『戦線構築のために――桂木健次論文集』

1970年2月

掲載にあたって

●目 次
はしがき――現在の情勢の基本的確認にかえて――
社青同加盟に際して
第五回全国大会における我々の主張と中心点
日本社会党政治地図の先行き
古賀和雄兄宛ノート
当面する階級情勢の核心
“昭和40年代”と我々の闘いの展望
資本の動向と社青同の基本問題(その1)
資本の動向と社青同の基本問題(その2)
現時点における階級情勢の展望
ロシア革命と現代の課題


はしがき
現在の情勢の基本的確認にかえて

(一九七〇年二月)

    (一)

 六〇年代を共に斗い抜いてきた社青同の同志達が、私がこれまで書き残こした諸論稿をまとめて発表することになった。
 社青同という組織形態は、「安保と三池」の敗北の中から、青年労働者の自立運動としての歴史的性格を「強いられ」る過程と、六七年以降の新しいいぶきに直面する中で、いよいよその運動史的使命を終えようとしている。が、このことを、福岡の地で闘い抜いてきた「社青同」、反戦青年委運動の政治総括としてしめくくる必要がある。本論稿がそのための糧にでもなれば、と思う。
 ところで、本論稿を発表するにあたって、福岡の青年労働者の自立運動と諸党派闘争について立ち入って説明しておかなければならないし、そこにおける私個入の政治的総括が必要である。
 私個人に関してことわりにいえぱ、「安保と三池」の敗北とその意味を、共産主義者同盟(略称ブント)の九大教養部細胞キャップとして体験した。私の社会主義的自立の歩みは、この敗惨の苦痛と総括から出発している。
 一九六〇年七月、私は全学連オルグ団の一入として、三池ホッパー「決戦」に備えるべく、団結村で寝起、活動していた。今から一〇年前である。安保改訂案が六・一五国会で自然成立したことの意味した事柄が、政府危機を政治危磯へ、更に社会危機へと転化しえない斗いの終えんであり、それ故にブントも又、学生を主体にした「前衛」としての主観的存在を証明し、実体的には、「全学連党」でしかなかったといえるとするならば、私共ブントは、どれ程六〇年代前半の階級斗争の突出的斗いを内実した三池闘争に関りうるかの検証を自己批判的にも必須としているし、このことを我が眼でもって確証する外に道はなかったのである。
 このように主観的に三池斗争に参加した私は、ブントの同志との間にぬぐい去ることの出来ない淵を感じている。
 それは一言にして、何故に安保斗争に敗北し、今我々はここにいるのかということである。ブントもしくは全学連が出すビラは、全学連→三池労働者の一方的「工作」でしかなく、行動のラディカル性と動機、モラルの純粋さでの「共鳴」をいかに組織化しうるかということは一体何であるのか。「いざ鎌倉!」と駆け参じた集団でないとするなら、我々はどれだけ安保の敗北を自らの限界において総括し切った点で三池に結集したプロレタリアートに返しうるか。
 秋口にプントが分裂した時、私はこの総括を「九大教養細胞」で自主的に行う作業に立って、この分裂を受けとめようと試みた。しかし、当時の共産主義同盟は全学連党化するとともに、組織通達は「学連関係者」でとりしきられていた。九州は「戦旗」派で行動することが、いわばア・ブリオリな形で「教養細胞」にもおりてきたのである。そして、「池田内閣打倒」が「現局面の革命的課題」として政治過程的に提示された。私は共産主義者同盟を去るべき時が来た。
 その後しばらく、私は全国大学生活協同組合連合の常務理事として、全国を歩く機会に恵まれ、党派斗争の全国的視野を獲得するとともに、生協運動論をめぐって、主流の日共諸氏(飯尾要氏が当時の理論リーダー)との論争に突入している。当時の私は、資本主義的事実過程とそこに於ける諸運動の客観点位置をいかにそこに投企せる主観的意図と区別して見つめうるか、ということに理論的関心をもち、宇野経済学の立場に立とうとしている。(「生協運動」六六年×号)「関西ブント」のS氏との私事にわたる交流の中で、九州ブントが、黒田寛一氏の「場所的立場」の論理を獲得しつつある歩みを見守りつつ、「何故に社・共がかくも確固として存立しているか」を考えざるを得なかったのである。全国常務理事として私は、当時「党綱領反対派」の日共諸氏との「論争」に得るところ大であった。
 又、九大法学部政治学科に進学していた私は、現社青同地本の桐井同志・大津留同志等と同期であり、先輩に現自治労大分地本の田中兄、北海道地本の木原兄に恵まれ、貝島教授の下にあった。
 六一年の初夏、私は東大駒場寮で一週間をすごし、九州ブントが青山論丈の線でまとまり、革共同(黒田寛一)と合同した際(六一年二月)の諸論稿と黒田寛一氏の論文を精読していた。この時、私はすでに、のちに社青同九大班を再建した先の同志達の「マルクス主義研究会」に参加していたが、黒田寛一氏の組織論を批判しうる地平に立っていたわけではなかった。直覚的には「行為的場」が、現実の安保以降の社会・政治過程と労働者階級、とりわけ諸党派の分析の中で何を意味するか、を考え、いわば、,「疎外論」→「プロレタリア的人間の自覚過程」→「反帝、反スタ的政治綱領」→「革共同」へと「発出」的に移行していく旧同志に反撥を感じていたのである。「マル研」はその意味できわめて「現状分析」的であったし、組織論においても「オーソドックス」であった。
 「マル研」が田中義孝氏をかついでよしとしている間はこういう限りでしかなかったのである。「マル研」にとって、社青同福岡地本創成の諸兄との交流は、ある意味で決定的であったと思われる。私達は、中山昌広氏(元地本委員長)、吉田義勝氏(現のり養殖業)、北九州の某大学で助教授の職にあるA氏等に感謝しなければならない。
 私達は社青同を、それまで「社会党内派閥斗争」の産物にすぎないと、外面的分析で結論づけていたのである。実に、そのような形態をとってであれ、対民青・青年組織としての民同左派の主観的意図に基づくものであれ、その底流にうごめく、組合青年労働者の自立運動に目を向け、これと私共「前衛志向体」の結合―共同斗争を必須としている。私は、この意味で、関西での生協全国大会から辞任。帰福すると共に、社青同加盟に踏み切れとの地本諸兄の提言をうけ入れるべく、「マル研」に「テーゼ」を提出した。
 三六年秋、私達は全員の加盟を経て、「マル研」を解散し、新しい同志を募るとともに、「九大班」としての建設の中から、マル同諸氏によつて放棄させられた「学園斗争」の再建にのりだしたのである。当時の九大班の理論的指導者は、現在大分の某大学で助教授の職にあるB兄であり、彼は又、地本の学対部長を併任し、七〇名に及ぶ九大班の指導をまっとうされている。又、この間、労働者班との交流の中で九大班に「学生的」個別性の自覚の獲得と、プロレタリァ的、パーリア的、社会主義者の思想性の土壌を開拓された、前地本書記長の森兄の努力も忘れることが出来ない。)

    (二)

 社青同は、昭和三〇年代後半の高成長過程階級斗争では、「組合民主主義」と「春斗」における左翼バネとして位置し、組合官僚層との矛盾を表面化するところではなかった。というよりも、社青同が、より組合組織の側のヘゲモニーで再編成されたのが、例の第四回大会であった(中執が構革、江田派から協会派に推移)、人、これを「社青同の左傾化」と呼ぶ。私達にとっては、いよいよ、本番が開始された。いわゆる「反幹部」斗争は今や「反合理化」斗争の原則的貫徹として労働運動総体の中で位置付けすることなしに斗いえないということが、私達の間で明白に意識にのぼる中で、社青同は第五回全国大会を迎える。
 三七年の経済「リセッション」(後退)の局面は、高成長を経た地平での景気変動である故に、するどく、日本社会の到達した構造的、全体的変動と底深く結合していた。反合闘争は、企業整備―首切り反対闘争という闘いとともに、他方において、資本家階級と国家権力の側からのプロジェクト(計面)に基づく合理化攻勢が、労務管理、労働過程の再包摂的秩序づくりを機軸に展開されはじめる中で、これといかに闘い抜くか、という課題を私共に迫りはじめていたのである。組合組織の企業的包摂、社会的統合の中で、するどく「反合」斗争を提起するとはなんであるのか。
 青年を企業がつかむか、組合がつかむか、というようには問題は立ちょうがない。「我が陣営」そのものが青年労働者の利害と意識―存在そのものとするどく対立しはじめている。この現実を直視し、これを突破する斗いとして、再度、青年労働者の自立運動としての社青同等諸党派の政治綱領の検証が迫られていた。
 「改憲阻止。反合」なる「基調」「行動綱領」を三七〜八年過程で、全国的に提言したのは、社青同福岡地本である。しかし、当時の憲法改悪問題が政治過程に上るあり方についての判断においてどうかということが、今日こそなしうるという問題はさしおいて、私共は、当時、「斗いの全体性」→「全面的対決」への論理的獲得の端緒を、与えられた分析視角の枠せい一ぱいに切り開きつつも、尚それは、社青同という組織形態を通して自立しようとする青年労働者の意織的限界を見定め、総体としての〈労働組合―社会党〉ブロックへの青年労働者の無関心状況の進行と裏腹な抽象的観念諸党派の形成、展開の方向を定めるだけの思想性に立った問題の提出から程遠いところにあった。
 従って、「反合」斗争がするどぐ現在の労働組合運動の論理そのものを明析に暴露し、〈総評ー社会党〉ブロックそのものの限界性(青年労働者の自立運動にあたっては制約性としてあらわれる)を「それ自体」として認識する斗いを用意することが、一層切実に要求されていたにもかかわらず、私共の「基調」は、社会主義協会による全国的「確認」の過程で、運動の既制性の中にすっぽりと包摂されている姿を見なければならなかつた。「古賀和雄兄宛ノート」はその思想的、政治的情況の告発の意をこめてかかれたものであり、第五回全国大会への「補強意見」(森兄と共筆)とともに、こういった情況をいかに止揚するかを模索しつつあった当時をいいあらわしている。
 「斗う若者」執筆の諸稿は、このような主体情況の中で、昭和四〇年代を迎えんとする日本資本主義の展開方向・労働組合の再編動向がなにを青年労働者に用意し、そこからの青年労働運動の新しいいぶきがどのようにして形成されてくるか、社青同がその関連の中でどこに位置しうるものとしてあるか、を見通そうと努力した過程に、情勢研運動にたずさわることで迫ろうとしたものである。
      ※  ※  ※
 それから五年がたった。六七年砂川・羽田斗争、そして福岡地本にとっては六八年一月のエンプラ斗争が世界的な関連の中で、切り開いた地平に運動情況は到達している。この間の青年労働者の血のにじむような苦しい自立運動について語る立場に私はいまは立っていない。
 しかし、この過程と情況が私と無関係であるというのではなく、五年前に問題に迫ろうとして中座したことの痛苦をもって、「社会思想」の研究ジャンルに入りこみ、全共斗運動の全過程を九大斗争をとおして斗い抜いた一個の人間として、青年労働者の反戦青年委運動と運動史的運命を共にしている。

    (三)

 枚数の関係上、ここでこれからの斗いの方向について若干触れておく。
 田中兄の指摘にみるように、先の衆議院選挙こそ六〇年代、否、戦後革命運動の敗北の一応の帰結をあらわしている。即ち、「戦後民主主義の終えん」を決定づけたものといいうる。ある意味では、「戦后体制」の定着であるともいいうる。というのは、戦後革命運動の敗北過程の中で、「民主革命」の破綻を見抜きえず、又それ故に「戦後民主主義」を「支えて」=「依存して」きたところの〈総評・社会党〉ブロックの崩壊と解体を決定づけることにによって、野党勢力の「分裂」の固定化・安定化=「多党化」と都市プロレタリアートの四〇%強におよぶ棄権=「議会政治からの逃走」となってあらわれたのが、先の衆議院選挙であったからである。
 政治過程が社会的内実と一層かい離し、そして、自民党の世代交代(中曾根派の強力化)がさらにこれをふまえて、ブルジョア的社会序列にふさわしい七〇年代ビジョンを提示し、一定程度佐藤政府をけん引している。この政治的客観的事実に、私共が見なければならないことは次の三点である。
 一つは、政治過程は、五〇年代後半〜六〇年代にかけての経済的高成長、それがもたらした日本社会構造の「高度化」=「合理化」、並びに、それに規定された社会層構成と生活の変転という社会的内実に見合ったものとして、ブルジョア的に合理的に整序されているとは決していえないだけでなく、むしろそのかい離は拡大していることであり、これは、得票率の漸減にかかわらず議員数の増加を自民党にもたらしているだけでない。プロレタリアートの「政治参加」の「権利」のねうちが激しい低下を意味している(選挙区・定員の関係で都市住民の一票は農村の票よりねうちが圧倒的に低ぐなっている)。議会が国家統治機能に占める比重と位置で意味すること自体が、不問にされている。このような、かつての「野党」は鋭くせまったであろう「政治の民主化」に、現在の諸野党の「合法的・政治的活動」は沈黙するだけである、
 二つは、社会党の惨敗をうけての中央委員会で明白になったように、「賃上げ運動」の体制内的固着化を示している労働組合の「統一」(→総評の解体・再編成)という社会的内実からみればあまりにかけはなれた「社会党」の身の仕末についてである。佐々木派による「階級政党」論が「戦后民主主義」をかろうじて「支えて」きた、かつての〈総評―社会党〉的シェーマの上にその理念をおいている限り、それは決して社会主義的労働者の上に足をすえることは出来ず、政治的「旧守」主義へと「セクト」化(別党化)していぐだけである。「躍進」した共産党はどうか。この党は、「反米独立」→「反帝独立」「独立平和」「民主独立」なる選挙スローガンの「なしくずし」転換をはかりながら「反帝民主」の「革命の道」をかかげだすことによって、その内実においては議会政治の尻馬にのり出そうとしているのである。これは没落しゆく「都市住民」「地方公務員」の「政治進出」精神安定的機能において公明党とともに、いかに社会党め票をかりとるか、というドロ沼に足をつつこんでいることに「知らない」ふりをしている。又、青年労働者・学生のラディカルな問題提起と闘いの主観的展開に対して、「戦后民主主義」を守ることにその天命をうけになうのである。「戦後民主主義」が根底的にかつ歴史的に,も問われている現段階にあって、この党はきわめて反革命的な役割を果しているのであり、大学・学会「旧守」的盲動はこれのあらわれである。
 三つに、以上のことがまさしくも、日本帝国主義的社会の世界史的関連の中での「展開」であり、世界史的過程の有機的一環としてある故に、七〇年過程は、この総体といかに闘うかということとの理論的・組織的獲得をもってしかのり切れない。このことの冷徹な認識と実践を必要とすることである。七〇年過程は、政治的急速主義・小ブル的「はやのみこみ」をはききょめるであろう。きわめて徹底的かつ冷酷にである。六七年以降に果した観念的・主観的「諸党派」と「告発」運動は、七〇年六月を待たずして、'このことを考えることなくしては、プロレタリアートの党派性と思想性を、従ってプロレタリア的ヘデモニーを獲得しえないということを思い知らされる。それは、佐藤訪米阻止斗争の敗北を確認し抜いた七〇年斗争を見通すことのできる諸党派のみが獲'得することの出来る地平である。いま、反戦青年委員会運動に結集している諸党派は、七〇年斗争をロング・ランな、従って巨大なる革命運動の構築を用意する展望に立って斗う「戦線の統一」を用意しなければならない。それは、かの六〇年安保斗争の「国民会議」内左翼バネ、「全学連党」ではなく、用意周到な戦列配置による、とび出し的昇天をチェックしうるような、強固な、「諸党派」の「共斗」を、下からの、職場、地域、学園の社会斗争、人格的主張にふまえた行動委員会運動として用意していくことである。
 これを社青同福岡地本に結集した同志ならぼやれる可能的力量を持っている。このことの展開が、福岡現代情勢研運動を主軸において(現在的? 前衛=中枢として)待たれているのである。
 本論を、全ての同志の斗いの糧にささげる。


社青同加盟に際して

(一九六一年十二月)

 そして最後に、われわれが、政治上において、社青同を選択し、しかも、そこでいっさいの分派活動、加入戦術を拒否するという組織論を、多くの諸君が正しぐ理解していただきたいということをつけくわえておくために、われわれが、社青同に加入すべく、当時のわれわれの組織〈マルクス主義研究会〉を解体した際に、私が個人的に書きとめていた論稿を以下に転記させていただく。これは、いまから見ればずい分不十分であるが、主張を貫いているので、訂正、補足をいっさいやらないことにした。

      (一九六一、一二、二五)

 プロレタリアートの政治的統一のために社青同は当面する適切な青年政治同盟である。
 1 プロレタリアートの階級斗争の利溢とプロレタリァ革命の成功は、プロレタザアートの全国単一政党の存在=政治的統一ということを必須のものとしている。日本のプロレタリァートは特殊政党―日本社会党・日本共産党・民主社会党等を選択している現状において、国家権力を奪取し、プロレタリア独裁を打ち立てることは出来ない。日本のプロレタリアートは安保闘争、反合理化闘争の中で、行動の統一が、政治的統一の前提条件として先ず樹立されなければならないことを経験してきた。
 青年労働者は、合理化により安価な単純労働者として自己が大量に生産され、かつ現行給与体系で更に低賃金に縛りつけられている労働条件から解放されるためには、青年労働者層の斗い、行動の統一がいかに大切なことであるかを充分に理解するにいたっている。そして又、青年労働者は、自己の経済的・政治的利害を闘いとる単一の青年政治同盟を必要としている。そしてこのことが、プロレタリアート全体の利害と同一であること、若しくはプロレタリアート全体の利害の闘いに従っていることは明らかである。
 2 略 組織上の自主性の保障について;
 8 しかる条件を備えたものとして、プロレタリアートの政的統一のために(当面われわれの選択できる適切な青年政治同盟は、日本社会主義青年同盟であろう。
 何故ならば、日本民主青年同盟は、日本共産党中央の誤った現状規定と革命の性格に従属し、青隼労働者の労働意識ないし、階級釣立場を、民族民主統一戦線にすりかえ、青年運動を階級的に斗う立場と日本プロレタリアートの当面の政治的課題とを放棄することを内容することから、又第八回党大会をめぐる日本共産党の組織事情から、青年政治同盟としての自主性と政治課題をもたせうるとは認めがたく、又そのことを期待することも出来ない。
 共産同崩壊後、インテリ青年の一部に一定の影響を与えている黒田寛一とその政治同盟は、頭の中で“真実の階級斗争”の方式を設定して於いて、目前に展開されている階級斗争と諸特殊政党への自己の絶対性もしくは優位性において組織されており、これは頭の中ではともかく、現実においては、セクト、わるくは反動としてのみ存在してくる。これはインテリ社会主義者の絶唱の運動にしかすぎぬ。
 社青同は日本プロレタリアートの基幹―総評―の選択した日本社会党によって結成されている。従って、青年労働者第一主義的であり、青年労働者の持っているラディカリズムを性格として持っている。労働運動内における左翼プレッシャーグルーブ的存在をなしている。しかし、一つに自主性がかなり保障されていること、一つに青年労働者の意識を運動場そのまま定立していること.によって、そして他方では、プロレタリアートの青年政治同盟の政治的統一が、客観的にまだ不可能である現状において、われわれがそれに加わり、われわれが社青同として階級意識に武装された政治同盟へと向うに、当面の唯一の適切な組織形態であると判断する(三六年夏)
 われわれの尊敬している梅本克己はこういっている。「われわれは同一の世界像を形成せしめる意識一般を分有することによって、同一の世界像をもつのではなく、またそれに関連して超越的社会なるものによって社会化せられた諸個人でもない。否同一の世界像そのものが、すでに、一定の社会関係にはめこまれた個人.の歴史的に社会的に蓄積せられた認識形式を通しての自然への働きかけにおいて成立している。認識主体からこの背後の関係を遮.断すれば、主体の形成は当然超越的なものとなるであろう。それと関連して実践主体もまた絶対化されるわけである」(「過度期の意識」P四四)
 これを言葉のとおりにわれわれが理解しているならば、「革命的マルクス主義の立場……かかる視点において」政党の政党たるを説教する二宮論文(展望六号)にせよ、あるいは核実験反対斗争の総括(学友会ニュースにおける当時中執多数派たるマル同の総括)にみるように、自分の「立場」なるカテゴリーに託して、個々の斗争の欠陥を思想主体、実践主体の責任追及にのり出すにおよぱないという、マヌーバーな認識は、でてこないわけである。諸君、われわれの認識形式は、手前の重力性、引力性を超克しているのであろうか。ここがロードスだ。ここでとべという名言は、マルクスが肝に銘じおわっただけではすまされない。.