何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向

はじめに

 われわれは、今何をなしつつあるのか。このことについての理解、自分自身の現に行っていることを意識すること、このことが特別に、現在強調されなければならない。それは戦略的に、すなわち「働く階級の解放」(『新ライン新聞』の赤刷り最終版の結びの言葉であり、かつ現在のわれわれ自身の究極的目的でもある)のために、いいかえれば、単に「政治的解放」に止まらず「人間的解放」のために、今われわれは何をなしつつあるのか、ということ、同時に戦術的に、すなわち当面の闘争において、いいかえれば七〇年安保=アジア・太平洋圏安保粉砕という課題の中での反戦・反ファシズム・反合理化=反産協の闘争において、いかに戦略と一致して闘っているのかということ、こうしたことについて、正確にいえば、われわれ自身が現に行っていることについて、常に鮮明な理解、意識をもっているようにしなければならぬということを、今、特別につきつけられているのだということを意味している。

A、われわれは現在、どういう時点に立っているのか?

 われわれは、今、支配階級と帝国主義の国家に反抗する闘いの中で一方では民青と闘い、同時に、他方では革マルと闘っている。何のためにか? 何故こうした連中と闘わなければならぬのか? この闘争は一体何を意味し、この闘争は現在の時代的意味をいかなるものとして指し示しているのか? 今こそ決定的に、文字通り決定的に大切なことは、われわれは党派の卑劣な特殊利害のために闘っているのではないということ、それどころかまさに逆に幾百万大衆の解放のために闘っているのだということ、しかもそれがいかなる意味においてそうであるのかということについて、破ろうにも破れぬ確信を持っているということでなければならない。
 今日の時点での意味と本性は、武装した戦列の中に指し示されている。闘いにおける真剣な武装は、没意味的な単なる武力ではなくて、諸階級の生存条件から発する意味を持っている。われわれは今何故各戦列毎に武装して闘わざるをえないのか? 何か偶然的な誤りから拡大してこういうことになり、従って「もっとうまく」やれば、たちまちこうした事態が解消できる妙薬があったり、又は何か大きな闘いの構造上の誤りに陥ち入っていて、従って頭の中で生み出したあれこれの「闘争論」なるものによって「誤りを正す」ことができ、ゆるやかな平和的状態での闘争へと「正常化」され得たりするようなものか? そんなものではない! このことの理解が今特別に大切である。
 この諸政治傾向の武装した対立は、時代の必然的な傾向を兆候として指し示しているのである。どんなものであれこの事態に泣き言をいうものは、時代の歴史的展開からはじき飛ばされて、粉砕されてしまうであろう。そういう時代に現に一歩一歩入り込みつつあるのだ。何故そうなのか? 諸政治傾向の不断の武装対立! これはまぎれもなく、時代がファシズムの時代に入らんとしていることの明白な兆候である! このように捉え切らなければならない! このことを鮮明に意識しなければならない! 現在の事態をにらみつけてわれわれは、断乎たる歴史的反省によって徹底的に深められた解決能力を展開しなければならぬ。
 先ず第一にドイツ・ファシズム=ナチズムの公然たる台頭の前夜が想起されるべきである。第一次世界大戦に協力し、ローザ・ルクセンブルクによって「腐臭ふんぷんたる社会民主党」と弾劾されたドイツ社会民主党さえ「鉄前衛」の旗の下に「共和国防衛隊」なるものによって自らの行動を防衛し、ドイツ共産党は「赤色突撃隊」をもって行動した。この相互の対立の向うには、完全に軍隊形式をとった「黒シャツ隊」のファシストが頭をもたげつつあったのだ。そしてこれらは相互に死力をつくして攻防をくり返したのだ。何故そうなったのか? 何故そうならざるを得ないのか? 社会の支配的な生産諸関係が強固に安定している時期には、つまり平和的発展ともいうべき時期には、人々の考え方、人生観、世界観についてどんなに大騒ぎの対立と分裂が見えようと、社会全体を諸知識、諸思想の前提のあいまいな一致が覆っており、それを疑うことなく生活していることができる。
 しかし、一度この社会の生活諸関係が根本的な不安定を突き出し始めるや、諸階級間の一致と平和は破られてゆき、古い定説的な諸見解や思想、みせかけの新しさがとことんまでためされてゆき、知識は知識、思想は思想、自分の生き方は別だ、というような状況が崩壊してゆき、あいまいで無力で、自分自身を駆りたてることのできない知識や思想は投げすてられ、ついにまぎれもなく自分自身の生存条件から発するそれをぎりぎりに映現〉(この際「反映」などという去勢された言葉を用いるべきでない)するところの決して和解することのできない政治的態度として突き出される
 この相互の対立と闘争は、最も鋭くは武力的相互対決として現れ、その闘争は、なげかれるべき状態であるどころか、諸階級が自らの生存条件を見つめ、自らの歴史的位置に気づいてゆき、労働しない階級が労働する階級の立場に移行したり、又最も大切なことだが、労働者階級が、自分自身の生存条件からする歴史的使命に目ざめてゆくための、生きた巨大な機構である。
 この階級闘争の生み出した仕組みによって、去勢されたものはまず亡び、残るべき力のあるものが残り、この対決を通じてのみ労働者階級の独立と勝利への道が切り拓かれるうるのだ!
 さしあたり学生戦線において顕著に現れているゲバ棒をもった党派的対立は、この社会の人民の状態の敏感な映現である!
 我々はこの闘いをまさに働く階級の苦悩をみつめて戦いぬかなければならず、この苦悩を自らの苦悩として闘い、その解放を自らの解放として闘う限り、我々は消え去ることはできず、又決して消え去ることはなく必ず勝たねばならず、必ず勝利する! 勝利せずにはおかないのだ! この歴史的なテストの中でのみ我々は生き残るほかはない根源的な力を確信でき、かつ発展できるのだ。我々にとって泣き言などはあり得ない。それどころか、歴史と人民の与えたすばらしい機会としてただ闘いぬくのみである。
 それではいかに闘うのか? そこで第二に、スペイン内乱の問題がいまこそ人民の歴史的行為として、想起されなければならない。
 スペイン・ファシストと「ファシスト・インターナショナル」に抗して始ったスペインの内乱は、ファシストに対抗しながら、闘いは次第にスペイン革命としての性格を強めてゆき、スターリニスト、社会民主主義者、アナーキスト、トロツキストは、相互に独自の武装をもった対立を深めつつ、ファシストに対抗してゆく。しまいには、スターリニストは私設刑務所をもち、残酷なテロと虐殺をプロレタリア革命派に加え、相互の戦闘にまで発展しようとする。反ファシスト戦線の相互対立の核心的問題は〈民主主義共和国か、それともプロレタリア革命か〉の問題であるように見える。確かにこれは重大な問題である。戦闘が民主主義革命に止まって「行き過ぎる」プロレタリア革命を、人民を分裂せしめる敵の挑発者として、公然、隠然と血の海に沈めるということは、まさに死活的に重大な問題であることに間違いない。それにもかかわらずこれは真の核心的問題ではなく真の核心的問題の発端であるにすぎない。何故なのか? それはなぜプロレタリア革命は血の海に沈められて、敗北せざるを得なかったかという問題を、この限りでは、スターリニストの「民主主義」なるものの裏切りの問題に一面化して、彼らを断罪するに止まるからである。
 「プロレタリア革命はくり返し自己批判する」ということを忘れてはならない。プロレタリア革命派自身の自己批判が必要なのだ。それは一体何なのか? あとでもう一度見るように、ファシズムに対する勝利の鍵はプロレタリアートの政治支配能力の獲得の問題なのだ。これが真の核心的問題なのだ。ファシズムは、ブルジョアジーは支配能力を失うがプロレタリアートは未だこの能力を身につけるに至っていない限り、不可避的に勝利するのだ。このことを徹底的に肝に銘じなければならない。
 スターリニストは、ルーズで個人主義的なラテン的体質を攻撃して〈規律〉を強調し、この規律によってプロレタリア革命を血の海に沈めた。プロレタリア革命派はどうか? トロツキストは、トロツキー的「永続革命」としてプロレタリア革命を公然と掲げ、アナーキストも、少なくとも、隠然とこれを掲げた。にもかかわらず悲劇的に敗北せざるを得なかった。そしてその敗北からの総括は、無政府主義と無規律主義の問題として、スターリニストの規律に対抗する中で、トロツキストの〈規律〉の問題としてたてるに至った。確かに〈規律〉が問題だが、この問題は、プロレタリア革命と結びつく〈規律〉とは何か、という根本問題ぬきには、スターリニストに目の色を変えて対抗すればするほど、スターリニストに近づくことになるのだ。そして再び、プロレタリアートの名によるプロレタリア大衆への戒厳令という、スターリニストと全く同じ本質に、まさに反対の道を通ってたどりつかざるを得ず、それとともに、アナーキストに対する一面的批判として、アナーキストをも止揚できなくなるのだ。
 そこで真の問題である〈プロレタリアートの政治的支配能力の獲得〉とは何か? それはプロレタリアートが、断乎たるヘゲモニーをもった団結として、階級として組織され、同じことであるが決定的なことは、この断乎たるプロレタリアの団結が生きたプロレタリアの団結であればあるほど、この団結においてプロレタリア諸個人の自主性の回復が進行しプロレタリア諸個人の自由な発展全面的な発達が進行せざるを得ないのだ
 こういう〈プロレタリアの団結〉こそが鍵なのである! こういうものとしてのみ、プロレタリアートの政治的支配能力の獲得は、プロレタリア諸個人の政治的支配能力の発展と一致し、コンミューンを実現し、かつ、これを決して破壊されることのできないものとして打ち固めることができるのである! プロレタリア革命を呼号するからスターリニストでないわけではない。世界革命を言い、永続革命を言うからといって、スターリニストからの免罪符を手に入れることができるのではない! スターリニスト自身がこうしたことを言った前歴があるのであり、かつ現に、プロレタリアートの名によって、プロレタリア大衆に戒厳令をしき続けているのだ!
 民青の法政大における戒厳令と、革マル派の現になしている戒厳令と、何と完全に一致してしまっていることか! この戒厳令を、闘う学生大衆に、人民に許してはならない! 革マルの白色テロによる大衆闘争大衆組織の乗取り策動をプロレタリアートの名において粉砕しなければならない! 彼らの宗派的性格は、ここに極まって示されている。「宗派運動は、階級運動と区別されたところにのみ自己の存在意義を見出すことができる」(マルクス)という宗派の本質を、いま、われわれはこの目で確かめている。これを、このわれわれが見ているものを、全ての大衆組織に伝え、厳重な警戒をよびかけることは、われわれ自身の階級的責務である。そして七〇年安保=アジア・太平洋圏安保を粉砕してゆくことができるプロレタリア的戦闘は、その核心的性格は、同時に、まぎれもない反ファシズム闘争として発展せしめなければならないのだ! 何故なら、闘いがプロレタリア的なものに革命的に転化すればするほど、ファシズムの形成は実際問題となるのだから! 反革マル闘争は、七〇年安保を闘いぬくプロレタリア的闘争が、決して避けてとおることのできない闘争である!

B、われわれはどこから来て、どこへ行こうとするのか

 昨年の一〇・八闘争以来、われわれはプロレタリア的反戦闘争とは何か、という問題を、ゲバルトの中での生と死の問題を通して、のっぴきならないものとして問いつめさせられてきた。それはベトナム戦争の性格把握から七〇年安保の性格把握へと、結局は、われわれの現に闘いつつある闘争の性格を理解し、意識してゆく闘いでもあった。こうした闘争の性格を問題にしてゆくことを通して、中核に特徴づけられている闘いの小ブル的性格を意識し、それと区別されるべきわれわれ自身のプロレタリア的性格の闘いとは何か、ということを問題にしてきた。
 しかし、実際にこうした性格の闘争を大規模に、際立って、しかも実践上のはっきりとした手がかりを見出して推進することができるようになったのは、六・一五以降のことである。確かに、すでにそれ以前において、今年春ごろから、学生戦線においては教育闘争の高まらんとする波の中に事実上入りつつあったし、労働戦線においても、ふたたび反合闘争への問題意識が台頭を開始していたし、当面する反戦闘争、七〇年安保の序曲をなす闘争を、アジア・太平洋圏安保に関わる闘争として、反合理化、反産学協同へと反照してとらえつつあったし、こうした意識をもった闘いをすでに始めてもいたといえる。しかし、段階を画するように際立ってこの闘争性格を実際に推進するにいたるのは、六・一五以降だといわねばならない。六・一五は、すでに昨年の一〇・八の中にはらまれていた急進的小市民主義路線のもつ反プロレタリア的性格が、われわれの六〇年安保以降追求してきた闘いによってそだてられた目にとって、突き射すような事態として見えるものとなった。これを契機として、この小市民的闘争から本格的に自分自身を引き離すべき一段と強められた問題意識に駆られて、かつ米タン闘争、国鉄反合闘争のさし迫った課題によって促進され、米タン闘争をテコにした反戦=反合を通じて、すでに昨年の一〇・八以来の闘いが闘う労働者に与えた衝撃力を、意識的に波及力と波及の活動として推進し、プロレタリア的反戦闘争の性格を汲み出してゆく闘いを展開してきた。
 この過程の一つの頂点が一〇・二一である。闘争の過激化極端化はまだ労働者大衆に衝撃力をもち続けていたし、さらに労働者の労働者による闘いを、強烈な問題意識で追求する努力も強められてきた。こうして遂に、一〇・二一に騒乱罪が適用され、長期の刑法全面改正作業(いうまでもなく、戦前のナチス刑法をモデルにした、戦前の刑法全面改正作業を受けつぐことを公言している、戦後の全面改正草案作成の作業)の最終的仕上げの段階を“騒乱予備罪”の設定でウルトラ化し、支配階級が七〇年問題の中で、どういう闘いに恐怖しているかを指し示した。一〇・二一の“騒乱罪”の適用の意味は、――何ごともなかったかのように考えられつつあるが――歴史的運動の中で徹底的に掘り下げてとらえてゆかなければならない。
 この意味するものこそ、七〇年安保闘争は、プロレタリア的闘争たろうとすればするほど、ファシズムの問題を真正面に据えつけて見つめた闘いとしなければならないことを教えているのだ! そして、「帝国かコンミューンか」という血みどろの闘いの歴史的教訓を、どの程度教訓化しているのかどうか、第二次世界大戦をもって教えられたものをもう一度繰り返すのかどうか、要するに、またもやファシズムに敗北するのかどうか、と歴史はわれわれに問いかけているのだ! 七〇年安保にとっては、六〇年安保では本格的に提起され得なかった「政府問題」をぜひとも持ち出さなければ闘いぬけない、ということは、この六〇年安保以降のプロレタリア的闘争性格の追求の苦闘と、従ってそれに対抗する支配階級の対応としてのファシズム問題をカッコに入れるならば、完全に空である。七〇年安保闘争は同時に反ファシズム闘争としての闘争課題をもっておりそれ故にこそプロレタリア統一戦線と政府問題を真正面に押し出さなければならないのだということ、このことが極めて重要である。
 すでに「革新都政の下での闘い」として経験させられているものの意味を、七〇年安保の歴史的示唆としてとらえなければならない。美濃部の登場の際のボイコット方針や“全く支持せずにしかも投票を集中せよ”というような方針が、ファシズム形成に対抗する統一戦線の歴史的教訓をどの程度まで掘り下げているのかという問題に対して、その思慮浅薄が徹底的に問われなければならない。眼目となるものこそは「プロレタリアの、プロレタリアによる独立した運動」の構築であり、目の前に生まれ出んとしてゆく公式の「過渡的政府」なるものを突破してゆく隠然たるもう一つの政府をもっての対抗である。
 それは要するに、プロレタリアートの政治的支配能力の獲得ということにしぼられる。これに後れをとるならば、ファシズムの勝利は不可避的である。われわれが六〇年安保闘争の総括の中心問題として突き出した、このファシズムとプロレタリアートの政治的支配能力の獲得の問題(『共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言』の第一章に再度注目せよ! この問題を通してこそ、われわれは労働者階級の自立を問題となし得たのだ)がその後の一〇年間にどれだけ深められたかが問われるのだ。
 ところで、われわれは、産業合理化と産学協同路線を頑固に問題としてきた。それは要するに社会的隷属の問題であり、同じことだが、社会革命の問題である。われわれはこの問題と格闘し続けてきたのだ。そして「労働者階級の経済的解放が大目的であって、すべての政治運動は一つの手段としてこの目的に従属すべきものである」(『国際労働者協会規約』前文)。プロレタリアートはどうしてこの社会革命、経済的解放を実現してゆくものへと発展できるのか? それは要するにこうである。工場制度において、専門性の喪失とともに、職業白痴の消滅しつつあるプロレタリアが形成する団結、それは同時に、プロレタリアの団結を通じてのプロレタリア諸個人の自由な発展、そういうものとしてプロレタリアの普遍的な、政治的かつ社会的な運動における諸個人の自主性の回復と全面的発達。こうしたものとして、一点に集中したヘゲモニー(それは同時に諸個人の総体が何であるかを映し出す自己内反省の鏡であるという意義をもつ)の下の団結において、同時に諸個人の政治的社会的支配能力が発展する。こうしたものとしてのみ、プロレタリア的ヘゲモニーでありうる。この団結を通じてのみ可能な、生きたプロレタリア的諸個人の自由な発展を完全にカッコに入れて、何が共産主義=革命的マルクス主義でありえようか! この諸個人の自由な発展に戒厳令をしくことをもって、革命的共産主義だとするところの、マルクス主義の生命を捨て去った革マルを、共産主義=革命的マルクス主義の名によって粉砕せよ! 「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となる」共産主義社会は、公式スターリン主義とともに、「反スタ」のゴリゴリと自称するスターリン主義の超克なしには、断じて、断じて、ありえない!


(『革命』二三号 一九六八年一二月、『滝口弘人著作集 第二巻』所収)
(下線部の原文は傍点)