1999年6月

六〇年代社青同私史

樋口圭之介

六〇年安保・三池闘争の高揚と社青同結成

 六〇年安保闘争は内灘・砂川闘争等と続く戦後民主主義擁護の政治闘争の頂点をなすものであった。同時期に闘われた三池闘争は、石炭から石油へとエネルギー転換に始まる一大産業合理化攻撃であり、日本帝国主義の本格的復活に対する総資本対総労働の死活をかけた闘いであった。この安保三池闘争の高揚の中で六〇年一〇月に結成された社青同は、産業合理化攻撃に対する闘いの社会運動を発射点に、戦後民主主義闘争の限界を越えて、本格的な政治闘争・階級闘争へと発展していく歴史的使命をもって生み出されたといえる。一方、民青の拡大に対抗を迫られた社会党は、独自の青年同盟を結成すると共に、大衆運動を知らず、限られた党内反幹部闘争に明けくれる小ウルサイ党青年部を「外」に出す目的をももって、社青同は社会党の主導によって結成された(社青同結成後、中央本部を乗っ取り数々の反動的役割を果たした社会主義協会が、党青年部解散・社青同結成に反対したことを銘記しておかねばならない)
 結成時の社青同の中央本部および各地の中央執行委員は、平和同志会から江田派に流れた旧青年部幹部および民同の青年幹部によって占められ、僅かに佐々木慶明氏が学対中執の中の、異分子として存在していたにすぎなかった(全逓、日教組、電通、都市交、全専売、国労、自治労等の青年部長と幹部が中央執行委員であった)。しかし地区・末端の組織には安保・三池闘争の中で生み出された多数の青年労働者の活動家が、社会党に対する批判をもちつつ、新しい組織を求めて社青同に結集して来た。
 六〇年安保闘争・三池闘争の中で、「前衛」の仮面がはがされた日共の官僚主義に対する反発、そしてまた民族民主統一戦線なる階級闘争の放棄(六二年民青台東地区委員長阿部君との上野の喫茶店シマでの個人討論で、台東区内で反米闘争を具体的にどうやるのかと質問したら答えられず、「それじゃあ外資アメリカ系のガソリンスタンドでも闘争対象にするか」と言うと「クヤしい、負けた」と言って帰ってしまったのを思い出す)のナンセンスさを思い、当時の社青同の地区メンバーは日共に対する幻想や、社会党員の中にみられる日共コンプレックスなど一片もなかった。そして一方新左翼なるものが、「社共・民同革同の裏切りに後退に後退を続けて来た労働者階級は」で始まるアシビラや「反帝・反スタ」の「反スタ」なるものが、労働者の日常生活感覚からかけ離れた軽いものでしかないと思ったことなどが無党派青年活動家社青同に結集した動機であった。 階級闘争への一歩を印す
 五九年三月に四回退入学をくり返し、六年間かけてやっと定時制高校を卒業し銀座の貿易会社に清田校長の紹介で就職した。校長には卒業の時に法律事務所の就職先を紹介され、司法試験を目指せとすすめられたが辞退した。この会社は当時、花形のトランジスターラジオの輸出を行い、また外務省出身者と復員将校で社員が占められており、その体験談は非常に貴重なものであり以後の活動生活にいろいろと生かされていくものがあった。しかし仕事に暇があれば資本論に熱中し社長以下に呆れられる生活を送っている中で、六〇年安保闘争の歴史的高揚を目の当たりにしたのである。
 六〇年六月十九日、安保自然「承認」を迎える日「今日デモに行かない者は日本国民ではない」と(痔の手術退院直後で、あり自宅で療養していた)東京都水道局の山崎雄司君に叩き起こされ首相官邸前で全学連の座り込みに一晩参加した。山崎君は私と同じ台東商業の定時制を卒業し、水道局に入り、明大二部に入学し「俺は水道局長になるぞ」と高言していたのだが、六〇年安保闘争の「夜学連」のデモに連日参加し(東水労ではないのだ!)政治意識を急速に高めていったのだ。十月の浅沼委員長暗殺の衝撃の中、社会党台東支部の森田書記長(戦前の日共党員。三年間の獄中弾圧、特高の拷問をうけ、戦後沖電気労組書記長時にレッド・パージをうけた)のすすめをうけて、六一年十月もう一人の山崎亀吉君(中学の同級生・上野高定時制卒)や旧青年部出身の柴本、餅田さん等と共に台東支部を結成した。
 こうして定時制高校出身者中心に、全逓、電通、東交の労働者をオルグし、また台東商高定時制の社研メンバー(在学中私が組織したのだが)十名を民青から脱盟させ、社青同への加盟をかちとるなどして、支部は次第に拡大していった(社研頑間の小山先生=日共台東地区委員と社研メンバー全員の前で論争し、日共の官僚主義、民々路線を徹底批判したことが契機である)。そしてまた他の支部の人とも知り合い次第に活動と視野を広げていった。特に隣りの文京支部の玉川洋次さん(当時『大学への数学』の編集者であった。その後運動の中で兄のような存在になり、励まされ、叱られもした)に大きな影響をうけた。運動歴がまだ浅く、いささか突っ走り気味なのを危惧したのであろうか、餅田さんから「一度会って話を聞いてみろ」とすすめられた。緊張して玉川さんに会ってみると、想像に反して極めて謙虚であり、全ての運動上の官僚主義・権威主義を怒りを込めて語り、虐げられた人々に対する熱い連帯、そして自分は大衆の一人として階級闘争に加わっていることを語ってくれた。決して雄弁でない語り口に、「共産主義者は鉄の意志をもった特別な人」の党によってひきいられる「大衆路線」(中国共産党)とは大変な違いだ、これこそ自分たちの実現すべき杜青同の在り方だと共鳴し、信頼を深めていった。それ以後、前記の二人の山崎君なども「玉さん、玉さん」と言ってなにかと運動上の相談に行ったりした。

共産主義通信委員会(KTC)の結成

 六二年二月共産主義通信委員会(KTC)の結成に玉川さんに連れられて参加した。三月に会社を退職し社会党の地区オルグになり、全生活を運動に投じる第一歩を開始した。退職の申し出に対して寺崎社長より「母子家庭で経済面で勉学の道を断たれ矛盾を感じて左翼にひかれるのはよく理解できる。会社で学費を全部出すから早大の二部に行け」とすすめられたが、「革命運動をやります」と言って辞退した。
 全国から三十名位の結集であった。私以外は全員学生運動出身者であった。革命の五原則(世界性・永続性・暴力性・現在性・社民解体)が佐々木慶明氏より提起・説明され、全員一致で確認した。しかし全体討論の中でどうも現実とかけ離れた空理・空論にふけっているように思い、これでは現実の労働者とは無関係ではないかと考え、会議後玉川さんに「どうもタマされたような気がするから参加を見合わせたい」と言うと、「う一ん、そうかもしれんな。しかしもうすこし可能性を追求してから判断してみたらどうか」と諭され思いとどまった。歴史に“if”がないとしても、「そうだな」と玉川さんに言われたら、さっさとやめてしまい、その後のKTCの歴史も私も違った展開になったかもしれない(運動の出発点において、原則を厳密化することは極めて重要、いちがいに観念的と決めつけることは誤りであり、それを十分に認識していなかった当時の私の限界であると言える)。

構改論をめぐり、社青同の左右対立の激化

 六〇年安保闘争後社会党総評ブロック内では江田ビジョン=構造改革論をめぐり左右の一大論争と対立・抗争が繰り広げられていった。その影響は当時の社青同にもおよび、中央本部の江田派寄り構造改革論に、各末端地区の六〇年安保闘争の中で育った若い同盟員たちは一斉に反発した。この中で中央本部の学対中執佐々木慶明氏の指導する社青同全国学生班協議会(略して「学協」)が中心となり、仙台・名古屋等の憲法公聴会阻止闘争を展開した。実力闘争を全面的に否定し憲法の「完全実施」を求める改良闘争を個別的に積み上げていくことが、改憲に対する護憲の闘いであるとする中央本部との路線対立を次第に鮮明にしていったのである。この中央本部と全国学協の路線対立は次第に労働者同盟員にも波及していった。とりわけ各地の憲法公聴会の集約をなす、六二年九・二七中央公聴会の阻止闘争をめぐって、地元であり全国最大の地本である社青同東京地本の内部の左・右の対立が一挙に表面化し激化した(当時の東京地本は山下委員長=国労、多鹿書記長の構改派が主流、反主流が立山学副委員長、山崎耕一郎組織部長=共に協会派)。「現地阻止闘争は極左冒険主義だ」と拡大東京地本委員会で叫ぶ高見圭司政治共闘中執にヤジと怒号が飛ぶ中、「慶明にもしゃべらせろ!」と文京支部の石黒忠君(忘れがたい絆と友情を以後の闘いの中でもつ)のドナリ声の提案の中で佐々木学対中執が見解を述べ拍手をうける(立山・山崎君が渋い顔をする)。このような中で、九・二七に向けて地本内の左派を結集した闘争委員会を結成し、二千名に近い東京地本は「分裂」二重権力化し、九・二七闘争を迎えるに至った。東京地本の部隊五〇〇名は、社・共・総評はどこも闘争放棄する中で機動隊との激突を繰り返しながら闘争を貫徹した(この闘争のオルグ過程で東京地評のオルグ団からの「闘争参加はヤメロ、パクられても組合は面倒をみない」といった数々のドウカツをハネ返して、地本の左派の同盟員は闘争に参加したのであった)。この闘いの隊列の三分の一は三多摩分室(第四インターの主導)で、最大の勢力であり(三多摩分室は小島昌光君=六〇年安保全学連中執であり、学民協をめぐり、慶明氏が一杯クワされるなど、同時に仇敵のような間柄であった。しかし彼とは後に親密なる盟友となる)、その他は都内の活動家を中心とした左派連合であった。KTCおよび協会派も共に未だ組織力は脆弱であり、個々のメンバーによって左派連合に影響を及ぼしていたにすぎなかった。だが九・二七以後この左派連合に結集した各支部の中心活動家約二〇〇名位は結束を固め、互いに連絡と交流の輪を広め、六三年二月予定の東京地本執行部大会に向けて左派執行部の確立を目指して動き出す。その実践の中心を社会党地区オルグ団の中の社青同同盟員十数名が担っていくことになる。

青年労働者運動の息吹

 一方、社青同内で孤立化しながらも(労働者の学生運動に対する反発、当時大卒イコール職制であり一割程度しか大学進学できなかった社会背景もあった)憲法闘争を切り開いてきた全国学協の同志達も、出発点としてきた労学連帯の具体的展望を現実に見い出すことができたのであった(ブンド、革共同に対する路線的優位性の確信となった)。
 しかしまだまだ東京地本左派連合の中では、労組青年部活動家はほんの少数であり、山崎雄司君の他には都段階の機関役員はいなかった。また六二年五〜六月には組合員の使い込みに端を発した日共追い出しの東水分の解散の陰謀が総評民同によって進められた。東水労分裂、日共追い出し、社会党系の組合が結成されていった。この過程で当時でいえば民青より「ハネ上がって」神楽坂で仲間と共に職場闘争を展開していた山崎雄司君が、社会党系か日共系かどっちの組合に行くか悩んで私の所に何回も相談に来て、「筋としては日共が正しい、日共の方の組合に行こうと考えるがどうか」と言われた。私は、「日共系組合では自発的な活動ができない、東水労労働者の多数が結集をできない組合になってしまうだろうから、問題もあろうが社会党系の組合に行ったらどうか」と話した。分裂時に両者の勢力は拮抗していたが次第に現在の東水分(社会党系)が優勢になっていく(日共系が第二組合は同盟に行くと宣伝したが、社会党系を総評が素早く公認し、こちらこそ総評の本流だと宣伝したのが大きく影響した)。そして「神楽坂の青年部のような真面目(?)な闘う組合員も当方に結集したのだから右翼第二組合でないことが証明されている」と分裂を推進した民同幹部は大喜びで宣伝し、山崎君たちを迎え入れた。
 この過程で彼をKTCにオルグし、さらに八月暑い中で「職場でとても優秀な活動家が日共に入党手続きをしてしまった。なんとかオルグり返したいから力になってくれ」と山崎君から言われ、神楽坂の「鮒忠」で夜、矢沢賢君と三人で会い、あるかぎりの日共批判を言いまくり、入党届撤回とKTC参加を三人で確認した。一方、調布では牛越公成君(故人。共に闘ってきた思い出が語りつくせぬほどある)が全逓を、文京では玉川さんが電通等の労働者をオルグし、少しずつKTCにシンパシーを抱く労働者を獲得していった。
 そしてこの流れが東京地本構改派執行部打倒・左派執行部確立に向けて、対抗する構改派・後押しする東京地評との間で各支部の激烈なオルグ合戦に突入していくのである。それは全国社青同の路線・組織をゆるがすものであり、新左翼諸派に衝撃を与えていくものとして発展していった。

第九回原水協大会での社・共対立と社青同

 九・二七中央公聴会阻止闘争を貫徹し総括論議が行なわれている頃、玉川さんとの会話の中でふと、「俺たちは原水協の大会で構改派、とりわけ日共脱党派の策謀に乗せられたな」と言われた。八月上旬第九回原水協の全国集会が地元の台東体育館で開催されたこともあり、台東の社会党、社青同は全力をあげて参加した。全体集会の途中「ソ連核実験への抗議決議」を社会党・総評系が提出し、反対する日共系団体と鋭く対立し、集会は中断、紛糾した。そして会場演壇近くに決議採決のため結集していた社青同東京地本の同盟員(左派が主力)を中心に社会党・総評系の活動家が、社会党都連曽我書記長(社会党本部書記局の鈴木派の幹部グループである紅会の錚々たるメンバーの指導者であり、当時の社会党の若手実力者。指導者のあるべき姿を身近にし、後々いろいろ考えさせられた)の合図の下に、壇上にかけ登り日共党員と大乱闘となる。調布の牛越公成君などがその最先頭で日共党員を投げとばそうとしている横から私が蹴とばして壇上から叩きおとす等全員大奮闘した。その後社会党・総評系は退場し、近くの今戸神社に結集、社青同中央の西風初代委員長の日共弾劾のアジテーションに興奮さめやらぬなか拍手したのであった。
 六〇年安保闘争の次の戦略課題は改憲をめぐる闘いであり、その基調を“改憲阻止”か「憲法完全実施」とするかで社青同左右両派の論争と対立が繰り広げられていった。これは国家論をめぐり、社会主義を実現するための根幹をなす問題であった。構改派は「上部構造における民主主義の発展と下部構造における独占資本主義の発達」、この現在の条件の中で「国家権力は公的側面と抑圧的側面の二面性があり、国民の多数を結集して公的側面に民主的改革を積み重ねていけば社会主義に接近・移行できる」とするものであった。日共内の民々綱領路線に敗北し脱党した春日派は、社会党・総評右派に接近し、そのブレーンとなっていた。そして彼らが日共に対決する仕掛け人となり、その大衆運動をめぐる闘いとして原水協が焦点となったのであった。
 「ソ連の五〇メガトン水爆実験は米帝に打撃を与え、平和をもたらした」と日共が主張するのは、原水爆禁止運動の原点に敵対するものである。だからといって構改派の言う「核兵器対全人類の闘い」などということは、階級的視点を全く欠落したものである。この中で「全世界の帝国主義打倒の階級闘争の前進の中でのみ、米ソ核実験反対、核廃絶の闘いが発展する」と主張した社青同全国学協の主張に次第に労働者同盟員の理解と支持が拡大していった。またそれは62年「キューバ危機」に際しても「米・ソの理性的話し合い解決による平和共存支持」(構改・協会両派)か「革命に対する反革命」(全国学協)とする評価の違いが次第に明確になり、労働者同盟員の中に少数ながら学協方針(解放派)に注目する下地が出来ていったのである。
 確かに日共脱党派の構造改革論は、イタリア共産党から発するものであり、その権威の下に「マルクス主義」の装いをこらした理論は一見新鮮に見えた。労農派マルクス主義の運動論のない「社会主義のたましい」の精神論の強調では、革命展望のない古くさいものであり、その反発から構造改革論に一定引きつけられた活動家がいた。私も、六一年頃はその傾向があった。しかし六二年社会党の地区オルグになり社会の実態を身をもって知るや、「マルクス主義」の装いをこらした構造改革論は、社会党の議会主義の左派的ポーズの隠れミノとなり、限りなく改良主義に転落していく路線であると感じとった。
 一方、社会主義協会に対しては六一年社青同に参加した頃、台東支部の仲間と『私の社会主義』(向坂逸郎著)なる本を読み、私有財産否定の社会主義者が「私の」などと言って「社会主義」を語るのは間違い「これはインチキだ」と思った。森田さんからも「戦前の労農派は天皇制打倒を回避し、弾圧から逃れるためにいろいろと理屈を言った日和見主義だ、戦前の革命的青年はそう思っていたよ」と聞かされ、運動参加の時から社会主義協会=労農派に対して心情的反発、否定をもっていた。この点では『解放No6』が限定的ながら労農派と向坂逸郎氏を評価することとは異なっていた。しかし戦前の労農派と講座派の日本資本主義論争の広さと深さ、激烈さを知らないゆえにあっさりと否定してしまった面もあったと今にして思うものだが。

突然、委員長に推される

 六二年の十一月頃、地本組織部長の山崎耕一郎君(向坂氏の甥)に会いたいと言われ、上野の喫茶店で「来年二月予定の第四回東京地本大会で、委員長に立候補してくれ」と突然言われて、ビックリした。運動に参加して二年もたたないのにそんな大役を引き受ける力も、まして地本執行委員の実績もない一支部の委員長にすぎない私が「何故か」と、戸惑った。後に知るのだが玉川さんが都内のアチコチで「樋口委員長でいこう」とオルグした結果であり、協会派もこの話に乗ったのが真相のようである。全国最大組織の東京地本、そして左派執行部の確立後には、社青同中央本部構改派との全面対決が控え、その前面に立って指導的役割を果たさなければならない東京地本委員長の重責を、学生運動出身者が担うことは出来ない状況であった。玉川さんの「樋口委員長でいこう」という構想が支持されていったのは、当時の私の力量ではなく、将来性にかけてみたのであろうか。旧青年部活動家の限界を越えようとする六〇年安保・三池闘争の中で生み出された青年労働者・学生のエネルギーが結果的にこのように表現したのであろうと思う。
 さて委員長樋口、書記長山崎耕一郎と地本執行部の骨格構想を固め執行委員の立候補者の選定を進めていく中、六三年一月の社会党大会で成田書記長を憲法問題で追及した私の発言を傍聴していた向坂逸郎氏から「彼なら地本委員長を担える」とのお墨付きを得たそうである(もっとも否定的に評価していた矢先に言われたのは皮肉な話であるが)。その後地本左派連合の活動家は各支部に代議員獲得のオルグ工作に入る。気になるのは大会代議員の三〇%を占める三多摩の代議員の動向であった(調布を除く)。票読みの結果、構改・インター連合が成立しても勝てると確信をもったのであった。
 しかしそのころ協会派の立山氏の周辺から「樋口を副委員長ないし組織部長にする、委員長は自治労中央の青年部長の吉田栄一を立てる。山崎書記長は絶対に実現する(これが協会派の最大の狙いであった)」と話が伝わってきた。どうやら協会派は私が解放のシンパ、あるいはメンバーかと気づいたようであった。玉川さんに「民同をかつぐくらいなら協会派と全面対決だ」と言うと「よし、そうしょう」と言われ、慶明氏からは「そんなことをするなら九州に帰れと、立山をドヤしつけろ」とハッパをかけられた。これまでの左派連合としての節度から一歩ふみ出すことになった。

左派連合の亀裂と地本左派執行部の確立

 東京地本第四大会開催の一カ月前、六三年一月、中野鷺ノ宮の向坂逸郎邸の広間に左派連合の活動家約八十名が結集し対策会議を開いた。これまであまり協会派を刺激しないよう路線論議(憲法闘争、原水禁運動)を控えてきたが、参加したKTCのメンバーの十名は積極的に発言した。空中戦、抽象論議にならないよう、支部、班活動の具体的方針、労働者のオルグ工作、学習の方法、政治的意志一致の在り方、などを実践をふまえて提起した。私も積極的に発言を行い、協会派を圧倒し、参加者の共鳴と圧倒的支持を得たのである。
 大会での地本執行部との論争点の整理を終了し、全体で執行委員立候補者の最終確認を行うことになった。司会をしていた立山氏より委員長に「吉田栄一を」との提案が迫力なく出される(これは社会主義協会の本部決定であったようだ)や、私が「筋を通せ、これでは中央本部と同じだ。青年民同幹部など担ぐことは出来ない」と発言すると、玉川、石黒、牛越、上本君等のKTCメンバーが次々と反対を表明、集約できなくなり、後日再検討しようとなり全員広間で寝て静かになった。横になってから「こんな妥協できるか、左派連合が分裂しても仕方ない」と考え、立ち上がって、「俺は帰るぞ」と言うと山崎雄司君が「樋口、俺を置いて行くな」と続いて起き、さらに玉川さんが「オイ皆、帰るぞ」と呼びかけると白けていた全員が起き上がり、結局、立山氏以下の六名の協会派メンバーを残して全員向坂邸を後に、協会批判をしながら夜道をゾロゾロと池袋に向かって歩いていった。
 この結果に驚いた協会派は、永田恒治君が玉川、江畑、石黒、牛越君等々の所に回り、「立山提案撤回、当初の人事でいこう」と申し入れて来た。慶明氏とも意志一致し、KTC全体として「自己批判抜きに一緒にやれない」ことを玉川さんをとおして協会派に言い渡した。「君たちとは対立するつもりはない、一緒にやっていきたい」と立山氏から玉川さんに伝えられ、左派連合の分裂回避(というより協会派の孤立化)となり、第四回地本大会を六三年二月に迎えることになる。東交会館で行われた二月大会には劣勢の地本執行部は流会戦術をとる。政治駆け引きに未熟の左派連合は、それを許してしまうが、体制を立て直した三月大会で左派執行部成立、信任投票(第四インターは左派連合と構改派に票を分散)となった。
 十五人の地本執行委員のうちKTCからは、樋口委員長、玉川教宣、上本労対、山崎労対担当、秋山学対、牛越組織が入り解放派シンパとしては狩野労対担当(後、東交委員長)が入り、協会派は山崎書記、永田組織部、上村、今村君、第四インターは斎藤副委員長、小島組織担当が執行部入りした。構改派は平井国労東京地本青年部長を委員長に立てたが本大会で立候補を取り下げ信任投票となり、二百名中不信任は約四十名であった。当時の執行委員の年齢は三十歳から二十三歳の間であり、私は平均年令の二十五歳になったばかりであった。
 第四回大会以後、東京地本は、六三年第一〇回広島原水協大会の社・共分裂、都電杉並線撤去攻撃から開始された東交反合闘争、全逓深夜伝送便、東水労検針例日闘争等の反合闘争を基礎に、六五年全国反戦青年委員会結成、日韓闘争を迎える直前、六五年七月三一日、八月一日東京地本第六回大会にて協会派との全面対決となり解放派と第四インター連合の地本執行部の確立となっていく。
 六二年KTC結成直後の過程を見るならば、KTCは慶明氏を中心に共産主義者の組織として、理論的深化に全力をあげ、運動の実践面では、各自のおかれた分野で努力した。それを指導してくれる先達がいるわけでもなく、自分たちで暗中模索して築き上げていった。第四回大会でこれまで一名も加わっていなかった地本執行部をKTCのメンバーが中心となって担うことにより、二千名に近い組織をダイナミックに政治的、組織的に展開していくことなっていった。言うまでもなくKTCの一大飛躍の結節点であった。

回顧−−人は脈打つ

 以上の中で充分に触れられていないが、六〇年安保以後、革共同、ブンドに対抗した東大、早大を中心とした、社青同全国学生班協議会の運動の流れがある。そして一方の東京地本の労働者運動の流れとが合流、合体して解放派は労学の統一した組織として飛躍していった。学協の中からは以後、五辻活、笠原正義君等のすぐれた指導者が輩出して東京地本、革労協の中核を担っていった。笠原君が一九七七年二月十一日、革マルのテロルに倒れたとき、「学協の流れを絶やしてはならん」と心に誓った。その学協の正統な継承者こそが永井啓之君である。生前彼と「ぜひ解放派の歴史を整理し、書き浅さねば」と共に語り、具体的作業を開始しようとした直後の無念の死であった。しかしいかなる暴虐も歴史の真実を消すことはできない。私はいつかは個人史を書き、解放派の闘いの歴史を明らかにする作業の一端に役立てたいと常々思っていた。その具体化の第一歩が出来たのは、まさに本集の出版が契機であった。このことこそ永井君の今なお生ける意志であり、また彼の遺業である。続きは厳密に今後書いていきたいと思う。最後に永井雅子さんの協力に感謝し、今後も助力を願いたいと思っている。


『永井! こっちに来い−−永井啓之追悼集』所収
発行者 永井啓之追悼集編集委員会
発行日 1999年6月25日

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