SIXの頃

第2章 それぞれの安保闘争
武井昭夫 
「全学連」引き継ぎの頃を話そうか
小川 登 
京都から見つめた60年安保とブント
竹内基浩
「60年安保創世記」東京地評の長い長い闘い
古賀才子
59年お茶大ストとその後
大口勇次郎
「わが昭和の古文書」1 1・16逮捕の記録
林 紘義
「わが昭和の古文書」2 11・27。国会構内へ入った!
有賀信勇
「わが昭和の古文書」3 6・15事件判決事実認定書
中垣行博
「わが昭和の古文書」4 体に刻み込まれた6・15の記憶
二木 隆
京都発国会デモ行き夜行列車
塩川喜信
砂川から警職法闘争まで
佐藤路世
時代の機運を感じた頃
小林好男
青年は羽田を目指す
小野正春
毎日がデモだった
山田恭暉
中途半端な燃焼!
向井拓治
「おめでとう」の言葉
藤原慶久
4・26 島さんの執念
佐藤正之
ブント労働者の闘い

第3事 新しい闘いへの展望
古賀康正 
わたしたち人間が生き延びる努力
佐伯秀光 
All Life is Problem Solving
坂野潤治 
いまよみがえる安保と戦争の問題
葉山岳夫
9・11同時多発ゲリラ事件の衝撃
守田典彦
出会いと変革
小木和孝
ともにする時代の感覚
河宮信郎
21世紀日本の進路
榎原 均
未来への思想的課題

多田 靖 墓碑銘
     島成郎記念文集刊行会・総括報告



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ドンドコドン 野村豊秋 遺稿・追悼集

発行日
1989年12月19日
編集発行人
「野村豊秋遺稿集」刊行委員会
連絡先
東京都文京区音羽2-12-13
光文社労働組合


目次

刊行のことば 1
悲しみを乗り越えて 9
弔 辞 13
 やがて夜明けのくるそれまでは……
 福山  健
 悲しみを力に代えて闘いつづけます
 三角  忠
 勝利の盃を酌み交したかった
 八重樫友美
 青年のようなあなたの笑顔が目に
 浮かぶ
 小野寺照夫
 遺志を受け継ぎ階級的労働運動の
 前進を
 中野 洋
第一部 遺稿集
 1 詩 27
   逃げる 28
   知っている風景 30
   ベんがらいろに……十二月 32
   フォト…… 34
   ドンドコドン 37
 2 「火花」アンケートに答えて 39
 3 フランツ・カフカの変身について 45
 4 光文社叛乱の噴出と持続の意志 55
 5 帝国主義を憎み、打倒する 105
 6 まともな論議もなく、闘いの気慨もなし 121
 7 大乱こそ闘いの好機 127

第二部 追悼文集
 (略)



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「火花」のころ  三浦  暉

 一九六三年七月、国立東京療養所において、「社研」活動をつうじて知り合った仲間を中心に“自分の生き方も自分の運命も自分の文化も自分で決定しようとする者の集まり”、働く者を軸とするサークル「火花」を結成したのは、笠原さん(のちの故・中原一)と私であった。
 野村さんもそうとう早い時期に参加し、二回めの会合には笠原さんと連れ立ってあらわれたのではなかったかと記憶している。労働者の中に東大生が四、五名といった構成であったが、彼の場合すんなり皆にとけこんでいたのは、その笑顔のせいもあったかもしれない。いつからか妹さんを連れて出席するようになり、それも彼の優しさを表現するものとうけとめられた。
 一年ほど順調にサークルは活動を続け、彼も運営委員や編集に労をおしまなかった。彼が編集責任者として発行された三号で『火花』は終刊をむかえた。
 その三号には「世田谷社研への呼びかけ」が掲載されていたことが、この文章を書くにあたって読み返して判明、「火花」から「世田谷社会科学研究会」への流れが時期を中断することなく続いたことが確認できた。
 彼が初期の「社研」にかかわっていたことは「社研」期になってからのメンバーとの共通の想い出で知ることができる。しかし彼が「社研」に何を書いたのかは、残念ながら記憶がない。また、初期の「社研」の資料も散失し、直接にあたれず、もうしわけないしだいです。
 「火花は炎を燃やすであろう」(レーニン)を標語としたサークル「火花」は、「世田谷社会科学研究会」として七〇年安保闘争を自らの闘いとして闘いぬいた。七〇年に、六九年一〇・ニー闘争で逮捕、保釈後の私が明治公園で再びめぐりあった彼は、「光文社闘争」の担い手として変わらぬ笑顔をもってであった。
 それから一〇年以上御無沙汰をしてしまい、一九八八年、ひさしぶりにお会いし、病気のことをうかがい、心配していたやさきの訃報でした。彼のご冥福をおいのりして筆をおきます。
(「ドンドコドン」P145)



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本郷の立て看 「火花」同人 笠原多嘉子

 私が野村さんとはじめて出会ったのは、今から二五、六年前の事でしょうか、サークル「火花」の会の時でした。中心メンバーだった三浦さんの知り合いとして参加されてきたと記憶しております。
 野村さんと直接交わした話の内容はハッキリ憶えておりませんが、ボツボツと口の中にこもるような静かな語り口ではなかったでしょうか。可愛い妹さんと一緒に来られ、甘える彼女にとっても優しいお兄様だった姿が先ず目に浮かんできます。
 「火花」は私の今の在り方に重要な位置を占めており、そこで学び、討論し、言い争った事が私の生き方の土台になっております。その「火花」も、獲得した事をそれぞれの活動の場で実践すべく、七〇年安保が射程距離に入った頃、発展的に解散しました。
 野村さんが本郷の文学部に進まれた頃、文学部の自治会に自分達の仲間を送り込みたいと狙っていた亡夫正義(やはり「火花」の会員でした)が、役員選挙に「火花」の仲間だった二、三人の方に事後承諾を得るという形で立候補してもらった事がありました。野村さんもその中の一人で、首尾よく当選し、夫と共に東大文学部の自治会活動をしたと聞いております。後で聞くところによりますと野村さん本人は、ある朝学校に行ったところ、そこに候補者として自分の名前が立て看に書かれているのを見て、「あれは笠原のせいだ」とぼやいていたそうですが、強引な夫の仕業に思わず喝采を送ったものです。
 野村さんの光文社労組での活躍ぶりは、夫の口からよく自慢気に、まるで自分が闘っているかの如く「スゲエだろう、『火花』にいた野村が中心になってやっているんだぞ、スゲエナー」と聞かされたものです。
 その夫も没後一三年めになります。一九八七年二月の十年忌の墓前祭には野村さんも出席して下さいました。その時が、二十数年ぶりの、そして最後の野村さんとの出会いとなりました。
 野村豊秋さん、安らかにお眠り下さい。
(「ドンドコドン」P146)



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小嵐九八郎著「蜂起には至らず──新左翼死人列伝」
の読後感
 1960年から2000年まで新左翼史40年をつづった異色の読み物だと感じる。読ませる。ためになる。──小嵐九八郎著「蜂起には至らず──新左翼死人列伝」の読後感だ。
 本書の第一の特徴は、娯楽小説の文体でもって、新左翼人物伝しいては新左翼史を、ものしたところにあろう。ビートルズを日本語で歌う歌手がいるけども、あるいは30数年前に活躍した女性作家森村桂さんに似るか。娯楽小説家として、勝負を挑んだ著作だと思う。
 第二はさすが元活動家だったというか、その時代、党派の動向、活動家の心境、大学構内の雰囲気などを、他者の追随を許さない水準で活写してることだ。ことに党派抗争で惨死した中原一、本多延嘉、他2名の章は白眉である。
 第三は亡くなるまでの事実経過を、ていねいに追跡していること。墓所を2か月半探した例もある。従来ややもすればあった遺書、遺著、追悼集に頼って手際よくまとめる手法とは無縁である。
 第四は死者の伝説化をしない。神話を創らない姿勢を貫いている。そのうえ、俗なる分野にこそ真実が宿る、という著者の信条で、死者の連れあい、友人、関係者などへ熱心に面談を求めている。だから初めて明かされたと思われるエピソードも豊富だ。金とヒマをかけ手抜きをしてない。
 第五は党派抗争事件(内ゲバ)の取材中、脅迫、面罵と恫喝、取材資料紛失の妨害に遭っている。ここらへん著者の半合法活動の経験が、力を発揮したのかもしれない。許される限りで、死者の墓参りもしている。仁義を切る。この心くばりは当り前のようだけど、意外とできない。ここに元活動家としての、著者の矜持を感じる。
 表紙、カバー、帯、はなぎれとオール黄色の造本だ。章扉にもうすく黄色が載せてある。赤づくめや、黒づくめでないのがいい。レモンイエローは春の色。たんぽぽ、山吹き、れんぎょ、チューリップ。若さ、未熟、嬉しさ、希望もあるか。さて狙いは何か?
 章扉の建て方もユニークだ。1ページ全部を使って、どーんと死者の顔写真がある。裏面に略歴。本文は次ページから始まる。顔を知ることが、コミュニケーションの始まりの原則が押さえてある。ここらへん、著者の文体ともからんでのことだが、読んでもらおう、読ませようという、編集部の熱意を感じる。
 収載された27名を挙げる。──樺美智子、岸上大作、奥浩平、山崎博昭、由比忠之進、望月上史、高橋和巳、早岐やす子、向山茂徳、遠山美枝子、山田孝、奥平剛士、安田安之、川口大三郎、森恒夫、前迫勝士、本多延嘉、斉藤和、中原一、東山薫、谷口利男、戸村一作、佐藤満夫、山岡強一、若宮正則、田宮高麿、島成郎(目次順、敬称略)
▼講談社、03年4月刊。四六版355頁。本体1900円

救援 2003年5月10日 第409号

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