折りたたむ
宮本なおみ『革新無所属』
2008年12月
オーロラ自由アトリエ刊
(第二章 遅まきの反戦運動まっさかりの青春、26p〜27p)
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そんな灰色の青春時代の真っ直中、前述したように結核で療養する身となり、皮肉にもやっと知的欲求を満たす時間が与えられた。肺結核という病に無知で病状も進行しており、ニヒリズムに陥っていた私は、そのまま死ぬつもりであったが、同居の菅野玉子さんに救われた。私の親と連絡し、療養の手だてをとってくれたのである。
疲れきっていた私は福島県の須賀川療養所で、一週間、眠り続けた。それから知的要求を満たしてくれる療養生活を満喫するのである。私はここで「うたごえ運動」以来無縁であった共産党に出会う。さらに清瀬療養所に移ってからは、六〇年安保闘争で体を蝕まれた学生たちに囲まれての療養生活であった。
療養所内の患者会運動が忙しくなる。療養所内では「社会科学研究会」などが活発で、私にとって文字どおりの大学でもあり、リハビリともなった。一九六一年も終わりの頃である。
初め須賀川療養所で、のち東京清瀬療養所で、通算一年半を過した。
私は右上葉を切除している。当時の療養所では、手術歴何回とか、敗戦直後からの「焦げつき療養者」とか、重症者がひしめいていた。暗い感染症病棟のイメージが色濃く残っており、親しくなった多くの人びとが「生きたい」と叫びながら、この世を去った。
この体験が、私の活動の原点となる。生きる希望を失いかけていた私に「あの人たちの分まで、私は生ききらなければならない」と、療養所生活は、かつてない活力を注いでくれた。
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(第三章 一期目の活動と自治の模索、40p)
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二〇歳代に世田谷で三浦暉さんらと「火花」というニュースを発行している頃、一度、選挙をしようと話が盛り上がったことはあった。今回は私が三〇歳代、社会党の激しい反戦派パージと、ベトナム反戦運動や都電撤去反対・反生産性向上運動などの反合理化闘争を地域の中でくぐり抜けながらの選挙であった。
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