Konstantin Simonov
Simonov

第七旅団のゆくところ
――「第七旅団の歌」考――

 「第七旅団の歌」として知られている歌は、作詞・作曲者不詳のまま、口伝てに歌い継がれて来ている。そしてその歌の内容からスペイン戦争の中で唄われていた歌だと思っている人が多い。
 しかし実は、この歌は、コンスタンチン・シーモノフ作『プラーグの栗並木の下で』('Pod kashtanami Praga', Konstantin Simonov)の劇中歌として作られた歌であった。
 この『プラーグの栗並木の下で』を早稲田大の学生劇団「自由舞台」が上演したのが1952年5月のことである。演出・坪松裕、音楽・宇野誠一郎である。

「第七旅団のゆくところ」 MIDI

  俺〈オイ〉らの生れはここではないが
  俺らの胸はともに高鳴る
  頭の上にはおんなじ旗だ
  容赦なく、またつねに容赦求めず
  俺らは戦うために来たのだ
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  進め! 進め!

  妻と老〈オイ〉とを家に残して
  世界の果てから集まり来〈コ〉しは
  一歩も退却するためならず
  俺らの数は少いけれど
  死人〈シビト〉も俺らと一緒に進む。
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ
  進め! 進め!

 作曲はこの劇全体の音楽を担当した宇野誠一郎氏だ。後年、「ひょっこりひょうたん島」の作曲等で高名を馳せるが、この時、早稲田・仏文の25歳である。
 演出をした坪松裕氏は現在劇団民芸の演出家であるが、この時のことを 回想記〈「自由舞台」と私〉でこう書いている。

〈一九五二(昭和二七)年五月の、コンスタン・シーモノフの「プラーグの栗並木の下で」にとり掛かった。「土」の延長線上にあって翻訳劇でということだった。戦争挑発者の摘発を主題に、社会主義国家と激しく動く世界を舞台に、人々の働き、哀歓を叙情的に描いてきた作家である。当時やけにはやった革命的ロマンチシズムという言葉に魅せられて、この作品を選んだ。
 ……稽古の途中、八田元夫演出研究所の広くて、明るい、大きなスタジオを使わせていただいた。作曲家の宇野誠一郎(仏文)が、主演女優の股座にかがみこんでピアノを代演(奏)してくれたのも忘れられない場面だ。芝居の流れが切れなかったことを感謝している。〉

 この『プラークの栗並木の下で』がシーモノフによって書かれたのは1945年であるが、翌46年村山知義監修、土方敬太訳で訳出されていて、「自由舞台」での公演でもこの翻訳が使われている。
 四幕五場のこの劇の第三幕第四場にこの歌は出てくる。その場面はこうだ。

チーヒー 多分、一九三七年の二月か三月だった。
ヂョキチ 二月十七日の午後六時だ。俺達は塹壕の中でモール人部隊の攻撃を待っていた。お前と七人の増援隊が到着した。お前は俺に「何時だね?」ときいた。俺は「六時だ。今モール人部隊が攻撃を始める」と答えた。「奴等はそんなに時間を守るのかね?」とお前がきいたっけ。「あいつらはそうじゃないが、ドイツ人の指揮官が時間厳守なんだ」と俺が云ったとき、機関銃の一斉射撃が起り、ついで一分後には攻撃が始まった。俺達は塹壕の中で歌をうたっていた。
チーヒー (歌い出す)
  俺らの生れはここぢゃアないが
  俺らの胸は同じに高鳴る。
  頭の上にはおんなじ旗だ――
 覚えてるかい?
ヂョキチ もちろん。(うたう。)
  容赦なく、また容赦を求めず
  俺らは戦うために来たのだ。
ペトロフ (加わる。)
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ。進め! 進め!
ボジェーナ ちょっと待って。私ピアノでつけて見るから。こうかしら?
ぺトロフ もっと低く――。
ボジェーナ こう?
ペトロフ もっと、もっと低く。その低い所を強く――。嗄れ声と予想して――。暑さ――攻撃を――。
ボジェーナ (弾く。)こう?
ペトロフ そうそう。(歌い出す、他の者も加わる。)
  妻と老を家に残して
  世界の果てから集まり来しは
  一歩も退却するためならず
 ボジェーナ弾く。二階にグルベックとフランチーシェクが現れる。
ペトロフ(他の者も一緒にうたう。)
  俺らの数は少いけれど
  死人も俺らと一緒に進む。
  第七旅団のゆくところ
  ファシストは滅ぶ。進め! 進め!
 ボジェーナが一人で歌のメロディーを繰り返す。

ペトロフ大佐役だった坂田純治氏による唄(MP3=660k)

プラーグの栗並木の下で  この脚本は昭森社から出版されているが、その本の注釈によれば、「本訳文は土方が一応逐次訳をし、村山がそれを演劇的文章にするため、全部書き改めた。しかし詩の部分を可成り自由に書き改めたほかは、語脈を変えるようなことはしなかった。」とあるので、詩の部分は土方敬太・村山知義共訳と考えるべきだろう。
(以上、引用部は旧漢字旧かなを改めた。)
 また先の歌詞と較べて明らかなように歌曲とするにあたっての補筆もあるので、歌詞に関しては、シーモノフ作詞、土方敬太・村山知義共訳、宇野誠一郎補作とするのが適当かもしれない。

(原文と別訳)

 脚本の中にはこの歌の題名は記されていないが、宇野誠一郎氏の楽譜には「第七旅団のゆくところ」と題名がつけられている。以後、この歌は劇団「自由舞台」の中で唄い継がれていく。「長い間自由舞台の団歌『輝く太陽』と共に愛唱されていた」(加藤剛氏)、「折々にこの歌を皆で歌った」(貝山武久氏)、「ちょっと悲壮感と哀愁があって好きな歌の一つでした」(中野誠也氏)という。

 その歌を60年の頃に伝え聞いた社青同東京地本のメンバーがいい歌だということで、集会で歌唱指導するなどして、社青同東京地本の中で歌い広がっていった。
 今日に残されているのでは、63年の6・15の社青同集会で演じられた、シュプレヒコール(合唱劇)「忘れまい6・15 作・石黒忠 (1963/6)」の台本(ガリ版刷)の中に劇中歌として使われた「第七旅団の歌」の歌詞がある。
 社青同―反帝学評で歌われていた60年代期の歌詞の大きな違いは、2番の「オイラの数は少ないけれど」の後が「死人もオイラと一緒に進む」ではなくて1番と同様に「オイラは闘うために来たのだ」となっていることだ。ここは単純に、社青同へ伝わる時に誤り伝えられたのだろうと思われる。
 そして、この歌は、全共闘運動時に反帝学評が好んで歌うことで、全国に広がりさまざまに歌い伝わることとなった。(60年代後半のころの唄い方)
 この伝達ルートをはからずも証明しているのが、前記の「死人もオイラと一緒に進む」の箇所の誤伝である。
 また、「第七旅団」の箇所をそれぞれの団体名に代えて唄うという唄い方も好んでなされていた。

 ところで、この『プラーグの栗並木の下で』は「自由舞台」が本邦初演なのではない。1946年4月に「新協劇団」によって、土方与志演出、広石徹音楽で新宿第一劇場において上演されている。
 ということは、もう一つの「第七旅団の歌」が存在していたことになるが、残念ながら、いまのところその曲がどういうものであったか不明である。
 また、ソ連本国の公演でこの歌がどう歌われていたのかも興味深いところだ。

(つづく)

 次の方々のご協力を得ました。記して感謝の意を表します(敬称は略させていただきました)。

早稲田演劇博物館
日ソ図書館
自由舞台関係 貝山武久・加藤剛・坂田純治・坪松裕・中野誠也・別役実
社青同東京地本関係 石黒忠・玉川洋次
土方与平


「60年代後半のころの唄い方」のMIDIは玉川氏の採譜、65、6年入学の2人の歌をもとに作成しました。唄ってくれた2人と2人の歌を採譜してくれたスナックJのママさんにも感謝。


(『プラーグの栗並木の下で』自由舞台上演50周年の年に  いの・てつ生 記)

<<<連絡先>>>