1971年3月


協会創立二〇周年記念座談会
社会主義協会二〇年の歩み(一)
  太田薫
  奥田八二
  秋沢修三
  名田重喜
  松本弘也
  大坪康雄
  立山学

(第一回座談会出席者)

 (一) 協会二〇年の経過

奥田 協会の歩みを簡単に年表にまとめてありますので、主だった出来事を指摘しておきたいと思います。協会の創立は昭和二六年五月、ただし、設立行事はなかったらしい。この月に、雑誌『社会主義』の創刊号(六月号)が発刊されています。以来二〇年の間『社会主義』はほぼ毎月(合併号が数号ある)発刊されつづけ、本号で二三六号。
 この年の三月には、「平和四原則」を決定した総評第二回大会が開催されています。「平和四原則」の路線によって運動をはじめた左派社会党・総評の中に社会主義思想を吹き込もうということで、協会の誕生がうながされたと理解して良いでしょう。協会がやはり「平和四原則」または安保問題との係わりをもって発足したということは念頭にいれておくべきことです。
 協会と左派社会党・総評との思想的な結びつきは、この時以降数年間が蜜月時代だったといえます。このことを最も良く現したのが「左社綱領」の制定(昭二九年一月)です。なお、この「左社綱領」をめぐって協会から高野実、清水慎三『社会主義』編集事務担当の加藤長雄の諸氏が分かれています(第一次分裂・昭和二八年一二月)。後にもふれますが、協会が重要な路線決定をする際には、しばしば協会自体の分裂をともなっています。協会の創立自体が、いわゆる山川新党構想および再軍備論をめぐる荒畑寒村氏、小堀甚二氏等と山川均氏、向坂逸郎氏等との違いが生じ、労農派が分裂した結果なのです。
 さて、「左社綱領」は昭和三十年十月の社会党左・右の合同によって一年ちょっとで反古にされ、統一された社会党の、中では協会路線の影響は、そうとう混迷したものとなったといえます。協会はこの社会党に階級的でなければいけない、「左」でなければいけないという注文をそれなりにつけて来ました。昭和三三年にはいわゆる向坂論文「党風確立の基本問題」(『社会主義』一月号)が発表され、今日みればさして問題とする内容ではないが、当時はマス・コミでにぎやかに取り上げられました。
 その直後(昭和三三年三月)には、協会創立の重鎮であった山川均氏が七七才で亡くなられ、協会のリーダー・シップは向坂氏が握ることになります。この場合、山川氏が考えていた社会主義協会というものと、跡をついだ向坂氏のリードする協会というものが同じものであるかというと、継承性ということでは問題があるように思います。当然のことながら山川氏の一面が消え、向坂氏の他の面が強く出てきました。
 昭和三四年一月には「社会党を強化する会」が発足しています。“社会党を強化する”という路線で協会はその後進みつづけ、昭和四二年の協会分裂に先立って、「社会党の変革」という路線が提起されるのですが、向坂氏の指導方向は“社会党強化”ということでした。“社会党を強化する”活動の当時の具体的な闘争目標は、西尾一派を社会党から追放することであり、昭和三四年秋の社会党大会では、西尾一派のハジき出しに成功しました。
 そして、昭和三五年のあの安保・三池の大闘争を迎えたわけです。その中味については皆さんに後に議論していただくとして、この二大闘争は、社会党が党としての役割をはたすべきことがいかに重要であるかを迫ったことは明らかです。しかし、党の演じた役割は意外に小さかった。では党強化という協会の役割はどうだったか、どこが問題なのですか。これが改めて聞かれなければならないでしょう。
 西尾一派を追放し、安保・三池の大闘争を経ても社会党はいっこうに革命を目ざす党として、すっきりとしたものにならないで、江田さんの構造改革論が登場し、協会は『社会主義』を中心に反構改論の筆陣、論陣をはることにカを注ぎます。また、これが「党強化」という目的に沿ったものかどうかに疑問は残ります。なお三池闘争の指導路線の意見の違いで高橋正雄氏が、構改論をめぐって中村建治、鈴木八郎氏がこの頃から協会から姿を消しており、第二次の小分裂といえる事態があります。
 話しは前後しますが、協会は、結成以降の五年間ほどは、思想を同じくする労農派の旧い仲間や、中央単産本部の幹部が雑誌『社会主義』の編集同人的に集まるサロンであり、およそ組織といえるものではありませんでした。五周年を前に協会「第一回全国代表者会議」(湯河原)が昭和三一年八月に開かれ、次に「第二回支局、支部代表者会議」(箱根)が山川さん没後の昭和三三年一二月に開催されました。われわれは、これを協会第一回、第二回大会と今日言ってよいと思いますが、それも、『社会主義』の読者と取扱い者を中心とする親ぼく的な集いという域を越えるものではなかったといえます。
 協会が、いわゆる「実践体への傾斜」という傾向や組織性のきざしを示しだしたのは、昭和三五年の安保・三池闘争の翌年の「第三回全国総会」(東京・全電通会館・昭和三六年八月)頃からだといえます。創立後一〇年の歳月が流れているのです。
 この「実践体への傾斜」の方向に協会をリードする上では、この年の二月に協会全国オルグに就任した、水原輝雄氏(昭和四三年暮れに協会を去る)のはたした役割は大きかったと思います。このころから、協会には、新しい活動家がしだいに参加しはじめ、協会の姿がどんどん変化していく。ただ『社会主義』の編集は加藤長雄氏のあとをうけた岡崎三郎氏の時代は秀れているが、このころから、技術的には粗雑になっています。
 昭和三七年一〇月の第四回全国総会(箱根)では常任委員会議長、事務局長という組織制度がとられ、事務局長に水原輝雄氏が就任し、翌昭和三八年一〇月の第五回全国総会(京都宇治)では、協会運動の基本路線が、「改憲阻止」とか「反合理化」という言葉で位置づけられるようになっています。
 次の第六回全国総会(昭和三九年一〇月二四目伊東)では「勝利への展望」、いわゆるテーゼ第二次草案が提案されています。
 協会は自からのテーゼを作ろうではないかという話しは昭和三七年の第四回全国総会あたりから出て、第五回総会(三八年)では第一次草案が「平和革命要綱」として提案され、第六回総会の第二次草案「勝利への展望」はかなり細かい方針まで出されていたが、もう一度根本的にやり直そうということでテーゼ小委(委員長向坂)設置となり、翌昭和四〇年一二月に「勝利の展望」(第三次草案)(『社会主義』四一年二月号に全文発表)として発表されました。
 このテーゼ第三次草案を作る過程でのテーゼ小委員会の中でそうとう激しい論争というか、いがみあい的なことがはじまって来ました。実は、昭和四〇年五月から六月にかけての協会訪ソ代表団(向坂、水原、奥田、嶋崎、仲井、山口)の旅中での革命観に関する意見のくいちがいや、人間的なアツレキも加わって指導的位置にある者の問に亀裂が深まって来たと思います。
 こういった対立の要因をはらみながらも、協会の活動はどんどん「実践体への傾斜」を強めていき、昭和四二年の二月には、初めて全国大会とはっきり名乗って協会は第七回定期大会を京都の京都会館別館で行ないました。
 この年(四一年)の九月には社青同東京地本大会での流血事件がおこり、三池で、社青同の中央委員会を開いて解放派が牛耳っていた東京地本の解散を決定しましたが、解放派を利用する党の「左」派派閥と協会との矛盾ほますます大きくなり、この極左との闘争で協会は組機的にも財政的にも大きな犠牲をはらいました。この社青同の三池中央委員会への対処についても、向坂氏の側近の側から、水原氏が誰れを三池に派遣したかといった処置について、クレームがつけられはじめ、その後の一〇月八日の協会拡大中央委員会はテーゼ論議のために招集されながら、向坂氏の側近グループからの水原事務局長つるし上げの場となり、この時点から協会は事実上分裂したといえます。
 今から思えば、向坂さんのグルーブは、この頃から、私達の方を“消す”作戦を念入りにたてはじめました。九州支局関係の「社会問題月報」に対抗して「月刊労働組合」を労大から発刊する計画をたてたのは、九州支局の奥田−嶋崎ラインの指導をつぶす目ろみだったし、あるいは労働大学事務局の中から親向坂派以外の者を追放するために、通信講座の中級テキストの発刊が遅れたといったささいなことを口実に新開君の追い出しをはかります。
 四二年の理論戦線第二回総会(京都・五月五、六日)が開かれた時には、すでにお互いに意志の通じない二のグループの論議には敵意丸だしの発言が多く、ここでも協会が割れたという姿がはっきりとなっていました。
 つづく五月二七日の中央常任委員会ではテーゼ第四次草案は、第二部は誤りが多いということで第一部と第二部が分離され、第一部だけ決定されました。第二部の特に問題になったのは労働運動部分です。私の書いた草案にクレームがついたので私は投げ出し、水原君が書いたものにも欠点が多く、三転して私が書いたが、京都の理論戦線総会では私が向坂派から集中砲火をあびることになった。向坂小委員長が調整することをせず、労働運動をふくむ第二部は大会決定に反して提案しないことになったのです。
 こういった対立をはらんで四二年六月二四日から二六日の協会第八回全国大会(東京・専売会館八階ホ一ル)を迎えたわけです。
 この大会で規約第二条の修正と中央常任委員会の役員構成をめぐる採決(第二条の「理論上実践上の諸問題の研究、調査を行うと共に」を削除する動議の可決、および国際部および法対部を設置して中央常任担当をおく本部原案を否決した)で敗けた向坂氏は大会第三日目の冒頭、役員選出議題提案に先立ち、とくに発言を求め、中央常任委員会にはかることなくとつぜんに代表辞任を表明し、退場してしまい、分裂に走ったのです。なおテーゼ第五次草案として第一部のみが提案され、今日の「勝利の展望」として満場一致決定されました。
 このあたりから以降は皆さんの記憶に新しいところと思いますから極めて簡略に述べます。
 向坂さんのグループは分裂の口実を作るために中央委員会の早期開催を主張するが、八月九目にはあちらの新『社会主義』(再建)の編集委員会が作られ、八月二一目開催の中央委員会にはボイコット通告、翌二二日には社会主義協会再建準備会なるものを発足させ、九月二日には向坂氏から脱退が通告され、再建『社会主義』第一号が発刊され、形式的にも彼等の脱落が明確になったわけです。
 残ったわれわれの協会は休会していた第八回大会の続会大会を京都の農協会館で開催(四二年一〇月)、われわれの協会の建てなおし作業をスタートさせた。その後の経過としては、四四年の協会第九回大会を経て、同年一〇月に第一回中央委員会を開催し、帝国主義的な情勢の深まりに対応する協会の任務、特に協会の党変革路線をはっきりさせた「一中委路線」を決定し、第十回全国大会(四五年五月)を経て今日にいたっているわけです。
 協会の分裂以降の組織問題としては、いわゆる水原問題といわれる水原輝雄氏の協会からの離脱、神奈川県支部の分派活動と処分という問題があります。

 × × ×
 以上大まかな流れをまずふりかえってみたわけですが、ここで議論しなければならないことは、やはり社会主義協会と党という問題をどうとらえるか、いかに運動と組織の問題として今後明確にしていくかということを協会の歴史をふりかえる中でみちびき出すことだと思います。
 山川氏は、協会と党の関係をいわゆる「釜たき論」から出発しています。協会というものが熱い湯(正しい社会主義思想)を社会党に送っていけば革命党ができるという考えです。山川さんなきあと向坂氏が協会の主な指導者になると、その段階で「社会党を強化する」という表現が使われ、これがしばらくつづくが、第七回大会あたりになると、社会党を「改革する」とか、「変革する」という言葉が使われる。しかし、その理解は協会の中でひとによって同じではなかった、そこの違いの裂け目から昭和四二年の分裂になったのです。だから向坂派の協会は、今日では社会党変革といわず、“党の強化”といいなおしていると思います。ここが協会の存り方として今なおポイントになる問題でしょう。
 こういったことを念頭において、創立時から順を追って問題点を論議していきたいと思います。

 (ニ) 山川イズムと“釜たき”論

奥田 協会の創立者、山川均さんあるいは労農派の考え方は、共産党とは違うが、しかしマルクス主義でいくということです。どこが共産党とちがうかといえばコミンテルン、コミンフォルムの一翼としてではなく、日本には、日本独特の社会主義革命をめざす運動があるべきだということであり、その運動は理論や意識水準の高い分子が党に一枚岩的に結集した前衛のみの運動をするのでなく、常識的な大衆の中で、社会主義運動をやるべきだということです。その場合、共産党と異なるマルクス主義政党をつくるのかというと、戦後一時、山川新党とよばれるマルクス主義政党を作ろうという動きも、あったけれど、それは立ち消えになって、平和四原則をかかげる社会党の左派潮流の中に、またそれを全面的に支援する全国組織としての総評もできたことだから、その中にマルクス主義を吹き込む仕事をやっていこうということで協会が出来たわけです。
太田 協会ができた頃は、「運動上の指導は何んといっても山川さん一人じゃなかったんですか。私と岩井さんが総評に出て総評の運動方針を書く時、相談にのってもらったのは山川さんだった。質問状を一週間ぐらい前に出しておくと、山川さんの家や、硫労連会館の協会の事務所に呼ばれ、ここはこういう見方をすべきだとか、ここはこう書きなさい等のアドバイスを受けた。
 山川さんは、藤沢の田舎にいたが、国際情勢などについても、誰れよりも的確につかんでいたんではないですか、私が今度出した本(「闘いのなかで」)の中でもふれておいたんですが、スタ一リンが死んでフルシチョフの民主化が明らかになる以前に、私に、“ソ連にもストライキが起こっている。それは良いことだ、民主化がおこる”と教えてくれた。これも思い出話しになるが、文章が誰れが一番うまいか、難かしいことを大衆にわかりやすく書けるかというと、中山伊知郎さん等も、異口同音にそれは山川さんだといっています。
 社会主義協会の前の山川新党人ついては、私は田舎におったが、それに入ろうと思って手紙を書いたことがある、労農派は、再軍備の問題でわかれたというがどういう意見の違いだったんですか。
奥田 本誌の六月号の私の論文でふれておきましたが、小堀さんの再軍備論は、帝国主義的な軍備をいっているのではなくて国民が全部結集して日本を守るべきだという、民兵論みたいなものです。それからソ連は日本に攻めて来るかどうかという問題がある。向坂さんは、ソ連は攻めて来ないからハダカでいいんだといい、山川さんと向坂さんでは、ソ連の評価については差違があります。山川さんはソ連は「国家資本主義」だと文章で書いたこともあります。“私はソ連が攻めて来ないという保証人になることはできない”ともいいました。それで国を守る必要はないといいえないともいいました。だが、山川さんという人は、非常に現実的な人ですから、だからといって軍備をもつといえば、今の反動的な講和問題、安保問題で敵に乗ぜられるから再軍備には反対だと、言っているのです。小堀、荒畑の両氏は、ソ連が攻めて来ることもあるから(この点山川と同じ)撃退するための兵力はわれわれの権力のもとでもとうじゃないかとこういうことです。
 しかし山川新党構想がつぶれ労農派が分裂したのは、本誌「六月号」でもふれておいたのですが、再軍備をめぐる意見の相違が原因というより別のところにあります。山川さんも一度は当時の社会党を社会主義政党に内部改革する余地はないという判断に立った。独自の社会主義政党の結成をしようという小堀氏等の山川新党構想にのった時期があったのに、途中で左派社会党の結成後、これにマルクス主義を吹き込むという方針に変ったのです。ここに問題があると思います。この山川さんの「変化」の背景には、社会党、総評が「平和四原則」という運動方針で(組織的体質にはふれないで)しゃんとしはじめたということがありますが、当時の協会が、「平和四原則」の生まれる過程でどういう影響力を持ち、左派社会党にどんな役割をはたしたのかよくわかりません。
太田 「平和四原則」というのは、誰れがどこで言いだしたのか、私も良く聞かれるので調べてみたんだがよくわからんのです。社会党の方が先に平和三原則を決め、総評が三原則プラス再軍備反対の四原則を決めて、それが党にはねかえって四原則になった。運動の中からしだいに四原則になっていった。協会の方は、それを、あと押ししたようなもんではないですか。協会の具体的な運動上の影響力が社会党にあったかというと、左社綱領が制定されるまでは、山川さんだけは前に出ていたけれども協会グループとしては直接にはほとんどなかったんじゃないですか。左派社会党の中での協会の影響といっても、具体的には、森戸・稲村論争の稲村順三さんを通じてだった。向坂さん、高橋さんが表に出て来たのはずっと後の西尾追放の頃からです。
 総評についても、高野さんも広い意味の労農派だろうが総評の運動方針を書く時に、山川さんに相談するということはなかった。先に述べたように、山川さんの指導が総評の運動方針の中に反映されるようになったのは、私と岩井さんの時代になってからです。だから協会の山川イズムが運動に入ったとすれば、社会党ではなく、太田・岩井時代の総評の運動に対してです。
 それに山川さんの個人的な影響力は大きかったが協会自体の存在や力は微々たるものだった。協会の会員にも右ではなかろうが、いろんな人が入っていた。財政は高橋正雄さんがやって苦労していたが、和田博雄さんがパトロンだったし、『社会主義』もしょっちゅう行きづまって、春闘の時に特別号を出して、合化労連が教宣資料で買いとってやっと続けて来たという状態だし、部屋代なんかも二十五・六ヵ月分もたまっていました。
 『前進』なきあと『社会主議』は、民同左派の教科書だった。『前進』という雑誌は反共であることは事実だった。だからまあ民同のテキストになったわけだ。今、防衛大学の学長になっている猪木正道氏などが、当時は、レーニンは民主的ではないがローザ・ルクセンブルグは良いといった理論を展開していて、僕等は、田舎でこのローザ理論で、共産党と理論闘争をやって来たもんだ(笑)。
立山 今日、協会はマルクス・レーニン主義といっていますが、山川さんは、自分はマルクス・レーニン主義とは言っていない。レーニン主義(ボルシェビズム)はロシアの特殊な条件の下で発展したマルクス主義の一つの道にすぎないという立場をとっていたと思いますが、その点はどうですか。
秋沢 その点は、一つには、マルクス・レーニン主義を唱える日本共産党が、戦前にはコミンテルンの日本支部として活動したわけですが、その実践上の誤りを山川さん等は身をもって体験したということ、それから、当時の「レーニン主義」というものだ対する一般的な評価は、日本だけではなく世界的にも、スターリンの書いた『レーニン主義の基礎』、あるいは『レーニン主義の諸問題』といった、スターリンによって定義された「レーニン主義」でした。しかし、考えてみると、スターリンが『レーニン主義の基礎』でいっているレーニン主義とは、プロレタリア革命の戦略、戦術を言っているだけで、レーニン主義の真髄である、創造的マルクス主義というものはおっこちてしまっていたのです。そういうものであってはならないということが今日、ソ連やヨーロッパのマルクス・レーニン主義者のものになって来ているが、山川さんの時代には、スタ一リン的な「レーニン主義」に対する教条主義でないマルクス主義者の批判が修正主義等として批難されて来た。そういう歴史的事情をふまえて、山川さんの当時の「レーニン主義」に対する態度、評価をみるべきでしょう。

 (三) 党員協議会について

奥田 では協会創立当時の問題はこれぐらいにして、だいぶ先に進みますが、次に「党員協議会」結成のあたりに議論を進めていただきたいと思います。
 その前に、左社綱領の制定と、左右社会党の合同という問題があります。左社綱領をめぐって高野実・清水慎三氏が協会から分かれていっていますが、綱領上の理論的な当否は別にして、清水さんが指摘した「左社綱領」には、大衆運動と結びついて党を建設していく組織論的観点がないという批判は、私はあたっていると思います。だから「左社綱領」は反独占・社会主義、平和革命という正しい戦略理論を展開しながらも、極論すれば、党員にとっては、バイブルであっても行動の指針ではなく、したがって、党員の骨髄に行動指針として定着しなかったので、一年もせずにタナ上げされる運命になったわけです。
 要するに山川さんも、そして向坂さんもそうだが、雑誌を通じて、社会主義思想を党に吹き込むという方式であった。しかし、左右合併した社会党の中では思想浸透はなかなかうまくいかない。その時に岩井さんの国鉄労組党員協議会構想なるものが発表された。総評の職場の党員を通じ労働組合を強化し、そのことを通じて社会党を強化しようということで、その逆も考えて、共産党のフラクでない方式で山川さんはこの党員協方式を支持したのではないでしょうか。今日も、党員協というものが、つぶれたところもあり、盛んにやられているところもありますが、「社会党を強化する」という路線と、この労組内党員協という発想とのつながりは、革命的政党の組織論の問題として再検討さるべきことと思います。
名田 党員協の結成のいきさつというのは、組織論とかなんとかいうもんじゃない。民同左派の派閥づくりの便法としてできたんですよ。国労の派閥が問題になって派閥解消という議論が出た。党員協を最初に言いだしたのは国労出の衆議院議員になった木村美智雄氏だが、岩井さんが例の苦肉の策というやつで、社会党員が党員教育として党員を集めるのは“派閥にあらず”という理屈をつけて岩井構想として出した。しかし、やることは、組合の役員選挙のためで、大会で選挙に勝たにゃならんのだから、民同派閥であれば、党員であろうと、なかろうと皆んな入れた。だから党員協というのは民同の多教派工作の方法なんですよ。
太田 岩井さんが党員協をつくったのは、私も知っていたが、こういうことだったんじゃないですか。社会党が綱領や運動方針では左のことを決めても、地方にいけば、例えば日労系みたいなのがおり、組合の分裂の先頭に立つようなのがおる。それでは、今の若い社青同が社会党の組合幹部のだらしないのがいるのに反撥してなかなか党に入らんように、活動家が党に入らん。それで党員協をつくって党員を増そうということだったんじゃないですか。当時の党員協は、今よりは、わりときれいだったんじゃないですか。平和四原則を守っとったんだから。それがだんだん、悪くなって来た。
秋沢 山川さんかどういう考えで党員協を支持したのか私は知りませんが、社会党が労働者階級の党、社会主義政党であるならば、組織論の原則からいえば、当然、正しいあり方を前提としてだが、労働組合内の党員フラクションというものがなければ、革命政党、階級政党としての機能を発揮できませんね。
名田 そこが問題なのですよ。党員協は、党のフラクションでないから作ってよろしいんだということだったんです。
奥囲 山川さんが昭和三二年の『社会主義』の四月号で書いているのは党員協はサークル的同人的な組織でありフラクションじゃない、党の上からの指令は受けない、個々の党員が独自に自発的に職場で集まって社会党をよくし、組合を強くしようというところに意義があると。
 これではいつまでたっでも、社会主義政党はできない。「釜たき論」の延長がこういうことになったのではないかと思うのです。
太田 党員協の問題は、総評の社会党支持という問題全体の中で議論しなければならない。外国の場合はたしかに労働組合の中に党のフラクションがあり、党が産別のことを決める時は、党がそのフラクションの意見を聞いて指示するわけです。
 日本の党員協は、今日では、一つの派閥みたいになっているわけだよ。委員長を誰れにして、誰れを次に参議院に出すかということを決めるところになっている。だから社会党をどうするかということではなく、自分の出世をどう守るかということなんだ。
 社会党の左右の合同の時の話しを佐々木更三さんに聞いておどろいたんだが、左右の統一をするようにやかましく言ったのは、高野さん。それから国鉄や全逓だったというんだ。当時の総評評議員会で統一に反対したのはわしひとりです。ということは「左」のことをいっとったが社会党を階級政党にするとかいうことは言葉だけで、結局、自分の組合の都合で、社会党をその上にのっけていただけなんです。
 だから、社会党と総評とがゆ着した中で、そのことを利用して党員をふやそうとした党員協議会も、その正攻法ではなく便法で来たところに、今日のゆがみが深まったわけだ。そこが奥田さんの組織論で協会の指導理論として批判されるんだよ。

 (四) 社会党を強化する会と西尾追放

奥田 次に山川さんが亡くなった後に昭和三三年一二月の第二回支局支部代表者会議が開かれ、向坂さんや太田さんが主役になって「社会党を強化する会」が提唱されているんですが、この辺の事情はどうなんですか。
太田 社会党の鈴木派は統一に賛成だったから、もう左派は左派でもないということで、結局なんとかより本当の左派をつくらにゃということでした。しかし、協会自体がそれをやると、その当時は今ほど協会に活動家が集っていなくて協会というものは有沢広巳さんなどの学者もしょっちゅうきとったように、学者が主な集まりだった。だから向坂さんなんかも、協会自体が、党のことをやると集っている人が離れるといけないというんで、別の名前で活動家を集め、新しい党員を増して党を左派的にしようということだったんです。
奥田 組織論としてはどうだったんですか。
太田 組織論なぞなかったですよ。活動家の派閥みたいな、グループみたいな……
松本 「社会党強化する会」には当時、左派の活動家がわりにたくさん入ったのですよ。何故かというと太田さんが言ったように、鈴木派は左・右の統一を積極的に推進し、協会は大会で統一反対のビラをまいた。だから上の方では、鈴木派と相対的に具合が悪くなり、むしろ和田派と近くなった。しかし、地方では、鈴木派でも和田派でも左派の活動家には、左・右統一で社会党がもたもたして来たことにそうとう不満があった。だから、今日のように、「改憲阻止・反合理化」等の運動スローガンで集まったんではないが、社会党の階級性をすっきりさせるべきだということで、活動家が強化する会に集まったんです。しかし、この当時の活動家は、今とちがって、要するに、大会で「左」がかった演説をする活動家だったんです。
太田 結局「強化する会」がやったのは、当時の西風君なんかの青年部と一緒になっての西尾の追放です。総評でも西尾の除名論者は私一人だった。岩井さんも半身の構えだった。青年部と一緒に私一人が西尾除名でツッ走しるもんだから総評議長がやりすぎだというので、総評の単産委員長、労組出身の代議士連に取りかこまれてつめられたことがあります。ここのところは重要なとこだと思うんだ。後の構改論の時の各単産の党員幹部の立場は、常に日労系をのぞいた“オール左派”なんだな。階級的だ、左だといっている人だが、あの岩井さんでも、江田委員長になるという問題に一ぺんも公然と反対したこたあない。私一人反対して来た。ということはどういうことかといえば、組合の事情といえば聞えは良いが、民同派閥をまとめるためということが、きれいな階級的とかいうことをいってるが、全てに優先してるわけだ。

 (五) 三池闘争と協会の役割

奥田 次に、三池闘争ですが、私自身も、九州支局の三池現地での『月刊社会主義』の発刊やホッパー大学などに参加して来ましたが、当時の協会の三池での影響がどの程度プラスだけだったのか。私はむしろ理論的な問題では大変未熟だったと思います。
 例えば、安保と三池闘争のつながりについて協会は、三池で反合理化闘争を闘えば、それが安保闘争の一翼なんだ、経済闘争が政治闘争になるんだといったことを故意に説明した点もあったかと思う。だから三池の労働者は、ムード的には安保と三池は一体だといいながら、理論的にかちっとつかんでいたか、というと今から思えば全く足りていない。
 また、この二つの大闘争では社会党の党的機能というものは全然といっていいほど発揮されなかった、ここが問題です。
太田 奥田さん、そんなに謙そんしなくても良いんじゃないですか。やはり向坂さんを中心に九州大学の先生たちが、三池で献身的にあれだけ学習活動をやったから、あれだけ活動家が生まれ、三池の大闘争ができたということの評価はきちんとしておいた方が良いんじゃないですか。
 そして、三池支援の総評の三百円カンパに取り組む中で、全体の労働者を戦闘的にして安保闘争が火がついた時に、それをより高める役割をはたした。
 たしかに、三池・安保をストレートに結びつけて、安保に勝たにゃ三池は敗ける、三池が勝たにゃ安保が負けるといった教育があったことは事実ですが、私は、安保で勝てば、岸内閣・池田内閣の力が落ちる中で、労働運動は伸びられる、三池で勝てば、日本独占の力を弱めるんだから、安保でも押せる、とこういって来たんです。
 それから党の機能がなかったというこれも事実だ。社会党員の四山支部長で市会副議長が、二組に落ちたんだから、これが決定的要因になって、第一次の組合分裂がおこった。ということは、協会の影響はあったかも知れんが、三池といえども党員協は県会議員、市会議員に誰れを出すかという堕落したものにすぎなかったということだ。
 三池の反省すべき欠陥を言うなら活動家は多かったが、意識過剰というか、セクト的であったし、連帯性に欠ける面があったのもまた事実です。
 三池闘争を勝利させるためには、筑豊にあった、あれだけの炭鉱の失業者と三池とを結合させるべきだった。三池と筑豊の炭鉱失業者との結合の努力を総評のオルグなどはやったけれど、三池の労働者と失業者の意識の統一はできなかった。三池は自分の職場での、自分の山での差別待遇には抗議ストライキをやっても、三池に炭労の他の山の労働者が一万円もカンパしていても、山野や田川がやられるときどれだけ三池はやったのか、また、炭労の他の山で首切りがでている時、連帯ストを三池がどれだけやったのか、そこには、階級的といいながら、階級としての連帯性に欠ける、三池セクトがあったんじゃないか。
奥田 協会としても、そういう連帯行動をおこさせるための運動視点がなかったというわけですね。職場闘争を強くしろといって来たが、それだけで終ったといってもいい。私は、九州だけでも良いから三池だけじゃなく同じ企業内の田川、山野も立ち上がらせにゃいかん、そういう努力をしなけりゃならんということで、田川・山野へのテコ入れを考えたんだが、そのようにカを分散させることはどうも、向坂さんには気に入らんようだったですね、よく、筑豊に行くようなヒマがあったら三池へ行け、といわれましたよ。
立山 三地の闘いの火を拡げるという視点が協会に全くなかったと言ってしまうのはどうでしょうか。僕も参加しましたが、向坂さんの指示で派遣されたと思うが、社会党の野中部隊なども山野・田川等への工作には努力はしたと思いますし、その後の「三池を守る会」を全国に拡げるために努力しようという考えはあったと思います。むしろ、そういう考えを持っていたにせよ、その活動が手工業的なものに終ったし、終らざるを得なかったというところに党約機能の欠如という反省点があるんではないんですか。つまり、いかに主観的に、反合理化闘争の全国的な、ということは階級的な拡大、連帯を意図していても、それを理論的に説教してもダメなんであって、企業性、地域性をのりこえた階級的な部隊、つまり党組織がなければだめだということでしょう。
奥田 全然なかったとはいわないが、やはり塚元氏や、灰原氏の発想の中には、三池を守ること、モデルケース的に育てることが大切なんで、せいぜい三池の運動を手本に他に教えていくんだということ。これは、お説教になるんであって三池と事情の異るところに三池からオルグがいって、三池はこうやっている、しっかりせんかといっても反撥されたわけです。組織的に連帯をつくり出していくという発想はなかったし、協会がそのように教えていなかったと言わざるを得ない。
大坪 三池の労働者に対して、向坂さんや協会というものの神格化がなされ、さらに協会が三池を神格化するといった交互作用が、三池闘争後つよまったと思う。では協会と三池があれだけ深い関係だと対内・外的に印象づけられていたが、協会の組織はどうだったかというと、これは協会分裂後にわかったんだが、三池の協会員といってもその多くの人は会費だけ納めて、協会の会議などはほとんど開かれていないし、連絡も受けていない。塚元、灰原といった個人的な権威づけの中で動かされていた側面がある。
奥田 まあ、「安保と三池」で、太田さんのおっしゃるように協会も党も総評も、炭労も三池も、全国の社会主義者や労働者はよくやりました。戦後史に特筆される価値はある。しかし、それでも反省的にいえば、組合側は別として、社会党と協会はボロを出しましたよ。「三池」と「向坂教室」の名は残りましたが、社会党と社会主義協会はその組織の根底を問いなおされたのです。社会主義的前進の課題に対し無解答であることが問いなおされたのです。協会は発足一〇周年にして、ようやく第三回総会を開き、「実践への傾斜」という運動をうち出しましたが、それまでの一〇年間は、協会員は社会主義者としては胎児的な、自意識以前の存在でした。そのために、実践する者への脱皮をとげようとしたのです。だが一〇年間の眠りから覚めようとしない分子もいて、そこに将来の大分裂へのヒビがはいり、他面、新しい協会を創造的に支えようとする分子の参入がふえてきました。社会党の方は、新しい再生改造の芽をはらみつつも全体としてはますます混迷を深めます。
 これから二〇年史の後半の一〇年、とくに分裂をピークとする問題の発展にはいりたいと思います。が、このへんでちょっと休憩しましょうか。

(次号につづく)

1971年8月『社会主義』236号


この続きは結局掲載されなかったようです。

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