漫画・トマス自伝(「アラ古希日記」より)
原典消失のため、バックアップより文章のみ復活

大学入学まで
(23)受験・肺結核
(24)瞑想の2年間
(26)復学・寮生活
社青同・社会党で活動の時代が、……
(27)学生運動へ傾斜
(28)争議支援で救急車
(29)国会突入
(30)社青同学協
(31)尾行計画失敗
(32)樺美智子さんの死
(33)「解放」創刊
(34)戸田荘合宿
(35)就職
(36)結婚と脱サラ
(37)京浜工業地帯
(38)子ども誕生
(39)逮捕
(40)あわや大事故
(41)ミニコミ紙創刊


漫画・トマス自伝(23)受験・肺結核
高校2年を留年し、1955年に大学受験するまで、トマスの生活は、主に受験勉強でした。トマスの勉強スタイルは、何冊かの参考書と問題集を、1日何頁読むか、という計画を立て、そのプランを消化する、という単調なロードマップ型で、夜も11時頃には就寝しました。前記の吉本君は一浪して東京に下宿していたので、受験の時は彼の下宿にお世話になりました。ところが上京の翌日、トマスは高熱で寝込み、近くの医師の往診を受け、インフルエンザと結核を併発しているから、と言われて、その医院に即刻入院しました。高熱は、幸いにも試験の前日に下がり、トマスは医院のある向島から、試験場のある、目黒区の駒場までタクシーで行き、なんとか受験しました。受験を終えるとすぐ名古屋に帰り、例の鈴木医師の治療を受けながら合否の電報を待ちました。合格電報で家族一同喜んでくれたのも束の間、入学即休学の手続きを取り、そのまま2年間、自宅の2階で療養生活を送ることになりました。なお、入院騒ぎで迷惑をかけた吉本君も慶応に合格し、ぼくもホッとしました。画面は、狭い川を、ひしめき合いながら、エサも食べないで遡上する鮭で、受験競争に喘ぐ若者の姿を象徴したつもりですが、鮭でなく鮪に見えたりして(^.^)。[ 更新日時:2007/09/29 13:17 ]

漫画・トマス自伝(24)瞑想の2年間
最近は、結核と言っても安静は重視されず、通勤を続けながら薬剤による治療という型が多いようですが、トマスの頃は、まず安静+ストレプトマイシンの注射と大量のパスカルシュウムの服用でした。肝臓と胃を壊しつつも、クソ真面目に薬を飲み続けました(薬害の知識はその頃無かった)。寝た姿勢で本を読めるように、画面のような読書器を作り、ドストエフスキー、カミュ、サルトルなどを読み耽りました。とりわけサルトルの「人間は未来に向けて絶えず己を企てる存在。全能の神を信じることは、その企てを放棄すること」という思想から大きな影響を受けました。彼の思想はナチズムに対するレジスタンス経験に裏打ちされたもので、後にトマスが学生運動に傾斜して行く心情にもつながるものでした。大抵の文学は、富や地位など、世俗的な価値より、もっと内面的な価値を重視するので、母のような「学歴重視→富や地位、安定志向」型価値観との間に裂け目が広がるのは必然の成り行きでした。[ 更新日時:2007/10/02 05:47 ]

漫画・トマス自伝(26)復学・寮生活
2年間の自宅療養を終えて、やっと学生生活に入りました。大学構内にある寮に入ったので通学は楽です。結核経験者ばかりのサークル「くるみ会」の部屋がいくつかあって、一部屋を6人ほどが、カーテンなどで仕切って使います。食事は食堂で食べ、洗濯は、廊下の端にある洗濯機を使うか、手で洗い、屋上で干します。トマスは通算3年分留年してますが、「くるみ会」は結核療養の長い人もいて、年上の人が多く、結核についても、むしろ、ここで教えられたことが多いほどでした。大学の授業も、最初の2年間は、高校の延長みたいで、クラス単位で受けました。結核経験者は、「体育」の授業の代りに、「保健」の授業を受けるだけでよく、助かりました。保健の重田先生は「『健全な精神は健全な肉体に宿る』というのは誤りで、本来の意味は、ギリシャ・ローマ時代、肉体を鍛えるだけで、精神が貧困な人たちのことを嘆いて『健全な精神が、健全な肉体に宿ることが望ましい』と言われたのが、誤用されるようになったのだ」と話し、病弱コンプレックスを癒してくれました。[ 更新日時:2007/10/10 04:40 ]

漫画・トマス自伝(27)学生運動へ傾斜
トマスが復学した1957年は、岸内閣が誕生した年でもあり、クラスでも、反戦平和のために学生は何をすべきか?と言った議論が活発でした。トマスは病みあがりで、自治会活動にはあまり参加できないけれど、何かしなければ、と思い悩む時期でもあります。自治会室に行き、何か手伝いましょうか?と言って、「ガリ切り」(蝋を塗った紙をヤスリの上に置き、鉄筆で文字を書くと、そこだけ蝋が剥がれて、インクが通る)や謄写版印刷の技術を教わりました。自治会室に出入りするうちに、その後、1960年に国会で死亡する樺美智子さんとも顔見知りになりました。ただ、トマスは、親から仕送りを受けながら学生運動するのはフェアじゃない、と考え、最初の2年間は成績を良くして、特別の奨学金(育英会の2倍、返済無し)の受給資格を取り、それとアルバイトだけで生活出来るようになったら、親の仕送りを断って、学生運動しよう、と計画していました。画面は、謄写版印刷をしている図で、右手でインキをつけたローラーを操作し、左手で紙を操作します。「ガリ切り」も印刷も、技術の上の人と下の人では、雲泥の差が出ます。[ 更新日時:2007/10/13 05:25 ]

漫画・トマス自伝(28)争議支援で救急車
3年生になり、トマスは、当初、仏文科に行く予定を経済学部に変えました。マルクス経済学を勉強したかったのです。奨学金も、育英会から、新日本奨学会に変わり、月6千円貰えるにようになりました。寮は向ヶ丘寮に移り、毎月の生活費は約一万円で、その6割を奨学金で賄い、不足分は家庭教師などのバイトで稼ぐ計算で、親からの送金は断りました。ゼミで知り合った高木郁朗君に社会党入党を勧誘され、入党しました。当時、自治会内で主導権争いをするブントと共産党は犬猿の仲で、その対立に関わりたくなかったのも動機の一つです。が、入党してすぐ、「主婦と生活社」の争議支援に、社党青年部から派遣されました。ここの労組は、会社からロックアウトをかけられ、3Fの組合事務所に出入りするのに、縄梯子を使うという、必死の争議中でした。上部団体の出版労協や全印総連は共産党の影響が強く、社党も対抗上、何かしなくてはいけないということで、新入りのトマスを派遣したわけです。この争議は、1959年末に、和解しましたが、和解成立した夜、会社側に雇われていた警備会社の右翼暴力団が突然暴れ出し、トマスは(無抵抗のまま)彼等に袋叩きされてダウン(警官が目の前にいたのに暴行をとめなかった)。救急車で入院しました。翌朝の新聞に、トマスの名前が載り、それが初のマスコミ登場となりました。トホホ(^.^)[ 更新日時:2007/10/18 04:13 ]

漫画・トマス自伝(29)国会突入
救急車で運ばれる少し前の、1959年11月27日、東京地評傘下の労働組合など多数の労働者が国会前に集まって「安保反対」を叫び、社会党浅沼委員長が「安保反対の声を国会に直接ぶつけよう」と煽りました。この演説に応えて、地評青婦部など若手が、国会正門に殺到します。当時、警備側は、正門は閉じていたものの、まさか本気で突進して来ると予想せず、門はあっけなく開き、かなりの数の労働者が一気に国会構内に入りました。慌てた警備側が正門を閉め直したので、トマスは入り損ないましたが、社党青年部長の仲井富さんが来て「トマス君、おれが尻を押すから君も入れ」と言うので、トマスは門を乗り越え、中で気勢を挙げている集りに加わりました。暮れなずむ国会の中庭に、報道陣の焚くマグネシユウム(昔のフラッシュ)の青白い煙が濛々とたなびき、赤旗が揺れ、若いトマスは「これが革命だ」と単純に感激しました。ところが、そこへ共産党の志賀議員が来て、「整然と退去しよう」と、熱っした空気に水を掛け、トマスは初めて、「共産党は腰抜け」とブントが言っている意味が分りました。翌日の新聞で、社会党も、国会突入を評価していないことを知り、「社会党もダメだ」と失望します。さぁ、どうしよう?[ 更新日時:2007/10/20 06:04 ]

漫画・トマス自伝(30)社青同学協
前述のように、社会党に失望したトマスは、高木郁郎君に「社党を辞めたい」と告げました。彼は「今度、新しい青年組織『社青同』を創るから、君はその学生組織『学生班協議会』(略して『学協』)でやってほしい」と慰留しました。その学協の最初の書記長は、外語大の堀君が引き受けましたが、結局彼は何もせず、トマスが二代目の書記長になりました。(余談ですが、堀君は、ある日、トマスの寮に来て本を三冊借りて行きました。その足で彼は、神田の古本屋に行き、三冊を売って金に換えたことを後で知りました(^.^)。同じく、外語大から東大に移籍した佐々木慶明君は、時々「トマス君、2千円貸してくれないか?」と無心しました。奨学金とバイトでギリギリ暮らすトマスに、他人様を援助する余裕なんか無く、2度目の借金申込みからは断りました。冷たいトマスです)結果的に、1960年の4月から8月まで、あの「安保闘争」のピークを、トマスは社青同学協書記長として戦う羽目になりました。紙を節約するため、ワラ半紙1/4のアジビラをガリ版で書き、前述の仲井富青年部長に頭を下げて、社党書記局のワラ半紙を貰い、千枚くらい刷って、地下鉄の議事堂駅から降りてくる市民にセッセと配布しました。そのビラを読んで、仲間になった1人が、石黒君です。[ 更新日時:2007/10/24 10:51 ]

漫画・トマス自伝(31)尾行計画失敗
国会付近でビラを撒くだけでなく、より具体的な闘争方針を提起するべく、トマス学協書記長は「無い知恵」を絞りました。「よし、岸首相が実際にいる場所に直接、安保反対デモをぶつけよう。岸私邸のある南平台に車を出して、岸の動向を掴まねば」と、今度も仲井富社党青年部長に協力を頼み、車を一台貸してもらって、運転手を学生の中から探し、トマスも助手席に乗り込んで、岸尾行活動に出発しました。勇んでスタートして間もなく、車のスピードが出ないので、運転手君に、もっと速度を上げるよう促します。そのうち、通行人がこちらを向いて何か言ってるのに気付きました。「ン?早くも尾行を察知されたか?」と後を向くと、車から、濛々と煙が出ています。運転手君が「いけねぇ!サイドブレーキを引いたまま走っていた!」と叫びました。かくて、岸首相尾行計画は、まだ始まってもいないうちに頓挫しました。車の修理費がいくらかかったか覚えてませんが、尻拭いはやはり仲井富さんにしてもらったのでしょうね、多分。(^.^)[ 更新日時:2007/10/28 05:12 ]

漫画・トマス自伝(32)樺美智子さんの死
岸内閣は1960年5月19日に日米安保条約を強行採決し、反対運動は盛り上がり、6月10日、アイゼンハワー米大統領の訪日準備に来日したハガティ特使は、羽田で群集に包囲され、ヘリコプターで脱出しました。このままでは6月18日に自然成立してしまうと、6月15日、労働者、学生は総力を挙げて国会をめざします。トマスも学生デモ隊の中にいました。前年の11月27日とは違って、国会の中庭には沢山の機動隊が待ち構えています。なにしろ、岸首相は、自衛隊の治安出動を打診し、赤城宗徳防衛庁長官が断った経緯があります。デモ隊は国会のいくつかの門で、警官隊と激しく揉み合いました(但し、当時の学生はヘルメットもゲバ棒もない丸腰です)。この揉み合いの中で東大文学部の学生・樺美智子さんが死亡しました。衝撃でした。本郷では学部毎の自治会に分れますが、駒場では、同学年で同じ自治会だったので、言葉を交わしたこともある人です。彼女はブントで、トマスは社会党ですが、ブントには友達も多く、あまり違和感なく仲間意識を持っていました。彼女の死を無駄にしないよう、闘い続けなければ、と思いました(でも、10年後に挫折しましたが)。[ 更新日時:2007/10/31 04:56 ]

漫画・トマス自伝(33)「解放」創刊
安保条約は6月18日自然成立し、岸内閣は同月23日総辞職しました。運動の波は引き、社青同学協書記局会議を招集しても誰も出席しません。頭に来たトマスは「こんな学生班協議会じゃダメ。班活動の基本から再建しよう」と宣言。以後、東大班会議を定例化し、東大班機関誌「解放」をガリ版刷りで始め、61年3月に卒業するまで、創刊〜5号を出しました。お恥ずかしいことに、創刊号の「解放」の文字の「解」の角の中線が下に突き出す誤字がありました(爆)。そんなドジな新聞でしたが、いろんな意見を交換出来る「開放的」な場にしたいと思っていました。が、トマス卒業後、「解放」は何故か「学協機関誌6号」と変り、それに載った滝口弘人(30に登場した佐々木君=故人=の筆名)論文が、いわゆる「社青同解放派」のバイブルと看做され、佐々木君は同派のカリスマ的存在となりました。「解放」が批判を許さぬ党派機関紙みたいになったのは、トマスが目指したものと違いますが、卒業した「後の祭り」で、仕方ないのでしょうね。[ 更新日時:2007/11/03 04:29 ]

漫画・トマス自伝(34)戸田荘合宿
1961年3月、トマスが卒業する直前、西伊豆の東大戸田荘(ヘタソウ)で合宿をやりました。(漫画を描く参考にと、検索してみたけど、今は戸田荘は無くなったのかな?この漫画は印象だけで描いた西伊豆海岸です)記憶は不正確ですが、この時、駒場の江田5月君や早大の北村君、石井君など、その後、有名人になった人たちと初めて顔を合わせたと思います。その年の4月からトマスは会社員となり、新宿区内のアパートに住んだので、早大に近いこともあって、北村君(後に「カメラのキタムラ」の社長)や石井君(明石書店の社長)が遊びに来ました。蛯名君(ある大学の学長)もアパートに来たっけ。トマスはずーっと、無名人で満ち足りてますが、有名人になった人もいて、人生いろいろです(^.^)。[ 更新日時:2007/11/07 14:57 ]

漫画・トマス自伝(35)就職
トマスが学生運動していることを知っている母親は「とにかく一度は普通の就職をしてくれ。その後のことは、好きにしていいから」と言いました。トマスも、病気で家族に迷惑かけたし、それくらいは母の希望に応えねば、と思って就職しました。初任給が比較的高い(月2万5千円)C社に履歴書を出したところ、面接もなく、身体検査だけであっさり採用が決まりました。新宿にアパートを借り、上野に通勤です。最初は総務課庶務係。トマス以外の平社員は全員女。他は係長と課長が男。画像は、総務課の隣の役員室が不在の隙に、そこに飾ってある花を利用して平社員の白黒写真を撮ったものを、下絵として取り込み、彩色したものです。女性に囲まれて楽しそう、と思うでしょうが、トマスの机だけ、意地悪な課長と向き合う位置。欠伸をするたびに「君は欠伸が多いねぇ」と嫌味を言われました(^.^)。[ 更新日時:2007/11/10 09:21 ]

漫画・トマス自伝(36)結婚と脱サラ
就職して約一年後に結婚しました。相手は、文京区のセツルメント活動で知り合った現役女子大生です。(彼女とは、約30年後に離婚することになるので、結婚の話はサラッと書きます。なにしろ、漫画ですから)披露宴は、労組の会議室を借りて、極く内輪でやりました。その後、職場が総務課から営業課に配転となり、次は地方の支店に飛ばされる可能性が濃くなりました。トマスは労組活動と、勤務外での政治活動に比重を置き、残業しないため、会社側から睨まれていました。地方に配転されるなら、その前に会社を辞めようと、1962年暮に退職しました。しばらく失業保険で食いつなぎ、妻が大学を卒業すると間もなく、友人に勧められて、トマスは社会党品川支部の書記、妻は太田支部の書記になりました。月収は、失業保険が会社員時代の6割、書記になったら、それより更に低くなりました。安い家賃で借りた大田区梅屋敷のアパートは、丸い箸を食卓に乗せると転がるほど傾いていました(^.^)。洗濯機の脱水管を炊事用の洗い場に流すため、高い台を作って、その上に置いたりと、あの頃は貧困のどん底で苦労しました。[ 更新日時:2007/11/17 15:49 ]

漫画・トマス自伝(37)京浜工業地帯
トマスが社党支部の書記で給与を貰いながら、政治、労働運動に専念するようになった1963年当時、品川、太田には、中小の工場が沢山あり、中卒の現場労働者が、学習会やサークル活動を通じて政治意識を高め、資本主義を倒す運動を強化して行く、という古典的なロードマップは間違ってないと思えた時期もありました。1950〜53年の朝鮮戦争特需で、事業拡大のきっかけを掴み、64年の東京五輪から本格的成長軌道に乗った企業は、この地域にも沢山あります。が、その先から、マルクスの構想とは違う展開が始まります。景気が良くなると、工場は都内から湘南に移転し、中卒労働者は郊外にマイホームを建て、子どもに学歴をつけて「中流」化するコースを選ぶようになります。マルクスは図書館で研究しただけで、現実の労働者を知らないので、ロマンチックにプロレタリアートを革命の担い手に理想化したけど、現実の労働者からすれば「勝手に理想化しないでよ」というわけです。そこまで先を読めなかった20代のトマスは、50ccの中古バイクで地域の労組を回り、ガリ切りに明け暮れる日々を過ごしていました。[ 更新日時:2007/11/21 13:17

漫画・トマス自伝(38)子ども誕生
64年の東京五輪前後から首都高速、地下鉄など、東京の景色も変わり始め、同時にいろんなことが変わって行きました。1967年は美濃部革新都政が始まった年です。社会党の東京都本部も活気づきます。トマスのような専従活動家を増員し、仲間が増え始めたような錯覚がありました。トマスは、品川、太田、港、目黒の南部4地区を担当する「南部ブロックオルグ」になります。67年9月、息子が誕生。その前に、アパートは大田区から品川区に移っていましたが、狭いので、中野区の戸建て(それまで妻の弟と祖母が住んでいた)に移転し、トマスはそこから毎日、90CCのバイクで環7を走り、南部方面に通います。子どもが保育園に入ると、送迎のため、中古のスバル360を買いました。画面は、名古屋から母が上京した時の白黒写真を基に描いたものです。子どもが乗ってるのは玩具の車で、彼はこれに乗って、とんでもない遠くまで行き、行方不明になって大騒ぎしたことがあります。[ 更新日時:2007/11/24 10:37 ]

漫画・トマス自伝(39)逮捕
1965年に社党・社青同と総評が中心で反戦青年委員会という大衆組織を作りました。そこに新左翼と呼ばれる組織も加わり、複雑な問題が発生します。社党の路線は、選挙中心で行くのか、大衆運動を大切にするのか、揺れ動きます。68年11月、佐藤首相訪米阻止闘争に向け、トマス達は綿密な準備をしました。まず、直前の党大会で「阻止闘争を闘う」という決議案を通し、党南部オルグのトマスが警察(公安委員会)に、大田区六郷土手で集会を開く旨の届けを成田委員長の名で出し、合法的な集会の形を整え、「訪米阻止南部実行委員会」の名で、各労組に参加を要請します。1万人くらい参加する見込みとなりました。ところが、この集会の混乱を予想した党三役会議が前日に「集会中止」を決めました(党規約上、三役会議は何の権限も無いのに)。土砂降りの集会の中、現場指揮のトマスはハンドマイクを握り、警官隊の阻止線の前で、デモ隊に「座り込み」を指示しました。その瞬間、数人の刑事が「逮捕」と叫んで、ぼくを捕まえ、パトカーに押し込めました。港区愛宕警察署の留置場は当日の逮捕者で満員。トマスは中核派の若者と、麻薬容疑の暴力団員などと一緒の部屋でした。留置場で約2週間過ごした経験は、後に意外なことで役に立つことになります。[ 更新日時:2007/11/28 13:35 ]

漫画・トマス自伝(40)あわや大事故
トマスの他にも、大田区六郷土手で逮捕された仲間は沢山いました。これは結局、党三役が集会直前に、仲間を権力に売り渡したことに他ならず、その後約1年、トマス達は右傾化する党と闘い、結局、1970年にトマスは除名されました。とりあえず、幼い子と共に食っていかなくてはならないので、日雇いのトラック運転手など、学歴と職歴を隠して、いろんな仕事をやりました。慣れないので失敗も沢山あります。2トン車で配達している時、道を聞くのにトラックを離れ、再びトラックに戻ろうとしたら、緩い坂道だったために、勝手にトラックが下り坂を走りだしていて、必死にトラックの荷台にしがみつき、少しづつ運転席に近寄り、やっと飛び乗ってブレーキを踏むなど、あわや大事故寸前ということもありました。あの頃をなんとか生き延びれたのは、ただただ運が良かっただけかも、と思います。(汗)[ 更新日時:2007/12/01 13:36 ]

漫画・トマス自伝(41)ミニコミ紙創刊
日雇い運転手などで食いつなぐ暮らしは、後から思うと、「お笑い系」のネタに満ちていましたが、1973年、トマスもようやく、もっと穏やかな職に就くことが出来ました。保谷市立小学校警備員の仕事です。これは、教師が不在になる夜間と休日の昼間、校内を巡回する保安業務です。昼間は、在宅なので、時間の余裕があり、その余力を利用して月刊ミニコミ紙の発行を始めました。タブロイド版4頁の写植印刷で、送料と印刷費さえ出ればよい、という価格設定。編集・発行はトマスの無償ボランティアです。始めた頃は、各地の市民集会などで宣伝販売に努めました。当時、学園紛争が終息し、行き暮れた若者が多かったこともあり、彼等が口コミで広めてくれたお蔭で、間もなく年間定期購読者が400人を超え、1995年に終刊するまで約23年間、一度も休まずに発行を続けました。社会党の活動は10年しか続かなかったので、トマスのライフワークと言えるのは、この「交流」発行だったのかもしれません。[ 更新日時:2007/12/05 14:21 ]