『異端派生協の逆襲――生協は格差社会の共犯者か』
――下山保氏に聞く『異端派生協の逆襲』 聞き手・表三郎氏――

多様性の共存が生協運動の組織原則
運動は縮小スパイラル化してきた 今、多数者の運動へ逆襲する

下山保『異端派生協の逆襲』(同時代社刊、2009年)書評
図書新聞 2009年4月25日(土曜日)1〜3面


●原点は「満州」。飢餓感の中、念願のドロボーをやった 【略】

●原水爆反対運動から60年安保へ
●70年への過程は社会党の中で活動
【以下 略】
●地域運動を通して自分を変えた
●多数者の運動、連帯の運動、多様性の共存
●生協はどう挑戦していくのか
●農業についての価値観と分配論について
●権力論と経営論をめぐって考える
●長期視野をもって基礎づくりに精を出す
●フリーター・派遣村の運動に未来がみえる

下山保(しもやま・たもつ)氏=1938年山形県生れ。旧「満州」で少年時代を過ごし46年に帰国。57年に山形工業高校卒業後、バイク修理工場の研修生になると同時に早稲田大学第二文学部入学。学生自治会活動に加わり、60年に全学連中央執行委員。逮捕、大学除籍などを経て、61年社会党東京都本部書記になる。71年にたつみ生協(現パルシステム東京)設立、理事長。77年に首都圏生協事業連絡会議を設立、代表。90年に首都圏コープ事業連合(現パルシステム生協連合会)設立、理事長。96年に同顧問。2000年退任。現在、コラボレート研究所代表。9条改憲阻止の会などに参加し、さまざまな運動を発信し続けている。


●原水爆反対運動から60年安保へ

表 1957年に早稲田大学に行かれて、激動する時代の中で、どのような体験でしたか。
下山 大学は1年だけの約束でした。とにかく東京の空気を吸いたかった。私は工業高校の機械科ですから、オートバイに必要な三級整備士はバイク修理工場の研修を1年やっただけで取れるんです。そのつもりでいたのだけれど、その年の5月にイギリスがクリスマス島で水爆実験をやったんです。その前にはアメリカがマーシャル諸島で水爆実験をやっていて、原水爆反対運動が大学で活発でした。それに、はまり込んでしまった。2年の終わりころ、第二文学部(夜間部)の共産党員から集会とデモに参加しろって引っ張り込まれた。クラスでは話する時間なんて全然ないから、友達なんてできない。それが、デモに行ったら、楽しいんだよね。楽しいものだから、そのままズルズルですよ。何だかんだとおだてられて、ビラ配り、ステッカー貼りからガリ版切りとやらされて、いつの間にか活動家になり、共産党に入れとオルグられた。これには悩みましたね。まだ50年代初期の山村工作隊のイメージがあったから、その党員に暴力革命をやるんだろうというと、もちろんそうだっていうわけ。でも、逃げると、お前弱虫だみたいに思われるのもいやで、結局入党してしまった。付和雷同なんだね(笑)。
 話は飛びますが、最初に逮捕されたのは60年1月16日の岸首相渡米阻止の羽田闘争の時で、弁護士によれば、その時の調書が「下山保、付和雷同」となっていたと聞いた(笑)。そうか、付和雷同か、確かにそうだ、相手もよくみてるなあ、じゃあ、これでいこうと(爆笑)。
 共産党に入ったら、1年もしないうちに分裂です。学生細胞を中心に共産主義者同盟(ブント)が結成され、その人たちが分裂したわけです。革命家ホヤホヤの私には判断する能力なんてないから、当時一緒にやっていた仲間がほとんどブントに行ったということで、その時も付和雷同した。
表 僕の場合もそんな感じでしたよ(笑)。思想性というものは、人と人とのおつきあいの仕方とか、しゃべってることとか、行動とかに現れるわけですから、付和雷同とおっしゃるけど、そこに思想性がにじんでいるんじゃないですか。
下山 理論的に、それがいいと思ったからあっちにするだとか、こっちの方が良さそうだとか、当時の私にはなかった。ブントの姫岡理論(筆名・姫岡玲治氏によるブント理論)だって、たぶん理解していなかったと思いますね。そもそも革命のイメージが浮かばなかったんですよ。暴力革命だって、中国革命とかロシア革命とかをイメージするしかない。日本でああいうのをやれるんだろうか、日本的な暴力革命なんてどんなものかなと考えても、イメージできない。どうも私は、初めから左翼革命には疑問をもっていたように思いますね。
 大学は安保闘争の中で除籍になってしまった。最初は3ヶ月停学、だんだん重くなって、無期停学の後は除籍です。停学になった時と警察に捕まった時は全国紙に出ました。そうなるともう田舎に帰れない。帰っ.て来られても、保が家を継いでも商売にならないと、親父がぼやいてたと、お袋が困っているというのが聞こえてくる。こちらも運動にどっぷり漬かっているから、そこから離れることはできない。
 ところが、そうなると、もうメシを食えない。アルバイトしても革命家気取りから抜け出せず、仕事に腰が入らないからろくに収入がない。友達に食わせてもらったり、.部屋を転々としたり、タバコはシケモクという生活でした。
 ブントも崩壊し、どこからか指令が来るわけでもない。やむを得ずお定まりの分派づくりに加わるのですが、私は革通派(革命の通達派)で、4、5人のリーダーの一人になっていました。しかしこのリーダーたちには組織を引っ張っていくだけのリーダーシップも理論もなかった。だから早々に消滅してしまった。

●70年への過程は社会党の中で活動

表 そういう中で、61年に社会党東京都本部の書記局に入られた。
下山 結局メシが食えなくて、あっちこっち渡り歩いて、やっていたことは争議屋です。赤旗が立ってる所に応援に行っては、おにぎり食べて、泊まったりです。石黒忠っていう詩人のポン友と大体一緒につるんでました。そのうち安保闘争の時に新宿の地域共闘で知り合った社会党の人から、社会党東京都連の書記を募集してるけどどうかという話があり、メシを食うためにも行こうとなったのです。
 社会党の水は合っていましたよ。たぶん私は根っからの社民なのでしょうね。ボスの曽我祐次氏とも相性がよかったですね。入って1年もしないうちに方針書を書いていました。学生運動でやったやり方のままですが、結構通用しました。その後、67年に美濃部都政が始まるし、社会党が都議会で第一党になるし、社会党は50年代に続く全盛期で、私も羽振りもよくなりました。党内発言も強くなる。専従者が足りないから知り合いを入れる。それで仲間が増えてくる。増えてくる仲間をまとめるために'今度は社会党革命同志会という党内分派を作った(笑)。『変革』という季刊誌を出すわけです。何のことない、共産党やブントで覚えた分派闘争を社民の社会党に持ち込んでしまった。
 社会党に入った時は、社青同(社会主義青年同盟)の指導も頼まれた。東京大学の社青同のグループから、「下山さんは学生運動の経験があるから、社青同の学生運動をつくるのに協力してくれ」と。それで早稲田や東大に学生運動の部隊をつくった。これが社青同・解放派とのつき合いの始まりです。69年には解放派が軸になって革労協という政治組織を結成するのですが、これは直感的にヤバイと思ったので加わらなかった。この時、深入りしてたら内ゲバに巻き込まれ大変なことになってたかもしれない。直感がよかったんだね(笑)。
表 じゃあ、付和雷同じゃないですね(笑)。
下山 付和雷同っていうのは直感の行動ですね。理論じゃなくて直感で動くわけだ(笑)。

 70年反戦闘争への過程では、都労活(東京都労働組合活動家会議)とか全労活(全国労働組合活動家会議)【※】とかをつくりました。この発案は私ですが、根岸敏文を中心に立てながらやった。革命同志会が「前衛」で、都労活はその「大衆版」という位置づけです。まさにもう党内党みたいなものです。70年に向け反戦青年委員会や学生の運動が激しくなっていく中で、都労活を前面に立て、党内多数派を形成していきました。69年には多数派のめどがつくのです。東京の代議員の40%を押さえたので、これは勝ったと思いました。相手は協会派と構造改革派と河上派の3つに分かれてる。ところが、絶対一緒になるはずのないものが一緒になってしまった。70年の東京都本部の大会の時、機動隊を導入して会場を固め、われわれを排除した。私と多くの仲間が排除されて除名になった。こうしてみると、共産党を除名になって、ブントは崩壊して、社会党から除名される。私の政党歴は、除名と崩壊の歴史ですよ(笑)。それ以降、私の政党歴はなくなりました。


※都活(東京都活動家党員会議)、全活(全国活動家党員会議)の誤り(本人談による訂正)