目 次
原之夫さん 追悼
「声なき声の会」小林さんの遺稿集出版
「第二次共産主義者同盟議長さらざ徳二さんを偲ぶ会」
さらぎ徳二さんを悼む 小田原紀雄 救援2003年5月10日
「島成郎と60年安保の時代」2
多田靖の稿(「60年安保とブントを読む」所収)の補足
夢を追ったリアリスト 今野求 追悼文集
ブント書記長・島成郎追悼記念文書が完成しました!
「島成郎と60年安保の時代」1ブント書記長 島成郎を読む 目次紹介
「島成郎と60年安保の時代」2 60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む 目次紹介
ドンドコドン 野村豊秋 遺稿・追悼集
「火花」のころ 三浦 暉
本郷の立て看 「火花」同人 笠原多嘉子
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原之夫さん 追悼 |
弔 辞
原さんの訃報に接して、あらためて残された時間の使い方を考えています。陰ながらご冥福を祈っています。 2004年2月3日 今井 公雄 (作家)
原さんの追悼会の案内、ありがとうございます。行きたいと思ったのですが、当日(2/13)は別の会の予定がかなり前から入っていて、しかも僕がレポーターなので、欠席するわけに行きません。というわけで残念ですが「偲ぶ会」にはでれません。世田谷反戦関係の人たちが来ていたら、よろしくお伝えください。
大瀬 振
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原之夫さんを偲ぶ会へのお誘い
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私たちの友人、原之夫さんが亡くなってから早一ヶ月が過ぎようとしています。
長崎での闘病生活から二年、昨年の十二月十四日の午前四時三十分に彼は旅立ちました。食道ガン治療時における糖尿病、ALS、長年の肝硬変の悪化が原因とのことです。
原さんは、小学生の時の被爆を受け止め、「被爆の底で」生きた市井の芸術家でした。自らの生を絵や版画、小説という形式を通して表現しました。彼の反戦の意志も、またそうでした。
昨年は『原之夫銅版画作品集』を出版することができました。彼の旅たちへの手向けになったと思います。
当日は、気張らない友人たちのささやかな会にしたいと思っています。長崎放送が放映した、七、八分のビデオも上映します。絵の仲間、文学の友人、仕事仲間等集まって、原之夫さんの思い出を語り合い飲みたいと思います。酒類、食べ物の持ち込みも自由ですので、大いに歓迎します。
どうぞ、ご都合をつけてご参集してください。
日時 2月13日(金) 開場18:30 19:00〜22:00
場所 砧区民会館(小田急線 成城学園前徒歩5分)
会費 3,500円
(参加される方は、2月6日までにお知らせ下さい)
連絡先 三浦 暉
電話 03-5429-7702 FAX 03-5429-7710
Eメール ru-tokik@s2.ocv.ne.jp
『原之夫銅版画作品集』
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「声なき声の会」小林さんの遺稿集出版
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1992年の「6・15集会」。(東京・池袋の豊島勤労福祉会館で。石山貴美子氏撮影)
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ことし1月、72歳で他界した反戦市民グループ「声なき声の会」の代表世話人だった小林トミさんの遺稿集「『声なき声』をきけ 反戦市民運動の原点」(同時代社)が出版された。
書きためていた1240枚(1枚400字)の原稿を、長く親交のあったジャーナリストの岩垂弘さん(68)が、まとめた。91年、湾岸戦争が始まったさい、「戦争には正義の戦争とか聖戦はない」としるし、「海外派兵を論じる人は、誰かに命令することを考えている人で、戦争で犠牲になるのはいつも弱い立場の人である」などとも記している。
60年の安保闘争のさいに生まれた「声なき声の会」は、この闘争で犠牲になった東大生・樺美智子さんの死を悼んで、命日に当たる6月15日に国会前に花束をささげてきた。ことしも同じ15日夕、献花が行われる。
朝日新聞 2003年6月13日 金曜日 朝刊 第2社会面 (13版)
書評
同時代社のホームページ
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「第二次共産主義者同盟議長さらざ徳二さんを偲ぶ会」
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2003年6月28日 偲ぶ会会場
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4月13日、第二次ブント議長であり破防法被告であった、さらぎ徳二さんが肝硬変で永眠されました。
1969年、あの「7・6事件」で重傷を負ったさらぎさんは、そのまま破防法40条煽動罪で逮捕されましたが、当局による「治療」の過程でC型肝炎ウイルスに侵され、長い長い闘病生活の末、ついに帰らぬ人となってしまいました。享年73歳でした。
我々にとってさらぎさんは、第二次ブントの議長であり破防法被告でありました。激烈な階級闘争を闘いぬいた安保ブントの崩壊後、1966年に再建された「第二次ブント」は、いいも悪いもブント主義の「党」であったと思います。さらぎさんはその中枢にありました。その第二次ブントも、67年10・8羽田闘争から69年4・28闘争までで実質上その生命力を燃焼し尽くしたのではないでしょうか。
しかし、病魔に侵されながら破防法被告となったさらぎさんの闘いはそれからだったのだろうと思えてなりません。「結社の自由」をめぐって争った「さらぎ破防法裁判」は、2002年6月最高裁で無念にも有罪が確定しました。
戦後まもなく共産党所感派として出発したさらぎさんの一生は、最後まで革命家そのものでした。
そして、さらぎさんを最後まで中心的に支えてくれたのは、奥さんの利枝さんと、最高裁判決を待つようにして亡くなられた戦友の有泉亨治さんでした。心より敬意を表します。
かつて共に闘った仲間が集い、さらぎさんのことを語り合いたいと思います。左記のように日時を設定しましたので、多くの方々のご参集をお待ちしております。
2003年5月18日
呼びかけ人
岩崎 司郎
記
6月28日(土)15時30分受付 16時〜18時30分まで
ワイズ(パーティハウス)新宿区西新宿1−24−1
Y'sエステック情報ビル四階 電話03−5322−3545
一〇〇〇〇円
連絡先 「第二次共産主義者同盟議長さらぎ徳二さんを偲ぶ会」
事務局
前澤 奈津子
若山 宏
大下 敦史
米田 隆介
東京都千代田区神田神保町1−42 エム企画印刷内
電話 03−3291−8191
FAX. 03−3294−8777
*追伸 準備の都合上同封の用戟にて6月15日頃までにご連絡いただければ幸いです。
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さらぎ徳二さんを悼む
小田原紀雄 救援 2003年5月10日 第409号 |
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破防法被告であり、裁判の途中で新たな任務があったのであろう地下潜行をされた後に、再度登場された時には既に病身でいらした。もうここ二、三年は外出もままならないようなご様子であり、わたしも時折集会場でかすれた独特の声での発言を伺った程度のお付き合いであった。
ただ、裁判を再開始された後に、支援する会の形式的な事務局長をお引き受けしたという縁で、後にはバラバラになってしまった第二次ブント最後の議長であったさらぎさんという人を知る機会が与えられたことは、今、真に幸いなことであったと思っている。考え方には随分な距離があったし、お体の具合で共に闘ったこともないのだが、そのお人柄と革命家であるという矜持については、学ばせていただいた。
今の時代にあれほどまで革命家としての自らの生き方に誇りを抱いておられる人がいようとは考えもしなかったが、これはさらぎさん自身の時代錯誤だけに要因があるのではなく、時代の変革に賭ける意気込みにおいてこちら側にも問題があるのであろうと、お目にかかるたびに思った。遠く外国にいる人、少し時代を遡った人を革命家として遇するのには躊躇がないにもかかわらず、ごく身近な人物がそれを自負すると揶揄してしまう、今の我々の運動はどんなものであろうか。
ブントの現在についてあれこれと言挙げすることはしないが、それにしても、場が救援連絡センターの通信であるにしても、先の有泉享治さんに続きさらぎさんの追悼文まで、まったく立場を異にしているわたしが書かなければならないというのはどういうことなのか。追悼文を書くのが嫌なのではもちろんない。こういう機会にさらぎさんとの出会いと、さらぎさんご自身の闘って生きた人生について考えさせていただくのはありがたいことだと思っている。しかし、かつての、そして今もブントであると自認しておられる諸氏よ、救援連絡センターが遙か遠い存在になっている今のブントをどう考えておられるのか。さらぎさんの葬儀にご参集であったブントの諸氏よ。
さらぎさんの闘いをそのままに継承すべきだとはわたしも思わない。わたしなどより身近であった分、余計に批判も鋭かろう。それは理解できるのだが、少し寂し過ぎはしないか。
さらぎさん、同志有泉さんを失った後、あなたも力がお尽きになったのでしょうね。でも、葬儀の最後に、ご子息が「父右田は、さらぎとしても生き、そして死にました」と話しておられました。ご子息はあなたの生き方を十分ご理解になっていたのだと感じました。もって瞑すべしですよ、我々のような生き方をしている者としては。
さようなら。そう遠くないうちにわたしども六〇年代後半世代の者もお目にかかることになるでしょう。その折には、また大言壮語をして楽しみましょう。
二〇〇三年四月二十五日
日本基督教団羽生伝道所
牧師 小田原紀雄
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「島成郎と60年安保の時代」2
多田靖の稿(「60年安保とブントを読む」所収)の補足 |
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順序不順だがいくつか補足的に書く。
1
2、次に処分と停学とについてまとめておきたい
3、高安国世氏のこと
4、島成郎の南部労対時代
5、「島成郎を読む」出版後、過誤の指摘
6、
補足の補足
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