『戦線構築のために――桂木健次論文集』 (1970年2月)
掲載にあたって

ムー民さんの掲示板に、『桂木健次論文集』について、投稿したら、思いがけず、ご本人からのレスポンスがありました、
大要を引用し、紹介します。

またそこで、触れられている『青春群像 さようなら六本松』に収められた「大藪龍介さんとの鼎談」は、
大藪龍介氏のサイトの「歩んできた道」に、掲載されています。
「六本松学生の安保点景」(九州大学さようなら六本松誌編集委員会編『青春群像 さようなら六本松』花書院、2009年2月)

このサイトには、他に、
史料・福岡ブントの文書@
共産主義者同盟九州地方委員会「安保闘争の敗北の確認の上に安保闘争の勝利的展望を切り拓け」1960年5月28日
史料・福岡ブントの文書A
革命的戦旗派福岡フラク「福岡における共産主義者同盟の革命的止揚と日本の革命的マルクス主義者の原則的統一のために」1961年3月16日
等もあって、併読すると、当時の状況を垣間見ることが出来ると思います。

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投稿日:2008年10月31日(金)
 同様に、発掘した貴重本です。
筆者は、社青同福岡地本の中心メンバーの一人。60年当時のブント九大教養部細胞キャップで、九州全体が戦旗派→革共同に流れていく中で、社青同九大班に結集していく過程がはしがきに書かれています。

戦線構築のために
桂木健次論文集
目次…略…

はしがきの日付は1970年2月になっています。

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投稿日:2009年 8月 9日(日)
その「貴重本」の執筆当人です。はじめまして。
 39年前をまざまざと思い起こしています。おおまかな話は、九州大学がこの3月を以ての六本松キャンパス閉鎖に当たって編纂された『青春群像 さようなら六本松』(花書院2009.3)に収められた編集者を交えた大藪龍介さん(ブントから革共同へ)との鼎談で喋っています。

 なお、九大では2011年に創立100年を迎えるに当たっての「(戦後)学生運動史」を現在取り纏め作業中で、小生も3月までは毎週1回のペースで作業に当たっていました。その際に、手持ちのその「貴重本」を文書館に寄贈の形で収めています。ここの情報は、その作業の際にインターネット検索されていたひとが見つけ出したようです。

 その『戦線構築のために』は、当時大学紛争のときにノンポリ活動家集団だった「反戦学連」(社青同福岡地本傘下の九大班の周りにいた)を広松渉さんが第2次ブント結集の誘いの呼びかけにきたとき、そして社会主義協会が大田派と向坂派に完全に分裂したのを受けて、当時の社会主義青年同盟福岡地方本部の面々が10年前の60年暮れの社会主義青年同盟(福岡地本)結成の原点に戻ろうとして発行したものです。

 当時、社青同九大班には、確かに、分派として解放派の「反帝学評」がいて、一大勢力となっていました。翌年から72年にかけて、社青同福岡地本は「自己解体」しました。一時は青年労働者・学生・研究者合わせて総勢400人台だったが、社会主義協会大田派系と解放派がそれぞれの指揮棒によって行動して実勢別組織となっていたこと、協会分裂の際には協同しあった向坂系の社会主義協会が国際共産・社会主義運動でソビエト連邦共産党の影響をつよく受けるようになったことなどもあって、自己解体を選択した次第であります。小生もそれを区切りにマルクス経済学から離れて、欧米のエコロジー経済学生誕との連携に数年をかけて移っていきました。

 この貴重本は、社会主義協会福岡地本創生の祖とされた田中義孝氏の政治論文集に次いで編纂されていて、そのはしがきには何かを書かされましたね。九大文書館に寄贈してきたので自分の手元にないが、結構いろいろな人がもっていたのですね。何部印刷したかは聞いていませんが。

 なお、小生はいま蟄居年金生活にはいっています。脳梗塞もこれから進行していくでしょうから、何かと運動を含めて記録は残そうと思っています。下記の項を参考ください。

 Open DB http://www.hotdocs.jp/mypublic/13353

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投稿日:2009年 8月12日(水)
> 当時の事情を具体的に示すものとして、はしがきだけでもテキストファイル化しようかと考えていたのですがWEBで公開してもよろしいでしょうか

 拒否権はありません。もう歴史的事項で、科研費で研究する若い者も出てきていると聞いています。九大の公式文書にも取材されています。
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